ずっといっしょの終わり方   作:学マスオタク

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清夏のH.I.Fまでに間に合わせたかった




「ばいばい、Pっち」

 

 その言葉を聞いた時、俺は数年前の約束を思い出していた。

 

「Pっちってさ、あたしがプロになってもあたしの担当でいてくれるの?」

 

 紫雲清夏がそう言ったのは、まだ彼女がプロアイドルになる前のことだった。

 レッスンを終えた室内には、熱を持った床と、汗に混じる淡い制汗剤の匂いと、使い古された学園貸与のスピーカーだけが残っていた。

 窓の外では夕日が校舎の縁を赤く染めていて、彼女の長い髪もその光に当てられ、発色の良いオレンジのカラーがやけに眩しかった。

 

「担当、ですか」

「そ。担当」

 

 清夏さんは床に座り込んだまま、両手を後ろについてこちらを見上げている。

 レッスン中よりもずっと無防備な顔は、年相応のあどけなさを感じさせて、ステージ上で見せるそれとは別人のものだった。

 

「あたしがプロになって、今よりもっと忙しくなって、テレビとかライブとか出るようになってもさ。Pっちはあたしの担当でしょ?」

「契約形態と就職先によりますかねぇ……」

「出た。Pっちのそういううざいやつ」

 

 清夏さんは呆れたように目を細めた。

 首元にかけたタオルで額の汗を拭う。夕陽が雫に反射してキラキラと光って見える。

 プロのアイドル。まだ仮定でしかないその未来は、この時だけ彼女のすぐ近くにあるように感じた。

 

「違うの。そういうちゃんとした話じゃなくて」

「では、どういう話ですか」

「ずっと、いっしょにいてくれるかって話」

 

 その言葉は、使い道を終えたレッスン室の空気に不釣り合いなほどまっすぐだった。

 だから当時の俺は、受け止め方を間違えた。

 

「清夏さんが必要とする限りは、そばにいますよ」

 

 そう答えると、清夏さんは一瞬だけ目を丸くして、それから満足そうに笑った。

 

「じゃ、約束ね」

 

 約束。

 その言葉を、俺は訂正しなかった。

 訂正するほどのものではないと思っていた。

 

 その判断が、今になって俺の手を止めている。

 

 

 

 

紫雲清夏がプロアイドルになってから、彼女を清夏さんと呼ぶ人間が増えた。

 スタイリスト、メイク、番組スタッフ、レーベルの担当者。楽屋前の廊下を行き交う人間のほとんどが、彼女を一人の学生ではなく、商品名かブランド名のように扱った。

 また、俺に対しても。アイドル紫雲清夏の担当プロデューサーとして事務所に就職した俺は名前で呼ばれる機会も減り、いつしか「プロデューサー」という言葉は俺を示す固有名詞であるかのようにすら感じるようになってきていた。

 

 その中で彼女だけが俺を昔と同じように呼び、また俺も、彼女の呼び方を変えることはなかった。

 

「ねーPっち、今日の衣装どっちがいいと思う?」

「右ですね。清夏さんらしい色だと思います」

「じゃ、こっちにするっ」

 

 そう言って清夏さんが選んだ衣装は、結局、最初から彼女が着るつもりだった方なのだろう。そう思うくらい迷いのない即答だった。

 

 白を基調にしたステージ衣装。肩口から袖にかけて薄く入ったオレンジのラインが、彼女の髪色とよく合っている。ステージ照明の下に立てば、きっとよく映えるだろう。まだ本番前だというのに、衣装ラックに掛けられたその一着だけが、既にステージの熱を帯びているように見えた。

 

「聞く前から、そちらを選ぶ気でしたよね」

「んー? まあね」

「では、俺の意見は必要なかったのでは」

「必要だよ。Pっちがどっち選ぶか知りたかったし」

 

 清夏さんは鏡越しにこちらを見て、悪びれる様子もなく笑った。

 メイク前の素顔に近い顔だった。けれど、それでも以前とは違う。眉の形も、目元の陰影も、髪の巻き方も、爪の先に塗られた色も、すべてが誰かの手によって丁寧に整えられている。

 

 プロのアイドル。

 

 かつてレッスン室の床に座り込んで、額の汗をタオルで雑に拭っていた彼女は、今では楽屋に置かれた鏡の前で、何人ものスタッフに囲まれている。

 廊下の向こうでは、スタッフがタイムテーブルを確認し合っていた。搬入口からは機材を運ぶ音が聞こえる。ケータリングの机には、彼女の名前が印刷された札が立てられていた。

 紫雲清夏という名前が、誰かの仕事になっている。

 

「清夏さん、メイク入ります」

「はーい」

 

 メイク担当の声に、清夏さんが明るく返事をする。

 その声の出し方ひとつを取っても、もう以前とは違っていた。人に聞かれることを前提にした、返事をしただけで場の空気が少し柔らかくなるような声。

 

 だからこそ、俺はその場で一歩下がった。

 

 鏡の前は、彼女の仕事場だった。

 そしてそこに立つのはかつての頃と違い、今や俺だけではない。

 

「プロデューサーさん、今日の囲み取材ですが、終了後すぐに移動で大丈夫ですか」

「はい。五分押しまでなら吸収できます。六分以上押す場合は、次の現場に前もって連絡を入れます」

「助かります」

 

 スタッフと確認をしながら、手元に持ったタブレットに目を落とす。

 本番、囲み取材、移動、ラジオ収録、軽食、夜の配信。予定表には隙間なく彼女の名前が並んでいる。

 そのすべてが、かつて彼女が言った「今よりもっと忙しくなって、テレビとかライブとか出るようになってもさ」という未来そのものだった。

 

 実際、清夏さんは忙しくなった。

 テレビにも出るようになった。ライブの規模も大きくなった。個人の仕事も増えた。

 彼女が笑えば画面の向こうで誰かが笑い、歌えば会場の温度が変わり、踊れば照明の一つ一つが彼女のために動いているように見えた。

 

 あの日、夕陽を受けた彼女の輪郭の近くにあった未来は、いつの間にか現実になっていた。

 

「ね、Pっち」

「はい」

 

 呼ばれて顔を上げると、清夏さんが鏡越しにこちらを見ていた。

 メイク担当が彼女の髪を整えている途中だったため、こちらに振り返ることはできないらしい。それでも、鏡の中の彼女は当然のように俺を捉えていた。

 

「今日もさ、ちゃんと見ててよね」

「もちろんです」

「ふーん。じゃ、頑張っちゃおうかな〜」

「いつも頑張っているでしょう」

「そういうことじゃないんだけどー」

 

 清夏さんは少しだけ頬を膨らませて、それからすぐに笑った。

 その表情を見て、メイク担当が小さく「かわいい」と呟く。清夏さんは聞こえていないふりをした。

 俺はその様子を見ながら、タブレットの画面を消した。

 

 プロになってから、清夏さんは人に褒められる機会が増えた。

 かわいい。綺麗。華がある。明るい。元気をもらえる。見ているだけで楽しい。

 そのどれもが、きっと間違っていない。けれど、俺が見ていたものとは少し違っていた。

 

 彼女は本当に不安な時ほど、軽い言葉を選ぶ。

 疲れている時ほど、返事の声が少し高くなる。

 無理をして笑う時は、笑い出しが半拍早い。

 褒められて嬉しい時ほど、すぐに話題を変える。

 

 そういう小さな癖を、俺はずっと見ていた。

 仕事だからだと思っていた。

 担当だからだと思っていた。

 

 少なくとも、そう思うことにしていた。

 

「清夏さん、本番五分前です」

「はーい。行ってきまーす」

 

 椅子から立ち上がった清夏さんが、衣装の裾を軽く整える。

 鏡の前にいた時とは違う顔になっていた。ステージへ向かうアイドルの顔。自分が見られることを知っていて、それを怖がらない。

 一本の糸に吊されたように真っ直ぐと立つ姿は、アイドルとしてだけでなく、見られる人間としても一本の筋が通っていることを感じさせる。

 

「Pっち」

「はい」

「似合ってる?」

 

 清夏さんは、その場でくるりと回った。

 衣装全体を見せるための動きに、長い髪とロングスカートがふわりと舞った。

 

「はい。よく似合っています」

「それだけ?」

「本番で照明が入れば、もっと映えると思います」

「そういうことでもなくて」

「……綺麗ですよ」

 

 清夏さんは、一瞬だけ動きを止めた。

 それから、少しだけ視線を逸らす。

 

「最初からそう言ってくれればいいのに」

「失礼しました」

「ほんと、Pっちはさー」

 

 呆れたように言いながら、清夏さんは笑った。

 その笑い方は、レッスン室でこちらを見上げていた頃とほとんど変わらなかった。

 

「ありがと。やる気出たっ」

 

 そう言って彼女は楽屋を出ていく。

 すぐに廊下の空気が動いた。スタッフが彼女を囲み、名前を呼び、導線を確認し、ステージ袖へと連れていく。

 その後ろ姿を見送りながら、俺は短く嘆息を吐き出す。

 

 清夏さんは、大きくなった。

 

 身長の話ではない。

 技術の話でもない。

 彼女を中心に動く人の数が増えた。彼女のために用意される場所が増えた。彼女の名前が届く範囲が広がった。

 そしてその分だけ、俺一人が彼女の隣にいる必要性は、少しずつ薄くなっていた。

 

 そのことに、俺は気づかないふりをしていた。

 

 担当変更の話を聞かされたのは、その三日後だった。

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