ずっといっしょの終わり方 作:学マスオタク
「紫雲清夏のプロデューサーを、来月で外れてもらう」
会議室の空調は、少し効きすぎていた。
机の上には、次期体制案と書かれた資料が置かれている。そこには清夏さんの名前と、複数のスタッフ名と、まだ空欄のままになっている役割が並んでいた。
少し寒いくらいに効いた空調が吐き出す空気の音は、無音の会議室ではっきりと人の気配を感じさせている。きちんと俺に向けられた言葉であるはずなのに、言葉を咀嚼することも拒否して、俺は掌にほんの僅かな水気を感じていた。
外れてもらう。
その言葉が、やけにはっきりと耳に残った。
「外す、という表現は正確ではないかもしれない」
事業部長は俺の反応を確認するように、一度言葉を切った。
「君には、紫雲清夏個人の現場担当としてのプロデューサーではなく、今後プロジェクト全体を見てもらう。清夏だけではない。今後プロデビューするアイドルの育成導線、現場体制、外部案件の調整も含めて、統括側に回ってほしい」
「……昇格、ということでしょうか」
「そう捉えてもらって構わない」
清夏さんの活動規模は、もう一人の担当プロデューサーがすべてを見る段階を過ぎている。
現場同行、スケジュール調整、メディア対応、レッスン管理、体調管理、ライブ制作、タイアップ、外部折衝。すべてを一人が抱えたままでは、どこかで必ず歪みが出る。
専門の現場担当を置く。制作進行を分ける。広報とレーベル側の窓口を明確にする。
その上で、俺は全体を見る。
正しい話だと思った。
合理的だった。
清夏さんのためにも、その方がいい。否定する要素はない。
だから、すぐに頷くべきだった。少なくともその時俺はそう思った。
「現場担当のプロデューサーは、既に候補を絞っている。君には引き継ぎ資料を作ってほしい。紫雲清夏のことを一番理解しているのは、君だろう」
そう言われて、手元の資料を見る。
そこには、引き継ぎ項目が機械的に並んでいた。
活動履歴。
主要取引先。
出演実績。
レッスン方針。
体調面の留意事項。
本人の希望。
今後の育成方針。
書くべきことは、いくらでもある。
しかし、資料に書くべきと感じた言葉が、思い浮かんではすぐに消えていく。五秒前に思いついたことすら思い出せない。
「本人には、いつ伝えますか」
絞り出すように出したその問いは、時間稼ぎにもならなかった。
「正式決定は来週だ。ただ、君から先に話しておいた方がいいだろう」
「私から、ですか」
「他の誰から聞くより、その方がいい」
それも、正しい話だった。
正しいことばかりだった。
決して合理的な判断というだけではなく、清夏さんの感情まで考慮した、ベストな形。
それが最善である。
しかし、正しさだけで行動に移すには、あまりにも正しすぎた。
会議室を出たあと、俺は自分のデスクに戻っていた。
パソコンを開き、引き継ぎ資料の新規ファイルを作成する。ファイル名を入力する欄に、しばらくカーソルが点滅していた。
紫雲清夏_引継資料20xx0605
そこまで打って、指が止まった。
資料を作ること自体は難しくない。
彼女の仕事量、強み、課題、今後の見通し。業務上必要な情報なら、いくらでも整理できる。
むしろ、整理しすぎないよう注意する必要があるくらいだった。
清夏さんは、初対面のスタッフにも物怖じしない。
ただし、本当に緊張している時ほど、それを自分から言わない。
朝の仕事は比較的弱いが、現場に入れば切り替えは早い。
差し入れは甘いものに反応するが、本番前は食べ過ぎないよう注意。
褒める時は、結果だけではなく、見ていた箇所を具体的に伝えること。
無理をしている時は、軽口が増える。
寂しい時ほど、むしろ一人で行動することを選ぶ傾向にある。
そこまで頭に浮かんで、俺はキーボードから手を離した。
これは、引き継ぎ資料ではない。
では何なのかと問われれば、答えられなかった。
ただ、業務文書の中に書いてしまえば、彼女との時間まで誰かに引き渡してしまうような気がした。
馬鹿げている。
彼女との時間など最初から、俺の所有物ではない。
紫雲清夏は、俺の担当アイドルだった。
俺が育てた、などと言うつもりはない。
彼女が自分の足で立ち、自分の力で進み、自分の名前で誰かの前に立てるようになるまで、その隣にいただけだ。
それだけだったはずだ。
画面の中で、カーソルが点滅している。
俺は結局その日、引き継ぎ資料を一行も書くことができなかった。