ずっといっしょの終わり方   作:学マスオタク

3 / 5


 清夏さんに話をしたのは、その日の夜だった。

 

 ライブのリハーサルが終わった後、会場裏の廊下には照明の熱がまだ残っていて、人工的な暑さを感じさせた。

 スタッフは撤収作業に入り、遠くで機材ケースの車輪が床を転がる音がしている。

 清夏さんは水の入ったペットボトルを片手に、壁にもたれていた。髪は少し乱れていて、首元には汗が光っている。それでも呼吸は落ち着いていた。

 

「お疲れ様でした」

「おつかれー。今日、けっこうよくなかった?」

「はい。二曲目の入りが特に良かったです。前回よりも重心が安定していました」

「でしょ。Pっちならそこ見てくれると思った」

 

 清夏さんは嬉しそうに笑う。

 その笑顔を見て、俺は一瞬だけ言葉を失った。

 

「清夏さん」

「ん?」

「少し、お話があります」

 

 彼女はペットボトルの蓋を閉めた。

 

「今? シャワー浴びて着替えてきたいんだけど」

「重要な話なので」

「やだなー。Pっちの重要な話って、だいたい楽しくないじゃん」

 

 そう言いながらも、清夏さんは壁から背を離した。

 俺の方へ半歩近づく。距離の詰め方が、昔から変わらない。

 こちらが一歩引く前に、先に入ってくる。

 

「来月から、清夏さんには別のプロデューサーがつくことになりました」

 

 言った瞬間、廊下の音が遠くなった気がした。

 

 清夏さんは何も言わなかった。

 ただ、瞬きを一度だけした。

 

「今後の活動規模を考えて、現場担当、制作進行、広報、外部折衝を分けたチーム体制に移行します。俺は清夏さん個人の現場担当ではなく、プロジェクト全体の統括に──」

「待って」

 

 清夏さんの声は、思ったよりも静かだった。

 それでも、撤収作業の音が響く会場の中で、その声は物理的な距離以上に近く感じた。

 

「それってさ」

 

 彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。

 いや、正確には笑っていた。

 けれど、その笑い出しが半拍早かった。

 

「Pっち、あたしのプロデューサーじゃなくなるってこと?」

 

 その問いに、俺はすぐ答えるべきだった。

 仕事としての答えは決まっている。

 

「少なくとも現場担当では、なくなります」

「現場、担当?」

 

 清夏さんは、俺の言葉をそのまま繰り返した。

 手の中のペットボトルが、かすかに音を立てる。

 

「じゃあ、担当ではあるの?」

「統括という立場で、活動全体には関わります」

「そういうちゃんとした話じゃなくて」

 

 その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。

 正しい話は、正しいからこそ反論の余地がない。一方的に攻めているような気持ちになる。

 

「Pっちさ」

 

 清夏さんが笑った。

 今度は、はっきりと笑った。

 

「約束したじゃん」

 

 震えた声。俺以外には聞こえていないであろう、小さな主張。

 照明の熱は、俺の冷めた体を温められていない。それなのに、スーツの中は既に汗だらけだった。

 

「……そうですね」

「覚えてるんだ」

「はい」

「じゃあ、なんで?」

 

 責めるような口調ではなかった。

 泣きそうな声でもなかった。

 だからこそ、余計に逃げ場がない。

 

「清夏さんの活動規模を考えれば、チーム制に移行することが最善です。現場ごとの専門性を高めることで、今後の仕事にも対応しやすくなります。俺が現場に張り付くより、全体を見た方が──」

「もういいよ」

 

 清夏さんの震えが止まる。

 もういいよ。その言い方が優しかったせいで、続きを言えなくなった。

 

「Pっちの言ってること、たぶん全部正しいよ」

 

 清夏さんは、手元のペットボトルに視線を落とした。

 

「あたしが忙しくなったのも、スタッフさんが増えた方がいいのもわかる。でもさ」

 

 小さく笑う。その笑いには、少しだけ自嘲の色が混ざっていた。

 

「あたし……、売れない方がよかった?」

 

 ペットボトルを握る彼女の指先が、少しだけ白くなっていた。

 

「それは違います」

 

 反射的にそう答えると、清夏さんが顔を上げる。

 視界に入った薄緑の瞳は、少し水気を含んでいた。

 

「清夏さんがここまで来たことを、俺は誇りに思っています。売れない方がよかったなど、一度も思ったことはありません」

「じゃあ、なんで離れるの」

「離れるわけではありません」

「現場に来ないんでしょ」

「頻度は減ります」

「毎回は見てくれないんでしょ」

「……はい」

「それは、離れるって言うんじゃないの?」

「そうですね」

「うそつき」

 

 うそつき。耳鳴りのようにその言葉が反響する。

 

 廊下の向こうで、誰かが機材の数を確認している声が聞こえた。

 どこか夢のように実感なく立っていた意識が、現実に引き戻される。

 明日の予定も、来月の体制も、清夏さんのこれからも、その音と同じくらい確かなものとしてここにある。

 

 なのに俺だけが、まだ数年前の約束の前で立ち止まっていた。

 

「Pっちってさ」

「はい」

「あたしのためって言う時、だいたい自分でもあんまり納得できてないでしょ」

 

 清夏さんはそう言って、困ったように笑った。

 

 彼女はいつも、こういう時だけ正確だった。

 俺が書けなかった引き継ぎ資料よりも、ずっと正確に、俺の状態を言い当てる。

 

「……否定は、できません」

「しないんだ」

「否定すると、嘘になりますから」

 

 清夏さんは少しだけ目を丸くした。

 それから、視線を逸らす。

 

「そっか」

 

 短い返事だった。

 その中に、嬉しさと寂しさが同じくらい混じっているように聞こえた。

 

「でも、決まったんだよね」

「まだ正式決定前です。ただ、方針としては」

「決まったんじゃん」

「……はい。そうですね」

 

 清夏さんはペットボトルを握り直した。

 

「じゃあさ」

 

 彼女は顔を上げる。

 いつものように笑っていた。

 いつものように、少し早く。

 

「最後に、もう一回ちゃんと見てよ」

「最後、ですか」

「あたしの、プロデューサーとして」

 

 そう言われて、俺はようやく理解した。

 

 清夏さんは、俺を引き止めようとしているわけではなかった。

 正しい話を壊そうとしているわけでもなかった。

 ただ、終わるなら終わるで、その終わり方を選ぼうとしている。

 

 彼女らしく、軽く。

 それでも、こちらが逃げられないくらいまっすぐに。

 

「次のライブ」

 

 清夏さんは言った。

 

「あたし、本気でやるから。だからPっちも、ちゃんと見て」

「当然です」

「仕事だから?」

 

 俺は答えられなかった。

 清夏さんは、少しだけ満足そうに笑った。

 

「そーいうとこ」

 

 それだけ言って、彼女は背を向けた。

 廊下の照明が、オレンジ色の髪を淡く照らしている。

 

「清夏さん」

 

 呼び止めると、彼女は振り返らずに片手を上げた。

 

「今日はもういい」

 

 今日はもういい。何が? その問いの答えを、俺は持たない。

 

「ばいばい、Pっち」

 

 その言葉を聞いた時、俺は数年前の約束を思い出していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。