ずっといっしょの終わり方 作:学マスオタク
清夏さんに話をしたのは、その日の夜だった。
ライブのリハーサルが終わった後、会場裏の廊下には照明の熱がまだ残っていて、人工的な暑さを感じさせた。
スタッフは撤収作業に入り、遠くで機材ケースの車輪が床を転がる音がしている。
清夏さんは水の入ったペットボトルを片手に、壁にもたれていた。髪は少し乱れていて、首元には汗が光っている。それでも呼吸は落ち着いていた。
「お疲れ様でした」
「おつかれー。今日、けっこうよくなかった?」
「はい。二曲目の入りが特に良かったです。前回よりも重心が安定していました」
「でしょ。Pっちならそこ見てくれると思った」
清夏さんは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、俺は一瞬だけ言葉を失った。
「清夏さん」
「ん?」
「少し、お話があります」
彼女はペットボトルの蓋を閉めた。
「今? シャワー浴びて着替えてきたいんだけど」
「重要な話なので」
「やだなー。Pっちの重要な話って、だいたい楽しくないじゃん」
そう言いながらも、清夏さんは壁から背を離した。
俺の方へ半歩近づく。距離の詰め方が、昔から変わらない。
こちらが一歩引く前に、先に入ってくる。
「来月から、清夏さんには別のプロデューサーがつくことになりました」
言った瞬間、廊下の音が遠くなった気がした。
清夏さんは何も言わなかった。
ただ、瞬きを一度だけした。
「今後の活動規模を考えて、現場担当、制作進行、広報、外部折衝を分けたチーム体制に移行します。俺は清夏さん個人の現場担当ではなく、プロジェクト全体の統括に──」
「待って」
清夏さんの声は、思ったよりも静かだった。
それでも、撤収作業の音が響く会場の中で、その声は物理的な距離以上に近く感じた。
「それってさ」
彼女は笑おうとして、うまく笑えなかった。
いや、正確には笑っていた。
けれど、その笑い出しが半拍早かった。
「Pっち、あたしのプロデューサーじゃなくなるってこと?」
その問いに、俺はすぐ答えるべきだった。
仕事としての答えは決まっている。
「少なくとも現場担当では、なくなります」
「現場、担当?」
清夏さんは、俺の言葉をそのまま繰り返した。
手の中のペットボトルが、かすかに音を立てる。
「じゃあ、担当ではあるの?」
「統括という立場で、活動全体には関わります」
「そういうちゃんとした話じゃなくて」
その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。
正しい話は、正しいからこそ反論の余地がない。一方的に攻めているような気持ちになる。
「Pっちさ」
清夏さんが笑った。
今度は、はっきりと笑った。
「約束したじゃん」
震えた声。俺以外には聞こえていないであろう、小さな主張。
照明の熱は、俺の冷めた体を温められていない。それなのに、スーツの中は既に汗だらけだった。
「……そうですね」
「覚えてるんだ」
「はい」
「じゃあ、なんで?」
責めるような口調ではなかった。
泣きそうな声でもなかった。
だからこそ、余計に逃げ場がない。
「清夏さんの活動規模を考えれば、チーム制に移行することが最善です。現場ごとの専門性を高めることで、今後の仕事にも対応しやすくなります。俺が現場に張り付くより、全体を見た方が──」
「もういいよ」
清夏さんの震えが止まる。
もういいよ。その言い方が優しかったせいで、続きを言えなくなった。
「Pっちの言ってること、たぶん全部正しいよ」
清夏さんは、手元のペットボトルに視線を落とした。
「あたしが忙しくなったのも、スタッフさんが増えた方がいいのもわかる。でもさ」
小さく笑う。その笑いには、少しだけ自嘲の色が混ざっていた。
「あたし……、売れない方がよかった?」
ペットボトルを握る彼女の指先が、少しだけ白くなっていた。
「それは違います」
反射的にそう答えると、清夏さんが顔を上げる。
視界に入った薄緑の瞳は、少し水気を含んでいた。
「清夏さんがここまで来たことを、俺は誇りに思っています。売れない方がよかったなど、一度も思ったことはありません」
「じゃあ、なんで離れるの」
「離れるわけではありません」
「現場に来ないんでしょ」
「頻度は減ります」
「毎回は見てくれないんでしょ」
「……はい」
「それは、離れるって言うんじゃないの?」
「そうですね」
「うそつき」
うそつき。耳鳴りのようにその言葉が反響する。
廊下の向こうで、誰かが機材の数を確認している声が聞こえた。
どこか夢のように実感なく立っていた意識が、現実に引き戻される。
明日の予定も、来月の体制も、清夏さんのこれからも、その音と同じくらい確かなものとしてここにある。
なのに俺だけが、まだ数年前の約束の前で立ち止まっていた。
「Pっちってさ」
「はい」
「あたしのためって言う時、だいたい自分でもあんまり納得できてないでしょ」
清夏さんはそう言って、困ったように笑った。
彼女はいつも、こういう時だけ正確だった。
俺が書けなかった引き継ぎ資料よりも、ずっと正確に、俺の状態を言い当てる。
「……否定は、できません」
「しないんだ」
「否定すると、嘘になりますから」
清夏さんは少しだけ目を丸くした。
それから、視線を逸らす。
「そっか」
短い返事だった。
その中に、嬉しさと寂しさが同じくらい混じっているように聞こえた。
「でも、決まったんだよね」
「まだ正式決定前です。ただ、方針としては」
「決まったんじゃん」
「……はい。そうですね」
清夏さんはペットボトルを握り直した。
「じゃあさ」
彼女は顔を上げる。
いつものように笑っていた。
いつものように、少し早く。
「最後に、もう一回ちゃんと見てよ」
「最後、ですか」
「あたしの、プロデューサーとして」
そう言われて、俺はようやく理解した。
清夏さんは、俺を引き止めようとしているわけではなかった。
正しい話を壊そうとしているわけでもなかった。
ただ、終わるなら終わるで、その終わり方を選ぼうとしている。
彼女らしく、軽く。
それでも、こちらが逃げられないくらいまっすぐに。
「次のライブ」
清夏さんは言った。
「あたし、本気でやるから。だからPっちも、ちゃんと見て」
「当然です」
「仕事だから?」
俺は答えられなかった。
清夏さんは、少しだけ満足そうに笑った。
「そーいうとこ」
それだけ言って、彼女は背を向けた。
廊下の照明が、オレンジ色の髪を淡く照らしている。
「清夏さん」
呼び止めると、彼女は振り返らずに片手を上げた。
「今日はもういい」
今日はもういい。何が? その問いの答えを、俺は持たない。
「ばいばい、Pっち」
その言葉を聞いた時、俺は数年前の約束を思い出していた。