ずっといっしょの終わり方 作:学マスオタク
その夜、俺はもう一度、引き継ぎ資料を開いた。
紫雲清夏_引継資料20xx0605
ファイル名の末尾に並ぶ日付は、ただの管理番号に過ぎない。
それでもその数字が、何かの期限のように見えて仕方がなかった。
画面の白い余白に、カーソルだけが点滅している。
書かなければならないことは、いくらでもある。書くべきではないことも、同じくらいある。
清夏さんは、初対面の相手にも物怖じしない。
けれど、人との距離を詰めることが上手いからといって、不安がないわけではない。
本当に不安な時ほど、自分の不安を冗談の形に変える。
緊張している時は、目元より先に声が明るくなる。
無理をしている時は、こちらの反応を見る前に笑う。
疲れている時ほど、一人で平気なふりをする。
寂しい時ほど、誰かを困らせない言い方を選ぶ。
そこまで書いて、俺は一度手を止めた。
業務文書としては、あまりにも主観が混じっている。新しい担当者が必要としているのは、俺の感傷ではない。
取引先との関係値、仕事ごとの注意点、体調面の管理、今後の育成方針。清夏さんを支えるために必要な情報であって、俺が彼女をどう見ていたかではない。
わかっている。
わかっているからこそ、指は止まったままだった。
画面の中に並んだ文字を読み返す。
そこに書かれている清夏さんは、確かに俺が見てきた清夏さんだった。
けれど同時に、それは誰かに渡すための清夏さんではなかった。
俺はその文章を削除した。
そして、新しい見出しを作る。
体調管理。
現場対応。
レッスン方針。
本人の意向。
コミュニケーション上の留意点。
形式だけは、業務文書らしく整えた。
その上で、一つずつ書いていく。
朝の稼働は強くないが、現場入り後の切り替えは早い。
本番前は過度に声をかけすぎないこと。
本人が自分から話題を変えた場合、深追いは不要。ただし、無理をしている可能性はある。
褒める場合は、抽象的な言葉よりも具体的に伝えること。
結果だけでなく、見ていた箇所を伝えること。
本人はそれを必要としている。
最後の一文を打ち込んでから、俺はしばらく画面を見ていた。
本人はそれを必要としている。
誰から。
そこだけは、書かなかった。
最後の現場担当、紫雲清夏のプロデューサーとして立ち会うライブは、一週間後に設定されていた。
大きな会場ではなかった。
それでも、初星学園時代のライブ会場とは比べものにならない規模だった。
照明機材が組まれ、客席には整然と椅子が並べられ、ステージ脇には関係者用の導線が作られている。スタッフの人数も、音の数も、動く時間の単位も、すべてがかつてより大きく、速かった。
清夏さんは、リハーサルから本番まで一度も弱音を吐かなかった。
入り時間の十五分前には会場に着いていた。
衣装合わせで清夏さんは、自分から裾の長さを確認していた。
音響チェックでは、マイクの返りについて具体的に要望を出している。
ダンスの確認では、振付師と短く言葉を交わし、次の通しではすぐに修正を反映させた。
俺の指示を待つ場面は、ほとんどなかった。
それは喜ぶべきことだった。
担当として、これ以上ないほど正しい成長だった。
だから俺は、何度も胸の内で同じ言葉を繰り返した。
これでいい。
これでいいはずだ。
「Pっち」
本番前、楽屋の前で呼び止められた。
清夏さんはステージ衣装のまま、ドアにもたれるように立っていた。
よく覚えている。かつて俺がどちらを選ぶか聞いていた衣装。肩口から袖にかけて入ったオレンジのラインが、廊下の白い照明の下でもよく映えている。
「清夏さん。今日の調子はどうですか」
「んー、普通」
「普通ですか」
「嘘。ちょっと緊張してるかも」
清夏さんはそう言って、軽く笑った。
今度の笑い方は、半拍早くなかった。
「珍しいですね」
「最後だし、さ」
「……そうですね」
「Pっちさ〜、そこは『最後ではありません』とか言うところじゃないの?」
「言っても、清夏さんは納得しないでしょう」
「うん。しない」
彼女はあっさりと頷いた。
楽屋前の廊下を、スタッフが足早に通り過ぎていく。
誰もこちらに立ち止まらない。
それぞれに役割があり、それぞれに向かう場所がある。
その中で俺たちだけが、数年前のレッスン室から少しも動けていないような気がした。
「今日さ」
清夏さんが言う。
「あたしがちゃんとできたら、Pっち、何か言ってよ」
「何か、とは」
「なんでもいいからさ。いつもの分析じゃなくて、ちゃんとしたやつ」
ちゃんとしたやつ。
彼女は時々、説明になっていない言葉で本質だけを指す。
「努力します」
「そこは約束じゃないんだ」
「……約束しますよ」
そう言うと、清夏さんは少しだけ目を丸くした。
それから、満足そうに笑った。
あの時できなかった約束を、今度ははっきりと口にする。
「よし」
数年前と同じ声だった。
「じゃ、行ってくるね」
清夏さんはそう言って、ステージ袖へ向かった。
ライブが始まると、会場の空気は一瞬で変わった。
照明が落ちる。
歓声が上がる。
イントロが鳴る。
白い光の中に、オレンジの髪が浮かび上がる。
清夏さんは、ステージの中央に立っていた。
最初の一歩で、今日の調子がいいことはわかった。
重心がぶれていない。呼吸も浅くない。表情も作りすぎていない。
観客を見ている。
観客に見られている自分を、きちんと受け止めている。
俺は舞台袖から、その姿を見ていた。いつも通り、改善点を探そうとした。
入りのタイミング。
腕の角度。
目線の配り方。
声の伸び。
曲間の呼吸。
けれど、すぐに意味がないと気づいた。
改善点がないわけではない。細かく見れば、直すべき点はまだいくつもある。
次のステージのために伝えるべきこともある。
ただそれ以上に、今この瞬間の彼女はステージの上にいた。
誰かに支えられているのではなく。
誰かの指示を待っているのでもなく。
自分の名前で、そこに立っていた。
大きくなった。
また、そう思った。
置いていかれるような感覚はなかった。
しかし目の前の事実として、紫雲清夏は遠くまで来たのだと思った。
照明が彼女の髪を照らす。
発色の良いオレンジが、ステージの光の中で揺れている。
数年前の夕陽の中で見た色とは違う。
あの時は、未来が彼女のすぐ近くにあるように見えた。
今は、彼女自身が誰かにとっての未来になっている。
最後の曲が終わり、会場に拍手が広がる。
清夏さんは少し息を弾ませながら、それでもまっすぐ前を向いていた。
そして一瞬だけ、こちらを見た。
袖の端に立つ俺を、正確に見つけた。
ほんの一瞬。
けれど、その視線だけで、彼女が言いたいことはわかった。
ちゃんと見てた?
俺は、小さく頷いた。
清夏さんは笑った。今度は、ステージの上の顔で。