ずっといっしょの終わり方   作:学マスオタク

4 / 5


 その夜、俺はもう一度、引き継ぎ資料を開いた。

 

 紫雲清夏_引継資料20xx0605

 

 ファイル名の末尾に並ぶ日付は、ただの管理番号に過ぎない。

 それでもその数字が、何かの期限のように見えて仕方がなかった。

 

 画面の白い余白に、カーソルだけが点滅している。

 書かなければならないことは、いくらでもある。書くべきではないことも、同じくらいある。

 

 清夏さんは、初対面の相手にも物怖じしない。

 けれど、人との距離を詰めることが上手いからといって、不安がないわけではない。

 本当に不安な時ほど、自分の不安を冗談の形に変える。

 緊張している時は、目元より先に声が明るくなる。

 無理をしている時は、こちらの反応を見る前に笑う。

 疲れている時ほど、一人で平気なふりをする。

 寂しい時ほど、誰かを困らせない言い方を選ぶ。

 

 そこまで書いて、俺は一度手を止めた。

 

 業務文書としては、あまりにも主観が混じっている。新しい担当者が必要としているのは、俺の感傷ではない。

 取引先との関係値、仕事ごとの注意点、体調面の管理、今後の育成方針。清夏さんを支えるために必要な情報であって、俺が彼女をどう見ていたかではない。

 

 わかっている。

 わかっているからこそ、指は止まったままだった。

 

 画面の中に並んだ文字を読み返す。

 そこに書かれている清夏さんは、確かに俺が見てきた清夏さんだった。

 けれど同時に、それは誰かに渡すための清夏さんではなかった。

 

 俺はその文章を削除した。

 そして、新しい見出しを作る。

 

 体調管理。

 現場対応。

 レッスン方針。

 本人の意向。

 コミュニケーション上の留意点。

 

 形式だけは、業務文書らしく整えた。

 その上で、一つずつ書いていく。

 

 朝の稼働は強くないが、現場入り後の切り替えは早い。

 本番前は過度に声をかけすぎないこと。

 本人が自分から話題を変えた場合、深追いは不要。ただし、無理をしている可能性はある。

 褒める場合は、抽象的な言葉よりも具体的に伝えること。

 結果だけでなく、見ていた箇所を伝えること。

 本人はそれを必要としている。

 

 最後の一文を打ち込んでから、俺はしばらく画面を見ていた。

 

 本人はそれを必要としている。

 

 誰から。

 

 そこだけは、書かなかった。

 

 最後の現場担当、紫雲清夏のプロデューサーとして立ち会うライブは、一週間後に設定されていた。

 

 大きな会場ではなかった。

 それでも、初星学園時代のライブ会場とは比べものにならない規模だった。

 照明機材が組まれ、客席には整然と椅子が並べられ、ステージ脇には関係者用の導線が作られている。スタッフの人数も、音の数も、動く時間の単位も、すべてがかつてより大きく、速かった。

 

 清夏さんは、リハーサルから本番まで一度も弱音を吐かなかった。

 

 入り時間の十五分前には会場に着いていた。

 衣装合わせで清夏さんは、自分から裾の長さを確認していた。

 音響チェックでは、マイクの返りについて具体的に要望を出している。

 ダンスの確認では、振付師と短く言葉を交わし、次の通しではすぐに修正を反映させた。

 

 俺の指示を待つ場面は、ほとんどなかった。

 

 それは喜ぶべきことだった。

 担当として、これ以上ないほど正しい成長だった。

 

 だから俺は、何度も胸の内で同じ言葉を繰り返した。

 

 これでいい。

 これでいいはずだ。

 

「Pっち」

 

 本番前、楽屋の前で呼び止められた。

 清夏さんはステージ衣装のまま、ドアにもたれるように立っていた。

 よく覚えている。かつて俺がどちらを選ぶか聞いていた衣装。肩口から袖にかけて入ったオレンジのラインが、廊下の白い照明の下でもよく映えている。

 

「清夏さん。今日の調子はどうですか」

「んー、普通」

「普通ですか」

「嘘。ちょっと緊張してるかも」

 

 清夏さんはそう言って、軽く笑った。

 今度の笑い方は、半拍早くなかった。

 

「珍しいですね」

「最後だし、さ」

「……そうですね」

「Pっちさ〜、そこは『最後ではありません』とか言うところじゃないの?」

「言っても、清夏さんは納得しないでしょう」

「うん。しない」

 

 彼女はあっさりと頷いた。

 

 楽屋前の廊下を、スタッフが足早に通り過ぎていく。

 誰もこちらに立ち止まらない。

 それぞれに役割があり、それぞれに向かう場所がある。

 その中で俺たちだけが、数年前のレッスン室から少しも動けていないような気がした。

 

「今日さ」

 

 清夏さんが言う。

 

「あたしがちゃんとできたら、Pっち、何か言ってよ」

「何か、とは」

「なんでもいいからさ。いつもの分析じゃなくて、ちゃんとしたやつ」

 

 ちゃんとしたやつ。

 彼女は時々、説明になっていない言葉で本質だけを指す。

 

「努力します」

「そこは約束じゃないんだ」

「……約束しますよ」

 

 そう言うと、清夏さんは少しだけ目を丸くした。

 それから、満足そうに笑った。

 あの時できなかった約束を、今度ははっきりと口にする。

 

「よし」

 

 数年前と同じ声だった。

 

「じゃ、行ってくるね」

 

 清夏さんはそう言って、ステージ袖へ向かった。

 

 ライブが始まると、会場の空気は一瞬で変わった。

 

 照明が落ちる。

 歓声が上がる。

 イントロが鳴る。

 白い光の中に、オレンジの髪が浮かび上がる。

 

 清夏さんは、ステージの中央に立っていた。

 

 最初の一歩で、今日の調子がいいことはわかった。

 重心がぶれていない。呼吸も浅くない。表情も作りすぎていない。

 観客を見ている。

 観客に見られている自分を、きちんと受け止めている。

 

 俺は舞台袖から、その姿を見ていた。いつも通り、改善点を探そうとした。

 入りのタイミング。

 腕の角度。

 目線の配り方。

 声の伸び。

 曲間の呼吸。

 

 けれど、すぐに意味がないと気づいた。

 

 改善点がないわけではない。細かく見れば、直すべき点はまだいくつもある。

 次のステージのために伝えるべきこともある。

 

 ただそれ以上に、今この瞬間の彼女はステージの上にいた。

 

 誰かに支えられているのではなく。

 誰かの指示を待っているのでもなく。

 自分の名前で、そこに立っていた。

 

 大きくなった。

 

 また、そう思った。

 

 置いていかれるような感覚はなかった。

 しかし目の前の事実として、紫雲清夏は遠くまで来たのだと思った。

 

 照明が彼女の髪を照らす。

 発色の良いオレンジが、ステージの光の中で揺れている。

 数年前の夕陽の中で見た色とは違う。

 あの時は、未来が彼女のすぐ近くにあるように見えた。

 今は、彼女自身が誰かにとっての未来になっている。

 

 最後の曲が終わり、会場に拍手が広がる。

 清夏さんは少し息を弾ませながら、それでもまっすぐ前を向いていた。

 

 そして一瞬だけ、こちらを見た。

 袖の端に立つ俺を、正確に見つけた。

 

 ほんの一瞬。

 けれど、その視線だけで、彼女が言いたいことはわかった。

 

 ちゃんと見てた?

 俺は、小さく頷いた。

 

 清夏さんは笑った。今度は、ステージの上の顔で。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。