ゼロの使い魔 虚無の少女と英雄王の宝物庫 作:僕の考えた最強のルイズ
# ゼロの少女は、同郷人を召喚する
春の空は、憎たらしいほど澄んでいた。
トリステイン魔法学院の中庭には、緊張と期待と、それから少しばかりの悪意が満ちている。二年生へ進級するための大切な儀式。己の使い魔を召喚する、貴族にとって一生に一度の晴れ舞台。
その中心で、ルイズ・フランソワーズは杖を握っていた。
「次はミス・ヴァリエールですね」
教師であるコルベールの声に、周囲の空気がわずかに揺れる。笑いを堪える気配。囁き。隠しきれていない好奇の視線。
また爆発するのだろう、と。
また失敗するのだろう、と。
ルイズは唇を引き結んだ。怒っているように見えただろう。悔しがっているようにも見えただろう。実際、そのどちらも嘘ではない。
ただし、理由は彼らが思っているものとは少し違う。
分かっている。ここで自分は笑われる。呪文を唱え、爆発を起こし、そして、ありえないものを呼び出す。
黒髪の少年。日本の言葉。白いTシャツに青を基調にした上着。黒っぽいジーンズと、こちらの世界では見慣れない靴。
平賀才人。
かつて、自分が生きていた国と同じ場所から来る少年。
ルイズは、制服の内側に隠した硬い感触を意識した。腰の隠し鞘に収めたそれは、普段は指ほどの飾り鍵に姿を縮めている。だが本来は、短剣にも似た金色の王律鍵。英雄王の宝物庫へ至る、あまりにも場違いな異物だった。
この世界に生まれ落ちた時から、それは自分の手元にあった。なぜ持っているのかは分からない。分かるのは、自分がルイズでありながら、かつて日本で男として生きていた記憶を持っていること。そして、知識として知っているはずの英雄王の記憶が、時折、自分のもののように脳裏を掠めることだけだった。
「どうしたの? ゼロのルイズ。早くしなさいよ」
キュルケのからかうような声が飛ぶ。
ルイズは振り返り、きっと睨みつけた。
「うるさいわね。そこで見てなさい。すぐに黙らせてあげるから」
言葉は自然に出た。高慢で、負けず嫌いで、意地っ張りなルイズ・フランソワーズの言葉。
演じているつもりでいても、どこまでが演技で、どこからが自分なのかはもう曖昧だった。十五年以上この世界で生きていれば、前の人生の記憶だけで自分を支え続けることなどできない。
自分はルイズだ。けれど、完全なルイズではない。
その事実だけが、いつも胸の奥に沈んでいる。
周囲では、すでに何人もの生徒が召喚を終えていた。鳥、蛇、猫、蜥蜴。魔法学院の生徒らしい、普通の使い魔たち。タバサの足元には青い風竜が大人しく控えている。キュルケの傍らには火蜥蜴が寝そべっていた。
そのどれもが、ここでは正しい成功だった。
なら、人間を召喚する自分はどうなのだろう。
この儀式の流れを、ルイズは知っている。平賀才人が来ることも知っている。彼の手に刻まれるルーンの意味も、やがて彼がこの世界で何を背負わされるのかも。
けれど、知っていることと、目の前で起きることは違う。
本当に来るのか。
自分がこの世界で余計なことをしてきたせいで、何かが変わってはいないか。
もし才人が来なかったら。もし別の誰かが来たら。もし、召喚そのものが壊れてしまったら。
指先がわずかに冷える。
期待している自分がいた。日本を知る人間に会えるかもしれない、と。自分がもう二度と戻れないと思っていた場所へ繋がる、細い糸が現れるかもしれない、と。
同時に、罪悪感もあった。
平賀才人は、何も知らずに巻き込まれる。家族も、学校も、日常も、すべて奪われる。こちらからすれば使い魔召喚でも、彼からすれば誘拐と変わらない。
それでも、ルイズは杖を掲げた。
ここで逃げるわけにはいかない。この世界でゼロと呼ばれてきた少女は、今日、使い魔を召喚しなければならないのだから。
「宇宙の果てのどこかにいる、私の僕よ」
呪文が唇から零れる。
唱えながら、ルイズは腰の奥に隠した王律鍵を意識した。開けるな、と自分に言い聞かせる。宝物庫は関係ない。虚無も使わない。ここでは、ただ失敗続きのルイズとして、召喚の儀を行う。
「神聖で、美しく、そして強力な使い魔よ。私は心より求め、訴えるわ」
風が止んだ気がした。
「我が導きに、応えなさい!」
爆発が起きた。
予想通りの爆音。予想通りの煙。予想通りの悲鳴と笑い声。土煙が中庭を覆い、何人かの生徒が咳き込む。
「やっぱり爆発じゃない!」
「さすがゼロのルイズ!」
笑い声が弾ける。
ルイズは杖を下ろさなかった。煙の向こうを見る。胸の奥で心臓が強く脈打っていた。
いる。
爆煙の中に、人影がある。
やがて風が煙を払った。
そこに倒れていたのは、一人の少年だった。黒髪。白いTシャツ。青を基調にした上着。黒っぽいジーンズ。見慣れているようで、この世界ではあまりにも浮いた格好。
ハルケギニアの服ではない。
間違いない。
平賀才人。
「……成功、したわ」
ルイズは小さく呟いた。
周囲の生徒たちは、笑いを止めた。人間が召喚された。平民にしか見えない少年が、使い魔召喚の場に現れた。その異様さに、さすがに空気が変わる。
倒れていた少年が身じろぎした。
「いてて……なんだよ、ここ」
日本語だった。
たったそれだけで、ルイズの喉が詰まった。
何年ぶりだろう。家族でも、友人でもない。けれど、自分の前の人生と同じ言葉が、目の前の人間の口から出た。それだけで、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ揺らいだ。
帰りたい。
そんな言葉が、不意に浮かびかける。
ルイズはそれを噛み潰した。
駄目だ。今はルイズでいろ。ここで動揺を見せるな。
「ちょっと、あんた」
ルイズはわざとハルケギニアの言葉で言った。
才人は顔を上げた。まだ状況が掴めていないのだろう。周囲を見て、空を見て、並んだ貴族の生徒たちを見て、最後にルイズを見た。
「え、なに? 外国? 撮影? いや、どこだよここ!」
叫ぶ声に、周囲の生徒たちがざわつく。言葉は通じていない。けれど、混乱していることは伝わったらしい。
コルベールが慎重に歩み寄った。
「ミス・ヴァリエール。これは……人間、ですかね?」
「見れば分かるでしょ」
「いや、しかし、使い魔召喚で人間が現れるなど……」
「私に聞かないでください。呼んだら来たんですもの」
ルイズは腕を組み、ふんと顎を上げた。内心では、才人の一挙一動から目を離せなかった。
彼は本当に来た。自分の知っている通りに。なら、ルーンも刻まれるはずだ。ガンダールヴ。神の左手。あらゆる武器を扱う伝説の使い魔。
この世界の流れが、まだ大きくは歪んでいない証拠。
そう思いたかった。
「ミス・ヴァリエール、契約を」
コルベールに促される。
才人は何かを言いながら後ずさった。言葉が通じない相手に囲まれ、状況も分からないまま少女が近づいてくる。怯えて当然だった。
ルイズの胸に、かすかな痛みが走る。
ごめん。
言葉にはしなかった。できなかった。
ここで契約を拒めば、彼はただの異物として扱われる。貴族社会で、身寄りも言葉もない平民。守る理由を作らなければ、もっと危うい立場になる。
だから契約する。
利用するために。
守るために。
どちらも嘘ではなかった。
「じっとしてなさい」
「は? いや、だから何なんだよ! 近い、近いって!」
ルイズは才人の襟元を掴んだ。
「これは契約よ。痛くはないわ」
「言葉通じてないのに、なんでそんな自信満々なんだよ!」
才人の抗議を無視して、ルイズは顔を近づけた。
唇が触れる。
一瞬だけだった。
次の瞬間、才人が手を押さえて悲鳴を上げた。
「熱っ! な、なんだこれ!」
左手に文字が浮かんでいく。
ルイズはその光景を見つめた。知っている形。見覚えのあるルーン。ガンダールヴの印。
予定通り。
そう思った瞬間だった。
腰の隠し鞘に収めた王律鍵が、熱を持った。
「っ……」
ルイズは思わず息を呑む。
鍵が、反応している。
制服の内側で、金色の光が一瞬だけ走った。誰にも見えていない。見せてはいけない。ルイズは咄嗟に腕を下ろし、腰のあたりを隠すように身を捻った。
おかしい。
これは知らない。
平賀才人のルーンに、王律鍵が反応するなんて、そんなものはどちらの知識にもなかった。
才人は左手を押さえたまま地面に座り込んでいる。コルベールは興味深そうにルーンを覗き込み、生徒たちは好き勝手に騒ぎ始めた。
「平民じゃないの?」
「人間の使い魔?」
「ゼロのルイズにはお似合いだな」
笑いが戻る。
ルイズはそれを聞きながら、腰の奥に残る熱が消えるのを待った。
苛立ちが湧く。けれど、普段のそれとは違った。才人を笑われたからか。自分がゼロと呼ばれたからか。あるいは、宝物庫に触れられたような感覚が不快だったからか。
分からない。
ただ一瞬、胸の奥で何かが目を開けた気がした。
たわけ、と。
誰かの声がした。
ルイズは歯を食いしばり、その声を奥へ押し込めた。
違う。今は違う。私は私だ。
「ミス・ヴァリエール?」
コルベールが怪訝そうに覗き込む。
ルイズはすぐに顔を上げた。
「なんでもありません。契約は終わりましたわ」
「ええ、確かに。いやはや、実に興味深いルーンですな。後ほど調べさせていただいても?」
「必要なら」
本当は見せたくない。だがここで拒めば不自然だ。才人のルーンはどうせ注目される。隠すなら、別の部分だ。
王律鍵。
虚無。
そして、自分がこの世界の筋書きを知っていること。
儀式が終わる頃には、才人は疲れ切った顔をしていた。空を飛んで戻る生徒たちを見て目を丸くし、ルイズに引きずられるように学院の建物へ向かう。
「おい、ちょっと待てって! マジで何なんだよここ! 説明しろよ!」
才人の日本語が耳に刺さる。
ルイズは振り向かずに歩いた。周囲に他の生徒がいる間は、答えない。日本語を話せることを知られるわけにはいかなかった。
「ほら、早く歩きなさい。使い魔のくせに主人を待たせるんじゃないわよ」
「ああもう、何言ってるか分かんねえ!」
分からないふりを続けるのは、思ったよりつらかった。
自分も、最初は同じだったはずだ。目覚めた先が見知らぬ屋敷で、体は小さな少女になっていて、周囲は聞いたことのない言葉を話していた。前の人生の記憶と、ルイズとしての幼い感情が混ざり合い、何度も泣きそうになった。
才人は今、その入口にいる。
けれど彼には、まだ帰る場所がある。少なくとも、帰りたいと思える記憶がある。
ルイズはその事実が少しだけ羨ましかった。
部屋に入ると、才人はすぐに扉へ向かった。
「帰る。俺は帰るからな。なんか分かんねえけど、警察でも大使館でも、とにかく――」
「ここに警察も大使館もないわよ」
ルイズは日本語で言った。
才人の動きが止まった。
ゆっくりと振り返る。目が見開かれていた。
「……は?」
「騒がないで。壁の向こうに誰かいたら困るから」
「いや、いやいやいや。今、日本語喋ったよな? 喋ったよな!? なんで? っていうか、あんた誰だよ!」
「ルイズ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」
「長い!」
「文句言わない。あんたの名前は平賀才人。東京の高校生。で、合ってる?」
才人の顔から血の気が引いた。
「なんで、俺の名前……」
「説明する。でも、全部は今すぐ無理。まずここは、あんたのいた日本じゃない。地球でもない可能性が高い。少なくとも、この国はトリステイン。ここはトリステイン魔法学院」
「魔法学院って……」
「見たでしょ。みんな空を飛んでた。あれがこの世界の常識よ」
才人は口を開けたまま固まった。理解が追いついていないのだろう。無理もない。自分だって、逆の立場ならそうなる。
ルイズは椅子に座り、才人にも視線で床を示した。彼は不満そうな顔をしたが、立っている気力もなくなったのか、その場にへたり込んだ。
「じゃあ、あんたは何なんだよ。こっちの人間なのに、なんで日本語分かるんだよ」
「昔、知っていたから」
「昔?」
「それ以上は、まだ言わない」
「なんだよそれ!」
才人が声を荒げる。
ルイズは眉を寄せた。
「大声出さないでって言ったでしょ。ここであんたが暴れると、本当に詰むわよ。言葉も分からない、身分もない、後ろ盾もない。私の使い魔って立場がなかったら、あんたはただの不審者よ」
「使い魔ってなんだよ。俺は人間だぞ」
「知ってるわよ」
その声が、思ったより柔らかくなった。
才人も気づいたのか、少しだけ黙る。
ルイズは息を吐いた。
「だから、守る。少なくとも、あんたがこの世界で何も分からないまま潰されないようにはする」
「……帰れるのか?」
その問いに、ルイズはすぐに答えられなかった。
知っている。才人が日本へ戻る道に近づくことを。世界を跨ぐ扉。聖地。虚無。長い道の果てに、帰還の可能性があることを。
けれど、それは今ここで言える話ではない。
そもそも、自分の存在がすでに流れを変えている。今日、王律鍵が才人のルーンに反応した時点で、知っている未来は完全な保証ではなくなった。
「可能性はある」
ルイズは正直に言った。
才人の目に、かすかな光が戻る。
「本当か?」
「でも、すぐには無理。だから、しばらくは私の言うことを聞いて。あんたを奴隷扱いするつもりはない。でも表向きは、私の使い魔として振る舞ってもらう」
「なんで俺が……」
「帰りたいなら、生き残るのが先」
才人は悔しそうに黙った。
ルイズはその顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。利用するつもりはある。日本へ戻る手がかりとして、彼の存在を見逃すつもりはない。
それでも、彼を道具として扱うことはできなかった。
同郷だから、というだけではない。
何も知らずに呼ばれ、それでもこの世界で戦わされる少年を、自分は知っている。傷つき、迷い、何度も死にかけ、それでも誰かを守ろうとする姿を知っている。
だからこそ、放っておけない。
「今日は寝なさい。明日から、この世界のことを教える」
「寝られるかよ、こんな状況で」
「寝なさい」
「だから命令すんなって」
「使い魔でしょ」
「人間だ!」
「分かってるわよ。だから面倒見てあげるって言ってるの」
才人は反論しようとして、やめた。疲れが勝ったのだろう。部屋の隅に座り込み、まだ警戒した目でルイズを見ている。
ルイズはベッドの上に腰掛けた。寝間着に着替える気にはなれなかった。今日の出来事は、想定していたはずなのに、胸の奥をひどく掻き乱している。
しばらくして、才人の呼吸が少しずつ落ち着いていった。
眠ったのを確認してから、ルイズは腰の隠し鞘に指を伸ばした。
取り出したのは、金色の小さな装飾鍵。
見た目だけなら、少し古い飾り物に過ぎない。けれど、意識を向ければ分かる。これは今、ルイズの意思で姿を縮めているだけだ。本来の形へ戻せば、短剣のような長さを持つ王律鍵となる。
その鍵は、ただ扉を開けるためのものではない。
空間を開く。
蔵へ繋ぐ。
無数の宝具、秘薬、礼装、財宝が眠る、王の宝物庫へ。
その鍵が、まだわずかに熱を持っていた。
「ガンダールヴに反応した……?」
小さく呟く。
才人のルーン。神の左手。あらゆる武器を扱う力。
王の財宝に眠る武器の原典たち。
もし、その二つが繋がったのなら。
ルイズの背筋に冷たいものが走った。
ありえない、とは言えない。そもそも、自分という存在がありえない。現代日本人の記憶を持ってルイズに生まれ、英雄王の知識と記憶を抱え、王律鍵を持っている時点で、まともな理屈など通用しない。
鍵を握る指に力が入る。
その瞬間、視界の奥に黄金が広がった。
見たことのない都。
けれど、知っている気がする場所。
巨大な城壁。焼けるような太陽。積み上げられた財。空間に浮かぶ無数の剣、槍、斧、鎖。玉座に座る誰かの視線。
赤い瞳。
すべてを見下ろす、王の目。
頭の奥で、低い声が響いた。
ルイズは息を止める。
その声は、知識として知っている英雄王のものではなかった。物語の中で聞いた台詞でも、記憶として整理できるものでもない。
もっと近い。
自分の奥から、自分の声帯を通って出ようとしている。
「……我の蔵に、何が触れた?」
言ってしまってから、ルイズは自分の口を押さえた。
部屋は静かだった。才人は眠っている。誰にも聞かれていない。
それでも、心臓がうるさいほど鳴った。
今のは、自分の言葉ではない。
けれど、間違いなく自分の中から出た。
ルイズは王律鍵を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
ゼロと呼ばれ続けた少女の胸の奥で、王の宝物庫が静かに軋んでいた。