ゼロの使い魔 虚無の少女と英雄王の宝物庫 作:僕の考えた最強のルイズ
朝になっても、平賀才人は帰れなかった。
目を覚ました瞬間、才人はまず天井を見た。見知らぬ石造りの天井。見慣れない部屋。硬い床。身体にかけられていた薄い毛布。そして、椅子に腰掛けたまま腕を組み、こちらを見下ろしている桃色がかった金髪の少女。
夢ではなかった。
それを理解した瞬間、才人の顔が引きつった。
「……最悪だ」
「起きた?」
ルイズの言葉が、なぜか分かった。
昨日、あの契約を交わす前までは、周囲の人間が何を言っているのかまるで分からなかった。なのに今は、彼女の声が自然に意味を持って耳に届いている。日本語に聞こえるわけではない。けれど、言葉の意味だけが頭に流れ込んでくるような、奇妙な感覚だった。
才人は跳ね起きるように身を起こし、毛布を払いのけた。
「おはようじゃねえよ! なんでまだここなんだよ! 昨日の、あれ、夢じゃなかったのかよ!」
「夢なら、私も助かったわ」
「助かったってなんだよ! こっちが助けてほしいんだよ! 帰せよ! 俺、昨日まで普通に東京にいたんだぞ!」
「知ってる」
才人の動きが止まった。
怒鳴るつもりで開いていた口が、そのまま固まる。言葉が通じるようになったこと自体も異常だった。けれど、それ以上に、今の一言はおかしい。
「……なんで、東京って言葉に反応しないんだよ」
ルイズは扉の方へ視線を向けた。廊下に気配はない。朝早い時間だが、学院の使用人や生徒が動き始めてもおかしくない。
だから声を落とす。
「騒がないで。誰かに聞かれたら面倒になる」
「もう十分面倒だろ!」
「もっと面倒になるって言ってるの」
ルイズの声に苛立ちが滲んだ。けれど、怒鳴り返す直前で抑える。ここで才人を怖がらせても意味がない。昨日、自分が呼び出した相手だ。少なくとも、この世界で最初に手を引く責任はある。
才人は荒い息を吐いて、床に座り込んだ。
「……ここ、どこなんだよ」
「トリステイン。正確には、トリステイン魔法学院。ハルケギニアという大陸にある国の、貴族の子女が魔法を学ぶ場所」
「魔法って、昨日飛んでたやつか」
「そう」
「じゃあ、本当に異世界ってことかよ」
「少なくとも、あんたが知っている日本ではないわ」
才人は顔を伏せた。白いTシャツの皺を握りしめる手が震えている。昨日からずっと強がっていたが、普通の高校生が耐えられる状況ではない。
ルイズはその震えを見て、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
この少年は、日本にいた。学校に通って、家に帰って、明日も同じ日常が続くと思っていたはずだ。それを、自分の儀式が奪った。
たとえこの流れを知っていたとしても、呼んだのは自分だ。
「帰る方法は、探す」
才人が顔を上げた。
「本当か?」
「可能性はある。ただし、今すぐじゃない。たぶん、かなり時間がかかる」
「なんでそんな曖昧なんだよ」
「断言できないから」
本当は、もっと知っている。世界を跨ぐ扉。聖地。虚無。いずれ才人が辿るはずだった道。
けれど、それを今話すことはできない。話したところで信じられるはずもない。何より、才人が不用意に口にすれば、彼自身の首を絞める。
そして、もう一つ。
王律鍵が反応した。
昨日のあの熱。ガンダールヴのルーンが刻まれた瞬間、宝物庫へ至る鍵が明らかに才人へ反応した。それはルイズの知っている流れにはなかった。
知っていた未来は、すでに少し歪んでいる。
「俺、どうなるんだよ」
才人の声は掠れていた。
ルイズは数秒黙ったあと、いつものように顎を上げた。
「表向きは、私の使い魔」
「だからそれ、なんなんだよ」
「こっちの魔法使いは、進級の時に一生の使い魔を召喚するの。昨日の儀式がそれ。普通は動物や幻獣を呼ぶ。あんたみたいな人間が来るのは異常」
「じゃあ帰せよ」
「帰せるなら、とっくに帰してるわよ」
「そっちが呼んだんだろ!」
「だから責任は取るって言ってるの!」
声が重なった。
部屋に沈黙が落ちる。ルイズは唇を噛み、才人は気まずそうに視線を逸らした。
ルイズは立ち上がり、棚から簡単なパンと水差しを取った。昨日の夜、才人が寝た後に用意しておいたものだ。学院の食堂に行く前に、最低限腹に入れさせたかった。
「食べなさい」
「毒とか入ってないだろうな」
「あんたを殺してどうするのよ。帰る方法を探すって言ったでしょ」
「……それもそうか」
才人は疑わしげにパンを受け取り、少しかじった。すぐに腹が減っていたことを思い出したのか、無言で食べ始める。
その様子を見ながら、ルイズは才人の左手へ視線を落とした。
「手、見せて」
「は?」
「昨日刻まれた印よ。確認するだけ」
「痛いことしないだろうな」
「しないわよ」
才人は渋々左手を差し出した。甲に浮かぶ奇妙な文字列。会話は理解できるようになった才人でも、その文字は読めないらしい。自分の手に刻まれたものを、不気味そうに見下ろしている。
ルイズにとっては、知識として知っている印だった。
ガンダールヴ。
神の左手。
あらゆる武器を扱う伝説の使い魔。
ルイズは指先で触れようとして、直前で止めた。腰の奥に隠した王律鍵が、わずかに熱を持った気がしたからだ。
やはり反応する。
ごく小さく。けれど確かに。
「なんだよ」
「……別に。珍しい文字だと思っただけ」
嘘だった。
才人は不審そうに眉を寄せる。
「お前、何か知ってるだろ」
「知らないわ」
「今の間は絶対知ってるやつだろ」
「こっちの古い文字に詳しくないだけよ」
「ほんとか?」
「しつこい」
ルイズは手を離した。あまり長く見ていると、表情に出る。王律鍵とガンダールヴ。この組み合わせは危険だ。宝物庫に眠る数多の武具を、才人のルーンが“扱えるもの”として認識した場合、何が起きるか分からない。
才人が宝具に触れる。
その想像だけで、背筋が冷えた。
この少年は、まだ何も知らない。武器を握った瞬間に戦える力を得ることも、その先で自分の命まで燃やすような選択をしてしまうことも。
「いい? 才人」
ルイズは彼の目をまっすぐ見た。
「これから外に出る。周りには、私が日本や東京を知っていることを絶対に言わないで」
「なんで」
「私が面倒になるから。あんたも面倒になるから」
「またそれかよ」
「この世界では、知られない方がいいことが多いの。あんたはまだ何も知らない。だから今は、余計なことを喋らないで」
「じゃあ俺はどうすればいいんだよ」
「分からないふりをしてなさい」
「会話は分かるようになったんだけど」
「だから余計に黙っていなさい。理解できても、常識が分からないでしょ」
才人は不満そうに顔をしかめた。だが、さすがに状況の悪さは分かっているらしい。小さく舌打ちしてから、残りのパンを口に押し込む。
「それと、外では私はあんたにきつく言う」
「は?」
「主人と使い魔って立場があるから。私があんたを変に庇うと、逆に目立つのよ」
「つまり、俺に我慢しろってことか」
「そう」
「最悪だな、お前」
「知ってるわ」
才人は一瞬、何か言い返そうとして止まった。ルイズの声に、怒りとは違うものが混ざっていることに気づいたのかもしれない。
ルイズは視線を逸らし、扉へ向かった。
「行くわよ。朝食の時間になる」
「おう……って、待て。俺、文字は読めねえぞ。迷子になったら終わる」
「だから、私の近くにいなさい」
「それ、命令か?」
「忠告よ」
そう言ってから、ルイズは扉を開けた。
廊下へ出た瞬間、ルイズは表情を切り替えた。背筋を伸ばし、顎を上げ、いつもの“ゼロのルイズ”になる。才人が背後でその変化に気づいた気配がした。
食堂へ向かう途中、何人かの生徒が振り返った。視線はルイズではなく、その後ろを歩く才人に集まる。昨日召喚された人間の使い魔。珍しい見世物。平民らしき少年。
「ミス・ヴァリエール。その使い魔、ちゃんと躾けられるの?」
誰かが笑い混じりに言った。
才人の肩が跳ねた。言葉の意味が分かるのだ。分かるから、馬鹿にされていることも分かってしまう。
ルイズは足を止めずに答える。
「当然でしょ。私の使い魔よ」
才人が後ろで小さく唸った。
今は我慢して。
ルイズは振り返らなかった。振り返れば、余計な顔をしてしまいそうだったからだ。
食堂に入ると、才人はさらに目を丸くした。長いテーブル、豪華な食器、色とりどりの料理。貴族の学院らしい朝食の光景。だが、才人に用意された席はない。
それも知っている流れだった。
使い魔は主人のそばに控えるもの。人間であろうと、この世界ではそう扱われる。
才人が不満げにルイズを見る。
ルイズはわざと冷たく言った。
「そこにいなさい。勝手に動かないで」
「意味が分かる分、余計に腹立つんだけど」
「分かってるなら黙っていなさい」
小声で返すと、才人はぎょっとして黙った。
ルイズは席に着いた。正面ではキュルケが面白そうに頬杖をついている。隣ではタバサが本を開いていたが、目だけがわずかに才人へ向いていた。
「おはよう、ルイズ。昨日の使い魔、逃げなかったのね」
キュルケの声は楽しげだった。
「逃げられるわけないでしょ。私の使い魔だもの」
「人間の男の子を使い魔にするなんて、さすがゼロはやることが違うわね」
「うるさいわね」
ルイズはいつも通りに返した。怒ってみせるのは簡単だ。キュルケにからかわれ、ゼロと呼ばれ、言い返す。周囲にとっては見慣れた光景。
だが、今日は才人がいる。
彼は言葉の意味を理解したまま、周囲の笑いを浴びていた。自分が何を言われているのか分かる。それでも、この場で何を言い返せばいいのかも分からない。
才人の拳が少し握られた。
ルイズはテーブルの下で靴先を伸ばし、軽く才人の足を蹴った。
才人がこちらを見る。
ルイズは口だけを動かした。
我慢。
才人は不満そうに眉を寄せたが、何とか黙った。
タバサが本の向こうから、ほんの一瞬だけルイズを見た。
気づかれたかもしれない。
ルイズは内心で舌打ちした。タバサはこういう細かい違和感に鋭い。今のやりとりも、普通の主人と使い魔のものではない。だが、まだ決定的ではないはずだ。
食事が終わる頃、コルベールが食堂の入口に姿を見せた。
「ミス・ヴァリエール。少しよろしいかな」
周囲の生徒たちに聞かせるような声ではなかった。教師が生徒を呼び止める程度の、ごく自然な調子。けれど、ルイズには分かる。これは才人の件だ。
来た。
ルイズは椅子から立ち上がる。
「何でしょう、ミスタ・コルベール」
「昨日の件で、少し確認したいことがあります。食後で構いませんので、私の研究室まで来ていただけますかな。できれば、彼も一緒に」
コルベールは才人の左手へ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
ルイズは知らないふりをして頷く。
「分かりました」
「では、後ほど」
コルベールはそれ以上何も言わずに去っていった。
食堂では、誰も深く気にしていない。人間の使い魔が珍しいから教師が確認するのだろう、程度にしか思っていないはずだ。
ルイズは内心で息を吐いた。
少なくとも、食堂でガンダールヴの名が出ることはなかった。
朝食後、ルイズは才人を連れてコルベールの研究室へ向かった。才人は廊下を歩きながら、不安そうに左手を見ている。
「さっきの先生、俺の手を見てたよな」
「気づいたの?」
「そりゃ気づくだろ。俺、何かやばいのか」
「珍しいだけよ」
「その言い方、絶対珍しいだけじゃないだろ」
「余計なことを言わない。聞かれても、昨日のことは分からないって答えなさい」
「会話はできるんだぞ」
「できるからこそ、よ。ここで下手に話せば、余計に調べられる」
才人は嫌そうな顔をしたが、反論はしなかった。
研究室に入ると、コルベールは扉を閉めた。窓の外を一度確認し、それから柔らかい表情で才人に向き直る。
「怖がらなくていい。少し、左手を見せてもらいたいだけです」
才人はルイズを見た。
ルイズは小さく頷く。
「大丈夫。手を見せるだけ」
「本当だろうな」
「本当よ」
才人は渋々左手を差し出した。
コルベールは手袋越しに才人の手を取り、ルーンをじっと観察する。机の上には、古びた本と羊皮紙が広げられていた。彼は昨夜のうちに調べたのだろう。目の下にはわずかな疲れがあるが、それ以上に抑えきれない興奮が見えた。
「やはり……」
コルベールが小さく呟く。
ルイズは何も知らない顔で尋ねた。
「何か分かったのですか?」
コルベールは才人の手を離し、声を落とした。
「ミス・ヴァリエール。これは、まだ断定ではありません。ですから、決して軽々しく口にしてよい話ではない」
「はい」
「彼の左手に刻まれたルーンは、古い記録に残る始祖ブリミルの使い魔の印と酷似しています」
才人が目を細める。
「始祖? 使い魔?」
ルイズは才人へ小さく首を振った。今は黙っていろ、という合図だ。
コルベールはさらに声を潜めた。
「ガンダールヴ。あらゆる武器を使いこなす、伝説の使い魔。そのルーンである可能性があります」
その名を聞いた瞬間、腰の奥に隠した王律鍵が、かすかに熱を持った。
ルイズは指先に力を込める。
まただ。
ガンダールヴという名に、王律鍵が反応している。才人の手に刻まれた印が、蔵の中の武具へ触れようとしているような、不快な熱。
「ガンダールヴ……ですか」
ルイズは知らないふりをした。声が少し硬くなる。だが、驚いた少女としてなら許される範囲だろう。
「ええ。ただし、今は私とミス・ヴァリエールだけの話にしておきましょう。彼自身にも、まだ不用意な期待や恐怖を与えるべきではない」
才人が不服そうに眉を寄せた。
「いや、俺にも関係ある話だろ」
コルベールは申し訳なさそうに笑った。
「もちろんです。ですが、今は分からないことの方が多い。君の身に危険があると決まったわけではありません」
才人は納得していない顔だったが、ルイズが睨むと口を閉じた。
「ミスタ・コルベール」
ルイズは静かに言った。
「この件は、他の生徒には」
「ええ。言いません。人間の使い魔というだけで目立っていますからな。余計な噂は避けるべきでしょう」
その判断に、ルイズは内心で少しだけ安堵した。
コルベールは信用できる。少なくとも、今この時点では。研究者としての好奇心は強いが、生徒を危険に晒すような軽率さはない。
それでも、すべてを話すわけにはいかない。
王律鍵のことも。
自分がこの印の意味を知っていたことも。
「彼の身に何か異変があれば、すぐに知らせてください」
「分かりました」
「それと、武器にはしばらく触れさせない方がいいかもしれません。記録が正しければ、何らかの反応が出る可能性があります」
「……そうします」
その助言は正しい。
だが、ルイズは知っている。平賀才人はすぐに武器を握ることになる。ギーシュ・ド・グラモンとの決闘。デルフリンガーとの出会い。ガンダールヴとしての目覚め。
そして今作では、そこに王律鍵が絡んでいる。
ルイズは胸の奥に沈む不安を押し込めた。
研究室を出た後、才人はすぐに問い詰めてきた。
「なあ、ガンダールヴってなんだよ」
「まだ分からない」
「嘘つけ。お前、絶対分かってる顔してた」
「分からないことの方が多いのは本当よ」
「じゃあ分かってることはあるんだろ」
ルイズは足を止めずに歩いた。
「武器に関係する力かもしれない。それだけ」
「武器って……俺、喧嘩だってそんな強くねえぞ」
「今はね」
才人が立ち止まる。
ルイズも数歩進んでから振り返った。
「どういう意味だよ」
「言葉通りよ。あんたは昨日まで普通の高校生だった。でも、ここでは普通でいられるとは限らない」
「勝手なこと言うなよ」
「勝手に呼んだ私が言うのも何だけど、この世界はあんたに優しくない。だから、知らないままではいられない」
才人は何か言い返そうとして、結局黙った。
ルイズは歩き出す。これ以上は言えない。才人がどれだけ問い詰めても、今はまだ。
その日の授業は、才人にとって苦痛そのものだった。言葉は通じる。けれど、魔法の理屈も、貴族社会の常識も、授業の前提も何一つ分からない。文字も読めない。何より、周囲の貴族たちが遠慮なく彼を見てくる。
そして、ルイズが周囲の前では徹底して主人の顔を崩さない。
休み時間、才人は廊下の隅でついに爆発した。
「なあ、いつまでこれ続けんだよ」
「何が」
「この、使い魔扱いだよ。俺、人間だって言ってんだろ」
「言ってるだけじゃ通じない世界なのよ」
「お前は分かってるんだろ」
「分かってるわよ」
「じゃあなんで、皆の前でちゃんと言わねえんだよ」
ルイズは足を止めた。
廊下には人がいる。だから、声は小さく。表情は崩さず。それでも、言葉だけは才人に向けて低く落とした。
「言ったら、あんたが守られると思う?」
才人が黙る。
「この世界は、身分で人の扱いが変わる。貴族と平民で見える景色が違う。あんたは異世界から来た平民。常識も、文字を読む力も、後ろ盾もない。私の使い魔という立場がなければ、誰の庇護下にもない不審者になる」
「……だから、我慢しろって?」
「そう」
「道具扱いされても?」
ルイズは答えなかった。
才人の目は怒っていた。けれど、その奥にあるのは不安だ。自分が何者なのか、この世界でどう扱われるのか分からない恐怖。
ルイズは拳を握った。
本当は、今すぐ言ってやりたい。自分も日本を知っている。あんたがどういう運命に巻き込まれるのかも知っている。だから守る、と。
だが、言えない。
言えば才人は混乱する。疑う。問い詰める。自分の秘密が増えるほど、彼に背負わせるものも増える。
「道具なら」
ルイズは小さく言った。
「説明なんてしないわ」
才人の眉が動いた。
「私はあんたを使い魔として扱う。そう見せる。でも、あんたを物として扱うつもりはない」
「信用しろって?」
「今すぐ信用しろとは言わない。でも、生き残りたいなら、今は私の近くにいなさい」
「偉そうだな」
「偉いもの」
「ゼロって呼ばれてるくせに」
才人が反射的に言った直後、しまったという顔をした。
ルイズは笑わなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、静かに才人を見た。
「そうね。私はゼロよ」
その声に、才人は戸惑う。
「四属性魔法は使えない。失敗すれば爆発する。だから皆、私をゼロと呼ぶ」
「……悪い」
「別に。事実だもの」
事実ではある。
だが、真実ではない。
コモンマジックは使える。虚無も、隠しているだけだ。王律鍵を抜けば、学院程度なら一晩で沈黙させられる。
けれど、それを見せるつもりはない。
ルイズがゼロでいる限り、周囲は油断する。才人も、アンも、シエスタも、タバサも。救いたいものがあるなら、見えない位置に立つ方がいい。
そして何より、自分はまだ恐れている。
力を振るえば、奥底の王が顔を出す。
あの傲慢な声が、自分の怒りと混ざる。
「でもね、才人」
ルイズは歩き出しながら言った。
「あんたを呼んだ責任くらいは、ゼロでも取るわ」
才人はしばらく黙っていた。
「……分かったよ。とりあえず、今は言うこと聞く」
「最初からそうしなさい」
「一言余計なんだよな、お前」
「使い魔のくせに生意気」
「だから人間だっての」
そのやりとりは、少しだけ自然だった。
少なくとも才人は、先ほどよりは落ち着いている。ルイズも、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
だが、平穏は長く続かなかった。
放課後近くの廊下で、才人が急に足を止めた。視線の先には、金髪の男子生徒がいた。薔薇を手にした、いかにも貴族らしい少年。周囲の女子に囲まれ、気取った笑みを浮かべている。
ギーシュ・ド・グラモン。
ルイズは名前を思い出し、同時に嫌な予感も思い出した。
ギーシュの足元に、小さな香水の瓶が転がっている。近くにいた少女がそれを拾い上げ、別の女子生徒の表情が変わる。空気が険しくなる。
ああ、来た。
ルイズは内心で呟いた。
才人は状況が分からないわけではない。言葉も聞こえている。だからこそ、誤魔化しようがなかった。ギーシュが何かを隠そうとしていることも、女の子たちの間で揉め事が起きていることも、彼には分かってしまう。
「なんだ、あれ」
「関わらない方がいいわ」
「でも、揉めてるぞ」
「だから関わらない方がいいって言ってるの」
才人は眉を寄せた。放っておけない顔だった。
ルイズはその横顔を見る。
平賀才人は、そういう少年だ。理屈より先に体が動く。自分より弱い立場の誰かが傷つけられるのを、見過ごせない。
だからこそ、ガンダールヴは彼に宿ったのかもしれない。
ギーシュが才人へ視線を向けた。
「おや。ミス・ヴァリエールの人間の使い魔じゃないか」
嘲るような声。
才人の表情が変わった。今度は、はっきり意味が分かっている。自分が侮辱されたことも、ルイズごと笑われていることも。
左手が、無意識に握られる。
その瞬間、腰の奥の王律鍵が、かすかに熱を持った。
ルイズは息を潜める。
才人の左手を見る。
あのルーンが、どこまで本物なのか。
知る機会は、思ったより早く訪れようとしていた。