ヴェルグンデの嘲り   作:ほいれんで・くー

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1. 船医の日記

・二〇五五六年/水晶の月/二日

 午前九時、船に着任してからすぐに船長に会いにいった。ボルト留めされた配管が剥き出しになった狭い船長室の寝台の上で、船長は蒼ざめた顔をして横になっていた。起き上がって挨拶しようとするのを私は止めた。体調が優れないのはいつものことだと言う。海の男はおしなべて体調が悪いとは聞いていたが……しかし、陸に住む者たちも同じかもしれない。目標海域まで乗組員の精神汚染チェックと静寂化に特に注意するよう頼まれた。海域では怪我人が増えるだろうとのこと。抗汚染薬の生産が中断しており、現保有量を以って出港せざるを得ないことを船長に告げると、それなら霊操(れいそう)で代替するように言われた。船長は若いが、疲労感が顔面に滲んで灰色になっている。その他、機関長と主任航海士、潜航長に挨拶。漁夫たちには挨拶しなかった。機関長が言うには、わざわざ自分から赴く必要はないとのこと。昼食を終えてから自分の部屋の整理をした。個室が与えられているのはありがたいが、ここは私の個室であるのと同時に診察室であり、またいざという時には手術室にもなる。配管が剥き出しで、気をつけていないと頭をぶつけてしまう。夕食時に幹部たちと話をしたが、内容は覚えていない。夜中、妙な夢を見て目を覚ます。港とはいえここは海だ。油断はできない。放送によればプロキシ(いぬ)は伏せているとのことだ。可もなく不可もなし。

 

・二〇五五六年/水晶の月/三日

 海は生臭い。腐りかけの血のにおいだ。出港までほとんどやることがない。医療器具を磨き、薬品を整理し、書棚にファイルと書籍、論文の類を並べたら、もう私のやることはなくなってしまった。やることがないなら陸上に行くか、船内で過ごすしかない。陸上には行きたくない。水晶の月はざらざらとした粒子が大気に満ちているし、それに今はプロキシ犬が伏せている。では船内で過ごすかと言っても、なにもやることがない。幹部以上の乗組員には飲用エーテルの服用が許されているが、私はエーテルを飲まない。代わりに食堂で自分で代用茶を淹れて飲んでいる。読まないだろうと思いつつもスーツケースの底に入れてきた小説を読んでいる。出港までにもう何冊か用意しておくべきか。しばしば船橋下の通信室に足を運んだ。プロキシ犬は伏せから徐々に牙を見せつつあると国営放送。このまま良い方へ事が運べば良いが。

 

・二〇五五六年/水晶の月/五日

 出港したのは完全に日が暮れてからだった。船橋に上げてもらい、先触れとなる警戒船が闇に包まれた海の上を赤い船尾灯を滲ませて走っていくのを見た。海はほとんど凪いでいた。眠っているのだから当然だ。海に出るのは初めてで不安だったため誰かに話しかけたかったが、船橋(ブリッジ)では口を開いてはならないことになっている。海は眠っているが、浅い眠りだ。騒げば起きるし、些細な音でも起きる。起きれば怖ろしいことになる……だから絶対に声を発してはならない。港を出てから二時間ほど経ち警戒船から通信、器官(オルガン)の伏在は確認できないとのこと。これで膵臓や肺臓などがいたら出港を諦めてまた一年は港で待機しなければならなかった。警戒船は舳先(へさき)を巡らせて港に帰っていった。私たちは闇のさらに闇の向こうへ。ここから海域までには一ヶ月ほどかかり、漁を終えてから帰ってくるまでにまた一ヶ月ほどかかる。プロキシ犬は右目を上げたとのこと。悪くない。

 

・二〇五五六年/水晶の月/六日

 座学で知っていたことではあるが、航海というものは完全なる昼夜逆転生活となる。昼間の海は目覚めている。目覚めていて、すべてを見ている……ゆえに昼間、海上に身を晒すわけにはいかない。海は私たちを憎んでいるから、もし私たちがそこにいると知れば……波を荒立たせるだけではなく、器官まで寄越すだろう。そうなると私たちに生存の可能性はない。ゆえに人類は可潜船というものを発明した。これで昼間は潜って海の目から逃れるわけだ。だが、これもやはり極めて非効率な代物で、一日のうち半分しか潜っていられない。空気とエネルギーが足りないというよりは、それ以上に精神汚染が激しくなるからである。抗汚染薬が限られている以上……なにせ予定量の五分の三しか用意できなかったのだ……乗組員には霊操を指示しなければならない。今日は初めて漁夫たちの居住区へ行った。漁夫たちは私が赴く前から結跏趺坐(けっかふざ)して霊操を行っていた……優れた労働者たちだ。潜航中は陸上の放送電波を掴めないのでプロキシ犬がどうなっているのか分からない。残念だ。

 

・二〇五五六年/水晶の月/八日

 潜航中の状況について。気が狂うほどの蒸し暑さ。甘ったるい青油(せいゆ)のにおい。かび臭さ。汚物のにおい。塗料のにおい。息が詰まる。エネルギーを節約するため電灯は僅かで薄暗い。この調査船は三年前に新造されたばかりだというが、潜航中はしばしばどこかが軋む音がする。なにより酷いのは、潜航中は海の想念が直接的に船内に及ぶということだ。頭痛が止まらない。着任する前はここ数年の汚染医学論文のレビューができるかと思い、スーツケースにたっぷりと詰め込んできたが、このような状況では何も読めない。わずかに小説を何ページか読む。純文学はもっとプロキシ犬について書くべきではないか。個室でこのような状態ならば漁夫居住区はどうなのだろうかと思う。仕事がないのでしばしば居住区に行く。漁夫たちは漁具の手入れをしているか、バリアスーツの着用訓練をしているか、あるいは霊操をしているかだった。私が声をかけてもほとんど反応はない。暗い目が薄暗い居住区の中で光っている。ただし、それは反抗とかそういうことではないらしい。夜間の浮上航行中に通信が入った。プロキシ犬が一度だけ吼えたとのこと。吉兆だ。

 

・二〇五五六年/水晶の月/九日

 機関長は職務熱心だが機械的課題にのみ関心があるようで、私が雑談を持ちかけてもほとんど反応がない。それでいて数日間も話しかけないでいると、食事の際に恨みがましいような目を向けてくる。髭面で、痩せていて、常に眉にしわが寄っている。いつも具合が悪いとのこと。主任航海士はいつもチャートを眺めているか、哲学書を読んでいる。無表情で何を考えているのか分からない。辛うじて弁人論(べんじんろん)に興味があるということは引き出せたが、いったい私たちを憎んでいる存在に対して何を訴えかけたところで無駄であろうと私は思う。潜航長は一番若くて溌剌としているが、その溌剌さも「比較的」といったところだ。肩書きは立派だが、潜航長とは所詮学校を卒業したばかりの幹部候補生が実務経験を積むためのポストに過ぎず、実質的には船長のボーイのようなものである。そしてその船長は、出港以来ほとんど船橋に立つこともなく、いつも船長室にいる。食事の際に主任航海士から毎日一度は船長室に行って話をするように頼まれた。無理やり部屋に入っても良いとのこと。プロキシ犬は伏せていたらしい。

 

・二〇五五六年/水晶の月/十日

 こちらが適切な話題を用意すれば機関長は案外話しやすい人間であることが分かった。この船について質問をするとすらすらと答えてくれる。新型の銀鉛(ぎんえん)・ラスマス合金の船殻は軽量だが丈夫で、水深二スタディアまでは充分に耐えるとのこと。ただし代償として軋み音は大きいらしい。だから軋み音が大きくても気にするなとのことだった。青油牽引機は従来型であるが信頼性が高く、定格出力をいつでも発揮できるとのことだったが、それ以上の詳しい技術的な話は理解できなかった。主任航海士とは哲学の話をするのが良いようだ。弁人論について少し話をした。神は可能性のある無数の世界の中から全体として最も劣っている世界を設計し、私たち人類に与えたとのこと。つまり私たちは罪人であり、受刑者であり、収監者であるというわけだ。私たちの苦しみには何の意味もなく、ただ神にとって意味がある。私たちは罪人であるから苦しまなければならない。ただそれだけのことだ。主任航海士によればだいたい以上のような話だった。しかしこのようなことをあえて口に出さずとも、この世界にいる人間たちはみなこのことを知っている。そのためにプロキシ犬もいるのではないか。船長は船室で過ごしていた。少々話をした。この人は優しすぎるのではないか。プロキシ犬は左耳を立てたとのこと。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日あまり一日

 漁夫の一人の調子が悪くなったので診察室で……つまり私の部屋で診察をした。眼振があり、拍動に異常がある。脳波にはアルファ・エス型の突起が同一周期内において三つ。典型的な精神汚染の症状だった。抗汚染薬を飲ませ、栄養剤を注射してからしばらく寝台に寝かせた。漁夫は若い男で……いや、男というよりも子どもだった。最近は子どもでも海に出たがるし、子どもでも仕事ができるような仕組みが整えられつつある。それにしても子どもは海に出るべきではないのではないか? 汚染に対して子どもは脆弱だ。私が雑談交じりにいくつか質問をすると、最終的にその男は誤魔化すように笑いながら、自分が実はまだ十六であると白状した。規定の年齢に二歳も足りていない。船長には黙っているように頼まれた。私は分かったと答えた。おそらく船長も分かっているに違いない。プロキシ犬は首を掻いたとのこと。あまり良いことではない。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日あまり二日

 船内の衛生問題は未解決のまま長年放置されている。掃除の徹底によって住環境の清潔さは保たれているが、体を綺麗にすることはなかなかできない。この船は新造船で、幹部用に空気式清拭(せいしき)機がガラス張りの個室と共に用意されているが、漁夫たちにはそれがない。このことだけでも漁夫たちの生活環境は悲惨と言える。彼らは航海が進むにつれて猛烈に汚くなっていき、悪臭を放つようになる。潜航中の蒸し暑い船内で彼らは汗をかき、空調は働いているものの風は弱いから、まるで蒸し風呂の中にずっといるような状態になる。その中で彼らは常に仕事に励み、霊操を積み、海域に到達した時に備えている。出港してからまだ二週間も経っていないが、私は彼らのことをすでに尊敬しつつある。だが、他の幹部たちからすると、漁夫などというものは最底辺の存在で、漁具以上に価値のある存在ではないというのだ。彼らは学校を出ていないし、プロキシ犬に興味も持たない。金のためにこのような危険な仕事に志願し……志願したのだから、このような困難な仕事に甘んじるべきだ。幹部たちはそのように言う。確かに漁夫たちがプロキシ犬に興味を持たないのはどうかと思うが、それにしても幹部たちの言い分は一種の循環論法だろう。危険な仕事なのだから、危険に甘んじるべきだ。それでは、私たちが神に憎まれているのは、私たちが神に憎まれるような存在だからなのだろうか? ただ、船長だけは私の気持ちを分かってくれるのではないか。プロキシ犬は地面を少し掘ったとのこと。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日あまり三日

 夜間、浮上航行中に漁業演習が行われた。船長はまだ体調が安定していなかったので、私に興奮剤を注射するように頼んできた。私は言われるままに船長に注射をした。本当は注射をすべきではない。しかし、船長が船長としての責務を果たせないままというのは、注射によってもたらされる害よりもさらに酷いことなのではないか? 私は船橋から漁夫たちの動きを見た。重さ三百キロ以上もする特殊樹脂製の籠型漁具が何個も海に向かって列をなして投入されていく。籠にはブイがつけられており、海底に漁具が達した後もその所在を示し続ける。漁具は動力付きのクレーンで回収され、籠の中身は漁夫たちによって手早く選別される。中身とはつまり、宝蟹(たからがに)だ。今回は演習であるから漁具の中に餌は入っておらず、従って何もかかっていない。一連の作業はまったくの無言の中で行われた。声を上げるわけにはいかない。船橋に設置された投光器は甲板を照らしているが、闇の中ではあまりにも心もとない。バリアスーツは大きく、不格好で、生きたまま火に焼かれた山椒狒々(さんしょうひひ)を彷彿とさせる。漁夫たちは一糸乱れぬ動きだった。演習終了後、船長はまた私に注射を依頼した。今度は興奮剤ではなく、睡眠薬と栄養剤だった。プロキシ犬は二度吼えたらしい。何か良くないことが起きるのではないかと不安になる。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日あまり四日

 宝蟹とは何か? 不定形である。色は紫だ。糸のように長い脚は無数にある。つまり、見た目としては普通の蟹とさほど変わらない。大きさはどうか? これもさほど大きくない。大きいものでもせいぜい成人男性が一抱えするくらいでしかない。だが、それだけ大きいと味が濃くなり過ぎてしまう。人間は宝蟹を食べることができるのか? もちろん、食べられる。しかしこれは文字通り「られる」ということしか意味しない。一説によると、宝蟹はこの世が誕生した時からこの世界に存在していたという。最初は陸地にいて、そのうち哺乳類たちが陸地を支配するようになってからは、陸地から海へと逃げていったのだそうだ。海は宝蟹のことをとても愛している……海が私たちを憎む理由には、私たちが宝蟹を獲ることも含まれているだろう。宝蟹は北の海にいる。北の海の底にいて……常に腹を空かせている。そこが狙い目だ。飢えたものは常にそれを探し、その中にはいつも罠が仕込まれている。今日、船長に宝蟹に知能はあるのですかと私は尋ねた。船長は答えた。あるでしょうね。しかし、彼らは知能があろうがなかろうが、この世で生きる上ではあまり意味はないとも考えているでしょう。本当の意味での知能があったら、そのようなことを考えるはずです。いくつか納得できない部分はあるが、大まかには私も頷ける。プロキシ犬が遠吠えをしたので株価が急騰した。ありがたいことだ。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日あまり五日

 変わり映えのしない航海……それもこれも北の海域で漁をするためだ。この水産調査船はもちろん水産庁に所属しており、北の海域における宝蟹漁の可能性を様々な角度から調査・検証する任務を負っている……船長が言うには、調査と言ってもやることは変わらなくて、要するに漁をするだけだ。私は宝蟹について、これまでの人生であまり関心を向けてこなかったが……船長が言うには、この宝蟹がいなければ人類は生きていくことができないという。それはそうだろう、宝蟹が海で獲れなければプロキシ犬が餓死するし、プロキシ犬がいなくなれば人類は死ぬほかない。しかしこうして学問も研究も進歩した現代において、わざわざ海へ宝蟹を獲りに行く必要があるのでしょうか? エーテル合成すれば良いのでは? 宝蟹の味も、栄養素も、すべて人工的に再現できるでしょう。そのように私が言うと、船長は笑って言った。プロキシ犬は贅沢ですからね。生きている宝蟹じゃないと食べません。なるほどそうかと思った。そして、プロキシ犬に合成品を食べさせれば良いと思った自分を内心で恥じた。プロキシ犬は数歩だけ歩いたとのこと。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日あまり六日

 衝撃的な出来事が起きた。漁夫の一人が死んだ。いや、死んだのかどうかは分からないが、おそらく死んでしまったのだろう。夜間、浮上航行中にその漁夫は船橋にあって見張りの役に就いていたのだが、突然大きな声を上げて笑い始め、服を脱ぎ始めた。狂気の混ざった陽気な笑い声だった。私もその場に居合わせた。いざという時のために私は鎮静剤をケースに入れて持ってきていたが、その時の浮上担当者である潜航長は私をハッチの中に蹴り落として、他の漁夫たちに対しても同じようにすると、自分も一目散に飛び込んでハッチを閉じた。船はただちに潜航状態へと移行した。調音室からは周囲に盛んに器官(オルガン)が集まりつつあるとの報告、船内は非常潜航配置が取られた。急性精神汚染の惧れがあり、私は各居住区に抗汚染薬を配布したかったが、すでに通路は封鎖されていた。私は部屋で器官の襲来に備えた。器官たちは怖ろしいほどの恨みと憎悪を抱いているようで、私の脳裏には一人の女が青いケーキをぐちゃぐちゃに潰している光景とか、子どもが塀を超えられなくて足が千切れる光景とか、男が巨大なソゾロ虫に生きたまま食われる光景などが過ぎった。非常潜航配置が解除されるのに三時間かかった。これが五時間ともなればどうなるのだろうと思った。解除後、私は船長から呼び出されて事情聴取された。船医として、私は漁夫の精神汚染に気づかなかった過失がある旨を詫びたが、船長は私の言葉を遮った。彼が死んだのは確かであるが、彼の発狂の原因が精神汚染であるかどうかは証拠はない。君は気にしなくて良い。釈然としないものを覚えたまま私は船長室を出た。今でも私は自分のせいだと思っている。プロキシ犬の情報は得られなかった。災難には災難が続く。

 

・二〇五五六年/水晶の月/調整日おわり、十七日

 食事の際、機関長と主任航海士、それから潜航長から慰められた。慰めの言葉がもらえるとは思っていなかったので驚いた。このようなことは日常茶飯事で、よくあるのだという。どれだけ毎日気をつけてチェックをしていても、海の上での急性精神汚染は数分で進行することがある。今回の例もそうだろう……それに、たかが漁夫一人の命について、あなたのように真面目な人が心を砕く必要はない……すべて不当な言葉だ。だが、温かくはある。私は強いて納得することにした。プロキシ犬は眠っているとのこと。この時期にあっては珍しいことだ。

 

・二〇五五六年/水晶の月/十八日

 北の海では重労働になる。夜間の作業中にはブリザードが吹き荒れ、体感気温は零下二十度にも達する。当然漁夫たちはバリアスーツを着用するわけだが、それでも体力はじわじわと奪われる。海域に到達するまでに漁夫の体重を増やすのも船医の職務であるので、ここ一週間あまりは注意して食事を観察していた。漁夫たちは相変わらず静かで、ルーティンを済ませた後は霊操をしている。食事は規定量をしっかり食べている。食事はいつも同じだ。缶詰の川鼠(かわねずみ)の煮物。これがメイン。陸蛸(りくだこ)の卵巣の塩漬け、これも缶詰で副菜。水麦(すいばく)のビスケット。これがとにかく多く出る。全粒粉であり、カロリーが高いがまずい。しかしそれ以上に漁夫たちは器官(オルガン)から抽出された油脂を食べなければならない。これは酷い臭いで、おまけに喉に張り付く。それでも漁夫たちは黙々とそれを食している。船長に漁夫たちのことについて話した。船長は心痛に堪えないというような顔をした。他の幹部たちとは大違いだ。他の幹部たちは私のことを何か意味の通らないことを言っている子どもを見るような目で見た。プロキシ犬は伏せている。

 

・二〇五五六年/水晶の月/十九日

 悪い知らせが入った。陸上局から通信があり、南方海上で処女(おとめ)が出現したとのこと。処女の目は三つ、頭は四つらしい。だが、これが狂信女(きょうしんにょ)巫女(みこ)なのかがまだ分からない。数日中に変異する見込みらしいが、巫女になれば最悪だ。処女の予想進路と私たちの航路は不気味なほどに重なっている。船長はやや悲観的で、機関長はあまり興味なし。主任航海士は楽観的で、このようなことはよくあるとのことだった。プロキシ犬は吼えたとのこと。ならば女についても悪いことにはなるまい。

 

・二〇五五六年/水晶の月/二十日

 海が荒れてきた。残念なことに処女は巫女となったとのこと。そして、予想進路も変わりないようだ。船長はとりあえず海域まで進む決定を下した。そこで引き返すか引き返さないか決めるとのこと。船長が言うには、私たちはまだ恵まれているとのことだった。他の商用漁船ならば株主の意向もあるので絶対に引き返せないそうだ。では彼らはどうやって巫女をやり過ごすのかと訊いたところ、やり過ごすことなどしないとのことだった。運を天に任せて直前まで漁を続け、ぎりぎりのタイミングで潜航をする。巫女が通り過ぎるのにたっぷり二日はかかるから、それまでは海の中で粘るのだそうだ。しかしそれでは空気とエネルギーはもつかもしれないが、精神汚染はどうするのか? どうもしない、陸上では漁夫志願者たちが大勢いるから、港に帰った後は新しいものを補充すれば良いとのこと。淡々と語る船長ではあったが、義憤を覚えているような口調でもあった。だが、そうでもしなければ宝蟹は獲れないのだ。プロキシ犬がまた伏せた。不安が過ぎる。

 

・二〇五五六年/水晶の月/二十一日

 出港以来気がかりな夢ばかりを見る。これは言うまでもなく海の想念の影響であろうから、久しぶりに霊操をすることにした。抗汚染薬は即効性があるが、やはり霊操の方が効果は長持ちする……政府はあまり霊操に頼らず、プロキシ犬を見ろと国民に呼びかけているが。私もプロキシ犬は頼りになると思う。だが、霊操を捨てるまでもあるまい。結跏趺坐し、目を閉じて頭の中で神をイメージした。今日の霊操の結果は以下のとおり……神は不定形で暗く輝いているが、手には鞭を持っていて、その鞭で地上の人々を追い立てている。私は追い立てられる人のうちの一人で、鞭に叩かれながらも先へ先へと走っていく。走っている最中に私の体は裂けて真っ二つになった。肉と霊のどちらかを拾わねばならなくなり、私は肉を拾った。そこで霊操を終えた。久しぶりにしてはなかなか悪くなかったが、最後は霊を拾うべきだったと思う。あるいは、神の鞭は数日前の漁夫の死を暗示していたのか。巫女の影響により大気の状態が悪く、プロキシ犬に関する情報は得られなかった。落ち着かない。

 

・二〇五五六年/水晶の月/二十二日

 夜はたまに船橋に上がる。夜空には星々が瞬いていて、月は優しく下界を照らしている。この世界で優しいものは星と月だけだ。それ以外のすべてが私たちを憎んでいる。私たちは神から呪われているのだ。もし、世界が私たちを愛していると説く宗教があるならば……もし、神が私たちを愛していると説く宗教者がいるならば……いや、私にはそのようなものを仮定することすらできない。「神は可能性のある無数の世界の中から全体として最も劣っている世界を設計し、私たち人類に与えた……」 そうだろうと思う。夜の海の波が日増しに高くなっている。南の巫女の影響が早くも表れているようだ。船橋では決して声を上げてはならない。もし声を上げたら緊急潜航をしなければならなくなる。そして、また誰かが死ぬことになる。のみならず、海は器官を呼び寄せるだろう……海中で器官に対抗することはできない。プロキシ犬はまだ伏せたまま。少しイライラする。

 

・二〇五五六年/水晶の月/二十三日

 危ない一日だった。潜航直後に調音室から緊急報告があり、器官が本船から南東二百五十スタディアの距離にあるとのこと。音紋解析によれば、どうやら心臓らしいとのことだった。ただちに非常潜航配置となった。私は抗汚染薬をすべての乗員たちに配って回り、それを終えると部屋に戻った。非常灯が点灯した室内は赤い。音を立てないために、空調はすべて切ってある。蒸し暑さは耐え難いほどだったが、それ以上に船体が軋む音と、心臓が接近してくるにつれて高まる想念の波が堪え難かった。想念は巨大な恨みの塊だった。海中で心臓がゆっくりと拍動する音が聞こえ、それがますます高まり、さらに恨みの想念は増した。頭が破裂しそうなほどに痛み、呼吸が荒くなり、目の奥ではチカチカと火花のようなものが散っている。一段と音が大きくなった時に抗汚染薬を服用した。心臓はしばらく本船を捜索し、丸々五時間も私たちは忍耐を強いられた。やがて心臓は離脱していった。心臓は非常に強力な想念を発していた。以下に心臓の想念を簡潔に書く。

・「肉のあわいに漏れ出たる汁の黒きに目は焼かれ吾は疼き疼き……(以下、不明)」

・「こころうし、こころうし、こころうし……」

・「そは是なるか、真なるか、是なり、真なり……(以下、不明)」

・「熱きかな」

・「汁の白きに目は焼かれ疼き疼き吾はうし……(以下、不明)」

「肉のあわい」が最も怖ろしかった。それを耳にした瞬間、私は、自分の中身が空洞になったように感じた。すべての内臓が溶けだしたように思った。

 

抗汚染薬を事前に配布しておいたおかげで汚染患者は発生しなかったが、船長はかなり衰弱していた。栄養剤を注射すると船長の顔色が良くなった。漁夫たちにも異常はなかった。食事の際に主任航海士から、あの心臓は全長が五スタディアもあるものだったと言われた。去年、青油運搬船を沈めたものと同種だろう。見つからなくて幸運だった。大気の状態が不安定なため、プロキシ犬の情報はなし。

 

・二〇五五六年/水晶の月/二十四日

 船長の体調がなかなか回復しない。目標海域にはあと一週間ほどかかるが、それまでに回復するのか不安である。漁の時には船長は甲板上で直接漁夫を指揮しなければならないが、今の状態ではそのようなことができるとは思えない。ふと気になって、昨日の心臓との遭遇の際、ちゃんと抗汚染薬を服用したのか尋ねた。船長は服用したと答えたが、おそらくは嘘だろう。なぜ嘘をつくのか、なぜ抗汚染薬を飲まないのか……私には分かるような気がする。船長は明らかに海に出るべきではない。また、船に乗って漁夫を指揮すべきでもない。もちろん彼にはそのための能力と才能もあるのだろうが……機関長と主任航海士はかなり苛立っている。巫女が接近してきている今、引き返すべきか、それとも目標海域まで進むべきか、船長は早く決断すべきだと言うのだ。私も船長は決断すべきだと思う。というよりも、船長はとっくの昔にすべてを決めているのではないか? プロキシ犬の情報はなし。

 

・二〇五五六年/水晶の月/二十五日

 私たちの船は巫女に追いつかれることが明らかになった。陸上局からの通信によれば、この巫女は過去最大級の霊力を誇っているとのことで、予想進路上のすべての船舶に対して退避命令が下された。私たちの船も最寄りの港へと退避することとなった。船長は私たちに対してこのような事態に陥ったことを謝罪した。この日記を書いている時刻より、おそらく三時間後には巫女に遭遇するだろう。船長は私に対して全乗員に抗汚染薬を配布するように頼んだが、すでに前回の心臓との遭遇の際に抗汚染薬はほとんど消費されており、一人充て一粒と半分というところがせいぜいだった。これでは巫女を乗り越えることはできても、その後の航海は困難が予想される。ここに来て船長の顔色は爽やかで、血色が良くなっていた。解放感に満ちた顔だ。船長は予め霊操をするように乗組員に対して命じた。船長が乗組員に対して何かを命じるのを、私はその時になって初めて見た。

 

 もしかすると、私は船長のことを根底から誤解していたのではないかと、この日記を書いている今、そう思えてならない。船長は、この事態を心から待ち望んでいたのではないか……? もはや、すべてが遅すぎたという気がしてならない。プロキシ犬の情報はなし。

 

(「船医の日記」おわり)




※以下、作者による作品メモ

 この作品はライプニッツの弁神論に刺激を受けて書いたものです。「もし、この世界が神の作った世界の中で最も劣った世界だとしたら……」という思考を元にしています。世界からとことんまで憎悪されている存在としての人間、その象徴として海と船を出しました。この世界は他の作品でも応用がききそうなのでまた別に書くかもしれません。
 プロキシ犬はそのまま「プロキシ=代理・中継」です。世界から憎悪されている人類のために、ある存在の代理として「徴」を示しています。
 個人的には「心臓」の想念が一番取り組み甲斐がありました。
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