減薬を始めてからおかしな夢を見るようになった。しかし、どうやらそれが夢ではないらしいことに男は最近になって気が付いた。どうもそれは自分が眠っている間に起こっている、別の現実であるらしい。自分の体から抜け出てきた何かが、自分の体の外で広がっている別の現実で体験している光景……どうやらそれを、自分は夢として見ているようだ。男はとりあえずそう結論づけたが、だからといってどうすることもできないことに多少の苛立ちを覚えていた。煙草は一年前にやめていたので、男は板チョコレートの包装を破いて、殊更に音を立てて噛み砕いた。
半年前から減薬が始まった。減薬自体は喜ばしいことではあった。男にとってこの病気は人生における障害でしかなかった。病気になってから男はいろいろとこの病気に関する本を読み、またネットで体験談等を読んだりもしたが、そのほとんど誰もがこの病気のことを一つのきっかけとか良き契機と見なして自分の人生を見つめ直すようになったと言っているのを目にして、こいつらはこの病気になる前から頭がおかしかったのか、あるいは底抜けの大馬鹿者たちだったのだろうと思った。それどころか、この病気はそのように心構えを変えなければ治らないとまで言う者もいた。男は鼻で笑った。病気は病気に過ぎない。もしこれが心臓病だったら、心臓手術をするだけだ。人生を良くしたら心臓病が治るなど、そんなことがあるわけがない。馬鹿馬鹿しいにもほどがある……
病気が障害でしかないのならば、その病気の治療のために飲んでいる薬を減らすことは、まさに障害が減ってきていることを意味している。ゆえに、これは望ましいことだ。絶対に望ましいことなのだ。男が飲んでいる薬は三種類あり、減薬はそのうち一種類を四分の一だけ、次に半分だけ、最後はなしで、という形で徐々に進んでいった。そのあまりにもスローなペースに男はまたもや苛立ったが、だからといって医師に文句を言うことはなかった。薬剤師に対しても男はいつも丁寧で穏やかな態度だった。病気だからといって社会性を失うような真似はしたくないと男は思っていた。一種類目の薬は無事に減薬が完了した。
医師は言った。薬というものは手助けをするだけです。本当は、自分の考え方とか、考え方に基づいた行動を変えなければならないのですよ。薬がこの病気を治すのではないのですよ。その点では、あなたは立派にこの病気に立ち向かったと思います。これほど早く減薬に入れるというのは、珍しいことなのですよ。
あの時の医師の顔は……男はさらにチョコレートを齧った。どうも気に食わない。あの医師は、本当は自分に何を言おうとしていたのだろうか? どうも、裏があったのではないだろうか。たぶんに暗示的というか……示唆的だった。
問題なのは、二種類目だった。こちらはヒスタミンH1受容体拮抗薬の一種で、特に変哲のない抗精神病薬だった。強いて言うならばかなり強い薬らしいが、男は薬は強ければ強いほど良いと考えていたから、この点では不安も不満もなかった。医師からは「これは幻覚や妄想を抑える薬です」と説明されていた。大きな白いタブレット型の薬で、たまに排泄した便の中に白い殻が混ざっていることがある。
その薬を減薬し始めてから、男は夜中に奇妙な夢を見るようになったのだった。
幻覚や妄想を抑える薬を飲むのをやめたから、そういったものを見るようになったのだろうかと男は思った。それならばこの減薬は中止すべきである。医師からも少しでも変わったこと、おかしなことがあったらすぐに相談してくださいと言われている。だが、男はそのことを誰にも言わなかった。四週間に一度の診察の際にも、男は医師に対して何も打ち明けなかった。常々、たかが一回三分にも満たない診察でいったい何が分かるものかと男は思っていたし、それにせっかく始まった減薬がストップするのには耐えられないとも思ったからだった。減薬が中断する……それは、自分が病気という状態に留まることを意味する。
それは、敗北ではないか? 誰に対する敗北かと言えば、それはやはり医師に対する……いつもそこまで考えて、男はあえて思考を打ち切っていた。打ち切ってしまうから、男は一人で秘密を抱え込んだままだった。
変な夢というのは、なんとも言葉では形容しがたいからこそ変な夢としか言いようがないのだが、この類の夢を見るのは男にとってはもちろん初めてだった。ふわふわとした形のない半透明な物体が浮かんでいて……しかし半透明ではあるが、様々な瞬間に色が変わる。赤くなったり、青くなったり、あるいは黄緑色になったりする。しかも、形が自由自在に変わる。半透明な物体はそこらへんに浮かんでいて、あるものとあるものは絡み合ったり、混ざりあったりしている。時間帯はいつも夕方か夜なのだが、やはり色合いがおかしい。場所は男が住んでいる近所であることが多いが、知らない場所の時もある。夢は断片的で、いきなり時間が飛んだり場所が移ったりする。最初から最後まで夢を通しで見たことはない。
男は何度も夢を見ているうちに、この夢を見ている自分自身も、どうやらその半透明な物体になっているということに気づいた。それは視界に入ってくる手や足とおぼしき部分が、まさにその半透明な物体であったからだった。しかし、自分がその半透明な物体だからといって、それが自分自身であるわけではないようだった。男はしばしば夢の中で、自分で自分を動かそうとしてみた……男には夢の中で自分が夢を見ていることに気づき、夢の内容を自由に変えられるという特技があった。男にとってそれは何の意味もない特技だった。とにかく、男はその特技を用いて、夢の中の自分を操作しようとした。しかし、何の効果もない。ここに至ってその夢は男にとって単なる変な夢ではなくなった。コントロール不能な夢を毎晩見るというのは……男の不安を掻き立てた。それはこれまでの男にはまったく見られなかった態度だった。男はもっと即物的な生き方をしてきたし、自分とは何かということも考えたことがなかった。それが今、揺らいでいる。
自分の中に自分ではない何かがいて、それが毎晩変な夢を見せてくる……自分という存在がおかしくなっていっているのではないか? だが、あの医師に相談することはできない。あの医師は……どちらかといえば大馬鹿者だし、それに相談したら最後、減薬は中断することになってしまう。大馬鹿者だから、あの医師は融通を利かせないだろう。
だが、この変な夢は、やはり薬をやめたことから起こっているに違いない……それでは、どうする? 男は容易に解決策を見つけ出した。医師には絶対に言わない。ゆえに、減薬はこのまま進行する。ただし、薬は飲む。薬は海外のネット通販で買えば良い。多少調べるのに時間はかかったが、男は無事にヒスタミンH1受容体拮抗薬に分類される抗精神病薬を手に入れることができた。どこかよく分からないところの、よく分からない薬だが、男にはそれで構わなかった。
その薬が届いたのは、その日の昼頃だった。ちょうど休日だった。男は家にいて、酒を飲んでいた。決して酒を飲んではならないと医師からも薬剤師からも言われていたが、男は酒を飲むのをやめたことはなかった。煙草だけはやめていたが、それは薬剤師からニコチンが薬の効果を薄れさせるからと聞いたからだった。もちろんそれは酒も同じなのだが、男はすでに煙草をやめるという代償を自分は支払ったのだから、酒は飲んでも良いはずだという理屈をこしらえていた。酒はコンビニで買った安物のブランデーだった。これを板チョコレートと一緒に飲む。大きめなコップに氷を入れてブランデーを注ぎ、板チョコレートを音を立てて噛みながら一気に飲み干す。味などはどうでも良かった。このようにして飲むと酔いが一気に回るから男はこの飲み方をしているのだった。
室内の電気はついていない。窓は開いていて、外から微風が流れてきてカーテンが薄く揺れている。どこか遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。男は独身だった。テレビは真っ暗な画面のままで、男はブランデーのボトルとチョコレート、それから新しく届いた薬の箱以外には何も置かれていないコーヒーテーブルの前に腰かけて、じっと部屋の隅を見ていた。ここまで自分はよく病気と戦ってきたと思う。男はさらにブランデーを飲みながらそう思った。この病気だと診断された時には流石に衝撃を受けたが……なにせ、お前は心が弱いと宣告されたようなものだったのだ。誰もそのようなことは男に対して言わなかったが、この病気になるということはやはり心が弱いからに他ならない。男はそう思っていた。だから、ここまで回復するまでには随分と自分は屈辱に甘んじてきた。
いや、やはり自分は心が弱いと言われたのだ。誰に? あの医師からだ。それ以来、自分は診察のたびに、あの医師から心が弱いと言われ続けてきたようなものだ……
それを無駄にしてたまるか。グラスの中で溶けかけた氷が音を立てた。男は薬のパッケージを見た。外国製の薬らしく、包装は粗雑なボール紙だった。男は時計を見た。時刻は午後三時。明日も休みであるから、ここでひとつこの薬の効果を確かめてみても良いかもしれない。休日に試して、効果があると確認できたら、平日はこれを飲んで仕事に行くことができるというわけだ。男は包装を力任せに引き裂いて、中から一枚のシートに収められた錠剤を取り出した。
もう、誰にもお前は心が弱いなどとは言わせない。
錠剤はあまり大きくなかったが、妙に毒々しい青色をしていた。男はそれを口に含むと、ブランデーで飲み込んだ。それからふと、一粒だけでは足りないかもしれないと思い、もう一粒を同じように飲んだ。その日の朝方に封を切ったはずの新品のブランデーは、もうほとんど中身がなくなっていた。男はついでとばかりにさらに三粒の薬を手に取ってすべて飲み、それから敷きっぱなしになっている布団に入った。布団の周りには汚れた下着やシャツが脱ぎ散らかしてあった。
なかなか眠気はやってこなかった。男はスマホをいじり始めたが、すぐにやめた。右腕を頭の上にやり、背筋を折り曲げて左腕を足と足の間に挟んだ。吐き気が湧いたらどうしようかと男は思ったが、そのようなことはなかった。男は、自分が大学時代にも同じような眠り方をしていたのを思い出した。
次に目が覚めた瞬間に、男は自分が夢を見ていることに気づいた。
ここはどうやら自分の部屋の自分の布団の上らしいが、周囲の視界はぼやけていて、曖昧な色合いの中に滲んでいる。全体的に青紫のような色調になっていて、白いはずの掛け布団は薄ピンク色になっていた。男は布団から立ち上がろうとした。今度は無事に立ち上がることができた。男は内心で快哉を叫んだ。
ついに自分は夢のコントロールを取り戻すことができた……だが、安心するのはまだ早いかもしれない。男は用心深くそう思った。男は下を見た。するとそこには当然のことながら自分の肉体が眠っているはずだったが、そこにあったのは何やら赤黒くてぶよぶよとした物体に過ぎなかった。物体からは鼠の髭のようなものが何本も伸びていて、時々痙攣したかのように震えている。男はすぐに嫌な気持ちになって、とりあえずこんなものがある部屋から出てしまおうと思った。
男は寝室からリビングへと移動した。窓はまだ開いていて、カーテンが揺れていた。男は窓の外を見てみた。空は深緑色になっていて、下の方になるにつれて金色のグラデーションがかかっている。空のところどころに渦が巻いていて、雲とおぼしき物体は燃え尽きた線香のような灰色だった。
緑の空のあちこちで環形動物が交尾をしているように渦が絡み合っているのを見て、男は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。男はさっさとこの夢を切り上げてしまおうと思った。夢よ覚めろ……そのように男は念じた。以前ならばこれで夢をすぐに終えることができた。だが、この夢はまったく終わらなかった。現実の世界で、世界よ終われといくら念じたところで世界は終わらない。それくらいの頑強さを持ってこの夢は存在しているようだった。
早々に男は気を取り直した。そんなこともあるだろう。男はリビングから玄関に向かって歩いていった。そこには姿見がある。出社前に、男はいつもその姿見を使って身だしなみを整えるのだった。そう、自分はまだ夢を取り戻したばかりだから、完全に言うことを聞かせるのはまだ難しいのかもしれない。そのうち、どんどん自分にコントロール能力が戻ってくることだってあるだろう。男は姿見の前に来た。そこにあったのは、ぼんやりとした不定形の半透明な物体だった。宙に漂っている。見ようによっては人型に見えなくもない。男は頭を動かしてみた。浮いている物体の輪郭が少し変化して丸みを帯びた。手足も動かしてみると、やはりほんのちょっとだけ変わる。
しばらく男は姿見の前にいたが、そのうち外の世界が気になってきた。自分がこうなっているのならば、他の人々や近所はどうなっているのだろうか? 男は外に出ることにした。分厚い鉄製の玄関ドアを開けようと手を伸ばしたが、そのまま手はドアを突き抜けてしまい、気づいた時には男は外に立っていた。集合住宅六階の角部屋から続く外廊下には誰もいなかった。空は相変わらず緑色で渦を巻いている。周りの建物の輪郭も滲んでいて、さらに遠くの建物は砂漠の陽炎のように揺らめいていた。遠くから何か異様な音が聞こえてきた。それは殺される寸前の肉牛の鳴き声とそっくりだった。男は海外の動画サイトで動物が殺されたり解体されたりする動画を見るのが常だったので、すぐにその正体に気づくことができた。
男はエレベーターの前へと進み、ボタンを押そうとした。だがすぐに考えを改め、そのように普通の動きをしなくとも、もっと自由に動いてみれば面白いのではないかと思った。なにせこれは夢なのだから。男は下に行きたいと念じた。すると、もう男は廊下の床面を突き抜けていて、下の階に達していた。面白くなって男はそれをさらに繰り返した。すぐに一階に着いてしまった。全能感にも似た感情を覚えたまま男は廊下を進んでいき、エントランスホールに入りかけた。
エントランスホールには半透明な物体が浮かんでいた。男は足を止めてそれを観察した。それはポストの中身を確認するかのような素振りを示していた。ゆっくり、体をこすりつけるようにして、その物体はポストを順に撫でていく。下に目をやると、そこには赤黒いぶよぶよとした塊が落ちていた。半透明な物体はそこから出てきているようだった。男はすぐにそれがポスティングをしている人間だと気が付いた。そして、瞬時に怒りの念が湧いた。前から男はポスティングされたチラシが大嫌いだったし、それにポスティングをしている人間のことも嫌っていた。チラシを見ると、脳みそがぐちゃぐちゃにされたような気になる。買い取りだとか、通信教育だとか、そういったチラシを見るだけで、何か侮辱されたような気になる。だから、チラシもポスティングも大嫌いだ。
怒りの念が湧いた瞬間に、男の体の一部は刃物のように鋭くなって、目の前のポスティングをしている物体に突き刺さっていた。そのようなつもりはなかった。男は狼狽して、すぐにその場を離れようとした。だが、刃物のような部分はさらに深く食い込んでいって、物体をどんどん切り刻んでいく。物体の中は妙に生温かった。さらに、強い恐怖と痛みが伝わってきた。それはドライアイスのように冷たい感覚だった。物体は男から逃れようと様々に形を変えたが、そのうち萎んでいって、最後には蛾の鱗粉のようなキラキラとした細かなものをばら撒いて消えてしまった。下にある赤黒い物体は依然としてそこにあり、変わりないように見える。男はしばらく呆然としていたが、やがて外へ向かって駆け出していた。
かなりの距離を走ったことになる。大通りに出た時には、男の思考は落ち着きを取り戻していた。急なことだったから驚いたが、何のことはない、これは単なる夢だ。夢なのだからそこまで気にしなくて良い。男は滑るようにして歩道を進んでいった。そうだ、これは夢だ。男は改めて周囲に目をやった。歩道の上には点々と赤黒い肉塊が落ちていて、そこから半透明な物体が出ている。どの物体も緑と紫の空間の中で穏やかに揺れていた。男が近くを通り抜けようとすると、物体たちはちょっと避けるように形を変えた。
通りには車は走っていなかった。がらんとした車線には、しかし、様々な大きさと形をした半透明な物体が行き交っていた。虫のように小さいものもあれば、牛のように大きなものもある。男はちょっと気になって、手前の車線側へ歩道から入ってみた。途端に視界が高速で後方に流れていった。車線はそれ自体が動いているようだった。あまり遠くに行くのも気が引けたので、男は車線から降りた。そこは、やはりぼんやりとした輪郭と風景になっているので分かりにくかったが、男の住居の近所であるようだった。
さらに男の思考は落ち着いてきた。落ち着くのと同時に、男の感情は昂ってきた。
しきりに、脳裏にあの医師の顔がよぎった。あなたは立派にやってきましたよ。心がけがあれば大丈夫です。薬はきっかけに過ぎませんよ……
男は駅に向かって進むことにした。駅前には精神科のクリニックがある。いつも自分が行っている、行くたびに惨めな気持ちにさせられる、あの精神科が……そうだ、駅前に行って、精神科へ行かねばならない。男はそう思った。今日はカレンダーの上では休日だが、あの精神科は休日診療をしている。休日診療……それがさも特別であるかのような口ぶりで、初診の時にあの医師は自分にそう告げたっけ。休日に何かあっても、気兼ねなくここへ来てください……それで、たったの三分にも満たない診察をするのか? 男は駅前へ急いだ。
男というものは……軽んじられてはならないのだ。この病気になって男が学んだことが唯一あるとすれば、これだった。決して男は軽んじられてはならないし、もし誰かを軽んじたのならば、それは何をされても、どのような復讐を加えられても良いということだ。男の足取りは早くなった。歩道には赤黒い塊がそこここに落ちている。男はイライラしながらそれを避けて進んでいった。なぜ用もないのに歩道にこんなものがあるのか。いやそれよりも、やはり精神科には行かねばならない……
あの医師は、今日も診察日だったはずだ。絶対にクリニックにいる。
廃墟のような寂れたマンションの近くに来た時だった。男は寄り添いあういくつかの半透明な物体を見た。一つは大きく、もう一つはそれよりもやや小さく、他の三つはどれも初めの一つと同じくらいの大きさだった。どの物体も大きな肉塊に繋がっていて、よく見ると肉塊はゆっくりと歩道の上を動いている。カタツムリのような動きで、時折電気刺激でも受けたかのように震えていた。
それを見て男は、以前にあった屈辱的な出来事を思い出した。それはやはりこのマンションのすぐ近くで、あの時には若者たちがいた。自分より二十歳くらい下の男と、それよりやや若い男、それから子ども時代を脱したばかりの三人だった。その日は平日の朝早くで、男は普段着を着てマンション近くの精神科へ向かうところだった。若者たちはそんな男を見て遠くからニヤニヤと笑っていた。実際のところ、若者たちが本当に男を見て笑っていたのかは分からない。おそらく男自身もそのようなことはないだろうとは思っていた。しかし、男はあえて若者に対して怒りを燃やした。自分は馬鹿にされて虐げられた。それは怒りを燃やす正当な理由になる。正当な理由さえあれば、怒りを燃やしても構わない……
なぜか、医師の言葉が蘇った。怒りの感情はすべてこの病気によって増幅されたものです。それを自分の本来の性格だと思ってはいけません。心構えからちょっとずつ変えていきましょう。怒りの感情を抑えるのを手助けしてくれるお薬も出しておきます……
思い出した瞬間、またもや男は寄り添いあう五つの物体に向かって突進をしていた。距離は一瞬で詰められた。男の一部は巨大な棍棒のようになっていた。男はそれを振り回して、まずはリーダー格とおぼしき物体を殴りつけた。巨大な水泡が水底から浮かび上がってくるような音がして、物体の表面は大きく陥没した。すぐに他の物体がかばうように飛んできたが、男は続けざまにそれを殴りつけた。殴りつけるたびに物体は小さく、細かくなっていき、それから消えてしまった。三つの物体はまとめて男に殴りつけられた。一撃で三つとも消滅してしまい、男は呆気なさを覚えたが、股間に当たる部分に何か温かいものが集中するのを同時に感じていた。五つの物体の元になっている赤黒い肉塊はそのままそこにあった。男はそれを何度も殴りつけた。肉塊は生きたままシュレッダーにかけられるヒヨコのような悲鳴を上げた。傷口からは溶岩のようにドロドロとしたラズベリー色の粘液が流れ出た。そして、肉塊は動かなくなった。
しばらく放心して、それからその場を去りながら、男は自分で自分の夢をコントロールできないことは、さほど悪くないことだと感じ始めていた。たしかにエントランスホールであの物体を攻撃したのは良くなかったかもしれない。だが、ここでこうしてあの若者たちをやっつけたのは……胸のすくようなことだった。もし自分が完全にこの夢をコントロールしていたら、罪悪感だの理性だのが自分の行動を押しとどめてしまったかもしれない。所詮、これは夢なのだからそんなことは必要ないのに。あの時の仕返しを果たしたということは、自分の霊魂を癒したということだ。男はそんなことを考えた。霊魂……そんなものがあるとは思っていないが、もしあるとしたらだ。侮辱というものは、霊魂に傷を負わせるのだから。男はさらに先へ進んでいった。もう少し先へ行くと駅があり、駅前には精神科のクリニックがある。
駅前には異様な光景が広がっていた。ロータリーも兼ねている円形の広場の中心には、小山のように大きな肉塊が鎮座していた。すぐそばには時計台がある。午後七時半。針金のような剛毛がびっしりと肉塊の表面を覆っている。その周りを無数の半透明な物体がぐるぐると回っていた。肉塊には角ばった管のようなものがところどころから生えていて、管の先からは盛んに半透明な物体が吹き出ている。出てきた物体は周りを回っている一団に加わって、同じような動きを始めるのだった。よく見ると肉塊の上には巨大な雲のような半透明の物体があった。それは肉塊の上部とやはりパイプのようなもので接続されていた。
音はない。厳かな雰囲気だった。夜に近づいたためか、空はますます暗くなってきていて、濃緑色の空は紫色の度合いを深めていた。空気は澄んでいる。空の渦は消えて、闇の中を金色の波のようなものが流れていく。静寂に満ちた空間の中で、肉塊を囲んで半透明な物体たちはひたすらにぐるぐると回り続けている。見ると、歩道をゆっくりと進んできていた別の小さな肉塊が、これまでに見せたことのないほどの俊敏な動きでその身を持ち上げてから勢いよく跳躍し、肉塊の山の一部となった。くっついてきていた半透明の物体は、上の雲のような物体に加わっていく。
男は、自分が侮られたように感じた。この光景は何かを暗示しているように男には思われた。しかしその一方で、やはり自分は怒りたいがために怒りの理由を探しているだけかもしれないという気持ちも持っていた。怒りの理由を探しているために、この光景が暗示的であると決めつけ、その暗示の正体は分からないながらも、これは明らかに自分を侮辱している……男にとってはそれで充分だった。それで充分に筋が通っていて、反論の余地のない思考過程であるように思われた。
怒るために怒りの理由を探してはいけません。医師はそう言った。怒りを抑えられるようになれば、あなたの病気はすぐに良くなります。まずは、怒っている自分の姿をよく観察してみてください……
自分の姿を観察しろ、だと? 男の内部に瞬時にして屈辱感が充満した。自分のことが分からないほど、俺が馬鹿だと思うのか!
矢のような勢いで男は肉塊に向かって突進した。男は体全体が槍のようになっていた。男は何度も何度も槍の穂先を肉塊に突き立てた。だが、生えている剛毛に阻まれて傷を与えることができない。そのうちに、男の周囲に半透明の物体たちが集まり始めた。男を止めようとしているかのような動きを見て、男はさらに槍を振り回した。見る間に物体たちは四散していった。男は追いかけてさらに何体かを仕留めると引き返し、今度は肉塊の上にある雲のような半透明の物体の近くへと寄った。
男は手を伸ばした。手はアミーバの触手のように伸びた。それに触れた瞬間、男の中に様々なイメージが流れ込んできた。イメージは鮮明だった。ドアを開けて出迎えてくれる母親、一緒にゲームをしてくれる父親、隣同士で勉強をしている子どもたち、職場での気さくな会話、楽しげな旅行者、列をなして歩いていく保育園児たち、ベッドの上で低く言葉を交わし合う二人の恋人……奔流のように流れ込んでくるイメージに対抗するように、男は自分の中にあるものを逆に雲の中へ注入していった。自分の中にあるものが何であるかは男は知らなかったが、とにかくそういうことをすればそれをやっつけることができると思った。
それは、射精の感覚とほとんど同一だった。汚染してやる、と男は思った。めちゃくちゃにして、取り返しのつかないようにしてやる。
ほどなくして、雲は膨張を始めた。初めは薄い黄金色をまとった半透明だったのに、男から赤黒いものを注入されて、今では毒気を含んだピンク色になっていた。膨張は止まらなかった。
ついに表面がはち切れんばかりになったのを見計らって、男は槍の穂先を突き刺した。雲は悲鳴を上げて破裂した。悲鳴は電気銃を撃たれる前の豚そっくりだった。中身が雨のようになって駅前一帯に降り注いだ。生臭くてべとべとする雨だった。雨はなかなか止まなかった。
いつの間にか、完全に夜になっていた。夜空には金色の筋が猛り狂ったように猛スピードで動き回っている。粘つく雨はまだ止んでいない。さらにぼんやりとした視界の中で、精神科クリニックの入居している建物が滲んでいた。
男はまだ診察時間内であることを駅前の時計台を見て確認した。午後八時。まだ、あいつはいるだろう。
両腕が鈍く青く光っていた。ゆっくりとした足取りで、男は建物へ向かって歩いていった。
(「プネウマ」おわり)
おかげさまで10話目を公開できました。まだ作品のストックがあるのでもうらしばらくお楽しみください。これからもどうぞよろしくお願いします。
※以下、作者による作品メモ
この作品のコンセプトは「プネウマ」(※ギリシャ語で魂・息吹)という一種の清涼感のある言葉から、どれだけネバネバとした暴力的なイメージを生み出せるのか、ということでした。作者としてはこの男にはまったく共感できませんが、この男のプネウマ(魂)それ自体はけっこう一般的なそれとして描くことができたと思っています。