雨を浴びたら溶けてしまう。
そのことに気づいても、男はさして動揺しなかった。十年以上前に病気であると医師から告げられた時にも男はさして動揺しなかった。だから今回動揺しないのも、当然といえば当然かもしれなかった。
以前からそのような気はしていたし、今回それがはっきりしたところでこれからの自分が変わるわけでもない。男はそう思った。考えようによっては確かに不可解なことかもしれなかった。これまでの人生で一度も雨を浴びたことがないなどとは男にはちょっと信じられなかった。それは雨を浴びたら溶けてしまうということよりも信じられないことだった。だが、現にここにこうして立って存在している以上は、やはり今まで一度も雨を浴びたことがなかったということであった。
しかし、それを奇跡と呼んでよいのだろうか? 男はまた考えた。生まれてから一度も心臓がその動きを止めていないことを奇跡とは呼ばない。それをあえて奇跡と呼ぶのならば、それは奇跡だと信じたいからそのように呼ぶだけなのだ。石ころを宝物と呼ぶのと同じだろう。
他の人間ならばどうなのだろうか、と男はテレビを見ながら思った。テレビ画面には天気予報が映っていて、本日は終日雨であることを告げていた。かなり強い風が吹くらしい。おまけに、雷にも注意とのことだ。雨を浴びたら溶けてしまうことが分かったら、他の人間はどうするのだろうか。案外、自分と同じかもしれない。男は朝食の準備をしていた。朝食といっても簡単なものだった。ビスケットが二枚に紅茶が一杯。紅茶にはミルクも砂糖もない。なんの感慨もなくさっさと食べてしまうと、男は食器を片付けてから洗面台に向かった。のろのろとした動きで髭を剃り、歯を磨き、髪の毛を整えて、スーツに着替えた。身支度を整えている間、男の頭の中では大音量で音楽が流れていた。何かの折に聞いたポップミュージックの一節だった。男は玄関に立った。
玄関には傘が二本あった。一本はただのビニール傘だった。もう一本はちょっと上等な布張りの傘だった。布張りの傘は、先日少し離れた町にある傘専門店で購入したものだった。柄は木製で、軽く、布は撥水加工が施された濃紺で、デザインと機能性の両方を兼ね備えている。男はちょっとだけ考えた。今日の雨は激しいらしい。ならば、布張りの傘を選ぶべきだろう。だが、そのように考えている間にも男はビニール傘に手を伸ばしていて、それを左の手首にかけながら靴を履いていた。買ってから一度も布張りの傘を使っていないことに男は改めて気が付いた。今日はそれを使う絶好の機会であるということにも男は気づいていた。それでも、男はもうその時にはすでに玄関の電気を消していた。
外に出ると、かなり激しい雨が降っていた。まだ風は強くなっておらず、雨はほぼ垂直に地面に向かって降り注いでいる。はやくも形成された水溜りにはかなり大きな波紋と飛沫ができていて、光の加減によっては落下している最中の白く大きな雨粒を見ることができた。周囲に建っている高い集合住宅の壁面は濡れていた。
駅に行くまでに、多少は濡れるかもしれない。男は鍵をかけながらそう思った。男は執拗にドアノブを回して、ちゃんと鍵をかけたか確認をした。多少は濡れる。しかし、それで自分は溶けるのだろうか? 自分自身で提出したこの疑問が、あまり自分の関心を惹いていないことに男はぼんやりと気づいていた。多少は濡れるということは、雨を浴びるということなのだろうか。それを確かめるには、やはり濡れてみるしかない。それでも、男はそのような気にならなかった。雨を浴びれば溶けることは分かっているが、多少濡れただけで溶けるかどうかは分からない。不明瞭ではあるが、確かめてみるまでには至らない。男はここ数年、確かめるということができなくなっていた。確かめるということが、今の男にとっては大事業そのものなのだった。
確かめなければ死ぬということがあったとしても、おそらく自分は確かめずに死んでしまうだろう。男はそう思った。それは、確かめるということが死ぬことよりも困難であるからではない。そうではなくて、確かめるということは、男にとっては死と同じくらい重いものだからだ。男は階段を降りてエントランスへ向かった。男の家は集合住宅の三階にあった。
階段には老人がいた。黄ばんだランニングシャツと灰色の短パンを身にまとった老人は煙草を吸っていた。男が降りてくる音を聞くと、老人はちょっとだけ身を躱した。老人は男をまったく見ようともしなかったし、男が上からやってきて下へと消えていくまで、事実まったく男を見ることはなかった。老人は煙草を吸いながらじっと床を見つめていた。そこに何かがあるわけではなかったが、ただ床を見続けていた。
集合住宅のエントランスの中で、男はビニール傘を差した。ビニール傘は古びていて、柄のプラスチックはところどころが剥げており、台風並みの突風が瞬く間にして壊れてしまうのではないかと思われた。それでも男はこの傘を使うことに何も不安を覚えていなかった。男はふと、自分がなぜこのビニール傘を使っているのか、その理由が分かったような気がした。もし正当な理由があるのならば……その理由がどんなに些細なものであっても、それが正当なものでありさえするのならば……それは結果を絶対的に肯定するだろう。男にとって、傘が壊れそうだということは正当な理由であるように思われた。正当な理由さえあれば……いつでもそれを選ぶことができる。決定的なそれを。
外に出た瞬間、最初の雨粒が嫌な音を立ててビニール傘の表面に落ちた。やはり今日は大雨になるようだった。ほどなくして無数の音は溶けあって一つになり、聞き分けることは不可能になってしまった。それでも頭の中の音楽は止まなかった。男は道を歩いていった。歩道の脇の植え込みにはパンジーが咲いていてちょうど花盛りだったが、どれも雨に当たって萎れていた。傘の端からは表面に溜まった雨粒が水流となって流れ落ちている。男は肩からかけている鞄の位置を調整した。傘はあまり大きくない。少しでも位置が悪いと鞄は濡れてしまう。鞄の中には三年以上前の資料が突っ込んだままになっていて、最近は新しい資料が入ることも絶えてなかったが、それでも男は鞄だけは濡らしたくなかった。
道行く人々はみな傘を差していた。雨合羽を着ているのは警察官と工事の作業員、それから警備員だけだった。雨合羽を着ている者たちはみな浮かない顔をしていた。車道を行く車はすべて白い飛沫を吹き上げていた。見ようによっては波濤を越えていく船のようだった。分厚い雨雲に覆われているはずであるのに空はどこか明るかった。小学生たちが傘を差して、一列を作って学校に向かって歩いていった。子どもたちはみんな黙り込んでいた。薄明るい空間の中で、赤、黄色、青色の傘が静かに揺れていた。
男はバス停に着いた。バス停には半透明の屋根があった。男はビニール傘を閉じた。傘を閉じた時に手が多少濡れた。一瞬だけ、男は手が溶けるかもしれないと思った。しかし何事もなかった。どうやら傘を経由した雨粒はもはや雨ではなく、ただの水滴になっているようだった。あるいは、これは雨ではないと予め思っていたからこそ、自分の手は溶けなかったのかもしれない。では、雨であると予め思っていたら、やはり手は溶けたのだろうか。男は閉じた傘を左手の手首にかけた。
職場に行くためにはこのバス停でバスに乗り、数駅先に進んでから、そこで地下鉄に乗り換える必要があった。雨の日はバスの利用者が増える。そして、バスはいつもより遅れる。晴れの日でもバスは非常に混むことがあった。これほど雨の強い日では、バスがどれだけ混雑しているか分かったものではなかった。しかし、男は何も考えなかった。男が着いた時にはバス停には男一人しかいなかったのに、数分も経つと多くの人間が待つようになっていた。多いとは言っても、やはりバス停であるから六人前後でしかない。それでも六人というのはこれからのバスの混雑を予想させるには充分な人数だった。普段は多くても二人しか並ばないというのに。
男の隣には親子がいた。乳飲み子をすっぽりと大きな黒いコートで覆った母親が、難しい顔をしてスマホを弄っていた。乳飲み子はなぜか男のことを見つめていた。怪訝な顔をしていた。この世になぜこのような存在がいるのだろうかという、ごく純粋な疑問を抱いているようだった。乳飲み子は飽きることなく男を見つめ続けた。母親の髪の毛は艶のある黒髪であるのに、赤ん坊の髪の毛は金色に近い茶色だった。男は無表情で乳飲み子を見つめ返した。しばらくの間、男と赤ん坊の視線が交錯した。
ふと男は、この赤ん坊が見つめているのは、今の自分ではないのだということに気づいた。赤ん坊は先を見ているようだった。ちょっと先の未来、ほんのわずか一時間の未来を赤ん坊は見ている……なぜなら赤ん坊は、この世の人類の中でもっとも死に近い存在だからだ。男は赤ん坊を見つめながら考え続けた。赤ん坊は怪訝な顔を続けている。それは、肉体が脆弱だからではない。そうではなくて、赤ん坊はまさに生まれたばかりだからだ。
生まれるということは、死から再び浮上してくることではないか。死からちょっとしか浮き上がっていないから、赤ん坊は少し先の未来を見ることを許されているのではないか。しかし、何によってそれを許されているのか? 男は、それはおそらく、これまで自分に決定的な選択を許さなかったそれだろうと思った。同じそれが、赤ん坊には未来を見ることを許している。
やがて、乳飲み子は向こう側へと首を巡らせた。首を巡らせた先でも同じように怪訝な顔をしているのか、それは分からなかった。おそらく赤ん坊はもう普通の顔になっているだろうと男は思った。
バスが来た。バスが来た時にはまた一段と雨は激しくなっていた。バスはまるで荒れ狂う波を蹴立てているようだった。運転席の前に置かれたラミネート加工された「経路確認」の赤い表示が妙に男の目を惹いた。車内の様子が見えたのはバスが止まるほんの数秒前だった。車内は混み過ぎるほどに混んでいた。運賃箱の前にまでぎっしりと人が立っている。ドアが開くのと同時に、運転手が車外マイクでアナウンスをした。
後ろから乗ってください。
久しぶりに、男は自分が動揺しているのを感じていた。そのようなことを言われるのは初めてだった。男が住んでいる町ではバスは前から乗り、どこでも一律の運賃を支払って、それから中ほどの出口から降りることになっている。それはこの地上では雨が降るのと同じくらい定まった決まりであるように男は思っていた。男は逡巡した。続けざまに運転手は言った。後ろから乗ってください。あるいは、次のバスをご利用ください。そして男は、仕事に行かねばならないと思って、後ろから乗ることにした。
後ろから乗る時に、男はバス停の屋根と中ほどのドアとが少しだけ離れていることに気が付いた。もし傘を差さなかった場合、男は雨を浴びることになるだろう。雨を浴びたら溶けてしまう。しかし、ほんのたった一歩の距離のために傘を差すのはどうだろうか? それは世間体とか、周囲の目を気にしてのことではなかった。その程度の距離で雨を浴びたからといって、自分は溶けて良いものだろうかと男には思われたのだった。
それは正当な理由だろうか? たった一歩分の距離は、正当な理由になるのだろうか?
バス停にいる他の人間は、そのバスに乗るのを諦めたようだった。乳飲み子を抱えた母親も、半歩だけ後ろに下がっていた。男だけが中ほどのドアに向かって進んでいた。男は傘を差すことにした。たったの一歩だけ進み、後ろを向いて、臀部から体を車内に押し込むと、男は傘を閉じた。少しだけ左手に雨粒が当たった。それは空から直に降って来たものだった。それでも左手は溶けなかった。そして男はそのことを確認すらしなかった。今はとにかく、ドアが閉まるのに備えてもっと体を奥に押し込まなければならなかった。やがて、機械のアナウンスと共にドアが閉まった。
バスが動き始めた。車外の様子はまったく見えなかった。あまりにも多くの人が乗っており、その吐息と体臭と体温と、さらに濡れた傘から蒸発する水滴のせいで、車内は異様なまでに熱気がこもっていた。熱気は悪臭を含んでいた。男はシャツの中で自分の肌がじっとりと汗粒を浮かべているのに気づいていた。バスは小刻みに動いていて、なかなか進まなかった。激しい雨で道路が混雑しているようだった。これほど狭い車内であるのに、乗客たちはスマホを見ることだけは決して諦めなかった。男はスマホを見なかった。ただ、窓の外の様子が気になっていた。雨は強くなっているのか、それとも弱くなっているのか?
時間が気になってきたので、男は左腕の腕時計を見ようとした。そして、先ほどバスに乗る時に雨を浴びた左腕の手首が、ちょうど腕時計を境目にして溶けていることに気づいた。溶けているからといって、それはあまり醜いものではなかった。肉も骨も見えているわけではない。痛みも全くない。それはあたかも固めた塩が湯をかけられて、その部分だけ溶けてしまったかのようだった。あるいは液剤をかけられた発泡スチロールであるかのようにも見えた。男は何の感慨もなくそれを眺めていた。やはり知っていたこととはいえそれが確かなことであると判明し、またついに、それを選びさえすれば正当な理由のもとにそれを為すことが可能であると分かったのに、男の心は不思議なほどに動きを見せなかった。
男は限られた空間の中で左腕の手首を動かし、のみならず振ってみることまでした。機能に問題はないようだった。ただし、ぶらぶらと不自然に揺れはした。やはり溶けているのは確実であるようだった。男はちょっとだけ、何かわくわくするようなものを感じたように思った。だが、もう数秒後には男の高揚感のようなものは消えていて、降りる時には運賃を払うべきか、それともそのまま降りてものかと考え始めていた。
バスが次の停留所に止まった。今度は運転手は後ろから乗ってくださいとは言わなかった。ただ、恐れ入りますが次のバスをご利用くださいとだけ言った。男が降りなければならないのはもう三つ先だった。同じようなことが繰り返された。男はその間、それまで考えていたことを打ち切って、仕事のことを考え始めていた。なるべく細かく仕事の流れを頭の中で再生するのがバスの中での決まった過ごし方だった。しかし、仕事のことを考えているのと同時に、頭の中では大音量で音楽が流れているのも常だった。
その停留所に着いた時、バスはいまだに混んでいた。男はそのまま後ろから降りるべきか、それとも無理やりでも良いから前に行って、遅まきながら運賃を払うべきか迷った。後ろから降りることは無賃乗車となってしまう。しかし、後ろから乗ってくださいと言ったのは他ならない運転手自身だった。となると、後ろから降りることには正当な理由がある。だが……男はまた考えた。後ろから乗ってくださいというのは文字通り後ろから乗ってくださいというそれだけの意味であり、後ろから降りて良いということも、また運賃を支払わなくて良いということも含意していないかもしれない。その場合は、やはり運賃はなんとしてでも支払わなければならない。
迷っている暇はなかった。男は考えを決めると密集している乗客たちを掻き分けて、バスの後ろの降車口から降りた。急がねばならなかった。男は傘を開かなかった。途端に激しい雨が自分の顔面と首筋を濡らすのを感じた。頭頂部が濡れ、首が濡れ、シャツが濡れて水分を含むのを男は感じた。男はまだ開いている前のドアの方へ向かい、半身だけ車内に体を押し込むと、無言で運賃箱のICカード読み取り機に自分のカードをかざした。そして、また車外へと出ると、今度は傘を開いた。男がその場から離れると、それを待っていたかのようにバスは発車して向こうへと走り去っていった。
随分と濡れてしまった。それでも男は、顔を拭うことはしなかった。それは確かめるということだった。そして男は、確かめることができないのだった。
傘を差して男は駅へ向かって歩いていった。満足感とも達成感でもない、それよりは何か冷ややかなものに似た気持ちが男の心の中を満たしつつあった。それは自分が無賃乗車をしなかったことに対してではなかった。絶対に同時には採用しようもない二つの選択肢を一つに統合することができたこと、そんなことがどうして可能であったのかということに対する疑問……それが感情の正体であることに男は気づいていた。
もしかすると……自分は気づかないうちに、何か決定的な選択をしてしまったのかもしれない。男はそう思った。決定的な選択、後戻りのできない選択を……
駅までは二百メートルほどあった。大きなスーパーマーケットと家電量販店が複合した施設の建物が視界を圧していた。ビニール傘越しに眺めると、空はますます暗くなっているようだった。しきりに雨粒がビニール傘に当たっていた。男は鞄の位置を直した。
駅入口に差し掛かると男は傘を閉じた。周りには出勤途中と思しき勤め人たちが階段を上がったり下がったりしていた。コンクリートが剥き出しになった階段は陰気に濡れていた。階段を下りていくにつれて、ひんやりとした空気が男を包んでいった。改札を通り、上り線側のホームに立つと、男はまたぼんやりと周囲に目を走らせた。地下鉄の駅はあまり混んでいなかった。バスがあれほど混んでいたのに、これは不可解なことだった。周りの乗客たちはみんなスマホばかり見ていた。男もスマホを持っていたが、手に取ることはなかった。ふと男は自分の鞄が濡れていないか気になった。鞄はあまり濡れていなかったが、一部分だけ濡れて変色していた。男はハンカチを取り出して、鞄を拭こうとした。
その時、男は自分の左手だけではなく、右手もかなりの部分が溶けてなくなっていることに気づいた。やはり機能には支障はなく、普通にハンカチを掴むこともできれば、鞄を吹くこともできた。そして、まったく痛みはない。男は、この分ならば顔も首筋も溶けているかもしれないと思った。それは電車が来れば明らかになるはずだった。だが、おそらく自分は確かめることはしないだろうと思った。
定刻通りに電車はやって来た。車内はいつもどおりの混み具合で、つまり満員だった。男はドア近くのデッキに立った。座席と座席の間の通路ならば窓に自分の姿が映るであろうから、そうやって今の自分の姿を確認することができるだろうが、今はデッキの真ん中あたりにいて、鏡の役目を果たす窓はどこにもない。それがなんとなく男にはありがたかった。八駅もの間、男はずっとデッキに立っていた。その間、車内の混み具合は解消されることはなかった。
結局、男は自分の顔を確かめることはできなかった。電車から降りてホームに降り立った時、男は腕時計を見て時間を確認した。いつもより二十分近く遅れた時間だった。バス停で赤ん坊と見つめ合ってから、一時間近くが経過していた。
ここから職場までは徒歩で十五分かかる。腕時計をはめている左手はやはり溶けていて、軽く手を揺さぶるとやはりぶらぶらとした。男は、今日の仕事はけっこう楽しくやれるかもしれないと思った。だが、楽しくやれるかもしれないというその思いは、男を楽しい気持ちにすることはなかった。
男はトイレに向かった。男がこの駅でトイレに行くのもいつものことだった。ちょうどこの駅に着いたタイミングで男の腹は痛み始め、それは我慢ができないほどになるのだった。男はそれを自分の体内周期によるものだと思っていたが、あるいは駅がもっとも職場に接近する場所であり、また引き返そうと思うのならば引き返せる地点であり、この先を越えたらもう引き返すことができない境界線であるからかもしれないと考えていた。
トイレに入ると、男はあえて手洗い場の鏡に顔を移さないようにして奥へ進んでいった。今の自分はどこかが溶けているはずだったが、それを確認することに男はあまり興味がなかった。個室のドアの近くに来た時に、いつもは空いているはずの二つの個室はいずれも閉じて鍵がかけられていて、しかもそれぞれの前に二人もの人が並んでいるのを目にした男は、再度困惑を覚えた。それはいつもとは違ったことが起こっていることへの困惑であり、またいつもとは違ったことをしなければならなくなるかもしれないということへの困惑だった。頭の中ではいまだにポップミュージックが大きな音で流れ続けていた。
男が列に加わっても、先に並んでいた人たちは何も気にした様子はなかった。男が並んだのは奥側の個室の前だった。数分後に個室から一人が出てきた。その次の人間が出てきたのは五分ほどが経過してからだった。男の生理的な欲求は高まっていたが、列を抜け出して他のトイレを探すということは考えなかった。次の人間が出てきたころには、男はじっとり汗を流していた。個室の中での用事はほんの数分もかからなかった。男が出てきた時には、待っている人たちは一人もいなくなっていた。男は手を洗うために手洗い場に向かった。
手を洗い終えて、男はいつもの習慣として顔を上げた。そこにはやはり鏡があった。
男は鏡を見ていた。顔は溶けていた。半分ほどになっていた。溶けた部分は落ち窪んでいて、ちょうど左頬がすべてと、右頬の上半分がなくなっている。それで口中が外側に露わになっているかというとそのようなこともなく、ただ石膏像か何かがその部分だけドリルか何かで削られたかのようになっていた。鼻も右半分が消えていた。頭頂部も一部分が溶けてなくなっている。溶け残ったところに生えている髪の毛が溶けてしまった部分を覆い隠していて、それを払いのけると、頭の大部分がすでになくなっていることが判明した。だからといって灰色の脳髄が見えているわけでもない。
男はシャツの首元のボタンを外すと、ちょっと首を傾けて首筋を見てみた。首筋は半分以上が溶けていた。脊柱が露わになっているわけでもなく、単にその部分だけがなくなったかのような様相だった。男は首を振ってみた。溶けてしまった分だけ頭部は軽くなっていたが、やはりそれでも半分以上が溶けた首では支えきるのが難しいようで、ぶらぶらと首は不安定に揺れた。男は首元のボタンをかけると、今度は冷静に手を洗った。そして、ハンカチで手を拭きながら、手を洗う前にシャツのボタンを外したのは不潔だったのではないかと思った。
トイレから出て、改札に向かっている間、男はあの時の乳飲み子の顔を思い出していた。怪訝そうな顔、この世にこんなものがいて良いのかと思っている顔。それで、男はその日初めて笑うことができた。男はずっと笑顔を浮かべていた。
改札を出て、階段を上がって地上に出ると、雨はますます激しくなっていた。それだけではなく、強風も吹き荒んでいて、時折閃光を先触れとして雷鳴が響いている。街路樹は突風を受けて折れそうなほどに撓んでいて、雨は激しく奔流する白い渦のようになって空間を満たしている。道行く人々の傘はすべてひっくり返っていた。
男は笑みを浮かべたまま、傘を開いて外へ出ていった。ポップミュージックは、いまだに頭の中で響いたままだった。
(「溶ける」おわり)
※以下、作者による作品メモ
雨が激しかった日に思いついたネタを元にして書いた作品です。要するに「雨が降ったら溶けてしまう人間について書いたら面白いんじゃないか?」という思いつきです。ドタバタ・ギャグ・ホラー・ファンタジー、いずれの方向でも攻められるネタでしたが、私としてはエモーション・レスの人間を書くことを目的としているので、今回このような内容となりました。小説というものは多かれ少なかれ感情の変化と揺らぎを描くものなので、エモーション・レスの人間を描くのは大変難しい……やりがいはありますが。