路面が靴の裏にへばりついているかのようだった。ただの一歩が重いのに、その一歩をさらに千回は重ねなければならない。千歩先にはバス停がある。バスに乗らなければ仕事にいけない。仕事が嫌なわけではなかった。だが、仕事に行くことは嫌だった。嫌ではあるが、私は先へ進むことができた。集合住宅の敷地を抜けて細い自動車道に出ると、私はのろのろと先へと進んでいった。半分だけ潰された害虫が何かを求めて這いずっているような、そういうイメージを私は抱いた。眼鏡をかけている害虫。私はずり下がってくる眼鏡をまた指先で押し上げた。
家を出た時から、ひとつの想念が心の奥隅でうずくまっているのに私は気づいていた。黒い獣のような想念……それは猫科の獣を連想させた。それがじっとうずくまっている。傷ついた野獣が洞窟で眠っているようだった。私はその想念がいかなるものであるかを知っていて、その想念がひとたび動き出すやどのような作用を振りまくのかも知っていた。だが、私はその想念をそのままにしておいた。うずくまったままならば、それは無害だった。名前を呼び、呼び起し、呼び出すようなことをすれば、それは有害なものとなる。私は長い付き合いで、対処の方法を知っていた。今のところ、勝敗は五分五分といったところだった。昨日は打ちのめしてやることができた。一昨日も上手くいった。だが、今日は……?
小さな十字路に来た。左前の角には建設中の木造住宅がある。作業員たちが気だるげな声をかけ合っていた。私と同じく彼らも仕事に対して気が重く感じているのか、それとも気だるげな声をかけあうのが彼らの職場の慣習なのか、それは分からなかった。プレカットの木製部材にはアルファベットと数字が記されている。右前の角には煙草店があった。その煙草店はいつも閉まっていて、看板はひび割れて塗装が剥げている。自動販売機だけが明るい光を放っていた。
自動販売機の光が、想念を照らし出した。それが少し身じろぎをしたかと思うと、私の中で半自動的に一つの記憶が蘇った。
もう何年も前に、その自動販売機の前で老人が自動車に轢かれるのを見たことがあった。今にも雨が降ってきそうな暗い夕方だった。気忙しい空気があたりに満ちていた。年老いた男性は頭にピンクのバンダナを巻いていて、白いランニングシャツと緑の半ズボンを履いて自転車に跨っていた。老人が自動販売機に向かって走っていこうとしたところに、左手の横合いから黒いワゴン車がごく緩いスピードでやってきた。
そのままの緩いスピードで老人は轢かれた。老人は自転車ごと横倒しになり、その上に自動車が二つの前輪を乗せてのしかかっていた。衝突音は大きかったが悲鳴はなかった。呻き声すらもない。クラクションも鳴らなかった。私は一連の流れを見ていた。私の周りにはたくさんの人がいたが、おそらく彼らも私と同じようにその流れを見ていたはずだった。私は仕事に行かねばならなかった。その日の仕事は遅くからだった。その時も靴が路面にへばりつくようだったが、とにかく仕事には行かねばならなかった。私は事故現場のほんの数メートル横を通り過ぎて、先の道へ進んでいった。
運転手はまだ車の中にいた。倒れている老人の顔が見えた。老人は真面目くさった顔をして、両方の目をしっかりと見開いて倒れていた。口はどこか気高く結ばれていて、表情には一片たりとも苦痛の色がない。肌は黒く、ところどころに紫のシミがあったが、老人の全身からは生気が感じられた。私は意外な思いを覚えつつも、そのままそこから離れていった。救護すべきだと思ったが、足は止まらなかった。その日の仕事も大変そうだった。私は仕事には行きたくなかったのに、なぜか足が止まらなかった。私が通り過ぎた後になって、周りの人々が動き始めた。車の運転手も車から降りてきたようだった。私は老人を助けなかった。周りの人々が老人を助けたのだった。だが、私は老人が助けられるところを見なかった。
その後、老人があそこで死んだのかどうかは分からなかった。私はそれを調べてみようとも思わなかった。たぶん、老人は死ななかったのだろう。あれほどまでに生気を纏っていたのだから死ぬはずがない。そう思った。しかし、あるいは人間というものは死ぬ寸前になってから最も生気を発散する存在であるのかもしれなかった。そうなると、あの時私は老人が死ぬ瞬間を見たのかもしれなかった。そう思ったその時になって初めて、あそこで立ち止まるべきだったと私は思った。
思い出している間、想念はずっと目をつぶっていたが、何回か身じろぎをした。私はそのたびに、その名前を呼ぼうとしてしまって、そのたびに何とか思いとどまることができた。決して名前を呼んではならない。
私は煙草店を通り抜けた。煙草店の向こうには調剤薬局と小児科の医院がある。小児科の向こうには小さな中華料理店があった。いずれも私は利用したことがなかった。小児科の中からは子どもの泣き声が聞こえた。泣き声はどこか遠く聞こえた。
さらにその先にはコインランドリーがあって、その隣には小さな割烹がある。割烹の真向いには大きな料亭があった。料亭は高い塀で囲まれていた。料亭には葬儀会場が併設されている。私は、しばしばこの料亭の中から、黒い服に身を包んだ人々が紙袋を手にして出てくるのを見たことがあった。彼らはなぜか晴れ晴れとした顔をしていて、互いに笑いあっていた。悲しそうな顔をした人を私は見たことがなかった。
また想念が身じろぎするのを私は感じた。想念は先ほどよりも力を持っていた。私は黒い服の人々の晴れ晴れとした笑顔の次に、橋を連想していた。薄緑色に塗装された鉄骨が組まれた大きな橋……その下には、黒々とした水面を獣の毛皮のように波立たせた川が流れている。私は思考を打ち消そうとした。あえて今日の仕事の流れを思い浮かべることで、橋は消えていった。着いたら資料をチェックして、問い合わせも確認して……数歩も歩かない時の間のことだった。
塀の前の小さな道には綺麗に刈り込まれた植え込みがあって、塀の向こうから高く伸びている竹が気持ちの良い影を作っていた。ごみひとつない道には打ち水がしてあった。この道で黒い服を着た人たちは晴れ晴れとした顔で笑いあって、帰りの自動車を待っているのだった。私はその道をあえて歩かないで、外側の車道を歩いた。
歩きながら、私はまた同じことを考えていた。彼らはなぜいつもあのような表情をしているのだろうか。そのような疑問を浮かべながらも、私は自分が本心からこの問いの答えを求めているわけではないことに気づいていて、しかも問いは中途で消えてしまうことにも気づいていた。そのような疑問は、想念が呼び水として私に差し向けたものであることを、私は知っていた。なぜ彼らはいつもあのような表情をしているのだろうか……死んだのに。道はまた一つの十字路にさしかかった。予想した通り、数歩も歩かないうちに問いは消えていた。
その十字路の四つの角にはコンビニと和菓子店とバイク修理店、それから美容院が建っていた。どの店も綺麗だが、古びている。私は十字路をまっすぐに越えた。太陽はごく自然に微笑んでいたが、陽射しは強かった。私はシャツの中で肌が汗を浮かべているのに気づいた。足取りは重かった。だが、バス停まではちょうど半分といったところだった。私は眼鏡をまた指で押し上げた。あと五百回歩みを進めれば良かった。
五百。その数字を頭に思い描いたその瞬間に、また想念が身じろぎをした。身じろぎをしただけではなかった。それは立ち上がりつつあった。手負いのはずの獣はいまやしっかりと四本の脚で立ちつつあったが、顔はまだ俯いていた。想念が身じろぎをするたびに、私は勝手に思考を広げていった。薄緑色の橋……その橋はいつも私が渡っている橋で、両端は河岸段丘に沿っているために急な坂となっており、いつも巨大なトレーラーや運搬車がタイヤを鳴らして自動車道を通っていく。私はいつも左側の歩道を通って向こう岸へ行き、向こう岸からこちらに戻ってくる時には同じ側の歩道を通る。反対側の歩道を歩いたことはない。
橋の下には川が流れている。いつも微かな江風が流れている。川の水に臭気はない。私は橋の上の空気を嗅ぐたびに、その事実を不自然に思う。私にとって川は臭気を纏っているはずだった。橋の真ん中に来ると、私はいつも足を止めたくなる。今まで一度も私は橋の真ん中で足を止めたことはない。歩きながら、私は川の下を覗き込む。流れが早いのか遅いのか、川の水深がどれだけあるのか、覗き込んだだけでは分からない。そして、私はそれを調べたことがない。調べることが私にとってどのような意味を持つのか、うっすらと分かっているだけに私は調べられない。
この橋の上からならば……?
この橋の上から下の川へと落ちたならば……想念が顔を上げつつあった。私はこれまでに何度も想念の顔を見たことがあった。その顔にはパターンがあった。猫のような時もあれば狐のような時もある。だが、人の顔をしていることの方が圧倒的に多かった。いつも同じ人の顔だった。私は、その人の顔をよく知っていた。
私はまた仕事のことを考え始めた。できるだけ細かく、職場に入った後の行動を頭の中で再生する。誰にどのような挨拶をするのか、トイレにはいつ行くのか、コピー機に用紙はあるのか、空調は正常に働いているのか……できるだけ細かく、馬鹿馬鹿しいほどに細かく考えていくと、想念は力を失ってまた座り込んだ。顔は下を向いたままだった。
私はさらに歩いていった。想念などというものは、ほんのちょっとした工夫で消えてしまうものだ。きっと、今日も私は勝てるだろう。すでに畑の近くに差し掛かっていた。畑と道とは高い金網のフェンスで区切られている。
畑にはじゃがいもが植えられていた。じゃがいもの花は紫色だった。一列に並んだじゃがいもの花には虫たちが群がり寄っていた。じゃがいもの隣にはきゅうりの畑があった。きゅうりはまだ丈がごく低かった。そのさらに遠くには神社の森の梢が見えた。樹々は緑で、空との境目は霞がかかったように曖昧だった。花の美しさが、かえって私にあることを連想させた。想念が立ち上がろうとするのを感じて、私はまた仕事のことを考えた。
バス停まで残り百歩もなかった。私は最後の十字路に入った。左手にはコンビニがある。十字路を左に曲がり、コンビニの向こうへと進んでいく。狭いバス通り沿いには酒屋や学習塾、塗料店、不動産会社の店舗がまばらに建っていた。私はバス停の前に着いた。腕時計を見ると、バスが来るまでに五分あった。
その時、左側から声が聞こえてきた。大きな声だったが、どこか単調な響きだった。私が目を向けると、そこには一人の若い男がいた。灰色のトレーナーを身にまとい、青色のくたびれた肩掛け鞄を提げた若い男は、しきりに頭を振りながら大股でこちらに向かって歩いてくる。男は歩道を外れて自動車道に入り、また歩道に入ってくるということを繰り返していた。走ってくる自動車は、器用に男を避けている。なぜか、どの車もクラクションは鳴らさなかった。
彼は、どうやって生きてきたのだろう。どうやって、これから生きていくのだろう。この私も、どうやってこれから生きていけば良いのだろう……
突然、想念が私の顔を見つめていた。黒い想念は猫のような滑らかな肢体で、しかし異様に長い尾を水平に伸ばしながら、四本の脚でしっかりと立っていた。想念の顔は、私の顔とまったく同じだった。だが、眼鏡はかけていない。機嫌の良さそうな笑みを浮かべていて、口は半開きになっている。何かを言っているようだったが、それは聞こえなかった。
橋から落ちれば、どのようになるのだろうか?
とめどもない勢いを持って、私は考え始めていた。川が深ければ私は溺れるだろう。しかし、溺れるまでには時間がかかるに違いない。その間に通行人たちが私のことを見つけて、救援を呼ぼうとするかもしれない。そうなったら私は助かってしまうかもしれない。それはできれば避けたいことだ。なぜなら、助かった後にもう一度同じ決断をするのは非常に困難だろうから。時間帯を変えるべきか。だが、私は改めて深夜にあの場所にまで行くという気にはならない。あくまでもいつもどおりに橋を渡っているという、その日常的な行為の途中で、ふと足をとめてそのような選択を……そう、見慣れない綺麗な蝶を前にして足を止めるかのようにして、橋の中ほどで足を止めて、下を覗き込んで……それならば、やはり私はいつもの時間にそれをしなければならず、それは助かってしまうということを意味する。それならば橋から落ちるという手段は採るべきではないのか。しかし他のあらゆることを考慮しても、あの橋は抗い難いほどの魅力を持っている。においがないというのはそれだけで魅力的なのだ。そのような選択をする人間がそのようなことを考慮するのはやはりおかしいかもしれない。しかし、やはりにおいということは私にとって重要だ。というのは最後、行きつくところまで行きついた私はきっと、においを纏わないはずであるからだ。私は何も変わらない状態で最後もいる。私はただ動かなくなっただけで、私の周りにいる人たちに見守られている……
想念が私を見つめ続けていた。考えは止まらなかった。どうやって手すりを乗り越えたら良いだろうか。靴と靴は? いや、落ちた後、私の眼鏡はどこにいくのだろうか……? 外れた眼鏡が川底に落ちていって、私は水を飲みながらそれを見ている……手を伸ばすべきか?
すぐ隣を、若い男が大股で通り抜けた。若い男の声がはっきりと聞こえた。やはり眼鏡だからダメなんだな。眼鏡はダメ、うん。眼鏡だからダメなんだ。眼鏡はダメ。眼鏡はダメ。眼鏡をやめよう。眼鏡はダメだから、眼鏡をやめよう……
その途端に、想念が崩れ落ちた。想念は今ではもう黒い粒子の堆積に過ぎなかった。私の胸は少し高鳴っていた。うっすらとした感謝と、それ以上の苛立ちを覚えながら、私は過ぎ去っていく若い男の後ろ姿に目をやった。若い男は同じ言葉を繰り返しながら、十字路を越えてさらに向こうへと歩いていった。一台の緑色のバスが、若い男を危ういところで避けた。
それが、私の乗るバスだった。バスは数秒後に私の目の前で止まった。私はバスに乗り込んだ。前方の座席に座って、またずり下がってきた眼鏡を指先で押し上げると、それからはもう、仕事のことしか考えなかった。
(「黒い獣」おわり)
※以下、作者による作品メモ
投稿するまではこの短編は「想念」というタイトルにしていたのですが、あまり面白味がないので「黒い獣」に変えました。誰でも心の中に獣を飼っているものと思います。獣というにはあまりにもか弱くて可愛らしい存在を飼っている人もいるかもしれません。今度はそういう話を書いても良さそうですね。