・第一の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/十七日付)
私が君と呼ぶのはまさに君だけだ、友よ。
当局に提出した書類が無事に受理されて、二日前ここに着いた。部屋はなかなか悪くない。広めの寝室に小さめな居間が付いていて、どれも立派な家具付きだ。居間には大きなテーブルがある。書き物は寝室でするつもりだ。こちらには良いライティングデスクがある。もっとも、どれだけのものが書けるのかは分からない。こうして君に手紙を書いているだけでも今の私にとっては奇跡的なことだ……そして、わざわざ私がこのように書かなくとも、君ならば今の私の状態をよく知っているだろう。窓からは広場の大聖堂の尖塔が見える。大通りとは距離があるから、明け方に荷車の行き来する音に悩まされることもなく、爽やかで優しい朝の空気を存分に味わうことができる。管理人の老婦人はとても感じの良い人で、私にあれこれと親切をしてくれる。食事は三食とも近所の小食堂で済ますことにした。ここの料理は安くてそれなりに量がある。それに、店主も店員もみんな親切だ……そう、みんな親切だ、この都市は。あえて言うのならば、それだけが不満だ。ほんのちょっとでも不親切な人間がいたら、私はもっとこの都市が好きになっただろうに。
いや、不満なのはそれだけではないのだ。この都市はなぜか汚泥が多い。街路にはゴミ一つ落ちていないのだが、たまに泥が塊となって落ちていることがあるのだ。落ちているだけではない。綺麗な石造りの建物の壁面に、べっとりと泥が張り付いていることもある。泥は酷い悪臭を放っていることもあれば、半ば乾燥していて臭いを出さないこともある。動物の糞のような、腐った生ごみのようなにおいだ。この都市の唯一の欠点はそれだけだ。さらにもう一つ欠点があるとすれば、この都市の誰もが汚泥に関して無関心だということだろう。だが、人に個性があるように、都市にも、またその住民たちにも個性があるのかもしれない。汚泥を無視する個性というのは、ちょっとよく分からないが。
これからはできるだけこまめに手紙を送る。そうすれば、私がまた書けるようになるのも早まるだろう。
護られてあれ。だが、君はすでに護られている。愛をこめて。私より。
・第二の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/十九日付)
私が君と呼ぶのはまさに君だけだ、友よ。
そちらに異常はないだろうか? 私がこまめに手紙を出すことにしたのだから、君も私に対してこまめに手紙を出さなければならない。ともあれ、君が私の友であることには変わりない。こちらは順調だ……書き物以外は。まったく、どうしてこれほどまでに私は作品が書けなくなってしまったのだろうか? 新しい土地で新しい生活を始めてみたら良いだろうと忠告してくれたのは君だ。そして、私は今そのようにしている……そして、まだ書けない。しかし、私は焦らないことにした。おそらく君の言うとおり、私はこの都市で何か新しいものを書くことができると思う。そのような予感がしているのだ。以前までの私は「書かねば、書かねば」とばかり思っていた。今の私は「何かが書けるかもしれない」と思っている。そしてこれはたぶん次に「これが書きたい」という欲求へと変わるだろう。残念なことに、今はその「これが」がないから困っているのだが。新聞社には午前中だけ出れば良いことになった。その分、毎日出社しなければならないが、それで生活費くらいはすべて賄えるのだから感謝しなければならない。新聞社の社長も随分と親切で、私に対して好意的だ。私の作品はすべて読んでいるとのこと……お世辞ではないだろう。彼の部屋の書棚には綺麗に革で装丁された私の作品が収まっていた。社員たちもみな親切で、私は居心地の悪さを覚える。彼らがもっと意地悪で、悪意をもって私に接してくれれば良かったのに。おかげで私は毎日新聞社に出なければならなくなった。だが、彼らのためにできる限りのことはするつもりだ。
やはり、汚泥が気になる。この都市のどこに行っても汚泥がまとわりついている。新聞社の壁面にも汚泥がへばりついていた。この都市の参議会は衛生対策に特に力を入れているとのことで、たしかに都市のエンブレムが記された腕章を巻いた掃除夫たちがいつも街中を歩き回って掃除をしている。それなのに汚泥はまったく減らない……奇妙なことだ。もしかすると、私はもっと辛抱すべきなのかもしれない。なにせ、全体的な衛生環境からいえばこの都市は私たちの都市よりも数段高いのだから。しかし、私たちの都市に汚泥はない。
護られてあれ。だが、君はすでに護られている。愛をこめて。私より。
・第三の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/二十日付)
君よ。
手短に。以下に記載する書物を送ってほしい。どれも私の家の書棚にある。『論理学後書』『海の嘆き』『古祈祷書講解』『都市を清めることについて』 平凡な本ばかりだが、なぜかこの都市の図書館には所蔵されていなかったのだ。
昨日は危うく泥に突っ込むところだった。愛をこめて。私より。
・第四の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/二十一日付)
私が君と呼ぶのはまさに君だけだ、友よ。
手紙をありがとう。君と君の家族、それから友人たちが元気であると知ることができて安心している。なにせ、今の世界にはありとあらゆる災厄が蔓延っているから。Kには私の口座からいくらか送金することにした。Zの苦境に関しては知らなかった。金くらいしか送ることができないが、君の方からも私がよろしくと言っていたと伝えてくれ。私はまだ何も書けない。書けないから毎日この都市を散歩している。朝起きてからは近所の小食堂で食事をし、それから新聞社へ行って勤務をし、昼には帰ってきてまた食事。午後は丸々空いているから、その時間帯に散歩をしているというわけだ。散歩といってもあまり大したものではない。この都市も他の都市とほとんど変わりがないからだ。他の五〇七都市と市域面積も設計も変わらない。偉大なる征服者に感謝というわけだ……この世界の隅々にまで、私たちは私たちの生活様式を広げて、どこに住んでも同じように生き、同じように死ぬことができるのだから。実際、これが究極の平等ではないか? 生き方は異なっても、同じように死ぬことができる……私たちは死ねば大聖堂で葬儀をしてもらって、都市の外れの墓地に葬られる。みんな同じ死に方だ。
君が汚泥について強い興味を示したので、かえって私は驚いてしまった。そう、驚いてしまうくらいには、私はすでにこの汚泥に慣れつつある。確かに、この汚泥はこの都市の最大にして唯一の特徴だろう。他のどのような都市でもこのような汚泥は見たことがない……いや、それよりもやはり、汚泥がそこここにあるのにも拘わらず、それに対してさしたる興味も示さない住民の方が最大の特徴だろう。だが、彼らはまったくの無関心というわけでもないようなのだ。というのも、昨日の昼にあった汚泥が翌日の朝になると消えているということがあるし、それどころかその日の朝にべったりと壁一面を覆っていた泥が夕方には忽然と消えているということもあるからだ。これはつまり、掃除夫たちが掃除をしているということなのだろう……そうでなければ消えるはずがない。それにしても、この汚泥に対する住民たちの無関心と来たら! なにせ彼らは、汚泥が自分の目の前にあっても避けることはなく、そのまま泥の中へ突き進んでいくのだ。そして、泥まみれになっても何も気にせず、先へ進んでいく。泥まみれになっている人に対して、他の人もまったく注意を示さない。まるで何も汚れていない人であるかのように扱っている。この奇妙さと来たら……実際にこの都市に来ないと、君も信じてくれないだろうね。ともあれ、どうも手紙をありがとう。
護られてあれ。だが、君はすでに護られている。愛をこめて。私より。
・第五の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/二十三日付)
君よ。
できるだけ手短に。本は無事に届いた。どうもありがとう。そろそろ作品が書けそうだ。そのためにこれらの本を送ってもらった。集中してこの四冊を読めば……きっと私は書ける。私は書くためにこの世に生まれてきたのだし、この世界も私が書くことを望んでいるはずだ。少なくとも、私は書くことを愛している。もし書くことが私を愛してくれなくなったら……そんなことはないだろうが、それでも私は書くことを愛すると思う。
汚泥は増えたり減ったりする。不思議なのは、蠅の類が汚泥に湧かないということだ。そう、この都市は汚泥にまみれているのに、蠅や害虫の類はまったく見られない。特殊な薬剤でも使っているのだろうか? それとも、人と同じく、虫の方もこの汚泥を無視しているのだろうか……?
善き人へ、愛をこめて。私より。
・第六の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/二十五日付)
私が君と呼ぶのはまさに君だけだ、友よ。
何も書けない。本を読んだのに何も書けない。この都市に来たのは間違いだったのではないかとたまに思う。だが、そのことに関して君に恨みや怒りを覚えているわけではない。この都市に来るという決断を下したのは私自身だし、もし君が私を支配する全能の神であったとしても、私は最後まで自分で決断を下すということに固執するだろう。実際のところ、作家にとってはそれで充分なのだ。だが、この価値観を持っているからこそ私はこれほどまでに苦しんでいるのかもしれない。私にとってすべての物事はそれを為すか、あるいはそれを為さないかという選択の問題であって、それを為し得るか、あるいはそれを為し得ないかという能力の問題ではないということだ。つまり今の私が何も書けないのは、本当のところは「書けない」のではなく、「書かないこと」を選択しているだけだということになる。それならば私は速やかに「書く」という選択をしなければならないのだが……なぜ私はそれを選択することができないのだろうか? 何か、私ではどうすることもできない大きな力が私を押さえつけていて、私にそのような選択をさせていないような……そういう感じだ。それでも私は何かを書きたい。
君からの手紙で私の最新刊が重版になったことを知った。だが、出版社からは私に手紙の一本も来ていない。以前のようなことがあったら困るから、これからは状況を注視するつもりだ。私はこれまで大勢の人間から利用され、裏切られてきた……これは事実だ。しかし君たちのような友人に助けられてもいる。良いこともあれば悪いこともある。そしてみんな死んでいく……良いことしかない人生はないし、悪いことしかない人生もない。
そう、だからこの都市に汚泥があるというのも普通のことだろう。それにしても汚泥のにおいには耐え難いものがある……君は驚くかもしれないが、昨日私はこの汚泥がいったいどういうものかを知りたくて、道端で観察をしてみた。その汚泥は湿り気があり、吐き気を催すような臭いを放っていた。色は焦げ茶色なのだが、木べらで表面をかき混ぜてみるとベルベットのように色が変わる。その美しさには思わず息を呑んだほどだった。泥の中には何もない。木片とか、藁屑とか、ゴミとか、クズ鉄とか、そういうものはまったく含まれていない。これは依然として奇妙なことだ。さっと木べらで切れ込みを入れてみると、油のようなものが滲み出てくる。虹のような七色に変わる油だ。これもまた美しい。だが、数秒後にはまたすべて汚泥に吸い込まれてしまう。ザクザクと大きく切り刻むようにかき混ぜると、臭いは薄れて代わりに薔薇のような芳醇な香りがする。色も赤みがかった紫色へ変わるのだ。だが、しばらく経つとやはり元に戻ってしまう……これらの麗しい特徴を知っても、やはり私はこの汚泥が嫌いなままだ。そして、この汚泥を無視して生活することができているこの都市の住民のことも、だんだん嫌いになりつつある……みんな良い人たちなのだが。
護られてあれ。だが、君はすでに護られている。愛をこめて。私より。
・第七の書簡(一七〇九四年/兎の足の月/二十九日付)
君よ。
いつも利用している小食堂の中に汚泥がたっぷりとばら撒かれていた。幸いなことに汚泥は店の奥側にばら撒かれていて、いつも私が座っている通り側の席は何も問題はなかったのだが、それでもやはり嫌な気持ちだ。店員たちも店主たちも、常連客達も、何事もないような顔をして仕事をし、談笑をして、食事をしている。私にはその光景が信じられない。その日の夕方にまた店に行ってみると、汚泥はきれいさっぱり消えていた。やはり掃除したのだろうが、ごく短時間の間によくあれだけの汚泥を綺麗にすることができたものだと思う。あまりにも驚いたので君に手紙を書いた。
善き人へ、愛をこめて。私より。
・第八の書簡(一七〇九四年/機械の月/一日付)
私が君と呼ぶのはまさに君だけだ、友よ。
あと一跨ぎのところまで来ているのは分かっている。それを越えるだけで私は幸せになれる……私にとっての至福の境地とは、君も知っているだろうが、作品を書いている時なのだ。世間には二種類の作家がいる。作品を書くことを目的としている作家と、作品を売ることを目的としている作家だ。私がどちらなのかは言うまでもないだろう。なるほど、世間的に見れば私は恵まれている。これまでに多くの作品を書いてきたし、友人は多いし、何より読者が多い。五〇七都市のどこに行っても私の読者がいるというのは……幸せなことでなくてなんだというのか? それでも私はまったく幸せではない。私は苦しんでいる……この上もなく私は苦しんでいる。ああ、君にこの苦しみを分かってもらうことができたなら! 撃たれた鳥が大地に墜落するまでに抱く悲しみ、撃たれた獣が命尽きるまでに感じる絶望……それよりも私の苦しみは大きい。私はどうしても作品を書くことができない。私には富もあって友人もいるが、それらが私を救うことはない。君だって、私を救うことはできないのだ。私を救うのは、ただの一跨ぎである。
そして……やはり私には耐え難い。この都市のすべてが耐え難く感じられるようになってきている。泥だ。汚泥がそこかしこにある。一跨ぎができないのは泥のせいかもしれないと思うにつけて、泥への憎悪が掻き立てられる。昨日、意を決して新聞社の社長に尋ねてみた。なぜこの都市は泥を放置しているのですか? どうしてこの都市にはこれほどまでに泥が多いのですか? 君は、社長がなんと答えたと思う? 社長は、何も答えなかった。ただ困ったような顔をして、それでいて私に微笑みかけた。心からの同情の混ざった、温かい微笑みだった。そして社長は言った。泥でお困りですか? 私がそうですと答えると、社長は言った。それはお気の毒なことです。なんとかして差し上げたいが、私に何ができますか? 社長がそう言った瞬間、私の中で盛り上がっていたものが急速に冷めていくのを感じた。新聞社を出て家に帰ってくる途中で、一人の老人が泥の中へ突っ込み、泥だらけになったままベンチに座るのを目撃した。私は老人に話しかけた。失礼、泥にまみれておられますが……私がそのように言うと、老人はおごそかに頷いた。無論、この歳になると泥にはまみれております。しかしながら、あなたも泥にはまみれているのですよ。そのように言われたら、私としては答えようがない。
住民たちは、泥を無視しているのではないのかもしれない。彼らの態度は、もっと微妙で深遠だ。だが、泥は解決しなければならないものではないのか? 泥は泥に過ぎない。
護られてあれ。だが、君はすでに護られている。愛をこめて。私より。
・第九の書簡(一七〇九四年/機械の月/三日付)
君よ。
書けない。なぜ私はこれほどまでに苦しまなければならないのか? 私は何も悪事を為していない。それは君も分かってくれるはずだ。私ほど誠実に書くことに向き合ってきた作家もいないだろう……もし、地獄かどこかで裁判が開かれて、私が罪人として裁かれることになったら……君は善き人として私を弁護してくれると思う。私は書くことを利用などしてこなかった。私は書くことで金を儲けようとしたことも、名声を得ようとしたこともない。もし私に野心があったとすれば……それは、書くことでこの世界を良くしようと思ったことだろう。私は、私の書くものでこの世界を少しでも良いものとしたかった。今でもそう思っている。
新聞社の中にも汚泥が落ちているようになった。従業員たちは平気な顔をして働いている。あまり新聞社には行きたくない。だが、従業員も社長もいい人たちばかりだ。
愛をこめて。私より。
・第十の書簡(一七〇九四年/機械の月/八日付)
君よ。
返事をおくれ。私はつらい。何でも良いから返事をおくれ。私は絶望の岬で激しい雷雨に耐えている。
愛をこめて。
・第十一の書簡(一七〇九四年/機械の月/十二日付)
君よ。
なぜ手紙を送ってくれないのか? 今の私にはもはや君の手紙だけが頼りだというのに。私は打ちひしがれている。打ち砕かれた聖像よりも私は粉々になっている。そしてその破片を拾うものはいない……この都市で私はまったく一人だ! この都市に来てから一ヶ月が経とうとしているが、私は何も書くことができていない。私は決まった時間に寝室のライティングデスクに向かって、原稿用紙を広げて最初の単語を書く……それで終わりだ。私はもはや何も書くことができなくなってしまった。こうして君に手紙を書いているのは、これだけが唯一残された「私らしさ」だからだ。私はこれまでの人生で多くのものを捨ててきたし、多くのものに捨てられてきた……それでたった一つ残されたのが、書くということだったのだ。だが、今ではその書くということも私は失いつつある……というよりも、書くことの方が私を捨てつつあるのではないか? 私はこのように手紙を書くことだけはできている。手紙を書いて……君が返事をくれる。私は手紙を書くことによって世界とのつながりを保っている。私が為す。世界が応える。だから私は生きていける……もし君が返事をくれなくなったら、私は死んでしまうかもしれない。君よ、私を生かしてくれ。私に手紙を書いてくれ。
最近は汚泥の量が目に見えて増えた。今や汚泥にまとわりつかれていない建物はこの都市においてどこにも存在しない。君よ、この都市の汚さと言ったら! 私の嗅覚は常に悪臭に苛まれている。私は痩せてしまった。食事はしているのだが、いつも吐いてしまう。夕方が特に酷い。夕食はほとんど何も食べられない。朝食だけが私の命を繋いでいる。
つい先日、遠征していたこの都市の連隊が帰還してきた。連隊の隊列は門から入って大通りを行進し、広場へと向かった。沿道には大群衆が詰めかけていて盛んに歓声をあげて、手には花を持って兵士たちに投げていた。その門も、大通りも、広場も汚泥に埋もれているというのに! 誰も彼も泥まみれになっていて、投げられた花はすぐに泥で汚れていく……そして誰も、泥のことなど気にしていない。私はおかしくなりそうだった。この都市で唯一正常なのは、私の部屋だけだ。私はここにいるしかない。
愛をこめて。私より。手紙を送っておくれ。心から頼む。
・第十二の書簡(一七〇九四年/機械の月/十三日付)
君よ。
手紙をありがとう。大丈夫、あれから少しは気を取り直した。新聞社には行くことはできている。汚泥はますます増えるばかりだ。昨日は雨が降った。雨のせいで汚泥が都市中に広がって、雨が上がった後には腐った魚の臭いが都市中に充満していた。この部屋にいれば汚泥に触れることはない。だから心配はいらない。
・第十三の書簡(一七〇九四年/機械の月/十五日付)
君よ。
手紙をありがとう。妹御の縁談を心から祝福する。残念なことに、私はこの都市から出ることはできないが。あと四年と十一カ月はこの都市にいなければならないことは、君も知っているだろう。それが私たちの国法だ。君の妹が汚泥の中で結婚式を挙げずに済むことを私は心の底から良かったと思う。
建物のエントランスホールに汚泥が落ちていた。まさか、部屋の中にまで来ることはないと思うが……手紙をまた送ってくれ。
・第十四の書簡(一七〇九四年/機械の月/二十日付)
君よ。
なぜ手紙を送ってくれないのか? 私は待ち焦がれている。私は死んでしまうかもしれない。私は死が怖い。今朝は部屋の前に汚泥が落ちていた。管理人の老婦人に訴えたのだが、老婦人は気の毒そうに私を見つめるだけで何も言わない。都市はどこもかしこも泥で埋まりつつある。人々は……そして馬車も、荷車も、泥の海の中を泳いでいる。太陽が遠く、空気は臭気に満ちている。私はこんな都市にまだいるのだ。
・第十五の書簡(一七〇九四年/機械の月/二十五日付)
返事を読んだ。どうもありがとう。最近は、なぜ私が書けなくなったのかということをまた考えている。そろそろ考えがまとまりそうだが、まとめるべきではないのかもしれない。昨晩は老婦人が粥を持ってきてくれた。私はありがたくそれを食べることにしたが、粥をかき混ぜてみると底から汚泥が出てきた。私は死んでしまうかもしれない。
・最後の書簡(一七〇九四年/機械の月/三十日付)
私が君と呼ぶのはまさに君だけだ、友よ。
私はなんとか生きている。君の手紙は途絶えがちだが……それでも君は手紙を送ってくれる。私はまだ死んでいない。私は何も書けていない。もはや認めなければならないが、私は書くことを選んでいないから書けないのではなく、単に私は書けなくなってしまったから何も書いていないのだ。私から、書く能力はいっさい失われた。
書くことが、私を捨てたのだ! 私はもう、作品を書くことは今後一切ないだろう。それならばなぜ君との手紙を書くことだけはできているのか……? これはおそらく、書くことが私に与えた懲罰なのだと思う。
傲慢であり、独善的である。それは罪だ。かつて私は、私ほど純粋に書くことだけを考えている作家はいないと思っていて、私以外の作家はすべて書くことを道具として扱っていると、そのように思っていた……だが、実際のところは、私もまた書くことを道具としていたのだ。なんの道具かといえば、それはやはり私は私をこの世界において価値のあるもの、この世界において認められるべきものとしようとし、その道具として私は書くことを利用していたのだ。
いや、そうではない。私は単に、私が私である証明を得ようとして、書くことを利用していたのだ。私が何者であるかを示すために……私はそれを至純な欲望と見なしていた。だが、この私とはいったい何だったのか?
ともあれ、書くことはついに私に復讐を果たした……書くことなしにはいられなくなるまで私を依存させた後に、書くことは私を捨てた。私はもう、生きていくことはできない。そのことをたっぷりと味わわせるために、書くことは私に手紙を書くことだけを許している。私は手紙を書く。君は返事をくれる。私はそのたびに、もはや私はこの世界で生きていくことができないことを思い知らされる……君が返事をくれるたびに、私はもう書くことができないことを思い知らされるのだ。だからと言って、君は返事を出すのをやめてはならない。私は最後まで苦しまなければならない……なぜなら、私は書くことを愛しているからだ。これだけは本当だ。私は書くことを愛している。愛しているものが私に懲罰を下すというのならば……私は最後の瞬間までそれに甘んじようと思う。
汚泥はついに私の部屋の中にまで入ってくるようになった。朝、目が覚めるたびに私の部屋はますます汚泥に埋もれていく……部屋の中の汚泥は決して消えることはない。私は家具をつたって部屋の外に出ている。居間の大きなテーブルは救命いかだのようだ……そう、私はまだ外で食事をしているし、新聞社にも行っている。外も汚泥の海になっているが、私の部屋の中よりはマシだ。私は毎朝、目が覚めるたびに汚泥が高さを増しているのに気づく。たぶん、もう数日もしないうちに汚泥はベッドの上にまで達するだろう。私は寝てる間に窒息するかもしれない。汚泥が鼻と口に詰まり、肺を侵して……それでも私がさらに怖れているのは、もしかすると私がそれだけでは死なないかもしれないということだ。書くことが私に懲罰を与えている以上、その懲罰が済むまで私は死ぬことはない……そのような気がしてならない。死刑囚は充分な食事と広い個室、そして娯楽が与えられる。それは、死刑までは決して彼らは死んではならないからだ。私は汚泥の中でも生き続けるのではないか?
友よ、手紙を絶やしてはならない。君は護られているが、私はもう護られていない。君を愛している。
追伸:「この私とはいったい何だったのか?」と私は述べた。たぶん私は、袋だ。やっと気づいた。汚泥のたっぷりと詰まった袋……袋は破れていて、補修しようがない。そして、この都市の汚泥とはつまり、破れた袋から漏れ出たもので……
(「汚泥」おわり)
※以下、作者による作品メモ
街に汚泥があふれ出す……というアイデアだけで書き始めたこの小説、最初から「これまで書いたことのない形式を試してみよう」と決めていました。書簡形式は書いていてなかなか難しいことが分かったのですが、「手紙という双方向的なツールを利用していながら結局のところは自分語りをせずにはいられない」という主人公を思いつき、さらには「そういう主人公が就いている職業は何か?」と考えて、その結果として「書けない作家」というところに落ち着きました。書簡形式は今度も何作か書いてみたいですね。