ヴェルグンデの嘲り   作:ほいれんで・くー

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17. どうしても渡れない

 元来がそういう性格であるから、やはりそこに来た時に男は泣き叫んだ。そこに来たのは男の意志によるものではなかったとはいえ、それでは男は無理やりそこに連れてこられたのかというとそうではなく、言うなれば男の生活全体がそこに来ることを指向していたのだから、結局のところそこに男が来たのはやはり大部分は男自らに因るところが大きかった。ただし、男は決してそのことを認めようとはしないのだった。

 

 目の前には川が広がっている。広い川だった。対岸はまったく見えない。灰色の水面には波は立っておらず、どちらが上流でどちらが下流であるのかは分からない。水面の上には濃い霧が漂っており、それがどこまでも上へ上へと広がっている。男にはここがどういう場所であるかは分かっていた。そして、そこを渡らねばならないことも男には分かっていた。

 

 あれほどまでにつらい思いをしたのに、またこのような労苦を甘受しなければならないとは。男は憤激し、地団駄を踏み、意味の通らないことを喚き散らした。こういうことは男がそれまでにしばしば行ってきたことだった。彼は気に入らないことがあると、自分の部下や従業員を延々と怒鳴りつけるのが常だった。相手が蒼ざめ、謝罪の言葉を繰り返し、敗北を認めて涙を流すまで、絶対に怒鳴りつけるのをやめなかった。それは人を支配する戦略や手練手管というものではなく、単に男の生理的な反応に過ぎなかった。気に入らないこと、意に染まぬこと、不本意なこと……こういうことに遭遇すると、男はいつもそのようにした。

 

 男は工場をいくつか所有していた……どの工場も堅調な成績を上げていて、不況にもびくともしなかった。だが、それは男の才覚によるものというよりは、やはり類まれな幸運に恵まれた結果だった。彼は資産の半分以上を投資に回していて、そちらもどういうわけか多大な利益を生んでいた。男自身も自分が大きな幸運に恵まれていることを知っていたが、そのような幸運に恵まれていることが自らの優秀性を証明しているとしていつも鼻高々だった。

 

 恵まれた家庭で生まれた男は、恵まれた少年時代を過ごした。両親は彼にどこまでも甘かった。遅くなってから生まれた待望の男の子であったし、当時の時代の風潮に反して両親は子どもをなるべく優しく、叱らないようにして育てることを信条としていたから、彼は生まれてから一度も怒られたこともなければ大きな困難も挫折も覚えたことがなかった。学校での成績はさして良くなかったが、取り巻きには困ったことがなかった。気に入らないことがあれば、すべて取り巻きに始末させることができた。

 

 少年時代の彼は太っていた。色白で、脂肪が多かった。顔にもたっぷりと脂肪があったから、彼の顔は遠くから見ると潰れたようになっていた。折り重なったひだとひだの間に目があり、口がある。太りすぎたカエルという渾名がいつしかつけられるようになった。そのことを知ると男は、カエルを殺すようになった。取り巻きたちにいくらか小銭を渡して、学校近くの沼と川でカエルを捕まえさせる。捕まえてきたカエルを男は踏み潰す。だんだん殺し方のバリエーションは増えていった。いつしか渾名は太りすぎたカエルから、カエル殺しへと変わっていた。それでも男はカエルを殺すのをやめなかった。

 

 ちょうど学校を卒業した頃に父が死に、彼はすべての事業をそのまま継承した。優秀な社員が残っていたので、彼はすべてを任せることができた。彼は決して良い上司ではなかったが、社員たちは逃げなかった。世界的な不況だったので、他に行く当てがなかったのだった。だが、男は自分に人望があるからだと思い込んでいた。

 

 家族は妻と娘の二人だったが、彼は二人ともまったく愛していなかった。妻は三人目だった。一人目の妻は彼が真剣に愛し、真剣に人生の共同経営者として選んだ存在だった。だが、この妻はすぐに死んでしまった。それ以来、彼はまったく結婚というものに興味を持たなくなってしまった。二人目の妻は財産目当てだった。事業拡大のためにそれが必要だった。二人目の妻は男よりも年上で、心臓に病気を抱えていた。ほったらかしにしていたら、そのうち勝手に死んでいた。

 

 三人目の妻は、どこで拾ったのかも男は覚えていなかった。この妻は憎たらしい存在だった。当てつけのように娘を溺愛し、その最中にも近くにいる夫に向かってちらちらと視線を向けてくる。娘は娘で決して父親に心を開こうとしない。男は、妻と娘の考えていることを不思議に理解することができた。妻の憎しみは当然として、娘は母親を道具として用いて、最大限の利益を得ようとしている。妻の気持ちは分からなくもなかったが、娘の方は男にとっては不気味そのものだった。男は、妻に対しては怒鳴りつけたり、時には殴りつけたりさえしたが、娘に対しては何もできなかった。

 

 娘は、カエルに似ている。ある日、ふとそのようなことに気づいてからは、男はますます娘を遠ざけるようになった。色白で、水の底にいるように黙っていて、目だけが何かを訴えかけている。男はその頃でもいまだにカエルを殺していた。自分でも異常な習癖であるのは分かっていたが、カエルを殺すのはやめられなかった。秘書に命じておくと、その日の終りには箱に入ったカエルが部屋に届けられている。男はカエルを殺す。大抵の場合は力任せに踏みつけて殺したが、趣向を変えたい時には他の方法も試した。熱湯、ステッキ、カミソリ、電気スタンド、アイロン……

 

 家庭生活は荒廃していたが、やはり仕事は順調だった。そして、資産額が過去最高の水準に達した時にここに来なければならなかったのだから、男が泣き叫ぶのも当然といえば当然だった。男はここに来るのはかなり先のことだろうと考えていたし、自分がそのように考えたのならば当然物事はそうなるだろうと信じ込むのが男の思考の癖であったから、今回の件は一種の裏切りのように感じられたのだった。ただし何に裏切られたのかは男には分からなかった。

 

 やがて、怒るのに疲れると、男はその場に座り込んだ。蕭々として吹き寄せる川風は冷たく、独特の臭気を纏っていた。男はスーツのポケットに手を突っ込み、煙草を取り出して火を点けた。こういう場所でこういうことは許されないかもしれないとは男は考えなかった。男は無言で、しかしこの上もなく不機嫌そうで、それでいてどこか泣き出しそうな顔で、工場の煙突のように口から煙を吐き出した。それはまるで黒い煤煙だった。それから男は何回か同じ動作を繰り返すと、まだ火が付いている煙草を川に向かって投げ入れた。

 

 ふと、男はカエルを殺したくなった。

 

 その途端、川の中から何か巨大な生き物が身を躍らせて、川岸に座っていた男を一息に呑み込んだ。頭部はカエルそのものだった。胴体は魚と蛙を合わせたようで、それでいて爬虫類のような鱗が生えている。人間のような滑らかな手足には水かきのためのヒレがついていた。男は逃げる暇もなく、目を白黒とさせたまま頭から丸呑みにされて、胃の腑へとそのままの状態で押し込まれていった。しばらく生き物はその巨体を川岸の上で躍らせて、苦しそうにヒレとエラを動かした後、カエルの鳴き声を上げた。大儀そうに体を引きずってまた川の中へ戻っていった後には、大きな波紋だけが残された。川岸は黒っぽくてねばねばとした粘液で汚れていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 その女は自分がなぜここにいるのか、最初は理解できなかった。だが、やがてその時のことを思い出してきて、しばらく呆然としてから、大声を上げて涙を流し始めた。女がそこに来たのは、紛れもなく女自身の選択によるものだった。女は配偶者に捨てられた……結婚してから十年間も妻として忍耐を重ねてきたのだ。好きでもないのに肉体的な務めは誠実に果たしてきて、その結果として息子も一人いる。それで捨てられたのだから、女としては他に採るべき手段はなかった。

 

 目の前に広がる川はごく小さかった。対岸は手を伸ばせば届きそうなところにある。空は曇っているが太陽が出ていて、陽気ではないが陰気でもない黄色い光を放っていた。川からは風が吹いている。生温い風だが、においは含んでいない。川面には小さな波が立っている。ただ、よく分からないのは水深だった。それほど深くはなさそうだが、もしかしたら足が届かないかもしれない。

 

 女も自分がどうすべきかは分かっていた。川を渡らなければならない。そこに来たのならば、そのようにすべきだった。だが、女はもうちょっとそこに座って、今の気分に浸っておきたかった。これまでかなり無軌道に生きてきた女だったが、唯一行動指針のようなものがあるとすれば、それはどんな時でも自分の感情的な問題の解決を優先するということだった。泣きたい時には泣き、怒りたい時には怒る。ただし、女の感情の表出はいつも似たようなものだった。悲しみに対しては泣くことしか知らず、怒りに対しては金切り声をあげる。そのようなことしか女は知らないのだった。

 

 なぜ女がそのようにするのかといえば、そうすることによっていつも必ず何かしらの反応が得られたからだった。反応を返すのは、いつどんな時でも女の母親だった。母親が女を生んだのは二十歳も後半になってからだった。女の父親はその時すでに五十歳を超えていて、妻を迎えるのは三度目だった。一度目の結婚は純粋に恋愛によるものだったが、二度目は財政上の必要によるもので、三度目はもはや惰性だった。

 

 夫からの愛情を得られない母親は、溺れるように娘を愛した。娘のどんなに些細なことにも母親は必ず反応を返した。娘が泣けば抱いて慰めてやり、顔には接吻の雨を降らす。娘が怒れば、その怒りの原因を作った者を探し出して面罵する。相手が屈服して完全に非を認めるまで決して追及の手を緩めない。母親がそこまで極端なことをして、あえて周囲の人間関係を毀損して敵を作り続けていったのは、やはり夫に対する当てつけのためだった。母親は娘を愛してはいたが、本当のところでは娘を道具として用いているに過ぎなかった。

 

 娘は途中からそのことに気づいていた。そして、母親を愚かな存在であると思い、内心では見下していたが、その愚かさに頼り切れば自分の人生が安泰であるとも思っていた。頼り切るためにはある程度は母親に付き合ってやらねばならない。娘はますます母親に依存した。自分は意識して依存している分だけ健全であると娘は思っていた。母親が自分を夫を攻撃するための道具として使うのならば、自分も母親を道具として使ってやる。自分をそのために生んだのだとしたら、この生の責任は自分にはないわけだ。娘の思考は単純で明快だった。父親から一種の怖れの感情を向けられていることにも女は気づいていた。

 

 奇妙なことに、父親が死んでからも母親と娘の関係は続いた。のみならず、二人の関係はますます濃くなっていくようだった。娘はそのことを不可解に思いつつも、加速度的に母親への依存度を増していった。次第に娘は、自分の母親は愚か極まりないと思うようになっていた。目的を見失って、手段に溺れるようになっている……憎むべき夫が消えたのに、憎しみだけは残っていて、しかしそのことに自分では気づいていない。だんだん娘は母親を罵倒したり、虐待したりするようになった。それでも母親は何も変わらず、娘に対して愛を注ぎ続けたのだった。

 

 二人はいつも家にいて、いつも家からどこかへ遊びに出かけていた。そのための金は父親がたっぷりと残していた。娘はなかなか結婚しなかった。四十代半ばではあったが、母親はやせ衰えていた。肌は黄色くなっていて、髪の毛は灰色になっている。だが、娘は太っていた。この上もなく太っていて、肌にはびっしりと吹き出物ができていた。肉に埋もれた目だけは異様に光っていて、目に映るもののどのような過失でも決して逃すまいとしていた。

 

 娘が母親の真意に気づいたのは、母親が死んでからだった。母親が死んでから、娘はまったくの無能力者となった。日常のこまごまとしたことも、財産の管理も、それから結婚についても……娘は自分に何も実務的な能力がなく、またそれを得るための気力すら湧かないことに気が付いた。日常生活というものが実は無数のくだらない実務の上に成り立っていて、生活能力とは実務を淡々と処理する力に他ならないことを、娘はその時まで知らなかった。娘はここに至ってようやく、母親が自分を憎悪していたことに気づいた。何のことはない、夫が死んだ後は、夫の性質を半分も引き継いでいる存在に憎しみの対象を移しただけだった。

 

 本当のぎりぎりの状態になるまで甘やかし続けて、最後にはすべてを奪い去る……自分の死によって最大の攻撃は完成する。母親の意図に気づいた時に、女は怒り狂った。しかし、その怒りに応える存在はもうどこにもいない。

 

 女が結婚することができたのは、なんということはない、財産が莫大だったからにすぎない。工場経営と投資によって父親が残した資産はあまりにも魅力的だった。そして女は、もはや選り好みはしていられなくなった。自分の夫となるべき存在が、自分自身ではなくその背後にある財産を見つめている……それには気づいていたが、女にはどうすることもできなかった。奇跡的に息子が一人生まれたが、女にとってそれは生んだというよりも、勝手に生まれてきたという感じだった。息子は早々にどこかの寄宿学校に入れられた。

 

 夫が自分を捨てたのは、やはり自分を憎んでいたからだろうか。女はそう思った。そうではあるまい。女は、やはり自分があくまでも道具であったことに気づいていた。母にとって自分は道具、また夫にとっても自分は道具だった。財産を得て、息子を得るための道具……いや、息子を得たのは事故のようなものだったかもしれない。とにかく、自分は道具としての価値を失った。それで捨てられたのだ。そして捨てられた道具は消えるしかない。女の思考はやはり単純で明快だった。

 

 女はここに至って川を渡る気になっていた。この程度の川ならば渡ることができる。大したものではない。女は肥満しきってぶよぶよになっている足を川に向けた。川に近づき、緑の草がまばらに生えている川岸に足を踏み入れると、何か巨大な生き物が川から飛び出してきた。一見すると顔はカエルのようだったが、よくよく見ると父親の要素も含んでいる。それだけではなく、母親の特徴もしっかりと宿していた。というよりも、それは母親の顔そのものだった。痩せた鼻、白く細い眉、萎んだ黄色い皮膚と光る眼……鱗の生えた体にはヒレとエラがあった。エラからは何か汚い赤黒い汁が出ていて、眼に沁みるほどの悪臭を放っている。

 

 呆然として見上げる女を、その生き物は頭から丸呑みにした。女をそのままの状態で胃の腑へと送り込むと、やはり生き物は大儀そうに体を動かして、水中へと消えていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 若い男は満足してそこに立っていた。自分が若い頃の姿になっていることに男は気づき、驚いた。新鮮な驚きだった。それまでの自分はもう寝台から自力で起き上がることもできないほど年老いていたのに。

 

 目の前には川が広がっている。大きくもなければ小さくもない川だった。視力を凝らすとわずかに向こう岸を見ることができる。水は綺麗に透き通っていて、川底を見ることができた。かなり深く、立って川を渡ることはできそうにない。他に生き物は泳いでいなかった。

 

 男は立ち上がると、川の方まで歩いていった。こここそがまさにそこであることに男は気づいていた。そして、ここに来たのならば、やはりここを渡らなければならない。男はにっこりと微笑んで、最後にこのような仕事をこなさなければならないことに感謝した。どんな時でも自分に相応しい任務が与えられるものだと男は思っていた。その信念こそ、男の人生をこれまで前向きに回転させてきたものだった。

 

 父親も母親も、男を愛したことはなかった。父親が財産目当てで母親と結婚し、自分が生まれたのは半ば事故のようなものであったことを、男は早いうちから知っていた。父親が母親と離縁して新しい妻を迎えたのは、男が十八歳になって大学へ進学しようかという頃だった。母親はその後、すぐに自殺をした。寝台の上で手首を切って死んでいた。ある噂があった。母親が手首を切ったことを屋敷にいる使用人たちはみんな知っていたが、誰も救命措置をとらなかったという噂だった。だが、男は使用人たちを怨まないことにした。そのようなことをしても何も意味がないことを男は知っていた。

 

 男はいつも朗らかで、前向きで、自分には何かいつも任務があると思っていた。任務……それはつまり、自分の周りにいる人たちを助け、困りごとを解決し、喜びを増してやるということだった。男がなぜこのような性格を持つようになったのかは分からない。おそらくそれは男の生まれながらの性質だったのだろう。どの学校でも男は人気者だった。人気者というよりも、尊敬される対象だったと言う方が正確かもしれない。同輩たちだけではなく、教師たちすら男のことは只ものではないと思っていた。

 

 若い妻と再婚した父親は息子のことを愛さなかったが、それでも最低限の務めは果たしていた。男は学資に不自由することはなかったし、男自身も学問に精励した。男は弁護士となり、若いうちから数々の案件をこなしていった。一番の能力があるというわけではなかったが、誠実な働きぶりとその人柄によって、男はすぐに都市で一番、国で一番の弁護士としての評価を固めていった。弁護士としての過酷な仕事は、いつでも自分には任務が与えられているという男の信念を鍛え、強化していった。

 

 金になりそうな依頼はいくらでも舞い込んできたが、男は決して社会正義に反すると思われるような仕事はしなかった。その代わり、どんなに少額の報酬であっても、それが社会公益のためになると思われるのならば、男は進んでそれを引き受けた。折しも社会は大きな変革を迎えつつあるところだった。男の仕事はいつも困難だったが、それを乗り越えるたびに男はますます評判を高め、名声を博していった。

 

 家庭生活においても、男は幸せそのものだった。若い頃に恋愛結婚によって結ばれた妻は四十年以上も男と連れ添って、それから満足して死んでいった。子どもは息子が四人に娘が三人だったが、このうち成人まで育ったのは息子が三人に娘が一人だった。そして、成人した息子はすべて戦争で死んでしまった。

 

 戦争の時、男は大臣を務めていた。大臣として男は戦争遂行に尽力した。大陸全土を巻き込んだ戦争は四年間も続いた。男は国中の村という村から、町という町から、都市という都市から若い男たちをかき集め、鉄道に乗せ、船舶に乗せて大陸の戦場へと送り込んだ。膨大な死者を出し、息子たちもすべて死んでいったが、男は信念と共にそれを乗り越えていった。いつ、どんな時でも自分には任務が与えられている。その任務をこなすことが、すなわち生きるということなのだ。

 

 戦争中に、その国の死者は百万を超えた。すべて若い男たちだった。死んだ者たちは国には帰って来なかった。大陸の戦場は泥と鉄屑とガスと瓦礫に埋まっていた。男たちの死体もその中に埋もれていた。戦争が終結したその日、男は静かに議会で演説した。私は無事に任務を果たせたことを神に感謝する。

 

 戦争が終わってからは、男は下野して民間の慈善家として活動をした。慈善家としての男はさらに大きなことを成し遂げた。労働者たちの過酷な生活環境を改善し、保険組合を作り、病院を建て、孤児院と学校を建てた。

 

 その後に続いた大戦でも男は乞われてまた入閣し、また若者たちを戦地へと送り込んだ。今度の戦争は六年も続いた。絶対に負けるわけにはいかない戦争だった。男は精力的に働き、何度か行われた内閣改造でも、そのたびに政権に留まり続けた。今度の戦争の死者は五十万人といったところだった。戦争が終わった日、男はまた議会で演説をした。私は今回もまた無事に任務を果たせたことを神に感謝する。

 

 今では男も老いていた。息子たちはみな死んでしまったが、孫はたくさんいた。妻には先立たれたが、屋敷にはいつも孫やさらにその子どもたちがいて、いつも自分と一緒にいてくれている。男はいつも満足げな顔をしていて、目を細めて子どもたちを見ている。困難な任務ばかりの人生だったが、こうして幸せいっぱいな子どもたちを目の当たりにできるということは、自分は立派にそれを成し遂げてきた証拠ではないか……

 

 若い姿に戻った男は、上着のポケットに入っていた煙草を取り出して、一服をした。そういえば、彼が一度も会ったことがない母方の祖父は煙草が大好きだったそうだ。どの銘柄の、なんという種類の煙草が好きだったのか、それを知ることはできなかった。母とは物心ついた頃から会ったことがなかった。男は煙草の煙を吐き出した。母は不幸な人だったと聞くし、自分でも不幸だっただろうと思うが、だからといって父を怨むことはない。母にも父にも、きっと果たすべき任務があったのではないか。

 

 任務のためならば、あらゆる犠牲は甘受すべきだ。なによりも尊くて確実なのは、任務だけなのだから。男は火のついた煙草を川に投げ込んだ。川は煙草を瞬時にして飲み込んだ。煙草はゆらゆらと水面を下流へと流されていった。

 

 男は川へ向かって歩き始めた。そう、人間にとって唯一必要なものがあるとすれば、それはやはり任務なのだ。男は川に入った。やはり足はつかなかったので、男は体を伸ばして泳ぎ始めた。任務があれば、人は人らしく生きることができる。任務のない人生など、ただの生の牢獄だ。

 

 男は泳ぎ始めた。学校にいた頃から泳ぎは得意だった。泳ぎながら男は考えた。自分は二つの戦争中に大臣として、合計で百五十万もの若者を戦場で死なせた。だが、これも考えようによっては、最も重要な任務を百五十万の若者たちに与えてやって、それに殉じさせることができたのだと言える。自分は数々の慈善事業を成してきたが、大臣としての任務はその中でも最高に価値のあるものだったと言えるかもしれない……

 

 川はだんだん深くなってきた。のみならず、周囲には霧が立ち込めるようになっていた。水の色は灰色になっていて、太陽の光はもう見えない。それでも男は力強く手足を動かして、前へ前へと進んでいく。こうして川を渡るというのは、もしかすると、生前何の任務も果たすことができなかった者でも、この場において何かを果たすという機会を得られるようにするためかもしれない。この世と、もう一つの世界を支配しているあの存在は、やはりそのようなことを考えているのでは……

 

 そこで男は、ある一つの考えが脳裏に閃いて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

 自分がこれまでに果たすことのできなかった任務は一つもなかった。だがもし、もし今回が、その最初の任務となったとしたら……もし、この任務を果たすことができなかったとしたら、自分はどこに行くことになる……?

 

 その時だった。男の背後で、轟音と共に巨大な水飛沫が上がった。男が振り返ると、そこには巨大な生物がいた。完全に視界を支配するほどに大きい。生物の顔は年老いた男と女と、中年くらいの女の顔が混ざっていた。男はその顔に見覚えがあった。顔は嘆きと憎悪に歪んでいて、目は鋭く男のことを睨んでいる。生き物は二足歩行をしているようで、足は川底についているようだった。体の表面にはびっしりと鱗が生えていたが、よくよく見るとそれは小さな人間の顔で、どれも年若い男たちの顔であるようだった。顔はどれも打ちひしがれていて、血の気を失って真っ白になっていた。そのような鱗が数千、数万、いや、百万とその半分ほどは体を覆っているようだった。

 

 男は全力を出して手足を動かし、向こう岸へと辿り着こうとした。だが、ほんの数メートルも進まないうちに、男の足の先に巨大な生物が食らいついて、そのままの勢いで男を空中に跳ね上げると、口を開いて男を丸呑みにした。男がそのままの状態で喉を通り、胃の腑へと送り込まれた後、巨大な生物は哄笑を上げ始めた。金属質な、甲高い声だった。

 

 すべてのものを嘲るような笑い声は、カエルの鳴き声のようでもあり、女の歌声のようでもあり、男の喘鳴のようでもあった。笑い声はいつまで経ってもやまなかった。やがて、生き物は笑い声を上げるのに飽きると、静かに水中に身を没していった。水面には大きな波紋だけが残った。

 

(「どうしても渡れない」おわり)




※以下、作者による作品メモ

この作品は「とにかく手を動かして何かしらのものができないか試す」というコンセプトで書かれました。結果としては親子三代の業の話になりましたが、当初は「川を渡れない人間たちのエピソード集」になる予定でした(「非線形」のような感じです)。さーっと完成させるつもりがかなり手を加えなければならず、結果的には相当苦労しました。学ぶことも多かったのでOKですが……
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