故郷にいた頃、男は、ある修行僧が秘法を執り行うのを見たことがあった。簡素な衣を纏った修行僧は穏やかな表情をしたまま、地面の下に設けられた密室へと入っていった。地面を深く掘り、木でできた四角形の部屋を収め、その上を別の板で塞いだ後に土を被せる。上部には空気穴が開いており、また小さな鈴も備えられている。部屋の中には少量の食物と水があり、修行僧は祈りながら死ぬまでその中で過ごす。小さな鈴には紐がつながっており、修行僧は決まった時間ごとに鈴を鳴らす。
鈴が鳴らなくなった時が、すなわち修行僧が死んだ時であり、また修行僧が生きたまま聖者となった瞬間だった。
まだ小さかった男は毎日のようにそこへ通った。ちょうど故郷は冷害と疫病によって多くの犠牲者が出ていた。修行僧は自らの祈りによってこの苦境を救おうと願ったようだった。男は幼いながらも、祈りだけで冷害と疫病が収まるわけではないと分かっていた。だが、修行僧が本当に死ぬかどうかはまだ分からなかった。もしかすると、鈴を鳴らさなくなるということは、死んだからではなくて、修行僧がもはやそんなことは必要ないと思ったからかもしれず、あるいは修行僧は本当に人間以外の存在になってしまうから、鈴を鳴らすことができなくなるのかもしれない。そのことを男はどうしても確かめてみたかった。
だが、結局のところ、男がその結末を知ることはなかった。というよりも、そのことを今になってやっと男は思い出したのだった。なぜ自分はそれを知ることができなかったのか? 男にはそれが不思議でならなかった。あれほどまでに、いつ鈴が鳴らなくなるのかを知りたかったのに……
あるいは、忘れているだけなのだろうか?
島にはほとんど何もないことが判明した。男としてはそれを充分に予期していた。まだ調べていないのは小高く盛り上がった小さな火山の反対側の斜面だけで、おそらくそこにも何もないはずだった。火山性噴出物と細かく砕かれた岩からできた黒っぽい砂⋯⋯それが全島を覆っていて、植物は岩の隙間にまばらに生えているだけだった。海岸は一箇所の浜辺以外は切り立った崖のようになっていて、登り下りをすることはできない。
こうして命を永らえたことが果たして幸運であるのかは男にとって分からなかった。しかし、そのことについて自分があまり興味を抱いていないことも男には分かっていた。命というものは失われる時には失われるものだし、それゆえにさして貴重なものでもない⋯⋯命が貴重なものであるというのは一種の社会的な約束事に過ぎず、そして約束事というものは状況や条件が変わればいつでも破棄されるものだ⋯⋯あの修行僧も、果たして命が貴重であるという約束事のない社会においては、あの秘法を執り行ったのかは分からない。
重要なのは、なにか食べられるものはあるのか、また、危険となるようなものはあるのか、それだけだった。
太陽はすでに下り始めていた。空には雲一つない。男はまだねぐらとなる場所を見つけていなかった。この島に来たのは三日前で、それ以来身を隠すものは何もない開けた場所で眠っていた。火山性の孤島であるがゆえに地面は薄く熱を帯びていて、時折謎の巨大な生き物が脈動するかのように震える。嵐に見舞われていないのは幸いだったが、あと数日以内にそれが来ないとも限らなかった。洞窟のようなものがあれば安泰だが、そのようなものは今のところ見当たらない。
男は歩き始めた。眼前には小さな火山がある。火山の斜面は急で、かつ裾野はそのまま崖になっていて海に落ち込んでいるから回り込むことはできなかった。そうであるならば一度頂上に登り、それから反対側に降りるしかないだろう。男の歩みは遅々としていた。男の喉は渇ききっていた。このまま水が手に入らなければ、一日ももたないだろうと思われた。今では空腹はさして問題ではない。水だけが必要だった。
左右に目を上げれば見渡す限りの海が広がっている。海は濃紺で、白い波濤が数限りなく彼方から押し寄せている。崖に打ち付けて砕ける波の音は聞こえない。ただ風の音だけが聞こえた。風は何も伝えてはくれなかった。ただの轟音だけが男の耳の中で響いていた。男は、波濤の高さと風の音から判断して、遅くとも今日の夜には嵐が来るだろうと予想した。嵐が来れば⋯⋯今度こそ死ぬだろう。この海域の嵐の凶暴さを男はよく知っていた。自分の船を仲間ごと飲み込んだあの嵐と同等のものがこの島にも来訪するとすれば⋯⋯体温が下がりすぎて死ぬか、体が濡れて肺炎になるか、あるいは未知の病気になるか。男は冷静に自分の肉体の状況を観察していた。弱っているこの体が病気になれば、絶対に助からないだろう。
火山の麓にまで来てから、男は休むことなく足を踏み出して斜面を登り始めた。斜面もまた真っ黒な砂で覆われていた。かなり強い硫黄の臭いがする。地面は熱かった。時々大きな岩の破片が混ざっていて、鋭く尖った先端が男の足を傷つけた。男の素足からはあまり血が流れ出なかった。斜面を登っている最中にも、男の肌には汗がほとんど浮かばなかった。自分の限界がすぐそこにまで来ていることを男は悟っていたが、それでも、山を登りきることはできそうだった。男は振り返って下を見た。いつの間にかかなり高いところに来ていて、山の反対側の斜面を除く島のほとんどが見えた。あまりにも小さな島だった。男が偶然流れ着いたビーチは、小指の爪ほどの大きさもない。左右にはどこまでも海が広がっていて、他に島は見えなかった。
火口付近はさらに急な傾斜になっていた。男はほとんどしがみつくようにして登っていった。斜面の反対側が未知の領域であるからこそ、自分にこれほどの力が残されているのだということに男は気づいていた。もし斜面の反対側のことを知っていたら⋯⋯ふと男は、人間の生もおそらくはそうなのだろうと思った。もし死後のことを知っていたら⋯⋯人間は生きていられないはずだ。
あるいは、あの修行僧は死後のことをよく知っていたのではないだろうか。掴んだ岩が崩れて、男は危うく滑落しそうになった。自分の心臓が早鐘を打つのを男は煩わしく感じた。死を知らないから自分たちは生きていくことができる。しかしそれ以上に、おそらくは、死の先にある世界を知ってしまったら、もうこの世界を生きていくことができないのではないか。男はさらに登っていった。筋肉は疲労し、汗腺はもはや汗の一滴すら分泌しなくなった。
そうであるのならば、生存の条件とは未知なのだろうか? 男は手を伸ばして再度岩を掴んだ。その岩の表面はゴツゴツとしていて、男の手のひらは傷ついた。では、この火山を登りきった後に未知なるものが消えたら⋯⋯自分は死ぬのだろうか? それでも男は登るのをやめなかった。
男は火口に到達した。つまりそこが頂上だった。硫黄の臭いはますます濃くなった。男は、修行僧が密室に入る前に周囲に焚かれていた香の匂いを思い出した。二つのにおいにはどこか似通ったものがあった。あの時は、どの大人も泣いて修行僧を拝んでいた……幼い男だけが泣きもせず、拝みもせずに修行僧を見ていた。
火口は控えめにくぼんでいて、一面が黒っぽい岩で覆われていた。男は瘡蓋を連想した。そして、おそらくその連想は半分は合っていて、半分は外れているだろうと思った。瘡蓋は傷を塞いで癒す⋯⋯だが、この岩は塞ぐだけで、癒しはしない。この火山がいつ爆発するのか男には予想できなかったが、この島に居続けるということはいつか火山の爆発に巻き込まれるということだった。立っていても分かるほどに、火口付近の地面は小刻みに揺れていた。
山頂からの眺めはそれまでとさして変わらなかった。男は空を見上げた。太陽はかなり下の方にまで下がっていた。もう数時間もすれば夕暮れになるだろう。男は火口の反対側の縁まで歩いていった。何が見えるだろうかという問いすら男は抱いていなかった。ここに来たからには縁にまで歩いていく。そういうふうに決められているからそこまで歩いていくだけだった。反対側に何もないということを男は予期していたし、その結果として自分の死が確定することも男は予期していた。
だが、何かがあった。火山の反対側の斜面は、これまで登ってきた斜面とほとんど同じだったが、その先に広がる麓には何かがあった。キラキラと太陽の光を反射する何か……それが無数に光っている。麓からはほどほどの大きな面積の地面が広がっていて、その地面のすべてが点々と光を放っている。離れているからその地面の様子はよく見えないが、とにかく光っているのは確かだった。水だろうか、と男は思った。岩と岩の間にある窪みに雨水が溜まっていて、それが太陽の光を反射している……そう思った瞬間、男の足は自然と動き出していた。自分がそれほどまでに水を欲していたことを男はやや意外に感じた。
斜面は急だった。男は確かならない足取りではあったが、それを降りていった。落ちれば死ぬのは確実だった。斜面にはところどころに冷えて固まった溶岩が剥き出しになっていた。やがて、男は麓に辿り着いた。そこには一面に溶岩が流れた跡が広がっていた。一面の岩場の上には強い風が吹いていた。思った通り、岩場の隙間には雨水が溜まっていた。男は手で掬って水を飲んだ。味は分からなかったが、男はそれを貪るように飲んだ。一つの隙間にはかなりの量の水があった。
水を飲んで落ち着くと、男は急に疲労感を覚えた。その場に座り込みそうになるのを堪えて、男は身を隠すことができそうな場所がないか探し始めた。これだけの岩場ならば、もしかすると雨風をしのげるような窪みか、あるいは洞穴のようになっている場所があってもおかしくはない。男はしばらく岩場を歩き回った。岩は熱かった。男は、それが太陽の光によるものというよりは、おそらくは火山から供給される熱によるものだろうと推測した。
ちょうど岩場の中央付近に来た時に、男は窪みと言うには些か大きすぎる穴が開いているのを見つけた。男は慎重に腹ばいになると、中を覗き込んだ。穴からは太陽光が差し込んでいた。地上の岩場と同じような岩が一面を覆っている。ここから見える範囲には他に変わったものは何も認められない。だが、ここが洞穴であることには間違いなかった。火山噴火の際に流れ出た溶岩が、偶然の作用で地下にこのような空間を生み出したのだろうと思われた。
穴を覗き込みながら、男は逡巡した。この入口の穴は地表と垂直方向に開いている。もし中に入ったとして、もう一度外に出ることは可能なのだろうか? そのように考えた瞬間、男の脳裏にあの修行僧の姿と密室の光景が蘇った。修行僧はずっと祈りを唱えていた……蓋が閉じられた、その瞬間まで。そして、おそらくは蓋が閉じられた、その後も。
途端に、男の中で問いが噴出した。あるいは、この中に何か有害なガスが溜まっていたらどうする? もし嵐がやってきて、大量の雨が降ったら、この洞窟は水没するのではないか? 仮にこの中でしばらく過ごすとして、海に助けとなる船が浮かんでいるのに気づくことはできるのか……?
その時、男の聴覚は何か鋭い音がどこか遠くで響くのを微かに感じた。男は顔を上げた。気づけば太陽はかなり下っていて、空の色は暗くなりつつあった。夕闇を纏いつつある高い空には早くも星々が見えつつあったが、まだ明るさを残している水平線上には雲が漂っていた。大きな積乱雲がいくつも浮かんでいて、その下の方で稲光が閃いているのが見えた。列をなした積乱雲は、急速にこの島へ近づいてきていた。
何よりも、生き延びることだけが重要だ。
男はもはや迷わなかった。体の向きを反対に変え、穴の縁からまず足だけを出すと、ゆっくりと上半身をずらしていった。ほどなくして下半身がすっぽりと穴の中に入った。男は少しだけ足を動かしてみた。中はかなり広いようで、足はどこにもぶつからなかった。ふと、穴から下まではどれくらいの高さだろうかと男は思った。先ほど見た限りではあまり高そうではなかったが、案外高い可能性もある。そうなると、下に落ちたら足を挫くか、骨を折ってしまうかもしれない……そのように考えている最中には、もう男は腕の力を緩めていて、全身が穴の中へと落ちていた。
浮遊感を感じた直後、強い衝撃が男を襲った。男は起き上がると急いで全身を確認した。どこにも怪我をした様子はない。また、穴の中の空気も清浄だった。頭上から大きな雷鳴が聞こえた。男は這うようにして穴から離れた。穴から離れると、空間の中はほとんど闇だった。雷鳴はさらに激しくなった。そして、すぐに大粒の雨が降り始めた。穴の上から落ちてくる雨は、男の反対側の空間へと流れ落ちていった。男はしばらく目を開けて、雨の様子を観察していた。だが積乱雲が完全に空を覆ってしまうと、まだ残っていた太陽の光も完全に遮断されて、穴の中は闇に包まれた。
いつしか男は眠りに落ちていた。穴の中の地面は熱く、時々脈動していた。男は出港前の生活を夢の中で見ていた。男は寝床で眠っていて、隣には何か生温かくて大きなものが眠っている。女ではない。曰く名状しがたい肉の塊のようなものだった。肉の塊はチリチリと軽い音を立てている。それは、あの密室の上に設けられた鈴の音だった。それでも男は夢の中でそれをとても愛おしいものとして感じていた。ざらざらという乱雑な音が絶え間なく響く中で、時折砲撃音のような雷鳴がする。男は次第に夢すら見ない眠りの中へさらに深く潜り込んでいった。
次に男が気づいた時には昼になっていた。男は時刻を穴から差し込む光の位置で瞬時に判断した。太陽が最高の高度に達しているのならば、光はほぼ穴と同じ形になる……今は多少のずれがあった。ならば、今は午前の終わりか、あるいは午後の始まりのはずだった。光によって穴の中全体が薄明るくなっていた。強烈な喉の渇きを覚えて、男はあたりを見回した。すると、男はすぐに穴の反対側に水が溜まっているのを見つけた。そちら側の空間は下へさらに大きく窪んでいて、小さな溜池のようになっていた。
迷うことなく男は水を掬って飲んだ。昨日の雨は相当な量の水をこの穴にもたらしたようで、仮にしばらく雨が降らなくても飲み水には困らないだろうと思われた。水を飲んでいる時に、男は修行僧が飲んでいた水について思い出していた。密室に収められた水には特殊な薬剤が混ぜられており、修行僧が死んだ後でも肉体を腐らせないようにしているとのことだった。毎日少量ずつを飲むことによって、肉体の隅々にまで薬剤が浸透するようになる。だが……なぜ、修行僧の死体を腐らせてはならなかったのか? 男はそのことを思い出せなかった。
渇きが癒されると男は空腹を覚えた。男はそれを予期していたが、予期していた通りにそれが訪れるとかえって意外な念に囚われた。自分だけはそういったことの例外に属するのではないかと思っていたのだろうか? 男は暗い穴の中を見回した。自分だけは例外に属する……そのように信じることが、生きるためには必要なのではないか? そうだとすれば、あの修行僧は自身のことを例外から外れた存在であると確信していたのだろう……
穴の中にこれ以上何もないのだとすれば、穴から出て何か食べ物を探さなければならない。水と寝床は確保したが、それだけでは生きていくことができない。男は穴を見上げた。そのためにはかなりの角度で首を曲げなければならなかった。あたかも個室の部屋の天井にぽっかりと穴が開いているようだった。梯子もなく、綱もない。だが、跳躍すれば手が穴の縁には届くかもしれない。男はしばらく穴を見つめ続けた後、目を背けた。今の自分にはそれだけの体力が残されていない。だから、試しても意味はないだろう。
だが、このままこの穴に留まっていれば餓死することは確実だった。餓死の可能性を前にしても男はいっさい動揺しなかったが、飢えに伴う苦しさが甚大であることは認識していた。かつて、男は船上で飢えに見舞われたことがあった。あの時も嵐にあって帆柱が破壊され、食糧庫にも浸水し、水も食物もない状態で漂流することを余儀なくされた……多少の飢えにならば耐えられることを男は知っていたが、それがかえってこれから自分を見舞うであろう苦しさを浮き彫りにした。男の目は素早く、もう一度穴の中を観察し始めた。
修行僧の密室には食べ物があった。ならば、この穴の中にも、きっと食べ物はあるはずだった。修行僧が食べていたものは、乾燥した少量の穀物だけだった。それでも、食べ物であるのには違いなかった。
水が溜まっている方には何もなかった。男は、反対側の空間の壁をもう一度詳しく見た。すると、それまでは穴から差し込む光の加減で見えなかったものが、時間の経過に伴って光線量が変わり、男の眼前に現れるようになっていた。男は近づいてそれを見た。壁と、天井部分との間の付近に、何かがびっしりと列をなしている。それは乳白色の、楕円形をした物体だった。何かの卵のようだった。それが無数にある。手を伸ばせば、それには充分に手が届いた。男はそれを壁からもぎ取った。意外なほどにそれは簡単に取ることができた。
しっかりとした重量感があった。男はよくそれを観察した。やはり何かの卵であろうと思われた。卵の殻は柔らかく、しっとりとしていた。鶏卵を一回り大きくしたような大きさだった。男は、これが卵だと認識した瞬間に、自分の思考がどのようにすればこれを食べられるかという方向に切り替わったことに驚いていた。そして、殻が柔らかいのだから、そのまま口で噛み切ってしまえば良いと結論した。
男はそのようにした。卵の殻は何度か試しているうちに破れた。中身はよく分からないどろどろとしたものだったが、男は破れ目に口をつけてそれを飲んだ。意外なほどにそれは口当たりよく感じられた。やや血のような生臭さがあるが、全体として鳥の肉のような味で、それどころかほのかな甘味もある。空腹を満たすためにはさらに何個か食べる必要があった。男はそのようにした。そのうち食べるのにも慣れて、最後の一個を食べる時にはたったの一回噛みつくだけで殻を破ることができるようになった。
食事を終えると、男は狭い空間の中をぐるぐると歩き回った。船にいた頃も、暇な時間では男はいつもうろうろと船内を歩き回ったものだった。男は、もしかするとあの修行僧も、祈りを唱えていない時は密室の中を動き回っていたのかもしれないと思った。あの密室は立って動き回ることができるほど大きくはなかったが……それでも、這いまわることはできる。男は再度、天井の穴を見つめた。修行僧は抜け出す気などなかった。だが、自分にはこの穴から逃げ出すことができるかもしれない。体力が回復すれば……
数日の間、同じことが繰り返された。男は水を飲み、排泄をし、空間の中を歩き回り、卵を食べ続けた。最初に食べた時にはまだ中身はどろどろとしたほとんど液体のようなものだったが、その頃になると肉のような一定のまとまりを帯びるようになっていた。孵化が近いのかもしれないと思いつつ、男はその日も卵を食べた。体力はかなり回復してきているようだった。男は天井の穴を見上げた。今ならば、ちょっと跳んだだけで縁にまで手が届きそうだった。
あの修行僧も、外に出ようと思えば出られたのだろうか。そんなことを男を思った。
突然、男は急な気怠さを感じた。眩暈がし、手足が震える。男は横になって休むことにした。そこはちょうど、卵が列をなしているところの真下だった。男は横になって卵を眺めながら、ふと修行僧が食べていた食べ物についてさらに思い出していた。
修行僧の食べ物にも水と同じく薬剤が混ぜられていた。だが、水には防腐剤が混ぜられていたが、食べ物は毒物を含んでいた。それはごく弱い毒物で、健康な人間が飲んでも生理的な作用で簡単に解毒されてしまう。だが、弱った肉体にとっては強力な作用を発揮する。修行僧はそれを毎日少しずつ摂取していく。心臓が弱り、呼吸器も次第に機能を弱めていく……数日後には、修行僧は死ぬことになる。腐らない体を残して。
いつの間にか、男の体はまったく動かなくなっていた。動かない体の中で、男の精神は活発に活動した。視線の先には卵の列がある。あの卵のせいだろうか。それとも、水のせいだろうか。おそらくは卵のせいだろう。卵に毒があったのだ。男は目を閉じようとした。だが、意に反して瞼が動くことはなかった。地面は相変わらず熱く、脈動していた。
どれだけ麻痺したままその場に転がっていたのか、男には分からなかった。時間が経つにつれて、麻痺の状態はますます深刻さを増していった。もはや手指の先ほども動かすことはできなかった。男の思考は今ではまた修行僧に戻っていた。
二週間が経過しても、修行僧はまだ生きていた。男がそこを訪れるのはいつも食糧採集が終わってからだった。野山に出かけて食べられそうな草や木の樹皮を得て、それを家に持ち帰ってきて煮て食べる。穀物はなく、肉もなかった。その地方一帯の飢えと疫病は深刻で、道には死者の死体が積み上げられていた。死体の中には腿の肉がないものも多かった。まるで切り取られたかのようにその部分だけがなかった。男にはその理由が分かっていた。そして、自分も機会があればそのようにするかもしれないと思った。
その場に行くと、いつも餓死者がいた。あるいは疫病で病死した者たちが野晒しにされていた。死者たちは大抵修行僧と共に祈っていた者たちだった。男は死者の懐を探り、何か食べられる物がないか確認してから、小さな鈴が鳴るのを待った。その時も鈴は鳴った。弱々しく、今にも消え入りそうな音ではあったが、確かに紐は引かれており、鈴は音を鳴らしていた。
音が鳴らなくなったのは、その四日後だった。男の周りの大人たちはみんなそれを予期していたようだった。鈴が鳴らなくなって一ヶ月ほどが経ってから、大人たちは密室を掘り出した。男はすぐ近くでその光景を眺めていた。蓋が外れると、中には修行僧がいた。修行僧は結跏趺坐しており、片方の手は印を結んでいて、もう片方の手は鈴の紐を掴んでいた。
男は、修行僧が修行僧のまま死んだことに不満にも似た思いを抱いた。聖者というからには、もっと違った存在になるものだと男は思っていた。だが、それはどう見ても単なる死体でしかなかった。あるいは、やはりそれは聖者かもしれなかった。修行僧の死体はあまりにも綺麗だった。綺麗であるからこそ、この死体には何らかの力があるかもしれなかった。
大人たちは数人がかりで修行僧を密室から運び出すと、あらかじめ用意しておいた筵の上に死体を安置した。すぐに死体から衣が剥ぎ取られた。修行僧の肉体はほとんど骨と皮だけになっていた。男は、修行僧の性器が大きく弛んでいるのを見た。あたかも破れた革袋のようだった。
一通り祈りの文句を口に唱えてから、大人たちは刃物を使って修行僧の肉体を解体し始めた。血は出ず、臭いはなく、ただ肉を切り裂き、骨を折り取る音だけが響いていた。男はその音が、芋虫たちが葉を齧る音とよく似ていると思った。大人たちは各部位ごとに丁寧に死体を分解し、用意していた容器に収めていった。そして、その場にいた人々に対して、解体役たちは修行僧の腿の肉の破片を手渡していった。
聖者は疫病と飢えから人々を救う。大人たちは口々にそのようなことを言った。だからこの尊い方は、自ら聖者となることを選ばれたのだ。
そこまで思い出して、男の思考はまた現実に戻ってきた。背にした地面は暑かった。火山から小刻みな振動が伝わってきていた。男は、自分の目の前にある卵の列を見た。それまでとは違って、どの卵の表面も波打っている。何かが生まれようとしているようだった。この火山の熱と振動が、卵の孵化を早めたのかもしれない。
まったく動けないまま、男はなおもそれを見ていた。やがて、一つの卵の表面が割れて、その中から何かが下へ落ちてきた。ちょうど男の足元に落ちたようで、奇妙なまでに水気を含んだ音だった。男はなんとかそれを見ようとしたが、頭と首は動かなかった。目だけは動かすことができた。目を動かすと、その姿がはっきりと見えた。
それはカタツムリのような、ナメクジのような、あるいはウミウシのような姿をしていた。穴から差し込んでくる太陽の光を浴びているその生き物の体表は毒々しい紫色で、青色や黄色や赤色の斑点が明滅している。クラゲのように体は半透明で、両眼は外に突き出ていて、眼球にはこういう生物には不釣り合いなほどに大きな黒目がついていた。
その黒目が、男を見据えている。生き物はゆっくりと男の方に近づいてきた。目の可動域から外れたためにそれの動きを見ることはできなかったが、足の先にそれが身を乗せて、徐々に這い上がってくるのは分かった。腿のあたりにまで来ると、それは動きを止めた。
その瞬間、鋭い痛みが走った。刃物で切り取られ、抉られているようだった。
一つの光景が、男の頭の中で蘇っていた。大人たちが肉を食べている光景だった。一人の大人が男に肉片を渡した。お前も食え。疫病に負けるぞ。周りの大人たちはすでに食べ終えていて、口々に祈りを唱えていた。男はしばらく迷い、それからそれを口にした。それは意外なほどに口当たりが良かった。やや血のような生臭さがあるが、鳥の肉のようで、ほのかな甘みすら感じられた。
そうだ。男は思わず頷こうとしたが、頷けなかった。自分は結局、あの修行僧の肉を……聖者の肉を食べたのだ。生き残ることだけが重要だったからだ。脚の痛みは耐え難いほどになっていたが、麻痺していて動くこともできない。
肉を食べた後、男は切り落とされた修行僧の頭部を見た。顔の皮膚はすべて剥がされていて、筋肉と眼球が露出していた。黒目が男の顔を見ていた。
天井の卵が一斉に孵化した。大量の生き物が男の周りに降り注いできた。男は、自分の胸の上に落ちてきた生き物をよく見ることができた。その口と思われる部分には、剃刀のように鋭利な平たい牙が何層にもわたって生えていた。
全身のあらゆるところに牙が食い込んでくるのが男には分かった。牙によって切り取られ、削り取られた肉には消化液がまぶしつけられ、ドロドロに溶けたものを生き物たちは啜っていく。
もしかしたら、あの修行僧も同じだったのではないか。男の手足はすでに骨が露出していた。腹部の肉はなくなり、腹腔に収まらなくなった腸が飛び出している。もしかしたら、あの修行僧も実は死んでおらず、生きたまま聖者として解体されたのではないか……生きたまま、肉を食われたのではないか?
それでも自分は、もしかしたら生き残るかもしれない。男は自分が生きたまま解体されていくのを見続けた。あの修行僧にとっては未知なることなどなかった。だから聖者にならざるを得なかった。だが、自分は違う。自分が聖者になるわけがない。
なぜなら自分は、まだ死後の世界を知らないのだから。
喉元に一匹の生物が近づいて牙を光らせているのを見ながら、男はそんなことを考え続けていた。
(「密室の聖者」おわり)
※以下、作者による作品メモ
書いていて何かが足りない、何か物足りない、でもそれが何なのかが分からない、という状態が書き手にとっては一番つらいのですが、それが判明した時にはこの上もない快感を得られます。今回の「密室の聖者」も「即身仏」という要素を得るまではかなり辛かったです。