最初に大怪我を負ったのは生後四ヶ月の時だった。私は寝室に置かれたベビーベッドに寝ていて、ちょうど母は席を外していた。母が言うには、ほんのちょっと目を離しただけだったらしい。その間に私はベビーベッドから落ちた。まだ寝返りが打てなかったはずの私がどのようにして落ちたのか……母が言うには、私はベッドの真ん中で眠っていたとのことだった。しかし私は落下していて、ベッドの脚に頭を打ちつけた。脚には移動式のキャスターとそれを取り付ける台座が付いていて、台座は金属製だった。ほぼ生まれたばかりと言って良い私の、頭蓋骨の骨がまだ閉じきっていない柔らかな頭は、金属の台座の尖った角で傷つけられた。異様な物音を聞きつけてすぐに部屋に戻ってきた母は息を呑み、悲鳴をあげた。私の頭部は血まみれになっていた。それでも、私は泣き声一つあげず、まるで修行僧が虚空を見つめるような目つきで、じっと部屋の天井を見ていたという。すぐに救急車が呼ばれた。命の危機というほどではなかったが、やはり大怪我には違いがなかった。
母が言うには、私はその時から異様に辛抱強くて、決して自分の苦痛を表に出さない子どもであったらしい。私が生まれてから二年後に弟が生まれた。両親が生まれたばかりの子どもにかかりきりになると、先に生まれた兄や姉は忿懣と不安で異常行動を示すことが往々にしてある。それでも私はまったくそのようなことがなかった。私は滅多に声を発することもなく、家の中を歩き回り、ものを掴んで投げたり、小さなものを運んだりしていた。その頃の私の家は下町にある小さな官舎で、父は最寄りの駅から電車に乗って役所へ出勤していた。小さな家の中が、当時の私にとってのすべての世界だった。小さな居間に小さな寝室、台所と一体になった食堂、風呂、トイレ……私は毎日、家の中をぐるぐると歩き回った。居間には大きなガラス戸があり、そこからベランダに出られるようになっていた。
ある日、私はガラス戸を破った。いつものようにぐるぐると家の中を歩き回った後、ごく自然な足取りで私はガラス戸へ歩いていき、そのままの勢いでガラス戸に突入した。二歳児の体格と力ではガラス戸は破れないはずだった……後日家に来たガラス業者もそのように言っていたという。それでも私はガラス戸を破った。ガラスは粉々に砕け散った。けたたましい破壊音を耳にした母が駆けつけると、私は全身のあちこちに生じた傷口から真っ赤な血を流し、のみならずところどころにガラスの破片が突き刺さったまま、やはり無表情でその場に座り込んでいた。回復には半年かかった。両親は、やはり弟の育児にかかりきりになってしまったことが私をこのような行動へと導いたのかもしれないと結論した。私としては、ガラスの破片を踏んだ時の意外なまでの冷たさと心地よさしか覚えていない。
私が三歳になり、それなりに言葉もしゃべるようになった頃、父は転勤を命じられた。かなり北へと移動しなければならなくなった。異動の内示から発令までには一週間ほどしか時間的猶予がなく、父と母は大急ぎで引越し業者を探した。瞬く間に狭い家中に段ボールの箱が溢れた。引越しの応援として、母の母……つまり私の祖母が家に来ていた。祖母は台所道具を段ボールに詰めた。その時、私が包丁やハサミなどの刃物を手にしては危ないと思って、祖母は特に厳重に段ボールに封をした。二重にテープを巻いたという。祖母がその場を離れた後、私はその段ボールの前まで行き、祖母がやっていたのとちょうど逆の手順で段ボールを開けた。祖母がその場に戻ってくると、私は包丁を手にしていた。右手に包丁を持っていて、左手の手のひらには大きな傷ができている。私は泣くこともなく、観察するかのように盛んに血を噴き出している左手を見ていた。
私は手術を受け、しばらく祖父母の家に預けられた。母はかなり悩んだとのことだった。父はとにかく転勤先へ向かうにしても、母はどうするか? 私の傷はまだ塞がっていないから飛行機に乗せるわけにはいかない。しかし、傷が塞がるまで母が共にここにいれば向こうでの父の生活は成り立たない。父の仕事は激務で、家のことにまで気を回すわけにはいかなかった。結局、母は弟を連れて父と共に転勤先へ向かった。結果として、私は二ヶ月も祖父母の家にいた。その後、祖父母が私を連れて飛行機に乗り、向こうへと連れていった。祖父母の家では、私は終始大人しかったという。
北の大地は広く、冷たく、暗かった。私のそこに関する記憶は、暗闇の中を何か巨大な黄色いものが赤い目玉を光らせ、轟音を立てて移動しているのを見たことくらいしかない。それは除雪車だった。家はこじんまりとした作りで、それと不釣り合いなくらいに大きな庭が付いていた。庭には錆びた古い鉄柵があった。柵は中ほどで折れていて、何本もの細い鉄柱はスパイクのように先端が尖っている。父と母は引っ越しするなりこの柵の危険性に気づいて、撤去の手配を進めていたが、数ヶ月経っても業者は来なかった。
家の近くには国立大学の農学部があり、学生たちが毎朝のように私たちの家の庭を通り抜けようとした。そこが近道だからだということだった。どの学生も自転車に乗っていた。ある日、朝から庭に出て遊んでいた私は、学生の乗った自転車に衝突された。正面からぶつかった私は数メートルも跳ね飛ばされて、折れた古い鉄柵の真上に落ちた。首と腹部と左手と右足が貫かれた。手術の前に、母は私に重い障害が残る可能性を医師から示唆されたという。だが、私は元通りに回復した。完全に治るには丸一年近くかかったが、私は怪我をする前よりもさらに元気に、かつ大きくなった。
父はまた転勤を命じられた。父の任期はだいたいいつも一年半から長くて二年半というところだった。今回の任期は二年で、次はまた内地に戻って西の大都市へ行かねばならなかった。怪我が治ってから私は近所の幼稚園に通うようになっていたが、早くも転園をしなければならなかった。西の大都市は熱気に満ちていた。新しい家は集合住宅の三階だった。新しい幼稚園には、父が毎朝いつも私の手を引いて連れて行ってくれた。幼稚園は父の通勤路のちょうど真ん中にあった。園の正門に来ると父は私を幼稚園の中に入れて、それからさっさと歩いていってしまう。急速に去っていく父の後ろ姿を私はよく覚えている。
幼稚園では、私は工作が好きだった。他の子どもたちもよく工作をして遊んでいた。紙を切り、糊で貼って、作り上げた作品で遊んだり、小さな劇をしたりする。紙を切るのにはハサミを使った。同じクラスに一人の男の子がいた。この子はいつも落ち着きがなく、物を振り回したり、他の園児を殴ったり蹴ったりし、奇声を上げて走り回ることがしょっちゅうだった。私はある日、その子と喧嘩になった。ごく些細なことがきっかけで、具体的に何について喧嘩になったのかを私は覚えていない。私はその子を殴らなかったが、その子は私を殴った。私は泣いていなかったが、その子は泣いていた。泣きながらその子はハサミで私に傷を負わせた。幼稚園児用のハサミは先が丸くなっていて怪我をしない設計になっていたが、その子は先生の机の奥深くにしまわれている大人用の尖ったハサミを持ち出してきた。私は何度もハサミで刺された。十箇所以上を刺されていたという。救急車の中には、幼稚園の担任の先生が一緒に乗っていた。私はこの先生のことが好きだった。そして、その悲しそうな顔を見て、申し訳ないと思った。それはおそらく私が人生で初めて自覚した申し訳なさだった。
ここでの父の任期は二年半だった。私はすでに小学校に入学していたが、あまり馴染めないうちにまた転校となった。父は私に対してすまないともごめんとも言わなかった。そうかといって、勉強は頑張っているのかとか、先生の言うことはよく聞いているのかというような、世間一般の父親が言いそうなことも言わなかった。父はただ何も言わなかった。それは言いたくないから黙っていたのではなく、なにか特別なことをあえて息子に言う必要性すら感じていないようだった。ところで母は、やはり私にあまり特別なことは言わなかった。夫が何も言わないことに関して思うところはあったが、夫が黙っている以上は自分があえて息子に何かを言う必要はあるまいと思っているようだった。ある時、二人の顔を見て、自分はここにいてはいけないのだと感じたことを覚えている。
首都に引っ越した後、私は新しい小学校に通い始めた。近辺には中流階層の家庭が多く、通ってくる子どもたちは概して大人しかった。担任の教師は大学を出てから十年くらいの女性の先生で、いつも目にわざとらしいまでに濃いアイシャドウを施していた。この担任はかつて夫と共にメキシコに住んだ経験を、ことあるごとに教室の児童に向かって話した。メキシコには食べられるサボテンがあることを教師が話すと、クラスの児童はみんな声を上げて嘘だ、嘘だと言った。嘘だと言われているのに教師が笑っているのが、私にはわからなかった。教師は私のことをしばしば褒めた。しかし、私はあまりうれしくはなかった。
ある日、家庭訪問があった。教師は車で私たちの家にまでやってきた。母と教師は世間話から始めた。新しい車なんです。まだ運転に慣れなくて。それは大変でしょう。それから二人はよく話した。教師が私を褒めて、母は礼の言葉を言う。何度も同じやり取りが繰り返された。私は母の隣に座っていた。部屋の中に大きなハエが飛んでいるのに私は気づいていた。私はどうしてもハエをやっつけたかったが、なんとかその衝動を抑えた。そして、なんでこの二人はハエに気づかないのだろうと思った。やがて、教師は席を立った。この後もクラスの児童の家を回らなければならないとのことだった。教師が家を出ていった後、母が一言だけ言った。今日はメキシコの話は出なかったね。そして、テーブルの上に薄いファイルフォルダが一冊残されているのに気づいた。まだ間に合う。母は自分でファイルを届けに行こうとしたが、私は母に自分が行くと言った。ファイルを手にとって外に出ると、ちょうど教師は車に乗り込んだところだった。私が車の前にいって手を振った時、教師は誤って車を急発進させてしまった。
私は車と壁の間に挟まれて潰された。頭蓋骨にヒビが入り、肋骨はほとんどが折れていた。折れた肋骨の何本かは私の臓器を傷つけていた。救急車が到着した時、私は血溜まりの中で痙攣をしていたという。教師は取り乱していて、通報をしたのは母だった。今度の手術は長くかかった。私は何度も輸血を受けた⋯⋯父は最初の晩だけ病院に来た。それ以外は仕事に出なければならなかった。母はまだ幼稚園に通っている弟を近郊に住んでいる親戚に預けると、幾晩も病院に泊まり込んで私のそばにいた。私は回復した⋯⋯後遺症はなかった。私の回復速度は早かった。リハビリもすぐに済んだ。理学療法士が母に私のリハビリを褒めるたびに、私は目線を下げて床をじっと見ていた。母はよくケーキを買ってくれた。私はそれをあまり美味しく感じられなかった。半年以上が経ってから学校に戻った時には、担任の教師はいなくなっていた。後から母に聞いたが、母が駆けつけた時には教師は錯乱していて、倒れている私の顔に何度も平手打ちをしていたという。私はそれを聞いて、そこまで取り乱した教師のことを気の毒だと思った。同級生たちはどこか私と距離を取っていたが、私にはそれが心地良かった。
父はまた転勤となった。父は家族というものは当然いつどんなときでも一緒であるべきだと信じ込んでいたようで、信じ込んでいるがゆえに自分の妻に対してそのことを相談することもなかった。母は母で夫のそのような考え方と態度をよく理解していたので、今回もまた家族全員が引っ越しをすることになった。今度は以前住んでいた西の大都市へまた移動した。新しい家は、前回の時と同じだった。転校先の小学校には幼稚園の時の友達がたくさんいたが、それは親からそうだと教えられたからそうだと分かっただけで、私には誰が誰であるのかなど分からなかった。だが、少なくともあのハサミで刺してきた子どもはいなかった。聞いた話によると、あの子の家はその後事業に失敗して、どこかに夜逃げしてしまったとのことだった。私は、あの子が今でも家族と一緒にいるのだろうかと思った。そして、もし一緒でないのならば可哀想だと思った。
ここでの生活は平穏だった。学校は楽しく、友達もたくさんできた。父も母も弟も元気で、弟とは毎日一緒に学校へ行った。弟はこれまでに一度も大きな怪我をしたことがなかった。弟はいつも私に向かって、僕の怪我の分まで兄ちゃんが怪我をして可哀想だと言った。私は、こんなに小さいのにそのようなことを言う弟の方が可哀想だった。父は私たちにあまり声をかけなかった。父は朝いつも同じ時間に出勤するが、帰ってくる時間は遅くて不定期だった。母と私と弟はよく三人で食事をした。お父さんは大変な仕事をしているから、と母はよく私たちに言った。だから、みんなで一緒に食事ができないのは仕方ないことなのよ。それを聞いて、私はいつも喉の奥が締め付けられるような気がした。父に対して申し訳ない気持ちがして、休日に顔を合わせると、私はいつも先に目を逸らしてしまった。
ある日、社会科見学があった。クラス全員が一台のバスに乗って、郊外にあるごみ処理工場へと向かった。工場では何も起きなかった。何台ものゴミ収集車が構内へと進入し、後部を傾けて、ゴミを巨大な貯留ピットへと投じていた。同級生たちがこわごわと底の方を覗き込んでいた。落ちたら死んじゃうかな。死ぬよきっと。ゴミがクッションになって助かるかも。焼却炉の前では誰もが無言だった。焼却炉は轟音を発していて、放散される熱は顔の皮膚を焼くようだった。
帰りのバスが交通事故にあった。もう数分で学校に戻るというときに、交差点で横合いから乗用車が突っ込んできた。ちょうど私は衝突した部分の座席に座っていた。私は担任の教師の指示通りにシートベルトをつけていたが、他の子どもたちはシートベルトをつけていなかった。それが、かえって他の子どもたちを救った。私は座席の中で押し潰されていたが、他の子どもたちは衝撃で跳ね飛ばされただけだった。ほどなくして、ガソリンタンクに引火した。バスは炎上し始めた。私は気絶していなかった。意識のあるまま、私は炎に焼かれた。自分の肌の表面が炎と熱によって沸騰したように泡立つのを私は見た。担任の教師は炎が上がりつつある中、苦闘しつつも私を座席から助け出した。教師と私はかなりの火傷を負った。後日、教師が私に対してこんなに火傷痕が残ってしまったと笑いながら示した時、私は自分がこの世にいてはいけない存在だと感じた。
小学校も終わる頃になって、父はまた転勤することになった。今度は西の大都市のさらに西の方へ、大きな湖の近くにある古都に移ることになった。父は、今度は転校ではないぞ、引っ越した先で新しい中学校に入学するんだからと言った。母は、それでも弟の方はまた転校するのよと言った。弟は転校のときに泣いて悲しがった。私は、弟がなぜそこまで泣くのか理解できなかった。それでも、弟はとても可哀想だと思った。
新しい家は広壮な平屋建ての屋敷だった。すぐ近くに裏山があり、その反対側には大きな天守閣を備えた城が、水堀の向こうにそびえ立っていた。私が入学した中学校は家から四キロほど離れていた。家を出て、坂道を下り、小綺麗な武家屋敷が並んでいる通りを歩いていく。武家屋敷はすべて観光資源だった。武家屋敷を抜けると堀のそばを歩いてさらに進む。堀は広く、深かった。ほとんど川のようだった。中学校は城から少し離れたところにあった。近くには代々の城主の菩提寺があった。中学校には家庭環境に恵まれない子どもたちが多く通っていた。制服を極端なまでに着崩した生徒たちが、休み時間と授業時間を問わずに学校内を歩き回っていて、気に食わないことがあれば鉄パイプを振り回していた。同級生の何人かはそういった生徒たちに絡まれていたが、私は何も害を受けなかった。
私は剣道部に入った。自分から望んだわけではなかった。父が私に剣道部に入るように望んだのだった。顧問は非常に指導が熱心で、過去に地方大会で自分の部を準優勝させたことがあるとのことだった。一年生の私たちは毎日のように走り込みと素振りと筋トレをさせられた。私は自分が強くなることにさして興味もなければ関心もなかった。それでも練習には真面目に参加した。最初の半年は基礎練習ばかりだったが、そのうち普通の稽古に参加できるようになり、最終的には試合にも出られるようになった。
一年生の冬の大会で、私は団体戦の中堅として出場した。その日二回目の試合だった。父と母と弟が応援に来ていた。私の対戦相手は体の大きな二年生だった。審判の号令がかかり、私たちは試合を開始した。一分ほどが経過したときに、相手が大きく踏み込んで強力な面を放ってきた。私は竹刀でその勢いを逸らしたが、相手の竹刀は私の面の金具に当たって大きく撓んだ。その瞬間、竹刀の表面が大きく裂けて、長く鋭い破片が面の金具の隙間をくぐり抜けて私の左目に飛び込んだ。衝撃と痛みで私が座り込むと、対戦相手は裂けた竹刀で何度も私も面を叩いた。審判は私に対してふざけていないでさっさと立ちなさいと言った。私が目に破片が入ったと訴えても、審判はなかなか理解しなかった。ようやく事態が判明してからも、すぐに救急車が呼ばれることはなかった。父が携帯電話で救急車を呼んだ時、私は選手控えの場で横になっていたが、次の選手が来るので邪魔だということで移動させられた。
左目の視力は完全には戻らなかった。私は眼鏡を着用することになった。父はしばしば私に言った。眼鏡を壊すなよ。高いんだから。私はいつも眼鏡を大切にした。あと半年ほどで中学三年生になるという時になって、父はまた転勤することになった。今度は東の首都へ移らなければならない。私たちは粛々と引っ越しをした。引っ越しの準備中、父が私たちの部屋を訪れた。私たちが黙々と持ち物を整理しているのを見ると、父はまだ封もされていない段ボールに近づいて中身をあらため、余分なものは捨ててしまえと言った。段ボールを一個運ぶのにも金がかかるんだから。私と弟はそれからさらにモノを捨てた。弟は泣いていた。弟が泣いているのに気づいた母が部屋にやってきて、私たちに事情を尋ねた。私たちは母に父から言われたことを伝えた。母は怒ってくれたが、父に対しては何も言わなかった。
首都の新しい家は集合住宅の五階にあった。家は広かった。中学校はすぐ近所にあった。私はその中学校に一年間と半年しか通わなかった。それでも受験学力は身につけることができた。私は高校に進学した。家からは相当な距離があり、電車を乗り換えなければならなかった。電車で通学している最中、私はよく本を読んだ。左目の視力は回復せず、右目を酷使しているので、私の視力は低下の一途を辿っていたが、それでも私は本を読むのをやめなかった。高校一年が終わる頃には私の学力は順調に伸びて、二年生の頃には特進クラスに入ったが、その頃にはもっと目が悪くなっていた。
私は部活動に入らなかった。父も剣道部に入れとは言わなかった。そもそも、私は運動ができるほどの視力を有していなかった。文化部に入るということも考えたが、それよりも私は本を読んでいたかった。その頃の私は、いつも説明のできない居心地の悪さを感じていて、その苦しみともつかない感情から逃れるように貪るように本を読んでいた。かといって、読むものは哲学書や宗教書といったものではなく、文芸や小説の類ばかりだった。話の面白さに救われたような気分にはなっても、その後に来るのはいつも虚脱感にも似た味気なさだけだった。その味気なさを忘れるために、また私は本を読むのだった。
ある日の早朝、私は駅のホームに立っていた。その日は土曜日で、学校で模擬試験を受けるために朝早くに出なければならなかった。平日とは違って、ホームには人がいなかった。テストを控えているのに、私は参考書も読まずにまた本を読んでいた。本を読みながら立っていると、ほどなくしてスピーカーから音楽が鳴り、電車の接近を告げる音声が流れた。電車の警笛が聞こえ、走行音が響いてきた時、突然私は背後に強い衝撃を感じた。とても強い衝撃だったため、私はそのまま弾き飛ばされるようにホームから線路に向かって転落した。
電車は私を轢いた。だが、私は生きていた。私はうつ伏せになって線路と線路の間に落ちていた。電車は私の背中の皮膚と筋肉の大部分を引き剥がすようにして持っていったが、それだけの傷で済んだ。私の骨は一部露出していた。落ちるところがもう数センチ横にずれていたら、私の頭部は轢断されていただろうとのことだった。私は回復するまでに半年ほど高校を休学した。学力はさして低下しなかった。復帰後の実力テストで私は学年で三位の成績を収めた。先生たちはみんな私を褒めた。父も私を褒めた。だが、私は自分が怪我を負ったことよりも、勉強もしていない自分が自分よりもはるかに勉強をしている同級生たちよりも良い成績を取ってしまったことに、罪悪感のようなものを感じていた。
私をホームから突き飛ばしたのは、若い女だった。薬物依存患者で、事件を起こした時にはすでに正常な判断力を失っていた。若い女は起訴されなかった。父も他に裁判を起こす気はなかった。仕事に差し障りがあるからだった。私は何も意向を確認されることはなかったが、私はそれで構わなかった。父の仕事が順調であることが、私たち家族が生存する唯一の条件であると私は信じていた。
私が高校生の間、父はついに単身赴任をすることになった。高校生の私が引っ越しに付き合ったら、学力が下がってしまう。そういう話だった。父は電話口で母に対してよく愚痴をこぼした。なんでこっちに来ないんだ? もう二週間はこちらに来ていないぞ。だって、あの子の傷もまだ治りきっていないのよ。でも、もう治療は受けているじゃないか。死ぬ心配はないだろう。私は、父に対して申し訳なさだけを感じていた。弟はその頃、中学生になっていて、毎日のように部活動に没頭していた。
高校を卒業した私は首都の北にある県に引っ越して、そこにある大学に通い始めた。大学の敷地内に設けられた学生寮は古く、狭く、汚れていた。それでも私はそこが気に入った。私はサークル活動もせず、部活動もせず、アルバイトもボランティアもせず、本ばかり読んで過ごしていた。それでも私には友人が多かった。友人たちは全国各地から来ていた。講義はあまり楽しくなかったが、食堂や喫茶店で友人たちとおしゃべりをするのは楽しかった。
大学で講義を受けても、私の中に依然として滞留している居心地の悪さには対処できるようにはならなかった。大学に入学した時には、私はこれですべての悩みから解放されると思っていた。大学というのはそれだけの叡智を秘めた場所であろうし、教授たちはそのような知恵を持っているからこそ教授と呼ばれるに値するのだろうと思っていた。文芸や小説が苦しみを解決してくれるわけではないことにも私は気づいていた。だが、数年経っても、私は依然として苦しみの中で円を描いて歩き続ける自分の姿しか見出すことができなかった。
悩みが大きくなると、今までに負った古傷が一斉に痛み出すのが常だった。私は寮の部屋のベッドの上で、思わず漏れ出るうめき声を堪えて痛みに耐えた。鎮痛剤は常に用意していたが、私はそれを飲まないことにしていた。父はかつて、私の鎮痛剤を見て言った。これだけでもずいぶんと金がかかっているよなぁ。母は言った。それでもたまに効かないことがあるんですって。父は呆れたように言った。意味もないものに金を使っているのか⋯⋯私はさらにうめき声が大きくなるのを自覚しつつ、さらに痛みに耐える。意味もないものに金を使っている⋯⋯私の依然として悩みは消えなくて、私の苦しみは解消されない。
頭の傷の痛みはベビーベッドから落下した時のものだった。私はその話を聞かされて以来、自分が欠陥を持って生まれてきた気がしている。ガラス片の刺さった痕は焼けるようだった。包丁で切った手のひらの傷が疼いている。祖母は死ぬまであの事件のことを私に詫びていた。鉄柵の冷たさを思い出す。ハサミの鋭さには光が宿っていた。女教師の平手打ちが頬に加えられている。生きたまま焼かれた皮膚はゴツゴツとした太い線が走っていて、もう二度と元には戻らない。左目の視界はほとんど失われている。ほとんど肉が失われた背中は、幽霊のような痛みを送ってきている。苦痛が消えることはけっしてない。
三年生になった時、学生寮に引っ越した。それまでの学生寮は大学の敷地の南にあったが、新しい学生寮は北側にあった。北側の学生寮の周辺には雑木林があり、小さな沼もあった。三月末だった。独立峰から吹き下ろしてくる冷たい風を防ぐにはまだコートが必要だったが、私はシャツとズボンだけの薄着だった。私は事務所で用事を済ませて、近所を散策することにした。
学生寮の更に北側には農業試験場があった。大きな乳牛が何頭も放し飼いされていた。周囲に人はいなかった。私は乳牛の近くに寄っていった。牛たちは見慣れない人間を見ても驚かなかった。静かに草を食みながら、牛たちはゆっくりと体を揺らしていた。虫を追い払う尻尾の動きだけが俊敏だった。
私はぼんやりと牛たちを眺めていた。そして、次に自分が怪我をするのはいつだろうと思っていた。それはもうそろそろのはずだった。私は怪我をすることを怖れてはいなかった。それでも、私は自分に古傷が増えることだけは怖れていた。一頭の乳牛が尿を排泄し始めた。滝の音のような排泄音だった。見る間に地面に水たまりが出来ていった。私は、そろそろ部屋に帰って荷物をまとめ、都内の家に帰らなければと思った。昨日、母から電子メールが送られてきていた。父が私に会いたいと言っているとのことだった。元気にやっているだろうかと心配しているとのことだった。
本当にそうだろうか?
そのように思った直後、私は眼の前に乳牛が立っているのに気がついた。何頭もの乳牛が私の前に集まっていた。前だけではなかった。私の後ろにも牛たちがいた。獣特有のにおいと熱気が私を包んでいた。いつの間に乳牛がここまで近づいたのか私には分からなかった。
私はこの乳牛たちが新たな傷を加えるのだろうと思った。逃げもせず、私は牛たちを見つめていた。
一頭の乳牛が前に進み出てきた。くろぐろとした大きな目は透き通っていたが、しっかりと私を見ていた。乳牛は私の前に立つと、黒く長い舌を伸ばして私の顔を舐め始めた。丹念な舐め方だった。理髪師が温かなシェービングフォームを塗るようだった。やがて、他の牛たちもそれに加わった。牛たちは器用に私の服の下にまで舌を入れて、私の古傷を舐めていた。むず痒さは感じなかった。私はその場に立ち尽くしていた。私はその場を動きたくなかった。
どの牛も私のことをじっと見つめていて、私も牛たちを見つめ返していた。どれだけ時間が経ったのかは分からなかった。気づいた時には私は全身が牛の涎まみれになっていて、牛たちはまた草を食んでいた。一頭の牛がまた尿を排泄し始めた。
部屋に戻った後、私は高熱を出して寝込んでしまった。私が風邪を引いたことを知って、母と、それから父が寮の部屋まで私の見舞いと看病に来てくれた。父の頭髪にはかなり白いものが混ざっていた。私はそのことに初めて気がついた。母が外へ買い出しに出ている間、父は私の部屋の書棚をしげしげと眺めていた。それから、一言だけつぶやくように言った。
これまでお前が味わった苦労の、ほんの半分でも俺が代わってやれたらなぁ。
それ以来、私は一度も大怪我をしていない。
(「自罰的な」おわり)
※以下、作者による作品メモ
不思議なほどに大怪我を何度も負う人がいます。運が悪いのか、それとも何か別のいろいろな要因が絡み合ってその人に怪我をさせているのか……今回の話のテーマはまさに「自罰的な」ということでした。気づいていないうちに自分で自分を罰している人は案外多いのかもしれません。