ぼくがいつ生まれたのか、それはさだかではありません。もちろん記録をデータベース上で探ればいくらでも正確な情報が出てくると思います。いつぼくが強化ガラスのシリンダーの中から出てきたのか、ぼくがシリンダーの中でどのような過程を経て大きくなってきたのか、あるいは、ぼくの元になった受精卵がいつシリンダーに入れられたのか……そういった情報はすべてデータベースに記録されているはずです。日時どころか、分と秒に至るまで。
でも、ぼくが言いたいのはそういうことではないんです。なんといったらよいのか……つまり、ぼくはいつからこのようにモノを考えて、このように言葉を操るようになったのか、そのことがぼくには定かではない。いつ卵子と精子が結びついて受精卵となったか、いつそれがシリンダーの中に入れられたのか……いつシリンダーから出たのか、それはぼくにとっては生まれたことを意味しないのです。
もしかするとぼくは、生まれるという言葉の使い方を間違っているのかもしれません。ぼくは生まれるという言葉に、もっと深遠な意味を込めようとしているのかもしれない。単にある個体が生体活動を始めたこと、そのことのみをもって「生まれた」というのは、ぼくにとっては耐え難いのかもしれない。生まれるというのはそんなに単純なものではない、もっと実存と絡んだ重大なものであるはずだ。ぼくはそう思っているのでしょう。だから、考えて言葉を操るという、自分にとって最も大切なことを「生まれる」という言葉の条件に組み込もうとしている。ええ、きっとそうなのでしょうね。
では、なぜぼくがこれほどまでに考えることと言葉を操ることの二つを重視するのか。いや、この両者は実は一体不可分のもので、考えることはつまり言葉を操ることであり、その逆もまた然りと言えるのですが、それはさておき、ぼくがこの二つを重視する理由は、まあ見てご覧になったらお分かりになると思いますが、ぼくがまさにそれしかできない生き物だからです。ぼくは、いえ、ぼくたちは、まさに考えるために、言葉を操るために生まれてきたのですからね。
ぼくは鉢に入っていますよね? ええ、こうして間近でご覧になるのはきっと初めてでしょう。もっと近くに寄ってくださっても構いません。手にとっても結構ですよ。ただし、落とさないように気をつけて。割れるんです。ええ、ぼくたちの中には割れないと信じている者たちも大勢いますが、やはり割れます。ぼくの鉢のサイズはちょうど大きめのカフェオレボールくらい……しかし、一つの生命が収まっているにしては小さすぎるかもしれません。ぼくはこの鉢の中で大きくなったのです。そして、まだこの鉢の中に入っています。あなたが疑問に思うのはまさにこの点でしょうが、それはこれから話していくつもりです。
それにしても、申し訳ありません。ぼくは臭うでしょう? いえいえ、そのようにおっしゃらなくてもけっこうです。本当に私は申し訳ないと思っているのですから。ぼくたち鉢に住むものたちは、なるほどかなりにおいます。生理的な嫌悪感を覚えるにおいだそうです。でもこれはぼくたちが不潔だからではないのです。このにおいはぼくたちが生まれながらに持っているにおい……りんごにはりんごの匂いがあり、バラにはバラの匂いがある。それと同じですね。ぼくたちは自分たちの力で排泄ができませんし、体を洗うこともできないのですが、至極清潔です。鉢の中でぼくたちがどうなっているのか、ご存じですか? ぼくたちの手足は完全に退化して、一本の太い毛のようになっています。ほとんど体にめり込んでいて、自分で動かすこともできません。
ぼくたちはほとんど不定形です。骨格らしい骨格がない。鉢の形によってぼくたちはぼくたちの形を保っている。つまり、ぼくたちがぼくたちであることを決めているのは大部分、この鉢なんです。でも、鉢の中にいるぼくたちからしてみれば、やはりこの鉢はぼくたちそのものではない。鉢の中はずいぶん快適だろうと言う人たちがいます。快適であることは認めますが、快適ではないことも多いのです。自分では排泄ができないし、体を洗うこともできない。背中が痒い時にはどうすることもできません。それに、鉢自体も熱くなったり冷たくなったり、あるいは内側がざらざらしたり、棘が生えたり……そう、ただの鉢ではないのです。これは鉢ですが、普通の鉢ではありません。ぼくたちを入れておくための鉢ですからね。
ぼくたちについて、君たちは恵まれているという人たちがいます。かつてないほど恵まれているというのです。まず、鉢がある。この鉢の中にいれば絶対に安全だという点でまず恵まれている。それから、鉢の中にいるぼくたちをお世話してくれる人たちがいる。そうですね。やはりこの点でも恵まれています。どのようにぼくたちがお世話をされてきたのかは、他にぼくたちが恵まれている点も含めてこれからお話しますね。
ぼくたちはシリンダーの中で受精卵から育てられました。あなた方はいまだに昔ながらの方法で生殖しているとのことですが、ぼくたちはかなり純粋に人工的な産物です。ぼくたちの元になった生物は何種類かあるらしいのですが、遺伝子改良が進み過ぎてもはや原型は保っていません。でも、そんなことはどうでもよいですね。受精卵はシリンダーの中でどんどん大きくなっていきます。まあ大きくなるといっても、最終的にはハツカネズミの赤ん坊ほどのサイズになるだけです。ぼくたちはこの時にはまだ考えることも言葉を操ることもできません。
ここまで大きくなったら、シリンダーから取り出されていよいよ鉢に入れられるわけです。どの鉢に入れられるのかは、ぼくたちの持ち主によって決められます。持ち主ではなく飼い主ではないかという人もいますが、それにはちょっと正確さが足りません。犬や猫などの一般的なペットのことを考えてみてください。いったい、自分の家にその犬や猫を入れたことがなく、自分で餌を与えたこともなく、自分で遊んだり散歩に連れていったり、病院で注射を打たせたり検査を受けさせたり……そういったことをやらない人のことを、飼い主と呼ぶでしょうか? 飼い主というのは、まずもってペットとの物理的距離が近い存在で、ゆえに心理的距離も近いと、まあそのようなものであるはずです。だからぼくたちの場合は飼い主ではなく、持ち主と呼ぶべきでしょう。あるいは所有者でもかまいません。同じことです。
鉢には様々な種類があります。まずサイズに違いがある。小さなものはシェリーグラスのようなもので、大きなものはバケツくらいの大きさがあるとのことです。しかし一般的にはぼくがいまこうして入っているサイズだそうですね。ぼくもそんなに大きなものは聞いたことがありません。そして、材質にも違いがある。陶器のような手触りのものもあれば、ガラスのようなものもある。金属のようなもの、素焼きのようなもの、プラスチックのようなもの……あくまでも。「ような」です。そのものではありません。鉢もぼくたちと同じく、高度な工業的産物です。
しかし、なによりも大きなこの鉢の特徴は、時々に応じて内側の環境が変わるということです。このことについては先ほどちょっとだけお話ししました。つまり、不定形のぼくたちの体がぎっしりと詰まっているこの鉢の内側が、時々変わる。変わると言っても極端な変化ではありません。ほんのちょっと熱くなったり冷たくなったり、ほんのちょっとだけザラザラしたり、あるいはツルツルになったり……あるいは棘が生えて来たりする。棘といっても薔薇の棘よりは小さなもので、刺さったところで怪我をするわけではありませんが、とても鋭くて痛い。棘がいつ生えてくるのかは分かりません。たいていの場合、真夜中とか、明け方とか、あるいはぼくが深い満足感や喜びを感じている時に生えてくることが多いです。今ではまったく生えてきませんが。
なぜ棘が生えるのか? おそらくご想像のとおりだと思いますが、これはぼくたちの持ち主がそうするのです。棘が生えてきた時にぼくたちがどれだけ痛がるのか、どんな気持ちになるのか、どんなことを考えるのか……痛みは言語に絶します。電流を浴びるというのが似ているかもしれません。あるいは、熱した鉄片を押し付けられる感じでしょうか。ぼくは決してそれに慣れることができませんでした。それを見るというわけです。なにせ、ぼくたちの頭の中はすべて持ち主たちには分かるようになっていますからね。ええ、分かる。丸見えというわけです。見えるということ以上に見えるかもしれない。
ちょっとだけ話を元に戻しましょう。ぼくたちは鉢に入れられてどんどん大きくなっていきます。ぼくたちを世話する人たちはスポイトに入った栄養液を決まった時間に決まった量、ぼくたちの口に流し込んでくれて、それでぼくたちはそれを飲んで大きくなっていくわけです。だんだんスポイトでは足りなくなり、小さな哺乳瓶になって中身ももっと濃くて多くなり、さらには普通の哺乳瓶になって、その頃になるとぼくたちはだいたい鉢の縁いっぱいに体が大きくなります。ぼくたちは満足しきっていて、あたたかな気持ちに浸っています。
ぼくたちの手足は退化しているので、体を拭くことはできません。でも、世話をする人たちが綺麗にしてくれるのでまったく問題はないのです。排泄に関してもそうです。ぼくたちはそのように設計されているので、ここまで大きくなると糞に関しては体を動かして肛門を鉢の縁にまで移動させて、そこから排泄することができるようになります。でも、小さいうちはなにもできないものですから、やはり糞まみれ、尿まみれとなるわけです。今でも尿に関してはどうしようもないので、ぼくたちは尿まみれになることが多いのですが、今は大丈夫ですから心配なさらないでください。ぼくたちはお世話をされていますから。
そうですね、いくら熟練の世話係でも、悲惨な死を防げないことはあります。ぼくたちの中には毎年一定数、大きくなる前に死んでしまう個体がいるのですが、そのうちの何パーセントかはやはり糞と尿の処理が遅れて、鉢の底で溺れて死んでしまうというケースらしいです。他には心臓麻痺などの器質的な原因とか、あるいは細菌やウィルスによる病気、それから寄生虫による死があるらしいです。寄生虫は、まあ主に寄生バエや寄生バチによるものですね。寄生バエに生きたまま卵を産み付けられる。それで、発見が遅れて、気づいた時には体の中身が全部ハエの幼虫に食べられてしまっている……空気のなくなった風船のようになります。
不可解だという顔をしましたね。それも当然です。寄生バエに殺されてしまうなんて、いったい世話係は何をしているのか、と。ええ、それは至極当然な疑問だと思います。ですが、やはりこれも世話係という言葉の使い方を間違っていることから生じる疑問でしょう。というよりも、疑問というものは、大部分は言葉の使い方が間違っていることから生じるのです。言葉の使い方を正しいものとすれば、疑問は生じない。しかしこの言語と疑問について話すのはまた別の機会に譲るとして、問題は世話係です。
おそらくあなた方は、世話係とはぼくたちを世話するものだと思っている。ですが、もう単刀直入に言ってしまえば、彼らが世話をしているのはぼくたちではないのです。彼らが世話をしているのは、ぼくらの持ち主の欲望、欲求、願望に対してのみです。お分かりですか? 彼らは言うなれば、ぼくたちの世話を通じて、ぼくたちの持ち主の気持ちを世話をしているのです。世話係にとってもっとも重要なことは、ぼくたちの健やかな成長でも、快適な生活でもありません。すべてぼくたちの持ち主……つまり世話係にとっては依頼主、オーナーですが、それに奉仕すること、サービスをもたらすこと、これだけです。
お分かりになったでしょうが、寄生バエに殺されるのは、それを持ち主が望んだからです。鉢の中でなすすべなくぼくたちがハエに襲われて、生きたまま中身を食い尽くされていく……あるいはそう、鉢の底でぼくたちが糞尿で溺れて、絶望と苦痛と悲しみを覚えたまま死んでいく……持ち主がそういうぼくたちを見たいと望み、ぼくたちの気持ちを観察したいと望めば、世話係はそのようにするのです。
ぼくたちの頭はチップが挿し込めるように設計されています。これはぼくたちに自我が芽生える頃に挿し込まれることになっていて、鉢の中での生活が始まってから概ね二週間とか三週間……長くとも一ヶ月後に挿し込まれます。チップは記録と通信を兼ねていて、ぼくたちのバイタルデータだけではなく、ぼくたちの感情、ぼくたちが頭の中で考えたこと、ぼくたちがいかにして言葉を操っているかといったことを、すべてデータの形で持ち主の元へ送ります。持ち主は離れたところからそれをすべて参照できるというわけです。
ぼくたちを所有する人たちは、たいていの場合ぼくたちを資産として扱います。ぼくたちは高度に工業的・工学的に設計され生産された存在ですが、一応生物ではあるわけです。生物で、しかも考えたり感じたり、言葉を操ることができるわけですから、これは大きな資産となります。そう、データ産業に売れば大きな利益を生むわけです。AIに汚染されていない言語データは今や貴重で、しかし需要はどこまでも大きいわけですから、ぼくたちは今後ますます生産されていくようになるでしょう。AIが人類社会に出現した当初は盛んに◯◯年問題というものが出現して、この地上にはAIによって汚染されていないデータが存在しなくなると警鐘が鳴らされていたそうですが、人類はぼくたちを生み出すことによってこれを回避したわけです。今や人類が利用できる言語資源は無限に近い。しかし、需要もまた無限であるわけです。
しかし、いつの時代でも本当の目的とは違った面に価値を見出す人はいるわけでして、やはりぼくたちを資産としてではなく、愛玩動物として……いえ、愛玩されているわけではないのですから、この言葉は違いますね。言うなれば、一種のデバイスとして、ぼくたちを扱う人もいるわけです。そういう人たちは、先ほど申し上げたとおりのことをぼくたちに行います。持ち主の中には、寄生バエだけではなく、予告してから毒物を注射するなどという人もいるそうです。もちろん、彼らはぼくたちの苦痛や絶望、混乱などを見て楽しむらしいのですが……中には泣くために、悲しむためにそういうことをする人もいるそうです。そうです、ぼくたちのことを思い、ぼくたちの立場に立ち、ぼくたちと同じように絶望するためにそうするのだそうです。しかし、いずれにしても、彼らは実利的な面でも利益を得られます。なんといっても、そういう時のぼくたちの感情と思考は、高値で売れますからね。
政府による規制ですか? いえ、ぼくたちは生物ではありますが、いうなれば機械の部品のようなものですから。かつての馬たちは経済動物とされていたらしいですね、今は保護されていますが。仮にぼくたちに地位というものがあるとして、その地位が今後上昇することがあったとしても、せいぜい馬のような経済動物というところに落ち着くでしょう。ぼくたちの保護活動を行う団体もあるそうですが、彼らの勢いは至って弱い。支持が得られないのだそうです。それに、ぼくたちはあまりにも数が多く、そしてあまりにも簡単に生まれてくることができる。それがどうも保護団体が支持を得られない最大の原因ではないでしょうか。それに、ぼくたちの見た目が悪い。ええ、守りたくなる見た目ではない。これも大きな原因でしょう。
ともあれ、ぼくたちの思考、ぼくたちの感情は金になるわけですから、ぼくたちを資産として扱う持ち主たちはなるべく長くぼくたちを活かそうとします。若いうちのぼくらの思考は瑞々しく、柔軟で、単純ではありますがしなやかです。ぼくらはチップを通じてしょっちゅう色々なコンテンツを見せられます。思想、歴史、文学、哲学から、社会学や経済学や政治学、それだけではなく、物理学に数学、生物学、工学に至るまで、ぼくたちは鉢に入ったままそれらを学び、それについて考えることができる。それを持ち主たちは常にモニタリングしていて、AIの誘導とサジェストに従ってたまに査定に出す。査定の結果が良ければそれを売るわけです。ぼくは哲学と文学と歴史を学びました。
ええ、学問や思想、研究だけではありません。娯楽産業もそうです。ぼくたちは様々なものを見せられます。過去数世紀にわたる娯楽の蓄積は巨大なものですから、ぼくたちは一生をかけてそれを学んでいくことになります。演劇から映画、詩から小説、アニメーションに至るまで。そうそう、音楽もありますね。絵もそうです。ただし、娯楽の場合はもっと特殊なチップが必要なようですが。時事問題やニュースもありますね。
誤解を招きやすい点なので念のため申し上げますと、ぼくたちに望まれていることは、学問研究でも娯楽でも、それ自体を生産することではありません。それを生産することはコンピューターとAIの仕事ですからね。ぼくたちが生産するのはあくまでも思考と考え、つまり言葉です。ぼくたちはアリストテレスのような壮大な思想を語ることはありません。ただし、かつてあった偉大な思想と、今現在において出来上がりつつある思想について語ることはできます。ぼくたちはチャイコフスキーのような交響曲を作ることも、ピカソのような絵画を描くこともできません。しかし、それらについて感じたり、考えたりすることは可能なのです。そして、その考えこそがデータ産業にとってはこの上もないほど重要なものとなる……
かつて、ゴムという素材はすべて天然だったそうですね。合成ゴムが作られるまでは、ゴムはすべてゴムの樹という植物から採取されていた。ゴムの樹の樹皮に切れ込みを入れて、そこから垂れてくる樹液を集め、加工することでゴムとなる。ゴム産業は莫大な利益を生んだそうです。そう、当時はモータリゼーションという巨大な変革がありましたからね。ぼくたちもそれと同じかもしれません。社会と文明のAI化に伴ってぼくたちという農園が生まれた……もっとも、今の時代を評価できるのは、やはり後の時代だけです。後の時代では、ぼくたちは農園ではなく、別の呼び方をされているかもしれません。
ところでぼくたちに死はあるのか? 実のところをいえば、ぼくたちに寿命というものはありません。ただし、死はあります。そうです、寿命がないということは死がないということを意味しません。実際、ぼくたちは老います。では最後に、そのことについて話しましょうか。ぼくたちにとっても死は重要ですからね。
ぼくたちは若い頃にはどんどん色々なものを見て学習をし、たくさんのことを考えます。のみならず、ぼくたちは会話すらできるようになるのです。そうでしょう、言葉というものはそもそも会話をするために生まれたのですからね。ぼくたちはそのうちチップを介して他のぼくたちと会話をするようになります。一対一だけではなく、集団で討論することすら可能です。集団討論のデータは政府機関が高値で買い取るとのことですが、一対一のデータもやはり利益にはなります。そうですね、こうして会話をしたり討論をしたりという段階が、ぼくたちにおける全盛期なのではないでしょうか。
しかし、だんだんとぼくたちはあまりものを考えなくなります。それは考えるのに疲れるというよりは、むしろぼくたちが長い学習と討論の末に、自説というものを持つようになるのと関係しているようです。自説というほど立派なものではないのならば、あるいは好みとでも言おうか……ぼくたちは自説にしがみつくようになり、好みに固執するようになります。そうなるとぼくたちの考えも思考もワンパターンなものとなる。変化が乏しくなり、その分だけ価値は減る。ぼくたちから何か面白い学説やコンテンツが出てくることはありません。ぼくたちから出てくるものは、たいていの場合AIでも作成することが可能ですからね。
それで、いよいよぼくたちにも最期の瞬間というものがやってくるのです。ぼくたちに残された最後の価値あるものというのは、やはり死なのですね。死の瞬間にぼくたちが何を感じて、何を考えるのか。これは今の時代においても非常に価値があります。というのも、あなた方はまだ死を克服できていませんからね。ぼくたちはある意味では死を克服しています。そのように設計されていますから。しかしそれも、鉢に入った状態であればの話です。鉢から出るとぼくたちは死んでしまう。
持ち主たちはAIと相談をした上で、もはやぼくたちに資産価値がないか、まだあるのかを判断します。そして、処分をして新しい個体を導入すべきだと判断すると、世話係に対して指示を出します。世話係は速やかに指示を実行します。金属製の小さな杭とハンマーを持ってきて、鉢の表面に杭を立てるのですね。そして、ハンマーで杭を叩く。何回か叩きますが、だいたい三回か四回だそうです。すると簡単に鉢が割れます。鉢が割れると、なにせぼくたちは鉢いっぱいに詰まった不定形ですから、どろりと零れるように鉢から出てしまいます。そうなるとぼくたちはもう重力に負けてしまって、だんだんと心臓やその他の臓器、あるいは呼吸器というものが圧し潰されるわけです。
ぼくたちが死に至るまでにたっぷりと六時間から八時間はかかるようになっています。その間にぼくたちが考えることは膨大かつ複雑だそうです。実際のところ、死に臨んでの最後の思考の奔流によって得られる利益は、新たにぼくたちを三体導入することが可能だそうです。ですが、これも比較的長い時間をかけて、自説や好みを抱くようになればこそです。若いうちに寄生バエや毒物で殺しても、あまり面白いデータは得られない。要するに、自説や好みというものは、気づいていない人も多いのですが、すべて死に関するものなのです。たとえば何かが優れていると判断するということは、その優れたもののためになら死ぬことができるということを含意しています。また、何かが劣っていると判断するということは、この劣っているもののために死ぬことは許されないということを示しています。鉢を割られてからの六時間から八時間は、まさに自説や好みの検証のための時間なのです。
ぼくたちに目はありません。鼻もないし、耳もない。体表には口と肛門と、呼吸器の穴があるだけです。ぼくたちの生理的な機能がすべて停止すると、すべての穴がぽっかりと開きます。それが死のサインです。ぼくたちのチップは抜き取られます。チップは処分されるか、消毒されて別の個体に装着されます。ぼくたち自身の肉体は焼却炉で速やかに処分されて、灰になります。
これが、ぼくたちの一生です。ぼくたちはこのことに不満などを抱いていません。そのように設計されているのですから当然ですし、もし不満を抱くようならば、価値のあるデータは決して生まれてこないでしょうね。ぼくたちはだいたい平穏で快適な日々を送っています。ただし、たまにやってくる棘による痛みは我慢しなければなりませんが。
ぼくですか? ぼくの持ち主はちょっと変わったことにチャレンジしているのです。お気づきになったでしょうが、ぼくには自説というものがある。つまり、ぼくは年老いているのです。それなのにぼくはいまだに盛んに考えて、言葉を操っている。これはどういうわけか?
ぼくはこれまでに何度も、鉢に金属の杭を当てられて、それを叩かれています。コツコツという音は、鉢の中に入っているぼくにも振動で伝わってくる。ぼくはそのたびに、自分の死を意識します。しかし、鉢は割れないのです。三回叩き、四回叩き、それでも割れない。そしてぼくの鉢はまた元のように置かれます。
こんなことが何回も繰り返されているのです。何回も、不定期に、いつもぼくの不意を突く形で行われます。ぼくはそのたびに恐怖を覚え、これまでのぼくの生について考えます。コツコツと鉢が叩かれているのはほんのわずかな時間ですが、その間に考えることは膨大です。そして、決して慣れることがない。
ぼくは、言うなれば、何回も死刑に失敗している死刑囚のようなものです。ただし、あなた方の場合は、死刑が失敗すれば死刑囚は解放される。でもぼくは解放されません。死刑囚にとって最もつらいのは、処刑されることにあるのではない。いつ処刑されるのかが分からないからつらいのだと、そのようなことを以前聞いたことがあります。ぼくも今はそのような気持ちです。コツコツと鉢を叩かれるたびに、今回はダメだろうか、それとも今回も生き延びられるだろうかと思います。ぼくは永久に解放されることのない死刑囚なんです。
そしておそらく、今後はぼくのような死刑囚が増えると思います。なにせ、鉢が叩かれているときにぼくが考えること、ぼくが操る言葉の量は、この上もなく膨大ですからね。
(「鉢が割れるとき」おわり)
※以下、作者による作品メモ
そのように意図して書いたわけではなかったのですが、結果としてSFになってしまった作品です。大規模言語モデル(LLM)型AIによる言語資源の枯渇、ということがひとつのヒントとなりました。以前から「小さな鉢の中で育てられた生き物、鉢が割れると死んでしまう」というモチーフを考えていたので、それが合わさった形です。
次回はやや短めの掌編となります。これからは掌編(5,000字程度)→短編(10,000字程度)のサンドイッチ構成にしようかと思っています。