暗い海岸には薄く月光が差していた。白く陰気な光だった。ほの明るい空間には波の打ち寄せる控えめな音が響いていた。
私は、波の音の中に泡の弾ける音が聞こえないか耳を澄ませた。私は詩のような実感を得たかった。私は予兆を求めていた。私は何かを生まねばならなかった。何かを生むためには予兆が必要で、それは音という実感としてやってくるはずだった。それでも何も聞こえてくることはなかった。それも予期していたことだった。私はまた歩き出した。
サンダル履きの足は剥き出しで、歩くたびに細かな黒い砂が足に降り注いだ。砂は湿っていた。波の音の中で私の足音だけが響いていた。波の音はささやかで、芋虫が若葉を齧るような音だった。時々、貝殻の破片や細い流木を私は踏みつけた。貝殻はさらに小さな欠片へ、流木もさらに小さな断片になった。奇妙なほどにその音は乾いていた。ネズミの頭蓋骨が破裂する音と似ていた。地下室に続く階段で息絶えて、そのまま干からびてしまったネズミの死骸の、その頭蓋骨を踏んだ音とそっくりだった。私は何の感慨も抱かなかった。
足の赴くままに私は海岸を進んでいった。見たこともないほど大きな生き物の、その心臓の鼓動のような波の音に包まれて、私はずっと歩いていった。歩いている間、私は足元ばかり見ていた。私の足は、まるで私以外の生き物であるかのように、勝手に歩みを進めていった。海岸には何も生き物はいなかった。
時折、私は視線を上げて暗い海の向こうを、闇に押し潰されている水平線を見た。首を巡らすとそこには海があった。海岸には月光が降り注いでいるが、海の上には分厚い雲が垂れ込めているのか、ほとんど何も見えなかった。それでもじっと見つめていると、プレパラートの中でうごめく線虫のような白い筋が見えた。だが、稲光は見えても雷鳴は聞こえなかった。
海岸はどこまでも続いていた。もしかするとこの海岸には終わりがないのかもしれなかった。私は時々、波打ち際にまで歩みを進めて、砂まみれになってしまった自分の足をサンダルごと浸した。海の水は飲み残したスープのようなぬるさだった。私の足を飲み込んだ波は、数秒後も経たずに粘りつくような感触を残して、また暗い海へと戻っていった。私はふと、病んでしまった男をイメージした。その男は駅にいて、通りかかる人に何度も何度も手を伸ばして引っ込めることを繰り返すのだった。だが、私はその駅に行ったこともなければ、その男を見たこともなかった。私はこの海岸から出たことがなかったし、私はこの夜を越えたことがなかった。
波の音は止まなかった。心臓の鼓動のような音に包まれて、私は安心しきって歩いていた。歩いているうちに、流れついたものが多くなってきた。貝殻の間にはちぎれた海藻があり、流木の間には粉砕された木の板の破片があった。錆びたブリキ缶の横に小さなタイヤが落ちていた。なぜか私はタイヤの刻印を読み取ろうとしていた。それなのに私の足は私の足ではないかのように歩き続け、瞬く間にタイヤは後ろの闇へと消えた。陰気な光では漂流物のすべてを照らすことはできなかった。
流れ着いたものは次第に大きくなってきた。学童用の鞄が落ちていた。朽ちた乳母車があり、赤子の涎かけが半ば砂に埋まっていた。紙おむつの束があった。本が落ちていた。革表紙の大きな本はページがすべて濡れていた。破れた傘の隣には打ち上げられたクラゲの死骸があった。エイの死骸もあった。大きな死骸だった。ひっくり返ったエイの口は聖句を唱えているように開いていて、尾の先は立って鋭く中空を指していた。私はエイを踏みつけた。エイが悲鳴を上げるのを私は予想していた。だが、聞こえてくるのは波の音だけだった。
海岸は終わらなかった。うっすらと、私はこの海岸が円をなしていることに気づきつつあった。私は初めて魚の死骸を見た。魚の種類は分からなかった。私は、魚の種類を知ろうともしていなかった。魚の死骸は一匹、二匹、三匹と増えていって、ほどなくして数え切れないほどになった。月の細やかな白い光に照らされて、魚の鱗は白銀のように輝いていた。魚たちは死んだばかりのようでもあり、また死んでから時間が経っているかのようでもあった。私は匂いを嗅ごうとした。だが私は臭気を感じなかった。私は息を吸おうとして、そして息を吐こうとした。息をしているのか、していないのか、私には分からなかった。
魚の死骸を踏みつけながら私は進んでいった。踏みつけるたびに、私は足の裏に抵抗を感じた。私は石畳の道を進んでいるようだった。私はちょっと不安になって、また海の向こうへと目をやった。夜はいくらも進んでいなかった。闇の中では線虫のような稲光が踊っていた。波の音を聞いて、私の中でさらに不安が大きくなった。もし波の音が消えたとしたら、と私は思った。もし大きな生き物が死んだとしたら、とさらに私は思った。だが、疑問はそれ以上に膨らんでいかなかった。不安はそこで消えてしまった。そもそも、私は不安など覚えていなかった。
海岸が円をなしているのならば、この海もまた円をなしているのかもしれなかった。魚の死骸はまばらになっていった。私はまた波打ち際へと近づいて、足を波に洗わせようとした。ぬるい海水が足を覆った時に、私は鋭い痛みを感じた。私の両足はいつの間にか深い傷を負っていた。私は傷口へと手を伸ばそうとしたが、足は勝手に動き出していて、また先へと進み始めた。足が濡れているのは血液によるものか、海水によるものか、私には分からなかった。
その瞬間、私は何か芳しい匂いを嗅いだ。
バラのような香りだった。血のような香りだった。それは死の匂いかもしれなかった。それでも私はそれを芳しいものとして感じた。
歩かねばと私は思った。そのように思ったのは初めてだった。
それは海岸の先から漂ってくるようだった。直前まで感じていた耐え難いほどの痛みも忘れて、私はひたすら先を見つめて歩き続けた。月の光は変わらずに海岸を照らしていて、細やかな光は次第に太さを増していった。私の足は止まらなかった。今や、私ではなかった私の足は確固として私の一部となっていた。私は自分の足を動かして、さらに先へと進んでいった。
いつしか波の音が激しくなっていた。海が苦しんでいるかのようだった。水平線の上の夜空には白い線虫の群れが跋扈していて、遠くにいる私を威嚇するかのように激しい動きを繰り返していた。ふと、私は海が死ぬのかもしれないと思った。海だけではなく、夜も死のうとしているのかもしれなかった。世界が崩れようとしていた。私は足をはやめた。はやめようと思ったら、足はそれに応じて速く動いた。
匂いはますます濃くなっていった。それはますます血のような匂いとなっていった。それでも私はその匂いはバラから出ているのだと思っていた。バラを見たこともなく、バラの匂いを嗅いだこともないけれど、私はそれをバラだと思っていた。予感が高まり、高まるたびに私は足を速めた。波は荒くなっていた。離れたところを歩いていても、飛沫が顔にかかるようになっていた。海の水は今や平鍋の中の湯のように熱かった。だが、味もなければ匂いもなかった。
突然、雷鳴が響いた。威圧的な、呪詛のような響きだった。私は恐怖を覚えて思わず駆け出していた。傷ついた足でも私は走ることができた。逃れるように私は走り続けたが、それでも雷鳴は止まなかった。私を叱りつけているようだった。月の光はそのままで、私がこれまで歩いてきたところも、これから歩いていくところも照らしていた。
気づいた時にはもう倒れていた。私は何かに躓いて倒れてしまった。衝撃がやってきて、顔が砂に埋もれた。足の傷とは違った激痛が私の中を貫いていた。私は立ちあがろうとせずに、しばらくそのまま倒れたままでいた。頭上からは雷鳴が鳴り響いていて、海からは狂ったような波の音が聞こえていた。立ちあがろうとしても、足には力が入らなかった。もしかすると、私の足は死んでしまったのかもしれなかった。痛みはあまりにも激しかった。
バラの匂いがした。
それは私のすぐ目の前から漂っていた。おそらく、そこに匂いの根源があるようだった。私はまだ躊躇っていて、しばらく顔を砂に埋めたままにしていた。初めて、私はこの夜に抱かれているような気がした。夜も海もこの海岸も優しく私を抱きしめているようだった。抱きしめながらも、私を放り出そうとしているようだった。そのことに気がついて、私は顔を埋めたままではあったけれども、右手を先へと伸ばして、それを手探りで見つけようとした。
しばらくの間、手は何もないところをさまよった。唐突に、手がそれに触れた。私はそれに手の平を当て続けた。それはひんやりとして湿っていたが、ほんのりと温かくもあった。中には膨大な熱が秘められているようだった。
私は顔を上げて、それを見た。
それは半透明の膜に包まれた胎児だった。膜の中には羊水が満ちていた。羊水が月の光を反射していた。羊水の中に胎児が浮いていた。
胎児はもうほとんど産まれんばかりの大きさになっていて、黒い髪の毛が頭頂部にまばらに生えていた。穏やかな顔には希望のような色が見えた。胎児の顔は、私によく似ていた。その口元は緩んでいた。肌は青白く皺が寄っていて、折り畳まれた手足は水を含んだようにぶよぶよと膨らんでいた。
臍の緒があった。
胎児の腹部から伸びた臍の緒の先を私は視線で追っていた。それは膜から飛び出していて、私の方に伸びていた。私はさらにそれを目で追っていった。臍の緒は私の腹の方へと伸びていた。
ようやく、私は理解した。臍の緒は私の腹部と繋がっていた。胎児は臍の緒によって私と繋がり、そして私はこの夜と海と海岸とに繋がっていた。
私が頷くと、膜に包まれた胎児は宙に浮かび始めた。羽毛のようだった。月の光をまとった胎児は次第に膜を脱ぎ捨てて、徐々に徐々に暗い空へと登っていった。迸った羊水が闇の中で星のように煌めいた。脱ぎ捨てられた膜は夜の中へ溶けていった。胞衣が溶けた夜の空はもはや暗くはなかった。隙間なく線虫のような稲光が満ちていた。
胎児の姿は見えなくなった。それでも私は胎児とのつながりを感じていた。
声が聞こえたような気がした。泣き声のようだった。遠いところから、しかし確かにその声は響いていた。私の心は喜びに満たされた。私はもっとその声を聞いていたかった。
その瞬間、つながりが消えた。突如として、何か鋭利なものによって切断されたようだった。痛みはなかった。
芳しいバラの匂いが、ひときわ強く私を刺激した。波と雷鳴は間遠くなっていった。泣き声も、今ではほとんど聞こえなくなっていた。私は役目を終えたことを知った。生み出したからには、私は消えねばならなかった。
私はなすべきことをなしたという満足感と、消えかかったろうそくのような悲しみとを抱いて、ゆっくりと目を閉じた。
(「胎盤」おわり)
※以下、作者による作品メモ
この「胎盤」は一年ぶりに書いた復帰作です。この一年間はまるで小説が書けなかったのですが、この作品でようやく自信を取り戻したという形です。小説というよりは散文詩に近いのですが、まあこれも小説ということで……最初、タイトルは「胞衣」(えな)としていたのですが、考え直して「胎盤」としました。これならば、この「私」がどういった存在なのかが分かるでしょう。
あえて説明、作家とはいうなれば胎盤のようなものです。世界(母体)が作品(子)を生み出す上で決定的に重要な役割を果たすが、その役割を終えたらあとは剥がれ落ちるのみ……そして、世界も子もまた生きていくのです。