どうということもない、ふとした場面においてこそ、魂の遍歴が明らかになる。魂の遍歴……端的な言葉で言えば、前世だ。だが、前世という言葉は多少の問題を内包している。というのは、前世とは基本的に線形の概念であるからだ。生まれ、死に、生まれ変わって、また死にゆく……その一連の流れにおいて、時間は先へ先へと経過していく。魂は常に先へ先へと進んでいく。しかし、そのようなことがあるのだろうか?
魂は線に沿って遍歴するのだろうか? それとも、非線形か?
大規模な土石流によって押し流され、生き埋めになってしまった夜のちょうど三日前、男はそれを目撃した。南の海の島々に特有の極彩色の花の上で、大きな黄色と黒の羽を優雅に開いたり閉じたりしている蝶は、その時に吹いてきたひときわ強い風に煽られて、花から振り落とされてしまった。振り落とされた蝶は見事な身のこなしでまた宙高く舞い上がったが、上空からさっと降って来た小さな鳥に食らいつかれ、そのまま運び去られてしまった。
男は、不思議な感慨と共にそれを見ていた。感慨というよりも、それは悲しみと呼んだ方が良かったかもしれない。彼にはなぜか、その蝶の気持ちがよく分かった。それだけではなく、彼は蝶がどのような光景を目にしているかということも分かっていた。蝶は花の上で満たされた気分に浸っていた。のみならず、蝶は世界を愛するようにさえなっていた。この世のすべてを見ることは到底できないけれど、この世のすべてをまるごと受け入れても良い。そのすべての中にどんなに悪いものが含まれていたとしても……目の前には不思議そうな顔をしている人間がいる。黒い髪は伸びていて汚れているが、飾りのついたつる草で結ばれており、
集落から少し離れた洞穴に食べ物を届けた時、男は一番歳をとっていて、一番役立たずの老人にこのことを話した。老人はなんということはないというように頷いて、ただ一言だけ言った。それはお前だ。それだけで男は納得してしまった。そして、自分がかつて蝶だったことを嬉しく思った。というよりも、蝶である時にあれだけ満たされた気分であったことが男には嬉しかった。彼は老人に食べ物を食べさせた後、洞穴にいる他の仲間たちにも食べ物を食べさせ始めた。生まれつき目が見えないもの、手足がないもの、言葉が話せないもの、背が低すぎる者、知恵のない者……男が食べ物を持ってくると、みんなひたすらにそれを貪り食べる。誰も男に感謝する者はいない。それでも、男は幸せだと感じた。蝶のように満たされてはいなかったけれども、それでもこれはこれで幸せだと男は思った。
国立博物館でそのホモ・エレクトスの化石を見た時、女は奇妙な感慨を覚えた。およそ二百八十万年前の更新世に存在したと推測されているホモ・エレクトスの実物の化石が立派なケースに収められ、穏やかで控えめな人工光に照らされてひっそりとしている。そのことが実感というにはそれ以上の何らかの感慨を覚えさせたのかと、女には思われた。だが、どうもそのような感じでもない。女は閉じられたハンドバッグの縁の部分を指先で撫でながら、展示の説明プレートに目を走らせた。このホモ・エレクトスの化石はジャワ島で発掘されたもので、どうやら住んでいた集落が土石流に飲み込まれた際に死亡した個体のものらしい。
なぜか女は、その時のことをありありと思い浮かべることができた。その日も自分は……そう、女はなぜか自分のこととしてそれを思い浮かべていた。その日も自分は洞穴から出てきた。普段は夫と交代して洞穴の住民に食べ物を運んでくるのだが、夫は昨日から行方不明になっていた。蝶がどうのこうのと言っていたが、話は半分も理解できなかった。洞窟の外に出た時、数日来降り続いた大量の雨はなぜか止んでいて、西の海の上には沈みかけた真っ赤な太陽が、熟れ過ぎてしまった果物のように崩れかけていた。自分は生きている、とその時に女は思った。集落に戻ると、夫が帰ってきていないか仲間たちに尋ねて回ったが、みんな知らないと言った。行方不明になっている者は夫だけではなかった。食べ物を獲りにいった者のうち相当の数の者が、集落に戻ってきていなかった。
集落の者たちは広場に集まって、色々と噂話をした。ここ数日は雨のせいで広場に集まることもできなかったのだ。狩りに行った者たちは、川に飲み込まれたのではないか。いや、雨を避けて、山の中のどこかの洞窟に逃げ込んでいるのかもしれない。海に行った者たちはちゃんと帰ってきているから、やはり山で何かが起きたのだろう。食べ物はまだまだあるから安心して良いが、雨のせいで果物は腐りつつある。火種を絶やしてはならない。雨はまた降るだろう。臨月の者は一か所に集まった方が良さそうだ。それよりも、山の方からしつこく聞こえてくる、あのドンドンという音はなんだろうか。楽器の音にも似ているが……それにしては大きすぎる……
噂話はざわめきのようだった。そのざわめきが徐々に消えていくと、女は自分が静寂の中で佇んでいるのに気が付いた。説明プレートから離れると、女はしきりと首を傾げた。自分に物語を語る才能はない、と女は思った。小説家になろうと思ったことも、そもそも小説を読んだこともない。それというのも、自分には想像力が乏しいからだ。女はそのように思っていた。学校で自由に書いてみろと言われて作文を課されても一字たりとも書けたことがなかった。そもそも、想像力が文章を書く上での必須の条件なのかは疑問だが、いずれにしても自分には想像力はない……そのような自分が、あのような光景を、海に沈む太陽を、集落を、噂話を、想像できるのか?
帰ってこない夫のことを思って、胸を痛めることができるのか? ただの想像力で?
女は国立博物館を出ると、それからちょっと歩いて、駅前にあるチェーン店のレストランに入った。ちょうど昼だったので、女は簡単なランチセットを頼んだ。スマホを見ていると、いつの間にか目の前にはサラダが配膳されていた。レタスの周りに半分にカットされたミニトマトがいくつか散らばっていて、彩りを目的としているのか、細く切られたきゅうりとニンジンもトッピングされている。クリーム色のドレッシングがかかっていた。
このサラダを食べたところで、栄養価としては大したものではないだろう。女はそう思いながら手にしたフォークをサラダへ伸ばした。レストランがこのサラダを提供するのは、客に栄養を摂取してもらいたいからではなく、客が今日はちゃんと野菜を食べているのだという実感を得るようにするためだろう。意味のない実感……しかし、実感そのものが一つの意味では? フォークに突き刺した一枚のレタスの葉を、女は口元に運ぼうとした。
その時、女は見た。レタスの上には小さな芋虫がいた。この世に生まれたばかりの、半透明で、ティッシュで作ったこよりと同じくらいの長さと太さの芋虫が、レタスの白くて固い部分の上で身を震わせている。叫び声を上げて、女はフォークごとレタスを投げ出した。レタスはレストランの床上に落ちた。
生贄として喉を掻き切られる前日、その仔羊は奇妙な夢を見た。あまりにも奇妙で、それゆえに怖く感じられる夢だったので仔羊は母親の近くに寄ってそのことを訴えようとしたが、伝えることはできなかった。母親も仔羊が何を訴えようとしているのかが分からず、それでも気の毒に思ったから、丹念に仔羊を舐めてやった。ようやく仔羊は落ち着いた。明けかけた空にはまだ星々が残っていた。どこまでも乾いた大地が広がっていて、地平線の上は白々としていて日が昇りかけている。今日も暑くなりそうだった。
あの夢はなんだったのだろうと仔羊は思った。夢の中で仔羊は人間の女になっていた。顔には銀色に光る丸いものをかけていて、顔立ちは人間にしては変わっている。砂漠に住む人間ではないのかもしれない。背は低く、ほっそりした体にぴったりとした黒い服を着ていた。自分はどこか狭くて暗くて怖い感じのするところで、何かの骨をじっと見ている……人間の骨のようだったが、それにしては小さい。じっと見ている間、自分が何を感じていたのかは分からなかった。なんとなく、ざわざわという声が聞こえたような気がした。人間たちが輪になっておしゃべりをする時の声と似ているかもしれない。
太陽が完全に地平線上に昇ると、羊飼いの少年がやってきて、羊たちを連れて歩き始めた。母親が仔羊を促し、仔羊は母親について歩いていく。道は乾燥していて、でこぼこしている。小さな草が生えていたので、仔羊はそれを食べようと歩きながら首を伸ばしたが、母親に置いていかれるかもしれないと思って、それを放ってまた歩き始めた。羊飼いの少年が何かの歌を歌っている。どこか物悲しいメロディだが、仔羊はそれが好きだった。
その頃には仔羊も、自分が変な夢を見たのも忘れてしまっていた。今日もきっと楽しい日になるだろうし、日が沈んでまた日が昇り、また同じことが繰り返されても、きっと楽しいことが続くだろう。仔羊は飛び跳ねながら仲間たちと共に先へと進んでいった。
騎士は思わず声を漏らしていた。出陣前に聖書を読んだところ、民数記の中の一節が妙に騎士の心を騒がせた。かくてその人は供え物をエホバにささぐべし、すなわち当歳の仔羊の牡のまったき者ひとつを
胸壁の銃眼からひたすらに射撃を続けて、迫りくる異教徒の兵士を打ち倒しながら、騎士ははたして従軍僧の言うことは合っているのだろうかと考えた。仔羊となるべきさだめを怖れてはならない……それは、
仔羊の自分は跳ねていた。楽しく、この世には不幸などないというように。戦闘は今や接近戦になっていた。敵は梯子をかけて城壁に取り付いていて、それを阻止しようと騎士たちは白刃を振るっている。しかし敵は狙撃班を用意して、胸壁上で身を晒している騎士たちを狙い撃ちにし始めた。何発かの弾丸が自分の体を掠めるのを感じながら、騎士はその日十人目となる敵の命を奪った。
騎士が生まれてから今に至るまで奉じてきた教えによれば、生まれ変わりということは認められていない。しかし……その時、一発の弾丸が騎士のプレート・アーマーに命中して鈍い音を立てた。続けざまにもう一発が騎士の右目を貫通した。半分になった視界でなおも敵兵に向かって剣を振り下ろしながら、騎士は思った。もし自分があの仔羊の生まれ変わりなのだとしたら、自分はこの後、いったい何に生まれ変わるのだろうか?
その時、鴉は自分が今こうして死肉をついばんでいるこの死体が、まさにかつて自分そのものであったことを知った。死体は頭部に弾丸を受けていて、頭蓋骨が砕けて灰色の脳髄が溶けて外へはみ出していた。
自分を撃ち殺したのは、やはり一人の騎士だった。銃眼越しにではあったが、鴉は騎士の顔がはっきりと見えたように感じた。頭部を守る鎧は脱いでいて、銃を構えてこちらを狙い済ませている顔はなぜか悲しみに満ちていた。撃たれるかも、と思った瞬間には、すでに撃たれていた。痛みはなかったが、真っ暗な闇を伴った絶対的な虚しさが押し寄せてきて、その時に死というものを強く意識した。
それでも鴉は死肉を貪り続けた。周りでは同じようなことが繰り広げられていた。どこもかしこも死体で埋まっていて、無数の鴉が空を舞い、地面を歩き、肉を貪っている。城は焼け落ちていて、城壁は崩壊していた。あの中にもたくさんの死体があるかもしれないと鴉は思った。目いっぱい楽しむべきだ。鴉はそのようにも思った。なぜなら、今自分がこうして食べているこのかつて自分だったこの男は、まったく幸せではない人生を送ってきたから。父が死に、母が死に、人買いに攫われて荘園に送り込まれ、飢餓寸前の状態で毎日つらい重労働を課せられ、それでも一緒に懸命に生きてきた仲間たちは流行り病で全滅し、奇跡的に荘園から逃げ出すことはできたが、最後は結局兵士になるしかなかった。まったく楽しみのない人生を送ってきたのだから、せめて今の人生は楽しくやるべきだ。
目玉を引きずり出して、それをつつくと、眼球はどろりと崩れて液体のようになってしまった。鴉はそれが面白くて、もう一方の目でも同じことをした。
棒で一羽の鴉を叩き殺した時に、男は圧倒的な実感と共にかつての自分を思い出していた。自分は鴉だった……だが、どこの鴉だったのかは分からない。どこかの戦場跡で腐りかけている死肉を貪っていて、のみならず、目玉をほじくり出して遊ぶようなこともしていた。吐き気を催す光景だ。
男は上空を見上げた。仲間が叩き殺された鴉たちは一度にすべて上空へと逃げ延びていったが、また機会がないものかと狙っているようで、ゆるく円を描いて旋回を続けている。実感はさておき、男はさっさと作業に戻ることにした。鴉を殺せとは命令されていない。鴉を殺したのは純粋に楽しみと暇つぶしのためだった。なにしろこのさとうきび畑における労働というものは……まったく楽なものではない。奴隷であるからには命令には絶対に従わなければならないし、命令されていないことは決してしてはならない。もし、命令していないことをしているのが見つかれば……とんでもないことになる。
そして、やはりとんでもないことになってしまった。男たちの監視者にして支配者は、目ざとく叩き殺された鴉を見つけた。そして、誰がこのようなことをしたのか言えと迫ってきた。上等なウールのスーツに身を包んだ支配者は、やはり服装が気候に合っていないためか脂ぎった大汗を流していて、顔はピンク色に染まっていた。太っているから、それはまるで豚のようだった。興奮した豚だ。男はそう思った。だが、この豚を殺して食べることは絶対にできない……そうではなくて、この豚が俺を食べる。男の仲間たちはさっさと犯人を差し出すことにした。男はみんなの目の前で鞭打たれることになった。
長くてしなやかな、特別製の革の鞭だった。それが、後ろ手に縛られて台の上に引きずり出された男の背中に、何度も何度も振り下ろされた。すぐさま皮膚は裂けて血が噴出した。男は肉まで千切れ飛んでいるのではないかと疑った。支配者はふうふうという荒い息をしていて、鞭を振るうたびに己の体力のなさを痛感しているようだった。それがまた支配者の苛立ちを強めたようで、さらに力が込められて鞭が振るわれるのだった。男が気絶してからも、なお十回も鞭は振るわれた。男はもう動かなかった。
少女はおののいていた。少女は一冊の本を買うためにお屋敷の花を分けてもらい、それを町で売るつもりだった。しかし、かつての自分が平気で人が死ぬまで鞭を振るい続けることができたということを知って、少女は今では駆け出したくなっていた。きっかけは、車道を行く馬車を見た時だった。その馬車の馬は歳を取り過ぎていて、頑張ったところであまり速度が出ない。馭者はイライラして、何度も何度も鞭を振り下ろす。それまでの少女は、馬が鞭を打たれるところを見ても何も感じなかった。たまに可哀想だとか、そこまでしなくても良いのにとは思ったが、だいたいにおいては馬は鞭に打たれるものであるし、それに馬も鞭に打たれなければ仕事をしないのだと思っていた。
その日はいつもより空気が乾燥していて、そのせいであるのかは判然としないが、遠くで振るわれている鞭の空気を切り裂く音が少女の耳にも届いた。少女は両肩から提げていた花籠を落として駆け出した。落ちた花籠からは何本もの薔薇が零れ出てきて、あっという間に側溝の泥と汚物に塗れてしまった。少女は路地裏へと逃げていった。頭の中で何度も鞭が振るわれる音が蘇り、そのたびに肥満しきった自分が強い怒りと憎しみと苛立ちを共に、息を切らして目の前の奴隷に鞭を振るっている光景が再生されるのだった。
動かなくなった奴隷に何度も鞭を振るい、ようやくそれが死んでいることに気づくと、支配者は他の奴隷に命じて死体を運ばせた。少女は支配者となってその光景を眺めている。墓穴を掘ってやるつもりはなかった。その奴隷は命令もしていないのに鴉を殺して遊んでいたのだから、野晒しにして鴉に死肉を食わせるのが一番だと感じた。館に帰ってからそのことを妻に話すと、信心深い妻はそれはあまりにもむごいのではないかと言った。支配者となってその光景を見ている少女はそのとおりだと思ったが、支配者自身は妻が許しがたいことを口にしたと思った。
もしかしたら、と妻は言った。あなたもかつては奴隷だったかもしれないのですよ。あるいは、あなたは鴉だったのかも。あなたはもっと、命を大切にすべきですわ。支配者は嘲るように言った。それならお前はかつて虫だったかもしれないな。虫は虫でも害虫の類だ。少女はしばらく路地裏で泣いた。それから腹が空いていることに気づいて、家に帰ることにした。学校は明日休みだった。
若い皇帝は肺病の特効薬として召使いが運んできた薔薇の砂糖漬けを見て、少しだけ目を見開いた。
しかし、この薔薇は咳を止める以上の意味がある。皇帝はなおも考えていた。どうも、かつて自分はこの薔薇だったような気がしてならない。いや、まさにこの薔薇というわけではない。しかし、薔薇ではあったのだ。皇帝は、薔薇を口に含んでみた。脳を焼くほどの凶暴な甘さが皇帝の口中に満ちた。その瞬間、皇帝はしっかりと思い出していた。やはりそうだ。自分はかつて、やはり薔薇だったのだ。
どこに咲いていたのか、それは分からない。空はこの帝都から見えるものとは異なっている。顔料をそのまま溶かしたような青い空には大きな積乱雲が浮かんでいて、自分は白壁の広壮な住宅の中庭に植えられている。周りには見事に剪定された草木が瑞々しい緑を示しており、時折中庭全体を吹き抜けていく風は潮の香りを含んでいた。
自分は赤い薔薇だった……口の中でじっくりと砂糖の甘さを味わいながら、皇帝は目を閉じてその光景を思い出していた。ただの一輪の薔薇だった。北は北海に浮かぶ島から、南は砂漠の都、西は大洋に至るまで、すべての地と生き物と人民を支配しているこの身と比べて、その薔薇は自分自身をも所有していなかった。薔薇ははさみで切り取られて、籠に入れられると、町へと運ばれていった。花を運んでいるのは一人の少女だった。どこにでもいるようなただの少女だが、奴隷というわけではなさそうだった。
馭者がひときわ鋭く音を立てて鞭を振るうのを目にして、少女は逃げ出してしまった。薔薇は側溝に落ちて、途端に汚物に塗れた。美しいものが汚物の中に落ちたら……皇帝は思った。汚物は美しくならないが、美しいものは汚物となってしまう。どことなく新鮮な気持ちを皇帝は感じていた。それは、これまですでに知っていたように思われたけれども、やはり知ってなどいなかったかのような事実だった。
帝国には今や、汚物たちが蔓延している。若き皇帝は最後の薔薇の欠片を口に放り込んでいた。新しい教えなどと称する、異教徒たちだ。やつらはこの私を主人だと認めない。やつらには、やつらだけの神がいる。それならば……飲み込んだ後に、すぐに咳が出た。咳はなかなか止まらなかった。そして、血が出た。薔薇の色よりは薄い赤色だった。自分の死期は近いだろう。皇帝はそのことに怯えたりはしなかった。美しいものが汚物の中に落ちたら……汚物しか残らない。ならば、この私が汚物を一掃してやる。皇帝は、そのままにしてある命令書に署名するために、寝台から下りて執務室へ歩いていった。
その幼虫は、自分がかつて磔にされていたことを思い出していた。これまでは非常に寒いところにいた。狭くて、凍えるように冷たくて、暗い。自分が卵から出て、卵の殻を齧り、それからせっかく親が選んでくれたのであろう柔らかな葉をたっぷりと食べて大きくなろうと思っていたのに、すぐに世界は暗くて寒くなってしまった。それでようやく暖かいところに出てきたと思ったら、随分と目まぐるしくいったりきたりをし、流れてくる勢いの強い水から逃れたり、匂いの強い何か白い液体が体にかからないようにしたりと忙しかった。
そして、今では目の前に人間の女がいる。自分は柔らかくて美味しそうな葉っぱの上にいる。女は自分を見て大声を上げた。その顔に幼虫はどこか見覚えがあった。そういえば、これはかつて自分を磔にしたあの兵士と同じだった。皇帝の命令が下された後、都市にいるすべての信者たちは根こそぎ逮捕されて、円形闘技場へと連れていかれたのだった。そこには木材が大量に用意されていて、自分たちが到着するのと同時に組み合わされて十字架となったのだった。
仲間の一人が言った。名誉なことだ。私たちは救い主と同じ方法で死ぬことができる。他の仲間が言った。彼らを許してやるべきだ。皇帝もな。彼らは自分たちが何を為しているのか知らないのだ。また別の仲間が言った。天国に行けることが分かっているから、何も怖くはない。死というものは新しい世界への入口なのだ。
だが、十字架に磔にされ、脇腹を槍で突かれた時に、今は幼虫になっているその男はこうも感じたのだった。もし、死というものが新しい世界へと自分たちを誘わないのだとしたら? それは怖ろしい考えだった。もし、死によっても私たちは死ぬことがなく、同じように生を繰り返し、それが永遠に終わることがないのだとしたら……? あまりの怖ろしさに男は身を震わせた。男は何度も救い主に向かって心の中で祈った。そのうち、血を失い過ぎたのか、それとも重力によって圧迫された胸部が呼吸を阻害したためか、男の意識は薄れ始めた。暗くなった視界を見て、幼虫はようやく、自分にこのことを思い出させたのはこの暗さだったのだと気づいた。
蝶は穏やかな気持ちだった。空は晴れていて、空気は澄んでいた。花はふわふわとして、甘い香りで蝶の全身を包んでいる。蝶はこれまでのことを思い出していた。自分が幼虫だった頃、どこかの葉の上で、光り輝く雨粒の珠に映った自分の姿を見て、自分がやはりかつても幼虫だったことを知った。不幸にしてその幼虫はすぐに死んでしまったが……水気をたっぷりと含んだ美味しそうな葉の上に乗った幼虫は、変わった格好をしたヒトによって殺された。何かひらひらとした白いものに覆いかぶせられて、その上からヒトは幼虫を握りつぶしたのだった。
あの幼虫、かつての自分は羽を生やして飛ぶということができなかった。そうなる前に潰されてしまった。しかし今の自分は、自由自在に空を飛び回ることができる。蝶は、この世界を愛していた。羽を使って飛び回ると、この世界が美しくて、愛するに足るものであることがよく分かる。いろんな命が生きていて、死んでいく。生きているものが他の命を生かし、死にいくものが新たな命を生み出す。そのことが、蝶にはよく分かった。
自分は、愛すべき世界に生きている。蝶は羽を広げたり閉じたりしていた。近くに一人の長い黒い髪の人間が立っている。愛すべき世界に生まれてきたこの自分は、やはりこの世界の一部であり……この世界はまた、自分という部分を欠いては成り立ちえない。蝶の触角は、近日中に巨大な嵐がこの島を襲うであろうことを告げていた。
突然、蝶は悟ることがあった。
私たちはみんな、つながっているのだ。
幸福そのものともいえる満足感を蝶は抱いていた。強い風が吹いた。蝶の体は花から零れ落ちて、ふわりと宙に浮き上がっていた。
(「非線形」おわり)
※以下、作者による作品メモ
これまでけっこう小説を書いてきましたが、転生について真正面から書いたのは今回が初めてです。以前から「転生とは非線形なものではないか?」という疑問を抱いていたので、それをかなりストレートな形で書くことができて満足しています。
読んでいるとお分かりになると思いますが、作中の登場人物たちは必ずしも直接的につながっているわけではありません。傍観者だったり、支配・被支配の関係だったり……それでも最後にはどこかにつながっているわけです。