ヴェルグンデの嘲り   作:ほいれんで・くー

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5. 地獄にしてはあまりにも

 自分がすでに死んでいるということが、男には分かっていた。

 

 そして、死んだ後に行く世界は天国か、それとも地獄か……その二つしかない。今の男はまったく幸せな気分ではなかったから、おそらくここは地獄のはずだった。

 

 なにせ、口の中に粘土が突っ込まれている感覚がするのだから。

 

 だが、地獄にしてはあまりにも……男は思った。地獄にしてはあまりにも、ここでの生活は生前のそれとまったく変わりがない。あまりにも実感が湧かないので、男はゴミをじっくり観察してみた。ベランダに数日間放置されたゴミ袋の中には黒い小蠅がたくさんいた。男は三十近くまで数えて、そこでやめた。

 

 日が沈み、夜が来る。やがて就寝の時間が来る。男はいつものように、薬を入れてあるビニール袋から三種類の錠剤を取り出して、それを服用する。オレンジ色の小さな錠剤、クリーム色の普通の錠剤、喉に詰まりそうなほど大きな白い錠剤。薬を得るためにはクリニックに行かねばならない。

 

 夜はなかなか眠れない。導眠剤の類を男は服用していなかった。体は脱力しているはずなのにこわばっていて、眠れないままに横になっていると布団が熱を持つようになって、生きたまま焼かれるように感じる。その熱を嫌って寝返りを打つと、それまでにほんの少し高まりかけていた眠気が嘘のように消えてしまう。それでもあえて目を閉じる。腕を額の上に乗せて重さをかける。圧迫された頭の中で様々な想念が渦を巻いてきて、それが高まっていくのか、それとも収まっていくのかをなすすべもなく眺めるしかない。やがて、気を失ったように眠りに落ちていく。

 

 のっそりと、熊が茂みから姿を現すように朝が来る。不思議なことに男は定刻に起きることができる。職場へ行く。職場では普通に仕事をする……職場での男の評価は高い。快活で、思いやりがあり、明るく、有能だと言われている。家に帰ればまた同じことの繰り返しで、食事をとって風呂に入った後は家事をして、それで薬を飲む。三種類の錠剤……この病気と診断されてから約十年、男は一度もこの薬を飲み忘れたことがなかった。また眠れない夜を過ごし、気を失ったように眠りに落ちて、それから目覚めて仕事へ。何も変わらない。何も起きない。

 

 以前と変わっていることはただ一つ、自分はすでに死んでいて、今は地獄にいるという感覚だけだった。それは確信よりも強い感覚だった。信じるということはすぐに崩れるが……感覚だけは嘘をつかない。苦しい時には口に巨大な粘土の塊を突っ込まれているような感覚がする。

 

 今は、口いっぱいに粘土を頬張っている感覚がする。男は吐き気を堪えていた。粘土は油を含んでいるのにざらざらとしていて、こちらの唾液と合わさってどこまでもぬるぬるとしている。自分では取り出すこともできなくて、喉の奥の手前にまで張り付くようにして突っ込まれている。息が詰まる。吐きたいのに吐き出せない。自分は数秒後には窒息するかもしれないという恐怖と絶望が、しかし水で薄めたようにうっすらと漂っている。

 

 この苦しさこそがすべてを証明している。ここは間違いなく地獄のはずだ。なぜなら、苦しみに満ちている世界こそ地獄と呼ぶのだから。生きていた時と寸分違わぬ世界ではあるが、この苦しみがあり、そして自分は死んだという感覚もあるのだから、ここは間違いなく地獄だろう。男はそのように結論した。

 

 だが、この苦しみの感覚は確かであるとしても、自分が死んだという感覚に関しては、それがどういうものであるかを男は自分に対して具体的に明示できなかった。

 

 そう、ここに重大な瑕疵がある。本当にここは地獄なのか、それとも自分はまだ死んでいないのか?

 

 男は考えた。死んだという感覚はある。感覚は絶対だ。だが、その感覚とはどんな感覚だろうか? 苦しみという感覚を粘土で表すことができるのならば、死んだという感覚も同様に表すことが可能ではないのか? 粘土は自分だけの苦しみ……それでは、自分だけの死とはなにか?

 

 何日が過ぎたか分からなかった。男の口には粘土が突っ込まれたままだった。仕事にも行き、休日は休み、三種類の薬を飲み続けた。粘土はますます大きく重くなっていくようだったが、死の感覚はまだ分からない。

 

 男は何度か、自分がどうやって死んだのかを思い出そうとした。自分が死んだ時の状況を明確に思い出すことができたのならば、それはこの上もなく明確な死の感覚を与えてくれるだろう。だが、男は思い出すことができなかった。

 

 思い出すことができないのならば……試してみるしかない。

 

 その日は休日だった。男は簡単な服に着替えて外に出た。まだ午前だった。外はよく晴れていて、雲ひとつなかった。日差しは柔らかく、風も穏やかだった。それでも男の口の中には粘土が詰まっていた。男は歩き始めた。ここが地獄であるのか、それともそうではないのかを確かめるのは今日以外にない。

 

 要塞のように巨大な集合住宅が立ち並ぶ敷地の中心地に、小さな公園があった。男は公園の中へと進んでいった。そこには鉄棒が並んでいた。休日の昼前であるのに、公園には誰も人がいなかった。男は鉄棒をさらに見つめた。何かが浮かんできそうだった。

 

 もしかすると、自分は鉄棒で死んだのかもしれない。男は鉄棒のすぐそばに立った。なにせ、部屋で死ぬわけにはいかないからだ。部屋で死ねば、家族に迷惑がかかるだろう。だから、死ぬのならば外で死ななければならない。男はそっと右手で鉄棒を触った。表面はひんやりとしていて、端の方には赤い鉄錆が浮かんでいた。鉄棒で死ぬのならば、ロープが必要だ。頑丈なロープに特殊な結び目を作って、鉄棒からぶら下げる。鉄棒自体の高さは問題ではない。ある程度の高さがあれば用は足りる……

 

 そこまで考えて、男は鉄棒から離れた。そうだ。自分はこの死に方では死ななかっただろう。なぜなら、この方法ではまさにロープを必要とするからだ。ロープ自体はホームセンターにでも行けば買うことができるだろう。だが、材質はどのようなものが良い? 長さは? そういったことを調べることが男にはできなかった。もし調べたら、たぶん自分はそのまま最後まで突き進んでしまうだろう。調べて、購入して、適当なサイズに切り、結び目を作る練習をする……そして、頃合いを見計らって鉄棒に来る。そういう一連の流れが、調べるということを契機として一気に進行してしまう。だから、きっと自分はこの方法を採らなかったはずだ……男は、口の中の粘土が大きさを増したのを感じていた。

 

 男は団地を抜けて駅の方まで進んでいった。鉄道の高架下を通り、近くを流れている大きな川の方へと男は向かった。頭上から電車が走り抜ける轟音が響いた。男はホームの情景を頭に思い浮かべた。準備が必要ないということなら……電車は最適といえば最適だった。だが、それでもやはり自分はその方法は採らなかっただろう。男は高架下を抜けた。ホームはすべてホームドアに守られているし、それに仮にホームドアを突破して目的を達成したとしても、それは家族に迷惑がかかる。いや、家族だけではない。運転士にも、鉄道会社にも、警察にも、電車の利用者すべてにも……自分は、そのような死に方を選ばなかったはずだ。男はさらに住宅街の中を進んでいった。息苦しさのせいで男は何度か立ち止まった。

 

 背の低い住宅が建ち並んでいる区域の中に、ポツンと一つだけ突出したように高い建物が見えた。それはタワーマンションだった。男はそれを眺めながら歩いた。あのマンションならば、目的を達成できるだろうか? そういえば、いつからかは分からないが、今までの自分は街を歩く時に、意識せずとも背の高い建物を探して、その高さならばあるいはどうかということばかりを考えていた……

 

 男の思考はさらに先へと進んでいった。ただ高い建物ではダメだ。部外者であっても簡単に入ることができる建物でなければならない。もちろん身分を偽装することもできる。だが、そのためには準備が必要になる……そして自分は、準備をすることができない。だからやはり入るべきなのは誰でも入ることのできる建物だ。公共の施設とか、あるいはマンションというほどにはセキュリティがしっかりしていない、団地とか……

 

 団地。そうだ、自分はすでに、そういうやり方を選ぶのに最適な場所に住んでいるではないか。それなのに自分はその方法を選んでいない。それはなぜかというと、下に人がいないとは限らないからだ。下に人がいて巻き添えになれば、それは取り返しのつかないことだ。もし下に人がいないというところがあれば……自分は迷うことなく高い場所を選ぶのだが。

 

 男は住宅街を抜けた。すでに川の近くに男は来ていた。そこには町工場や倉庫、車両基地が並んでいたが、休日ゆえに人も車もなく、閑散としていた。大きな堤防が地面から盛り上がっていて、目の前には急斜面が広がっている。斜面にはコンクリート製の階段とステンレス製の手すりが設けられていた。男は階段を登っていった。太陽はいつしか高く登っていて、男の首筋を焼いた。粘土に圧迫されて呼吸は苦しく、男は途中で何度も立ち止まっては息を整えなければならなかった。

 

 斜面を登り切ると、そこには河川敷が広がっていた。手前には陸上競技場と野球場があり、奥には草木が鬱蒼と生えていて、その向こう側に川が流れている。キラキラと日光を反射している水面は蛇の鱗のようだった。

 

 男は左方向に視線をやった。町工場の煙突が建ち並んでいる遥か向こうに小さく山並みが見えた。空の高いところには飛行雲を引いて旅客機が飛んでいる。右方向には鉄道橋に並んで、車道と歩道を備えた大きな橋がかかっていた。男はしばらくその場に立って周囲を眺めていたが、やがてまた歩き出すと、右手方向の橋に向かった。

 

 辿り着くまでにかなりの時間がかかった。いまや、粘土は耐え難いほどに巨大化している。橋の車道ではひっきりなしに車が走っていた。車の走行音は大きく、時折鉄道橋を高速列車が走り抜ける音も合わさって、橋の上では他に何の音も聞こえなかった。歩道には誰もいなかった。そこここにゴミが落ちていた。男は歩道に設けられている柵と欄干に目をやりながら、橋の中程よりさらに先へともう少しいったところまで蹌踉とした足取りで歩いていった。

 

 やっとのことで男はそこに辿り着いた。遠目に見たら橋と川との高さはさほどでもないと思われたが、ここから覗き込むと充分な高さがあるように思われた。ここからならば、決して失敗することはない。男は頷いた。ここに来るために特別な準備をする必要はないし、下にいる誰かを巻き込む心配もない。頭から落ちれば……たぶん確実だろう。柵を乗り越えるのに手間取りさえしなければ大丈夫なはずだ。夜、人通りがさらに少なくなる時間を狙ってここに来れば……自分がもしそうしなければならないのだとしたら、ここ以外にはありえないはずだ。

 

 だが、本当に自分はここで死んだのだろうか?

 

 男はしばらくそこに立って、何度も頭の中で自分が落下するのをイメージをした。しかし、それでも死の感覚が蘇ってくることはなかった。

 

 口の中に、さらに粘土が突っ込まれたような気がした。口蓋垂が圧し潰され、吐き気が一段と強まった。頼む。蘇ってくれ。そうでなければ、自分はもう一度、最初から死の感覚を得なければならない。ここが地獄ではないのならば……自分はもう一度、地獄に堕ちなければならない……

 

 その時、鉄道橋を高速列車が走り抜けていった。列車は甲高い警笛を鳴らした。警笛は尾を引いて、しばらく橋の上に留まった。

 

 それを耳にした瞬間から、男の頭の中では警笛が大音量で鳴り響くようになった。機械的で、スマートで、しかしどこか間抜けで親しみのある警笛の音が、男の精神を急速に引き裂いていった。

 

 そうか、これだったのか。

 

 警笛と共に、何か途方もなく巨大であるのにどこまでも暗く、冷たいものが迫ってくる感覚がした。そう、ありがたいことに自分はすでにこの感覚を知っている……

 

 もはや、息はできなかった。粘土はあまりにも大きくなりすぎていた。男は柵に両手をかけると、自分自身でも意外に思うほどの軽やかさで柵を越え、欄干の上に立った。

 

 口の中の粘土は今や喉の奥にまで侵入し、気管を完全に塞ぎつつあった。警笛は頭を内部から引き裂こうとしている。それでも男はちょっと逡巡し、何回か爪先を揃えたり離したりということを繰り返した。そして、目を閉じた後、男はほんのちょっと試すかのような何気ない足取りで、欄干の向こう側の空間へ自分の体を進ませた。

 

 ほんの一瞬だけ、寒くなるような浮遊感を覚えた。だがそれもすぐに塗りつぶされて、粘土の圧迫感と警笛の鋭さだけが目を閉じた暗闇の中に満ちている。

 

 男は、笑みを浮かべていた。

 

(「地獄にしてはあまりにも」おわり)




※以下、作者による作品メモ

 私にとっての地獄とは際限なく拷問を受けたり、絶え間ない苦しみを受けたりすることではありません。地獄というにはあまりにも平凡すぎていて、しかし平凡というには苦しみがちょっと多く、地獄ということにすれば楽にはなりそうなのだけれど、では地獄ということにしたらなんとなく言い過ぎな気がする……そのような感覚が毎日、毎年、一生続くのが私にとっての地獄ということです。もちろん、「劇的な」地獄を書くのも大好きなので、今後はそういうものもたくさん書いていくつもりです。
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