ヴェルグンデの嘲り   作:ほいれんで・くー

7 / 7
7. 違和感

 夕暮れだった。千切れた雲は赤く燃えていて、すでに藍色の夜の気配が空に満ちつつあった。男は駅から出た。夕暮れだというのに都市に人はまったくいなかった。店にも、交差点にも、駅にも人がいない。がらんとした骸骨のような建造物が見渡す限り広がっていた。

 

 都市に人がいない。明らかに異常であるのに、それについて男はほんのちょっとした疑念を覚えただけだった。何だか、おかしい。しかし、そのおかしさを追究していくまでには精神が尖っていかない。ほんのちょっとしたズレような感じで……そういえば、男は今朝からずっとそれを抱いていたのだった。

 

 今朝、男が電車のホームに立っていた時、隣の若い男が自殺をした。電車が入ってくると、それまでどこか宙を見ていた若い男はいきなり全速力でホームドアへ突進し、軽やかにそれを乗り越え、まだかなりの残速を有している電車の前へと身を投げた。男には一連の流れがよく見えたし、身を投げる瞬間の若い男の顔もよく見えた。顔面は蒼白で、目は虚ろだったがこちらを見据えていた。

 

 なんとなく、自分とその若い男の目はよく似ている。そのように男は思った。体格も背丈も違うが、目だけはよく似ている。

 

 若い男が死んだのはこの上もなく明白なことだったが、ちょっとした不審な点も残った。不審な点というのは……男がそれについて、何の感慨も抱かなかったということだった。本来ならば気分が悪くなったり、あるいは出社を取りやめて家に帰るなりするところだった。なにせ、若い男が飛び込んだ後、ホームドアにはびっしょりと真っ赤な返り血がかかっていたし、ホーム上の鉄製のモニターには轢断された右腕が引っかかっていたのだから……それでも男は何も感じなかった。そのまま会社に行って仕事をし、そのままこうして家に帰ってきたのだった。

 

 もちろん男は、この出来事を利用した。ちょうど今は繁忙期だった。しかし男は、朝に飛び込み自殺を見たので今日は早めに帰りますと言って帰ってきた。こういうふうにすれば、周囲からは気分が悪い中、繁忙期故に頑張って仕事をしてくれたという評価を勝手に下してくれるし、それに大手を振って早く家に帰ることができる。至極合理的な判断と選択であるはずだったが、それでも男はどこかに解消できない気分を覚えていた。

 

 無人の街路を歩き、無人の住宅街を抜け、男はようやく自分の家のある集合住宅に辿り着いた。暑い一日だったのでシャツは汗で濡れていて、背広の上下も湿っている。それでもやはり、この時間に帰ることができたのは幸いだった。だが男は、やはり説明できないものを感じた。これが幸いなことだとは認識しているが、その実、自分の中ではまったく幸いだという感情が生じていない……

 

 手にした鞄の重さも朝には一段と強く感じられたのに、今はまったく意識していない。それでも、鞄の持ち手もまた湿っていた。男は駐車場が設けられた外の敷地を通り、エントランスに続く低い階段を昇った。階段には干からびたアブの死骸が転がっていた。タイルとタイルの隙間からは小さな雑草が生えている。男は、自分の他に誰も歩いていないのに気づいた。普段帰ってくる遅い時間帯でも、一人か二人の住民には出会うのだが……

 

 何か、変だ。しかし、その変であるということがまったく気にならない。そう思いながら、男はエントランスの重い強化ガラスの扉を開けた。途端にむっとした熱く澱んだ空気が押し寄せてきた。男はちょっと顔をしかめて、それから自分の住居のポストへ向かった。鍵を開けて中を確認する。ポストにぎっしりチラシが入っていたが、男はそれをそのままにした。男はエレベーターホールへ向かった。

 

 エレベーターの前にも誰もいなかった。薄暗い空間の中で、ぼんやりとエレベーターの表示だけが光っていた。ボタンを押してエレベーターが降りてくるのを男は待った。エレベーターは最上階の七階に位置しているようだった。男の住居も、七階にあった。鍵をすでにポケットの中に用意しながら、エレベーターが降りてくるのを男は待った。しかし、エレベーターはいつまで経っても降りてこなかった。表示は出ているが、「7」というカウントから一向に減らない。ガラスの開き戸越しに中を除いても、エレベーターのケーブルが動いている様子は見えなかった。故障だろうか? 男はまたケーブルを観察した。どうやら、故障らしい。それならば、階段を昇っていくしかなかった。

 

 この集合住宅の階段は建物の外に出ていて、鉄骨造りの骨組みとコンクリート製の段組みという構造になっていた。元からそういうデザインなのか、あるいは後から必要に応じて外階段を付け足したのかは分からなかった。階段はかなり急で、さらには開放式になっているから、雨風の強い日には段はすべて濡れてしまう。この階段を利用している人間を男は見たことがなかった。男は階段へ向かった。階段の周りには雑草が生えていた。空はますます暗さを増しつつあった。そろそろ日没のようだった。

 

 男は階段を昇り始めた。中ほどで折れ曲がっている小さな踊り場まで来た時、男は外を見た。やはり誰もいない。広い駐車場にはまばらに車があるだけで、歩いている人は誰もいない。男は高さを目測した。大した高さではない。この高さから落ちても、死ぬことはできない。もっと高いところからでなくては……それに高いところから落ちたところで、確実に死ぬというわけではない。確実に死ぬには、もっと他の手段が必要だろう。電車に飛び込むとか……あるいは。

 

 考えているうちに、男は二階に着いていた。男は一息を入れて、また階段を昇り始めた。この程度の高さを昇るだけで息が切れた。たったこの程度の運動で苦しさを感じる……男はほんの少し首を傾げた。駅の階段では息が切れないのに? 男はいつも駅では階段を利用していた。

 

 ゆっくりと、確かめるように男は階段を昇っていった。男は、なんとはなしに階段の段数を数えていた。二階から踊り場まで、ちょうど十三段だった。階段と十三という数字が相性が悪いのを男は知っていたが、それが俗信であることも知っていた。その数字とも個人的なつながりはない。しかし、それでも、男はなんとなくしっくりこないものを感じた。自分が昇っているこの階段が十三段であるのは、なんとなく変な気がする……

 

 ふと、男は下から誰かが昇ってくるような気配を感じた。男は立ち止まって、振り返り、ちょっとだけ下の方を覗き込んだ。誰もいない。しかし、誰かがいるような気がする。住民の誰かだろうか? それならば気にすることもない。男はまた階段を昇った。三階の階段近くの部屋が見えた。玄関扉は奥まったところにあって、外廊下に面した部屋の窓は沈みかけた太陽の光を反射して赤くなっている。

 

 鞄を置くと、男は息を整え始めた。まだこれくらいしか昇っていないのに、早くも男の肉体は限界を訴えつつあった。神経痛にでもなったかのように、胸のあたりが疼痛を訴えている。男はポケットからハンカチを取り出すと顔の汗を拭った。それから、首のまわりも拭くために少しシャツとネクタイを緩めた。男は今日職場であったことを思い出した。大したことのないミス……たかだが、資料の通し番号を記載し忘れただけだった。だが、大事な会議で使う資料だ。それなのに誰からも責められず、誰からもなじられなかった……おかしなことだった。

 

 風が吹いてきた。生温く、生臭い風だった。上下の背広の中で、汗で濡れたシャツが体に張り付いていた。ハンカチで拭いている間に、男はまた階段の下の方に何かの気配を感じた。覗き込んだが、やはり何もいない。こうしている間に、とっくの昔に自分に追いついていそうだが……男はハンカチをポケットに戻した。濡れたハンカチはなかなかポケットに戻らなかった。そして、また男は階段を昇り始めた。最初の一段、二段は普通の息遣いだった。それでも、三段、四段となると、もう駄目だった。

 

 三階から四階の踊り場から外を覗いて、男は今日の夕暮れがいつもとちょっと違っていることに気が付いた。太陽は沈んでおらず、それなのに夜の藍色はどんどん空を支配しつつあって、真っ赤な夕陽の光が星々を燃やしているように見える。茜色に染まっていた雲は今では群青色になっていた。男は腕時計を見た。駅で電車を降りた時から時刻は確かに進んでいる。駅から出てきた時には、すでに夕暮れだった。ここまで帰ってきて、階段を昇っている間に、日が沈んでいてもおかしくはない。だが、日は沈んでいない。

 

 おかしい、とは思う。だが、なぜとは思わない。何かちぐはぐしたものだけが漂っている。

 

 それでも、男は鞄の持ち手を強く握った。そして、呼吸を止めて勢いよく階段を駆け上がった。確たる理由はなく、なんとなくの行動に過ぎない。子どもの急な思い付きのようなものだった。四階のフロアを通り過ぎ、四階と五階の間の踊り場も通り過ぎた。それで、五階のフロアまであと二段というところで、男の呼吸は限界を迎えた。爆ぜたように男の呼吸器は酸素を欲し始めた。男は激しく肩を揺らして呼吸をした。階段にぽつぽつと汗の滴が落ちて、真っ黒な跡を作った。

 

 どうしてこれほどまでに体が言うことをきかないのか……? だが、なぜという疑問はどうしても生まれなかった。

 

 背後へと振り返ると、男はどこか上目遣いにまた空を見た。空はすでに夜の色となっていた。星々が奇妙なまでにくっきりと藍色の中に浮かんでいたが、太陽はまだ地平線の上に留まっていて赤い光を放っている。男はその光の色に見覚えがあった。いつだったかは忘れたが、朝、出勤した時に、この集合住宅のエントランスの中にネズミの死骸があった……首のない死骸。何かの獣によって食いちぎられたのであろう乱雑な切断面からは、赤黒くて粘性の高い血液が滲み出ていた。ちょうど、そんな赤黒い光を太陽が放っている。

 

 ふらつきながら、男は階段を上がって五階に着いた。やはり誰もいない。男の胸も肺も強く痛んだ。男は鞄を開けると、中身が半分以下になった緑茶のペットボトルを取り出して飲み始めた。中身は泡立っていて生温く、飲み干した後の口の中には苦さだけが残った。飲んだところで気力など取り戻せはしなかった。男は腕時計を見た。さほど時間は経っていない。

 

 突然、氷のように冷たい視線を感じて、男は振り返った。そこにはそれまでに男が昇ってきた階段があって、下りの階段の先には踊り場がある。その踊り場に、何かがいた。それをはっきりとそれとして指さすことはできないし、その形も、その色も指摘することはできないが、男はそれがそこにいることがはっきり分かった。のみならず、それが男に対して視線を送ってきているのがありありと分かった。冷たい視線……だが、冷たいだけだった。それが踊り場にいて、今まさに昇りの階段に足をかけようとしている。

 

 男は表情も変えずにそれを見ていた。なぜか疑問も怖れもなかった。何かがおかしい。おかしい何かがそこにいて、自分を追いかけようとしている。しかし男は、それについてなぜとも思っていなかった。おかしいのだからおかしいというトートロジーすら生まれなかった。おかしさはただ、おかしさとしてそこにあるだけだった。

 

 自分からそれに向かっていこうか? ちょっとだけ男は考えた。自分から階段を降りて、その近くに寄っていこうか? なぜか、そうすべきだという気がしていた。そうすれば、すべてが解決するような気がした。それの方も、男がそうすることを望んでいるような気がした。それでも、男はそれを無視することにした。

 

 男はさらに階段を昇った。それはぴったりと後ろについてきた。踊り場まで来た時には、それは男の数段下にまで迫ってきていた。それの足音は聞こえなかった。それでも男はゆっくりと、自分のペースに従って昇っていった。六階に着いた。空は藍色よりも濃くなっていて、巨大な星々は煌々と光を放っていた。太陽は熱された小さな鉄球のようだったが、夜に圧倒されて縮んでいた。太陽の周りには細かな紅炎が渦を巻いている。夜空には幾筋もの金色の気流が吹き流れていた。

 

 もう、夜も昼もないのだろうか? 男はそう思った。おそらくそうだろうと思った。そして、自分がそのことについて何も不調和を見出していないことにも気づいていた。

 

 六階から七階へと昇り始めた時、男は足に強い力が加えられるのを感じた。見ると、それが足を掴んでいた。食い込むようにしっかりとそれは男の足を握っていて、そのままでは骨が砕けてしまうように思われた。男はどこかぞんざいに足を振った。それでもそれは離れなくて、男は姿勢を崩して倒れてしまった。倒れた拍子に顎をフロアに打ち付けてしまったが、痛みはなく、ただ衝撃だけがあった。男は口の中で血の味が広がることを予想し、また折れた歯が噛み砕いたラムネ菓子のように口の中に転がるのも予想したが、やはり何もなかった。

 

 それがのしかかってこようとしたので、男はそれの真ん中へ蹴りを入れた。少し掴む力が緩んだ。男は鞄をそのままにして、這ったまま階段を昇り始めた。一段昇るごとに力はますます強くなっていった。行かせまいとしているようだった。最後の踊り場まで到着した時には、男の背広の上下は埃まみれになっていた。這ったまま空を見上げると、先ほどまで地平線上で小さく燃えていたはずの太陽が頭上にあった。血のように濁った太陽の薄い光が、なぜか男の目を強く焼いた。男はまた這い始めた。かなりの時間をかけても昇れるのはわずかに一段だけだった。そんなことがまた十三回も続いた。

 

 息が切れ、足は痛みを発し、全身の力を振り絞っているはずなのに、そのことについて何も感じない。氷のような視線はなおも感じているが、やはりそれ以上のことは何も思わない。

 

 ひっかかりというのならば……男はなんとなく分かったような気がした。当然感じるべきことを感じない、この自分こそがそのひっかかりなのだ。男はまだ自分の足を掴んでいるそれを見た。これは何なのか? しかし自分はそれを知ろうとは思わない。これはなぜこんなことをするのか? しかし自分は、それを知ることをまったく欲していない。今朝の飛び込み自殺を男は思い出した。若い男が電車に轢かれた時に、風船が破裂したような音がした。空気によって膨らんだ胸郭が巨大な重量で急速に圧し潰された音だった。

 

 人間は、風船のようなものなのかもしれない。それならば、自分に詰まっているものはなんだろうか? その疑問にまったく興味を覚えていないことを自覚しつつも、その瞬間に強くなった力に促されて、男の思考は続いた。

 

 自分が破裂したら、どんな音が出るのだろうか?

 

 どこかしっくりくるものを感じて、やっと男に力が戻った。最後の段は両腕の力だけで昇った。いつの間にか、男は七階に辿り着いていた。七階という表示を見た瞬間に、それはいなくなってしまった。おかしなことだとは思いつつも男は立ち上がって、さきほど六階に置いてきてしまった鞄を取りにいこうかと考えたが、自分がそれほど鞄に執着していないのに気が付いて、そのまま家に向かうことにした。

 

 男の部屋は外廊下の一番奥にあった。家の前には二人の男がいた。男は、一人の顔に見覚えがあった。それは会社の上司だった。男はその上司のことが好きだった。もう一人の男はやや年配で、手には鍵の束を持っている。会社の上司はさかんに扉を叩いているが、その声は聞こえない。叩かれる扉から発する鈍い音だけが聞こえた。上司の顔は強張っていて、切迫感のようなものも窺える。年配の男は、どこか諦めたような表情をしていた。ややあって、二人は深刻そうな顔をして話し合う様子を見せた。それでもやはり声は聞こえない。

 

 おかしいと思いつつも、男はなぜとは思わなかった。声もかけずに、男はその光景を見ていた。やがて、年配の男が鍵の束から一本の鍵を取り出して鍵穴に挿し込むと、鉄製のドアを開けた。怖々とした様子で二人は家の中に入っていった。玄関の電灯がつけられ、光が中から漏れてきた。

 

 男も二人に続いて家の中へ入っていった。ドアは開け放たれたままだった。漏れ出た光が、沈まない太陽と溶けあっていた。

 

(「違和感」おわり)




※以下、作者による作品メモ

 集合住宅の外階段を昇っていく話は前から書こうと思っていてなかなか書けなかったのですが、今回それを部分的に解消した形です。部分的というのは、「昇っても昇っても自宅には辿り着かず、それどころか階数の表記もどんどんおかしくなっていく」という、私が小さい頃に見た悪夢を今回は再現しきれなかったからです。

 主人公がこのような状態である小説は、以前『ラインの娘』で書いた「アントンたちのハイビスカス」と同じです。しかしあちらの作品はまだ人間らしい主人公でしたが、こちらの主人公は人間らしさをすでに失っています。私の現在の目的はまさにそういう人間を描くことです。
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