ヴェルグンデの嘲り   作:ほいれんで・くー

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9. 視線

「不眠症とは文学的な症状かもしれません。それは、安直な表現を峻拒する症状だからです。私があえて不眠症を表現するのならば……それは焚刑でしょう。生きたまま焼かれる。そういうものでした。この世で最も残酷な刑罰です」

 

「当時の私は病気と診断されて三年が経過していました。一年目は何もわからないうちに過ぎ、二年目の終わりには寛解したと言われ、三年目にはなるほど確かに体が動くようになり、それではどうしようということで医師に相談した結果、とにかく毎日出歩いてください、散歩をしてください、日中に太陽の光を浴びてください、ということを言われました。それが病気の回復を早める上で非常に効果的であると……当時の私の悩みは、とにかく夜に眠れないことでした。かなり強力な導眠剤を処方してもらっていましたが、それでも眠れない。昼間に散歩することは、夜の睡眠にとって効果がある。さらに医師からそのように言われたので、それならばということで私は実行に移し始めました」

 

「散歩に出る時間はいつも午後でした。医師からは午前中を推奨されていたのですが、午前に起きることは三年経ってもできませんでした。昼食をなんとか食べて、簡単な服に着替えて、それから一時頃に家を出るのです。雨の日には外に行きません。雨の日は頭痛が激しくて動けないからです。晴れている日、雨の降っていない日は必ず外に行きました。別に私が勤勉だったからとか、そういうことではありません。それだけ夜の睡眠が深刻だったのです」

 

「コースはいつも決まっていました。何回か外に出るうちに、自然と決まってしまったコースです。家を出ると大通りを西に向かい駅前通りに入ります。北に進んでいくと、やがて住宅街を抜けて工場地帯に入ります。工場地帯といってもそんなに大したものではありません。人通りは少なく、声も聞こえません。ただ、車と機械の駆動音だけが聞こえてきます」

 

「その通りは片側一車線で、歩道も幅が狭く、それなのに工場に出入りする大型車両がしょっちゅう走っているものですから、時には衝突の危険すら覚えるほどでした。それでも私はその道を選びました。なぜなら、その道が河川敷に出る上での最短ルートだったからです。別に河川敷に何か面白いものや魅力的なものがあったわけではありません。これもやはり日光を浴びて……ひたすら歩く上で最適の場所がそこであったからに過ぎなかったという、それだけのことです。当時の私は楽しみとか面白みとか、そういうことを一切考えていませんでした。いえ、考えられなかったという方が正しいかもしれません。とにかく毎日、歩かねば、日光を浴びなければ、散歩に出なければ、ということだけしか考えていませんでした」

 

「楽しみのことなどまったく頭にないので、私はいつも俯くようにして歩いていました。自分の足がせっせと前へ進んでいく。しかしその歩みは遅い。自動車がすぐ近くを通り抜ける。自転車が前からやってくる。それでも私はギリギリまでそれに気づかない。歩いている道の途中に何があるのかも分からない。気配だけです。なんとなく、気配で何があるのかが分かる。ここは喫茶店だとか、ここはコンビニだとか、ここはリサイクル工場だとか……それでも私は、それをはっきりとは見ていないのです。ただ、なんとなくそれがそこにあると感じているだけ……毎日のようにそこを歩いているのに、そこについては何も知らなかったのです」

 

「工場地帯を抜けて、河川敷に出たら、あとは堤防の上をずっと歩いていって、それでまた帰ってくるだけです。真剣に歩けば一時間半ほどの短い道でしたが、当時の弱っていた私は二時間ほどかかりましたし、歩いた後は足の裏にいつも大きな水疱ができました。私はライターで針を熱すると、水疱に突き刺して中の水を抜いていました。あまり気持ちの良いものではありません。それでも、そうすることで今日もなんとかすべきことをしたんだという気持ちになったのです。時には血が出ることもありました。血が出たらなかなか止まりません。布団にはいつも血の染みが点々とできていて、古いものになると黄色い斑点のようになりました。ご存知ないかもしれませんが、血というものは古びると黄色くなるのですよ」

 

「それでも、夜はまったく眠れないのです。焚刑の始まりです。導眠剤のおかげで私の意識はリラックスしていて、自分はこの世で最も幸せな生き物だという気がします。意識だけは限りなく世界の隅々にまで飛んでいきそうなのに、体は緊張しきっていて、足は火で熱されているように熱い。寝返りを打つこともできず、布団と接している背中には熱がどんどん溜まって、それがまた体の火照りを強くする。目は閉じていますが、頭の中では様々な想念が渦を巻いています。将来のことを考えることはあまりなかったのですが、数ヶ月後に納めなければならない税とか、やらなければならない申告とか、あるいは両親が死んだ後の相続のことなどを考えたりすると、途端に思考は死ぬことへと切り替わります。なにしろ意識だけははっきりしているので、死に至るまでの想像も克明です。体は燃えるように熱いのに、身を捩ることもできない。そんな状態が毎晩数時間も続くのです。四時頃になって窓の外が白んでくると、その頃にはすでに導眠剤の効果も薄れていて、疲労感だけが残っています。この疲労のせいで気絶するようにして眠るわけです。これでは朝に起きられるわけがありません」

 

「それでも私は毎日外へ歩きに出かけました。夜は眠れていないのに、歩くことだけはする。私の体は相当弱っていたと思いますが、自分でそれに気づくことはありませんでした。医師には夜の不眠のことを話しませんでした。導眠剤は効いていて、散歩のおかげで夜はちゃんと眠れていると診察の時には話していました。医師はいつも喜んでくれました。私も、いつも診察が数分以内に終わるのは、私がしっかりと回復していると医師が判断しているからなのだろうと勝手に納得していました」

 

「数ヶ月が経ったある日のことです。その日は特に曇っていて、生臭いような風が吹いていました。肌寒さも感じられ、私はいつも以上に俯いた状態で、それでも可能な限りの急足で足を進めていったのです。三十分ほど歩いて、そこの交差点を越えれば河川敷の堤防に辿り着く、というところまで来た時です。私は、何かの視線を感じました。異様に鋭い視線で、背筋に冷たいものが走るのを感じます。じっと何かに見られている。私は顔を上げて、周囲を見回しました」

 

「交差点の四つの角のうち、三つはすべて工場で、最後の一つの角に古びたブロック塀に囲まれた小さな家がありました。視線はその小さな家から注がれているようです。私がさらに見ると、家には丸屋根の尖塔のようなものがあり、そこには四角い窓があります。その窓の奥に、女性が立っているのです」

 

「すぐに私は目を伏せました。そして、信号が変わると歩き始めました。視線はなおも私に注がれていましたが、しばらくするとその感覚は消えました。すぐに目を伏せましたが、私にはその女性の姿と特徴が分かりました。髪は長い黒髪で、とても艶やかな美しいものでした。顔はほっそりとしていて痩せています。肌は真っ白で、赤いドレスを身に纏っているのです。美しい女性でした。ですが、私がすぐに目を伏せたのは、彼女と私の目が合ったからです。彼女の目は鋭く、それなのに光を宿しておらず、しかし意志のようなものは確かにあって、ひたすらに私を見ていました。私には、彼女の瞳まで見えたように感じました。真っ赤な瞳です」

 

「その日は河川敷を歩いてすぐに家に帰りました。夜はやはり眠れません。それどころか、夢ともうつつともつかない粘りつくような想念の中に、あの女性が姿を見せさえするのです。女性は私を見つめています。何かの意志が込められた眼差し……しかし、それがどんな意志であるのかは分かりません。糾弾するのか、非難するのか、あるいは憎悪しているのか……ただ一つ、それが冷たいということだけは分かります」

 

「その夜も焚刑に苛まれ、また翌日になりました。さすがに私も今日は外に行くべきか、それとも行かざるべきか悩みました。それでもやはり、外は晴れているのです。私は同じ道を辿ってまたあの交差点へ行きました。途端に、鋭い視線を感じます。視線は氷となって私の背筋を切り裂き、私の中へ入ってきます。ええ、そのような感覚がするのです。私は、今度は目を上げませんでした。そこに女性がいるのは間違いなかったからです。交差点を去り際、ようやく私はちょっとだけ顔を上げてその方向を見ることができました。長い黒髪だけがちらりと見えました」

 

「そして、焚刑の始まりです。動かない、火照った体の中で、膨張するだけ膨張した私の意識が暴れています。私は堪えられないほどの熱さから逃れるために手足を振り回そうとするのですが、体は強張っていてできません。渦を巻く想念の中ではあの女性がひたすらに私を見つめてきます。やはり美しい女性でした。目は冷たくて虚無を纏っていますが、それでも私を見つめている。顔の造作は整っていて、形の良い唇はやや半開きになっています。私はだんだん女性に魅了されていきました。ぞくぞくするような視線が次第に心地良くなり、背筋の冷たさも同じく心地良い。氷の冷たさは、私がこの数年間望んでも望み得ないものでした。眠れないのは確かに変わりません。朝方になってから気絶したように眠りに落ちるのも変わりませんでした。それでも私は、夜を恐れなくなりつつありました」

 

「それからの私は毎日外に出るようになりました。雨が降っていようが、雪が降っていようが……台風の時でも私は外に出たのです。いつも必ずあの交差点を通り、女性の氷のような視線を浴びて、去り際にちらっと見て、その黒髪の麗しさを目にして満足する。そんなことを毎日続けました。その女性についてもっと知りたいとか、直接会ってみたいと思ったことはありません。不思議なことですが、そのようなことは少しも思わなかったのです」

 

「いつしか私は、ただ歩くことそれだけではなく、あの女性の視線を受けることを考えて歩くようになっていました。それは楽しみとはまったく違っていましたが、少なくとも私が何らかの『べき』の思考から脱していたのは確かです」

 

「数ヶ月が過ぎました。その日の診察で、私はいつもと同じように話をしました。夜はよく眠れていると私が言うと、医師は無造作に言いました。『それでは、導眠剤を減薬してみましょう』 私は内心呆気に取られましたが、すぐに頷いて承諾しました。一ヶ月間で半分に減らし、さらに一ヶ月で完全に飲まないで夜を過ごす……かなり急激な減薬でしたが、私は忠実にそれを実行しました」

 

「すると、数日が経つうちに、徐々に変化が生じて来たのです。まず、体の強張りがなくなりました。また、意識の広がりも消えたのです。眠気を覚えることはありませんが、焼かれているような感覚もありません。朝四時ごろまで眠れないのも変わりませんが、しかしそれくらいの時間になると、眠気に似たものに導かれるのです。こんなことは久しぶりでした。小学生以来だったかもしれません。これほどまでに簡単に焚刑から解放されてしまって、私は呆気なさと共に、言いようのない忿懣のようなものすら覚えました。安堵の気持ちなどありません。私は、これまで何の罪もないのに焚刑に処されていたのだと思いました。無実の者であるからこそ、その刑罰が峻烈なものとなるというのならば、焚刑はまさに最適なものだったでしょう。しかし、それよりも大いなる刑罰というのは、実はお前が今までに受けてきた苦しみには何も意味がなかったと宣告されることです。ともあれ、私は焚刑から解放されました」

 

「減薬の最中にも私は散歩に出ていました。視線は相変わらず感じていましたが、その頃になると私はその冷たさが鈍っているように思えました。私はもう、目を上げて黒髪を確認することもしませんでした」

 

「そして、完全に導眠剤の減薬が終了し、次の薬の減薬が始まった頃には、私は夜中の二時頃には自力で眠れるようになっていたのです」

 

「その日、私は久しぶりに散歩に出ました。数日間風邪をひいてしまって外に出られなくなっていたからです。以前の私ならばおそらく風邪をひいていても外に出て、あの視線を求めたでしょう。ですが、その頃の私はそこまで視線を求めなくなっていました。私はその日、初めて自分が俯かずに顔を上げて、その道を歩いていくのに気づきました。道は思っていた以上に広く、自動車が横を通っても危険は感じません。コンビニだと思っていたところは保険会社の事務所で、喫茶店だと思っていたところは閉店した靴屋でした。私は、内心で愕然としていました。自分が歩いているこの道が、これまで半年間以上も毎日歩き続けてきた道だとは思えませんでした」

 

「やがて、その交差点に辿り着きました。人通りはまったくなく、閑散としています。寂しい風が吹いていました。私はあえて俯きながらそこに行きました。もしかすると……そう考えるだけで恐ろしいことでしたが……すべてが私の思い違いだったのではないか……? それでも、私は強い視線を感じました。安堵したような気持ちになって、私は顔を上げました」

 

「そこにあったのは、古い家でも丸屋根のついた尖塔でもありませんでした。そこには屋根が真ん中から潰れた廃屋がありました。一本の枯れかけた太い樹木があり、それがまばらに緑の葉をつけています。廃屋には一本の細い煙突がありました。その煙突の中ほどに、何か黒いものが縛りつけられているのです」

 

「息を殺して、私はその黒いものを見つめました。しばらく経っても、私はそれが何であるかに気づきませんでした。突然、私はそれの正体が分かりました」

 

「それは干からびたカラスの死骸でした。大きなカラスでした。なぜかカラスの死骸が細い金属製のワイヤーで煙突に括り付けられていたのです。カラスの頭部は無くなっていました。おそらく、他の鳥類か獣かに食いちぎられたのでしょう。微風が吹くたびに、カラスの死骸の枯れ果てた翼が揺れていました。私はその家の門の前まで行きました。門は閉じていて、どこもかしこも朽ちています。中は鬱蒼と草木が生い茂っていました」

 

「改めて私は周囲を見回しました。私は息を呑みました。今まで私は、そこに工場が建っているものとばかり思っていましたが……」

 

「そこには火葬場しかありませんでした。ペットの火葬場でした。私はさらに目を見開きました。幸せそうな犬と猫が、剥がれかけた塗装の看板の中で寄り添いあっていました。犬と猫の目は閉じられていました」

 

(「視線」おわり)




※以下、作者による作品メモ

 個人的に、怪奇小説やホラー小説というものはオバケや怪物、怪異、不気味な風習、異常者などを題材とはしていますが、それだけがその小説の怪奇性やホラー性をもたらすものではないと思っています。これらは言うなれば外装のようなもので、本当の精神はもっと別のものです。私はこの作品を怪奇小説として書いたわけではありませんが(というよりも、こういう症例を抱えている人間についてのかなり正直な報告として書いたつもりです)、読み直してみるとある意味ではこれも怪奇小説です。なぜなら、私の思う怪奇小説とは、「自分が自分ではなくなる、実存の揺らぎ」を描いたものだからです。
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