剣と大砲が戦場の主役となりつつある時代。北方大陸の大部分を支配するエルトラン王国の北部辺境に、カサウェルという村落がある。
カサウェル周辺は大陸の中でも非常に寒く、年の半分は雪に閉ざされている。大地には針葉樹が生えているが、これらの樹木は冬になっても落葉せず、腐葉土の元となる落葉が積もらない。このため非常に痩せた土地であり、肥料なしでは一年と作物を育てられない。
土地が痩せているので獣も殆どいない。狩猟で日々の糧を得るのも、困難と言わざるを得ない。唯一河川にいる魚介類は豊富だが、漁業をするには冷たい水に触れねばならず、しかも重労働。その魚介類も長年の生活……乱獲と森林伐採の影響で減少し、暮らしは年々悪化している。
王都周辺では石炭を用いた動力や暖房機が普及しつつあるが、カサウェル周辺では未だ木炭が主流だ。しかしその原材料である木々は長年の伐採により枯渇寸前という有り様。近年ようやく植林を進めているが、寒さと痩せた土地の影響で、若木が木炭に使える大きさとなるまでざっと数十年は掛かる。回復は、まだ当分先になるだろう。
そしてこの土地は、何処かの国と隣接してもいない。それ自体は戦争が起きても、誰にも荒らされないという平穏を約束する。しかし平和という事は、国からすればわざわざ手間を掛けて守る必要がないという事。騎士団や軍隊は訪れず、外から人が来ないのでお金も流れてこない。唯一鉱物だけは豊富で、百年前までは銀の採掘でかなり賑わっていたが……その銀山は既に採り尽くした。
端的に言えば、年々廃れる一方の荒廃した土地である。
とはいえ一時でも栄えた時代があったのは間違いない。その栄光の時代に地域を治めていた領主――――フィンチ家は、とある山奥に屋敷を建てた。
とても大きな屋敷である。今から二百年前に建てられた豪邸で、当時は豊富にあった木材を潤沢に使った二階建ての建物だ。物々しい扉の玄関を通れば、その先には貧しい農家の家よりも遥かに広いエントランスホールがある。一階には食堂や書庫があり、どちらも人が暮らせるぐらい広い。二階には客間が幾つも並び、当時のフィンチ家当主が大の喫煙嫌いだった事から(葉巻を吸う客人を隔離するため)喫煙室まである。屋上バルコニーもあり、外の景色を一望出来た。
そのフィンチ家の屋敷も、今や廃墟だ。
フィンチ家は百五十年前に、流行病で一族の大半が死に絶えた。今でも分家の一部は生き残り、村長をしているが……屋敷を管理していた本家は全滅。誰も管理しなくなった屋敷はすぐに荒廃した。明かりもなく、昼でも夜のように暗い。
……しかし。
誰もいない筈の屋敷なのに、毎夜しくしくと誰かの泣く声が聞こえてくる。
【ぐすっ……う、うぅ……】
その声は決して幻聴でもなければ、家鳴りでもない。確かに『彼女』が家の中で泣いていた。
彼女は、見た目十歳程度の幼い少女である。
白く可憐なワンピースを纏い、けれども裸足でぺたぺたと屋敷内を歩き回っている。顔立ちは幼くて愛らしいのだが、身体の所々が黒ずんでいた。ふわふわと羊毛のように柔らかな黒髪も、先端がどろっと溶けている。
彼女の名はエリィ・フィンチ。
百五十年前に流行病で死んだ、フィンチ家の長女である。死んだ筈の彼女が何故この屋敷にいるのか? その答えは、彼女の身体が薄っすらと透けている事からも明らかだ。
彼女は死んだ後、霊となって屋敷内を徘徊しているのである。
【寂しい……寂しいよぉ……】
理由は寂しさから。幼い彼女には自身の死を受け入れる覚悟もなければ、大切な人を残してあの世に行く考えもない。
だから屋敷に残り続けたが、両親も流行病で死んでしまった。
その両親は大人としてある程度覚悟していたのだろう。あっさりあの世に旅立ってしまった。使用人達も屋敷から離れ、エリィは廃墟に一人取り残されてしまう。
遺族も家財を持ち帰った後はろくに来ず、山奥なので泥棒も訪れない。だからずっと、百年以上、彼女は独りぼっちだった。
【寂しい、寂しい寂しいサミシイサミシイサミシイサミシイサミシイ】
長い孤独は、彼女をただの霊から悪霊に変えていた。今や身体からは呪いが染み出している。呪いは人の生命を害し、心を蝕むおぞましい毒気。常人が吸い込めばたちまちエリィを殺した病と同じ症状に見舞われ、病よりも早く命を奪うだろう。
それどころか溜まりに溜まった呪いの力……呪力は、フィンチ家の屋敷を『異界』に変えてしまった。
廃屋の屋敷は、今も現実の世界にある。虫や獣は難なく中に入り込めるだろう。しかし人間が屋敷内に入れば、そこは地獄や天界と同じような異界へと変貌する。屋敷自体が一つの世界となり、窓や壁を壊して外に出る事は物理的に不可能な空間と化すのだ。
人を呪い殺す悪霊からすれば、獲物を狩るための罠のようなもの。
……尤も、誰も来なければ罠の意味などないのだが。それどころか彼女自身が異界化した自宅と繋がり過ぎて、外に出られなくなる有り様。
それが一層、エリィの孤独を強める。
【あ、あぁああぁぁあ……サミシイサミシイサミシイサミシイサミシイ……】
無意味に呪いを振り撒き、苦しみ、それらの感情が彼女の力を高めていく。悪循環と呼ぶべきか、強大化と呼ぶべきか。少なくともエリィ自身は望んでいない日々を、彼女はずっと続けていた。
――――この日までは。
エリィは今、客間がある二階廊下を歩いていた。壁紙は粗方剥がれ、一部天井は崩落。廊下もひび割れて、何時崩れるか分かったものではない。
だが孤独に苛まれるエリィに、そんな事を気にする理性などない。渦巻く激情を少しでも紛らわそうと、無意識な徘徊を続ける。本当に、ただ歩き回るだけ。何にも触れてはいない。
その時、ぼとん、と何かの落ちる音が聞こえた。
【っ!】
エリィはすぐに音がした方へと振り返る。
最早本能のような行動。人を求め、呪う彼女に、人を見逃すという意思はない。
ないのだが、エリィは動き出さない。
物音がしたので振り返ったが、人の姿がなかったからだ。何かが落ちただけかと落胆し、それが一層寂しい心を掻き立てる。呪いに心が支配されていく……
が、続いて聞こえたずるずると這いずる音が、彼女の心に理性を戻す。
【えっ……な、何?】
悪霊化したとはいえ、エリィの本質は十歳の女の子。しかも生前は割と怖がりで、ちょっと臆病でもある。
やだなぁ、お化けとか怖いんだけど……と、自分もお化けなのを棚上げして、一丁前に怖がるエリィ。辺りを見回し、何かいないか確認しようとした。
ところが何も見えない。
家が暗いから、ではない。悪霊であるエリィは夜目が利き、今更暗闇で何かが見えないなんて事はないのだから。遥か先まで続く廊下の行き止まりまで、しっかり見えている。間違いなく誰もいない。
だけどずるずる這いずる音はまだ聞こえる。
【も、もしかして、足下……】
音の聞こえる位置を意識すれば、自分の足下だと分かる。
一体何がいるのか。恐る恐る、悪霊なのに恐怖しながら、エリィは視線を下に向け……
丸くてぽてっとした、変な生き物がいた。
【………………………………………は?】
思わず、声が漏れ出た。
生き物と言ったが、動いているからそう呼んだだけ。大きさ三十センチぐらいで、柔らかいのかちょっと潰れている、丸い生き物なんてエリィは知らないのだから。色は雪のように真っ白で、くすみ一つない。丸い身体の正面には目、と思われる細長い黒いものが二つあって、愛嬌を感じさせる。手足や口はなく、本当に生き物か? とも思うが、動いているので一応動物ではあるのだろう。
生き物はずりずりと這いずっているが、特段エリィに付き纏う訳ではないらしい。何処かに行くつもりもなさそうで、無秩序に動き回るだけ。
確かに生き物なのかも知れない。知れないが、なんだかよく分からない。未知の生物なのでちょっと怖いが、爪も口もないような奴にビビるほどエリィは極端な臆病でもない。
【な、なんだろ……これ……】
とはいえ訳の分からない生き物から目を離すのも怖いので、後退りして、ちょっと距離を取りながら観察。
すると生き物は、不意にぴたりと止まった。
何秒、何十秒経っても、やはり動かない。もしかして死んだのか? も思うが、だからといって触りに行くのも怖い。放置しても、何時の間にかいなくなっていたら怖いのでしたくない。
極端ではなくともやはり怖がりではあるので、何分もその場を動けなくなってしまうエリィ。どうしたら良いのか考えてはみるが、答えなんて何も浮かばない。
【……………え、えっと……】
精々、視線をちょろっと逸らし、へらっと愛想笑いを浮かべてしまう。謎生物相手に通じるかなんて、彼女自身思っていないのに。何やってんだかと、自分に呆れてしまう。
――――彼女は気付かない。困惑と自嘲が自身の理性を呼び戻した事を。
そしてこの不思議な『生き物』が、自分の長年求めていたものを与えてくれるなんて、今の彼女には知りようもなかった。