呪力生命体が生まれてから七十年が過ぎたある日の事。
この日も、エリィはのんびりと屋敷内で過ごしていた。フィンチ家屋敷は今日も野生生物で賑やか。パタパタが空を飛び、ヨツアシが走り回り、ウミクサが生い茂る。
生き物達の生存競争で毎日が賑やか。新種も頻繁に現れ、見ていて飽きない。
エリィにとってここでの暮らしは、楽園のようだった。
……と、言いたいところだが。
「ぎょわー!? 痛い痛い痛い!?」
楽園には、頭に噛み付いてくる生き物なんていないだろう。頭をカジカジしてくるそいつが、此処は楽園ではないと執拗に教えてきた。
エリィの頭を噛んでいるのはカイギョ。かつてエリィの頭を噛んだ、円形をした種だ。大きさは直径三十センチ程度で、エリィの後頭部ぐらいは覆ってしまうぐらい大きき。そして薄い円形の身体の中央に触手型の先端突起が八本あり、これでエリィの頭をチクチクと刺している。
この個体がエリィを襲ったのは、偶然ではない。カイギョというグループ全体がヨツアシとの生存競争に敗れて衰退する中、呪力の供給源をエリィに依存するよう進化してきた。エリィをじっと監察し、最も油断した時を狙って襲い掛かってくる。
この種に襲われるのも、今やエリィにとっては日常だ。ちょっと痛いだけであるし、今や他に見られないカイギョの生き残りと思うと追い払うのも可哀想に感じる。とはいえ追い払わないと延々と啜ってくるので、すぐに引っ剥がしてポイするのだが……今日の個体はやたらしつこい。何度剥がしてもすぐに戻ってきて、また噛み付いてくる。そんなに空腹なのだろうか?
腹ペコなのは可哀想だが、ちょっとの間なら兎も角、延々と痛いのは堪ったものではない。
【ふぬぅおお、せいっ!】
四度目の引っ剥がし、そしてポイ捨て。今まで以上に力を込めて、出来るだけ遠くまで投げる。
カイギョは空中でひらひらと蠢きながら体勢を立て直す。普段の個体なら、これだけ離れれば諦めるのだが……コイツは一直線にエリィに突撃してくる。最早隙すら狙っていない。
【ひぃぃぃ!? 完全に獲物としか見られてないじゃないこれぇ!?】
あまりの凶暴ぶりに、エリィはたじたじになってしまう。
本当なら、こんな危険生物は『駆除』すべきである。二百年以上存続するエリィの呪力ならば、こんなちっぽけな生き物を一体殺す事など造作もない。
しかしエリィの精神性は基本小娘のそれ。自分に噛み付く危険生物と真正面から戦う勇気はない。数少ないカイギョの生き残りというのも、乱暴なやり方を躊躇わせる。
あれこれ悩んだ挙句、エリィが選んだのはとりあえず逃げる事だった。
【あだだだ!?】
だが走る速さはカイギョの方が上らしい。追い付かれるやまた後頭部を噛まれ、結局手をぶんぶん振り回すという乱暴な牽制をしてしまう。
それで一時離れたらまた走り、また距離を詰められ、また追い払う。
これでは何時まで経っても終わらない。何処か安全な場所に逃げ込んで、諦めさせるしかないだろう。
それにうってつけの場所がある。
二階の客間だ。現在、幾つもある客間の扉はどれも開けっ放しにしている。呪力生命体達が全ての部屋を自由に行き来出来るようにして、屋敷内の生態系をより賑やかなものにしたかったからだ。ただ扉を開けているだけなので、閉めれば当然部屋と廊下を区切れる。
二階廊下を駆け抜け、客間の並ぶ場所まで向かう。
一番手前の客間に入りたかったが、扉が外れて倒れていた。モタケが無数に生えていたので、分解されてしまったのかも知れない。呪力で扉を修復するのは後回し。まだ扉が無事な、二つ目の部屋に駆け込んだ。
素早く扉を閉めれば、どうにかカイギョが部屋に入ってくるのは防げた。ドンドン、と音がして、扉が揺れる。体当たりをして、無理矢理にでも入ろうとしているらしい。
とはいえ扉はガタガタと揺れるだけ。そのうち諦めてくれるだろう。ホッと安堵の息を吐きながら、エリィは扉に寄り掛かるようにして座り込む。
すると当然、視線は客間の中へと向く。
フィンチ家屋敷の客間は広い。流石に平民の家ほどの広さはないが、その半分ぐらいの面積はあるだろう。ベッドや化粧台などが置かれているが、それらはすっかり草本性のウミクサ、もしくはモタケに覆われていた。見た目からしてボロボロで、モタケによる分解も考慮すると何時壊れてもおかしくない。部屋が狭いからか、ヨツアシのような大型生物の姿は見られない。
唯一いるのは奇妙なパタパタ達だけ。
そのパタパタはドアから離れた位置の、ベッド近くの床付近を浮かんでいた。体長は十センチぐらいだろうか。
身体の後方末端に、細長い触手のようなものが一本生えている。尻尾のような器官だ。体長よりも遥かに長く、それでいてうにょうにょと動かしている。身体の動きに合わせて揺れている訳ではなく、自分の意思で動かせるものあるらしい。
このような形態のパタパタは、エリィにとって初めて見る。とはいえ呪力生命体は日々生存競争を繰り広げ、絶滅と進化を続けている。新種らしき生物を見付ける事自体は珍しくも何ともない。
珍しいのは、群れている点だ。
パタパタは自由に飛び回る生き物である。個体数密度が高い事は度々見られるが、それは大きなウミクサなど、特定の餌に群がっているだけ。敵に追われれば呆気なく散り散りになり、邪魔だと思えば同種相手にも平然と体当たりをする。
ところが此処のパタパタ達は、飛び回らず朽ちたベッドの下に潜んでいた。何十匹も狭い場所に集まっているが、ケンカする様子はない。大半が奥に引っ込んでいるが、何匹かは頭を少しだけ出して、外の様子……主にエリィの動向だろうが……を窺っている。
まるで仲間同士で身を寄せ合っているようだ。
明らかに群れている。このような『社会性』のある種は、呪力生命体全体で見てもこの七十年間一度も現れた事がなかった。
【……………!】
その社会性の意味を、エリィは理解した。
社会性……仲間同士で群れるには、様々な『能力』が必要である。
まず仲間とそうでないものの識別。なんにでも擦り寄るようでは、天敵にも近付いて食べられてしまう。
更に連絡能力。どんな方法を使うにしろ、仲間と連絡を取り合う能力がなければ行動を一致させられない。
そしてこれらの能力を活かすための
つまりこの群れるパタパタは、なんらかの知能があるのではないか。
【あ、え、ぇと】
口が勝手に動く。考えが纏まらないのに、何かを話そうとしてしまう。存在しない筈の心臓が、バクンバクンと波打つ。
落ち着け。
エリィは心の中でそう叫んだ。いくら知能があると言っても、どの程度のものか分からない。見たところパタパタ達は寄り添っているだけで、大した知能があるとは限らない。
そもそもアリやハチだって群れるが、あれらに知能はないだろう。本能的な行動でも、群れを作るぐらいは出来る。集団行動はとても人間的に見えるが、必ずしも知性ある事の証明にはならない。
過度の期待は禁物だ。エリィ自身そう思っている。
だけどエリィは期待を抑えられない。言葉を話さなくても良い。殆ど通じなくても構わない。だけどもしも交流が出来たなら、誰かと話が出来たなら――――
呪力生命体達のお陰で、エリィの精神は落ち着いている。それでも二百年以上もの間続いていた『孤独』は、未だ彼女の心にずしりとのし掛かっていた。彼女はコミュニケーションに飢えていて、更なる触れ合いを求めて止まない。
無意識に身体は前のめりになり、手を前へと伸ばし――――
ドオンッ! と一際大きな音が鳴り響き、エリィの背後にある扉が勢いよく開いた。
【きゃ、ぐぇっ!?】
エリィは音に驚いて悲鳴を上げ、直後開いた扉が背中に当たって突き飛ばされる。前のめりに倒れた彼女は這いずった姿勢のまま振り返り、何が起きたか確かめようとした。
開いた扉の先にいたのは、ひらひらとした円形の生き物。
先程までエリィを襲っていたカイギョだ。パタパタに夢中で失念していたが、まだ扉を叩いていたらしい。確かにまだ数十秒ぐらいしか経っていないだろうが、その間ずっとこの部屋への突入を試みていたのか。
いくらなんでも執念深過ぎる。恐ろしさを通り越して、呆れの感情まで込み上がってくるほどだ。
尤も、呆れていられたのはカイギョがエリィの方に振り向くまでの事だが。執念深さに見合う、凄まじい『食欲』を向けられてエリィは【ひっ】と小さな悲鳴を漏らす。
完全に、このカイギョはエリィを餌だと思っている。
食われる側になり下がり、エリィはおどおどと後退り。だが客間の広さなどたかが知れている。後ろに下がればすぐ壁にぶつかり、身動きが取れなくなってしまう。
カイギョに噛まれたところで死にはしない。しかしまた頭を噛まれると思うと、堪らなく嫌だ。思わず、きゅっと目を閉じてしまう。
【ギュアアッ!?】
そして悲鳴が部屋に響く。
ただしその悲鳴は、エリィの真正面から聞こえたが。
【……えっ?】
予想外の悲鳴にエリィは恐る恐る目を開き、今度はこの目をパチパチと瞬き。そうするほどに、自分の見ているものが信じられない。
パタパタが、カイギョを襲うなんて。
無数のパタパタがカイギョの周りを飛び回っている。数はざっと二十か三十。何匹かは既にカイギョに張り付き、先端突起をカイギョの身体に突き刺していた。更に身体後方の長い触手も先が尖っているのか、これも突き刺して攻撃している。
パタパタは大人しい生き物だ。ウミクサという『獲物』を狩っているが、気質としては草食動物や小動物のそれ。他の生き物に襲われれば、すぐに逃げ出すのが基本的な性質である。
ましてや自分よりも大きな生き物に突撃し、攻撃するなんてあり得ない。いや、パタパタに限らず、自分より大きな生物に立ち向かう種なんて殆どいない。大きい=強いであり、戦いを挑んだところで勝ち目などないのだ。子供を守るなどの理由がない限り、さっさと逃げ出すのが合理的だろう。
だというのにこのパタパタは、カイギョに戦いを挑んでいる。いや、襲い掛かっている。こんなのは自然の摂理に反する――――
否。
たとえ自分より大きな生物でも、躊躇いなく襲い掛かる種はいる。そういった種には一つ、明確な特徴があるではないかとエリィは気付く。
その特徴とは、群れだ。アリは大群となって大きな虫やトカゲを遅い、一部の獅子も群れて巨象を狩るという。何より人間も、群れて数多の大型動物を狩ってきた。
群れは強さである。このパタパタはそれを理解し、活かしているのだ。
【ギ、ギギ、ガッ】
カイギョは身体を回転させるなどして、パタパタを振り払おうとする。それで一〜二匹は落とせているので、全くの無駄ではない。
だが落とした傍から次々と張り付いてくる。次々に先端突起と触手を突き刺し、カイギョから呪力を吸い上げていく。
ついに弱りきってしまったのか、カイギョは墜落。
それでもパタパタは手を緩めない。むしろ飛び回っていた他個体も続々と集まり、カイギョの身体を埋め尽くしてしまう。びっしりと群がるパタパタの姿は、些かおぞましい。
ついにカイギョは生命活動を停止。身体は即座に崩壊し、呪力となって大気中に溶け出す。パタパタ達は群がっていたので、霧散した呪力の大半は群れ全体で吸収出来ただろう。
カイギョを食べ終えたパタパタ達は、素早く移動を開始。またベッドの下に潜り込んでしまう。基本的にはあそこが住処という事か。パタパタ達はまたベッドの下から顔を覗かせ、未だ尻餅を撞いたままのエリィをじっと観察している。
観察もまたコミュニケーション。相手の知性を感じ、エリィは小さな笑みを浮かべる。交流を求め、ほんの少し這いずりながら寄ってみた
瞬間、パタパタ達はベッドの奥に隠れてしまう。
【……うん、そっか。まだ怖いか】
どうやらまだ受け入れてもらえてはいないらしい。その事がショックではないと言えば嘘になる。
だけど、そこには「今はまだ」という文言が付く。少しずつ触れ合えば、交流と呼べるものが持てるかも知れない。
期待と希望を抱くエリィ。しかし彼女は失念していた。或いは幼さ故の全能感と楽観が、その肝心な事を忘れさせていたと言うべきか。
知性あるものが自分の思い通りに動く事なんて、殆どないというのに――――