悪霊の呪力は途方もなく強力だ。
何しろ人を呪い殺すほどの力。比喩でなく想いだけで人を殺すと言えば、その異常さは十分伝わるだろう。そして呪力は世界に対する恨み辛みが積み重なるほど強くなるため、長く彷徨い続けた悪霊ほど強大である。
百五十年も孤独に苛まれたエリィの呪力は、生半可なものではない。小さいとはいえ別世界である異界を創り出しても、力は有り余っていた。
その有り余った力の一部が、彼女の『寂しい』という想いと結合。無意識に孤独を癒す存在として、新たな生命体を生み出すに至った。造形が適当なのは無意識の産物であるため。
生命創造という神の御業を模倣した、おぞましい悪霊だ。
――――この状況を目にすれば、王国悪霊対策機関(通称エクソシスト)はエリィ及び此処で起きた現象をそう結論付けただろう。
【……ど、どうしよう、これ】
しかし発生源であるエリィには、これらの理屈は何一つ分からなかった。
おかしな事ではない。髪がどんな仕組みで伸びるのか、食べ物の栄養がどうやって吸収されるのか、吸った息はどうなるのか……生きた人間だって、その具体的な原理を説明する事は出来ないだろう。説明出来るという者でも、本や教員から教わっただけで、自分の体感で理解した訳ではない。
生理機能というのは身体が勝手にやるもので、自覚なんて出来ないものだ。悪霊の呪力も同じで、それを垂れ流しにして起きた事などエリィには知りようもない事象である。
【……………ず、ずっと動かないし、もう放っといても、いい……かな?】
単に何も分からなくて逃避しただけだが、生まれた謎生物はエリィに危害を加える素振りもない。今はただ動かず、じっとしている。下手に刺激せずそのままにしておく方が安全だ、というのは一概に否定出来る考えではないだろう。
尤も、子供である彼女は一旦逃避したら、延々と逃げてしまうが。今のうちに対処法を考えるとか、様子を見るとか、そんな建設的な動機は何一つない。また生物の見た目が可愛いとは感じたので、ちょっと手荒な事はしたくないという想いもある。
【その、あの、部屋のものとか、壊さないでね? えと、お客さんとか、来ないかもだけど、この辺は、一応客間だから……】
言葉でやってはいけない事を伝えてみるが、知性があるかも怪しい生物に伝わったと思うほど、享年十歳のエリィは無邪気ではない。
大丈夫かなぁと不安にもなるが、これ以上出来る事もない。
すっかり『寂しい』と言わなくなった自覚がないまま、エリィはこの場を後にした。
悪霊となったエリィの行動は、ある程度決まっている。
毎日屋敷中を巡回し、『来客』がいないか確認するのだ。この百五十年間来客なんて全くないが、寂しさに突き動かされていたかつてのエリィにそれを止める事は出来ない。
謎生物の影響で寂しさを忘れていたエリィだが、百五十年も続けていた習慣を今更止める事もない。エントランスを見て、食堂を見て、書庫を見て、寝室を見て……やはり誰もいない、廃れた屋敷を認識する。
とぼとぼと、誰もいない廊下を進む。悪霊であるエリィは浮かび上がる事も出来るが、彼女は人間のように歩く。
ぺた、ぺた、ぺた。自分の足音しか聞こえない事が、孤独感を掻き立てる。
【……寂しい】
数時間途絶えていた言葉が、また口から溢れ出た。
【寂しい、サミシイ、サミシイ、さみしい、さみしいサミシイサミシイサミシイサミシイサミシイ】
一度自覚すれば、またエリィは悪霊へと戻る。孤独という激情から呪力が生まれ、人を呪い殺す力が屋敷内を満たす。戻ってきた理性は失われ、今や孤独を言葉にするだけ。
呪いの感情を振り撒きながら、彼女は数時間ぶりに客間がある二階廊下へと戻ってきた。
廊下には謎の生物が百体ぐらいいた。
【サミシイサミシイサミほわぁっ!?】
全く予期しなかった光景に、一瞬で悪霊エリィは我を取り戻す。
廊下を埋め尽くしていたのは、どれも(エリィは自覚していないが)エリィから生まれた謎生物達。
大きさは十〜三十センチと疎らだが、姿形は数時間前に見たものと同じ。自重で潰れ気味の、丸い身体だ。手足も口もなく、二つの目だけがある。見た目は相変わらず可愛いが、殆どの個体が動いておらず、密集していてちょっと薄気味悪い。
間違いなくあの時見た生き物なのだが、何故こんなにも増えているのか。困惑していると、答えは案外すぐに知る事が出来た。
エリィのすぐ側にいる謎生物が、急に左右に広がり……ぷちっと音を鳴らして、分裂したからである。
【……え? 増えた? えっ?】
その瞬間を確かに目の当たりにしたのに、エリィは自分の目を疑ってしまう。
疑ったが、他にもぷちん、ぷちんと、次々に生物は分裂していく。
此処にいる全ての生物が分裂した訳ではない。だが三十センチぐらいある個体は、殆ど全てが分裂を始めた。恐らく五十匹ぐらい増えて、どっと周囲に広がる。
増えた生物同士で押し合って、エリィのところに何体か押し寄せてきた。
【きゃ!? ちょ、ぎょぶっ】
驚くエリィを転ばせた挙句、顔面に乗ってくる個体までいる始末。ジタバタ手足を動かしながらエリィはどうにか立ち上がり、身体の上に乗る生物を退かそうとする。
その時エリィに電流走る。
……厳密には電流に似た、衝撃的思考と言うべきだが。無意識に触った生物は、感触がとてもふわふわもちもちしていたのだ。
なんと柔らかく、触り心地が良いのか。
【……も、もちもち】
丁寧に退かした後、恐る恐る、指で突いてみる。
生物は抵抗も何もせず、しばらくは大人しく触られている。ただ、不快ではあったのか、あんまりしつこく突くとのろのろと逃げ出す。
その後ろ姿がちょっと可愛い。
警戒心が薄れたエリィは、思い切って生物を捕まえてみる。子供らしい短絡的判断の結果は、特段問題も何もなく、簡単に捕まえられるというものだった。
そしてふかふかもちもちの感触が、心身を満たす。
【え、えへへへへ】
死んで以来忘れていた、心地良い感触。百年ぶりぐらいに笑みが溢れてしまう。
相変わらず、これがなんなのかエリィには分からない。
分からないが、可愛くて、とても抱き心地が良い。なら、別になんでもいいやと無邪気に思う。悪霊となったが、本質的に彼女は十歳の女の子なのだ。可愛いは大正義。それに今のところ被害も出ていない。なら、放置してもいいと改めて思ったのだ。
何よりこんなに賑やかだと、寂しさが紛れる。エリィは寂しいのが嫌なのだ。寂しくなくなるなら、なんだって良い。
【明日になったら、もっと増えてるかな。んふふ】
むしろより増える事を望んで、エリィは一体の謎生物を抱えたままこの場を後にした。
……死んでから百五十年経ったとはいえ、エリィは幼い少女。領主の娘なので高度な教育は受けたが、それでも十分とは言い難い。
だから彼女は分かっていなかった。分裂するという事は、倍々に増えていくと。たった数時間で百倍に増えたという事は、もう数時間もすれば更に百倍増えるという事を。
そして調べなかった。この生き物が何を餌にして増えているのかを。
謎生物が餌としているのは、エリィの『呪力』である。悪霊であるエリィは孤独感などの感情、何かを呪う気持ちによって呪力を生み出す。人を呪い殺すほど強い力であり、エリィは悪霊となった凡そ百五十年の間ずっと呪力を垂れ流しにしていた。
そして屋敷が異界化し、呪力が外に漏れ出す事もほぼなくなった。
結果としてエリィが活動していた百五十年間、呪力はずっと屋敷内に溜まり続けている。生物はこの呪力を全身で吸収し、成長・繁殖のエネルギー源にしていた。おまけにエリィの呪力を糧にしているという事は、エリィが消滅するまでこの生物の餌が途絶える事はない。
……調べなかったエリィが愚かなのではない。霊とはいえ子供である彼女が短絡的で楽観的なのは、仕方ない事なのだから。
仕方ないが、現実は非情なので、それはそれとして放ったらかしにした結果は受ける事になるのだ。
……………
………
…
【すぅー……すぅー……】
捕まえた生物を抱き締めたまま、エリィは眠っていた。
客間から移動した後、エリィは一階エントランスまで来ていた。二階へと続く階段は小さな少女が腰を下ろすのに丁度良く、歩き疲れた(霊体である彼女に筋肉なんてないので疲労もないのだが)時エリィはよく此処に立ち寄る。
その階段に座った状態で、謎生物をずっと抱きしめていた。このふわふわもちもちの生き物は、いくら触っていても飽きない。強めに抱くと返ってくる反発力も絶妙で、兎にも角にも心地良い。
あまりにも心地良くて、悪霊なのに寝落ちしてしまった……というのが、エリィが寝ていた理由である。脳すらないエリィ達悪霊には睡眠なんて必要ないが。
【……んぁ? あれ? 寝てた……えっ? 私寝てたの?】
ぐっすり気味のうたた寝から起きた時、エリィ自身驚いてしまう。
睡眠自体は不要だが、何も考えない時間は心を癒してくれたらしい。エリィの精神はすっかり落ち着きを取り戻した。身体は相変わらず所々黒ずんでいるし、透けてもいるが、穏やかな顔付きは生前と殆ど変わらない。可憐で美しい少女らしさ全開だ。
突如、背中に強めの衝撃を受けた驚きでその顔は歪むが。
【ぎゃんっ!? えっ、な、何?】
驚いて振り返ると、そこには自分の背中に寄り掛かる謎生物の姿がある。
どうやら階段から転がり落ちてきたらしい。
危ないなぁと思いつつ、転がってきた謎生物を掴んで一階の床まで運んであげた。平坦な床に辿り着くと、謎生物はちょこっと移動して、落ち着いたのかすぐに止まる。
今まで抱きかかえていた子もそろそろ放してあげるかと、エリィはその子も床に下ろした。自由になった謎生物は、やはりちょっと動いて止まる。特段、何かはしてこない。
……ずっと謎生物だとか生物と呼んでいるのもなんなので、そろそろ名前を付けようかとエリィは思い至った。
【うーん、なんて名前にしようかな】
名前は大切だ。
どうせ自分しか呼ばないのだから、好き勝手に付けても良いだろう。しかしそれは不誠実に感じられて、エリィは真剣に考える。
真剣に考える彼女の背後で、ちょっとしか事件が起きていた。
ぞろぞろと謎生物が、二階と一階を繋ぐ階段のところにやってきたのだ。数は十や二十ではない。百以上の大群が、群れるように流れてくる。
小さな家なら埋め尽くすような大群団。広々としたフィンチ家屋敷にとっても大群であり、大分窮屈そうだ。そしてこの謎生物達、目のようなパーツは節穴ではなく、一応ある程度は景色が見えるらしい。
だから広い場所を求めて動き回れる。
道よりも遥かに広々とした、一階エントランスに謎生物達が向かうのは当然の帰結だった。当然なのだが、手足を持たないこの生き物達には階段を器用に降りる能力なんてない。それを自覚するだけの知性もない。
結果、無数の謎生物達が階段を転がり落ちる……階段にエリィが座っているにも拘らず。
【ぐっ!? うぇ、ぐぇっ!? ぎゅぶっ!?】
転がってきた一匹目と二匹目と三匹目が背中にぶつかってもどうにか耐えた、が、四匹目でエリィは止めを刺される。前のめりに転び、顔面から床に突っ伏す。
それでも足りぬとばかりにごろごろぞろぞろと、謎生物は転がり落ちてきた。中には段差で跳ねてエリィの背中に着地する個体もいて、一際大きな衝撃に【うぐぇっ!?】と可憐な乙女が出すべきでない声までエリィの口から漏れた。
補足すると、悪霊は本来物をすり抜ける事も可能だ。可能だが、悪霊の気質によって得手不得手が分かれる。殺された自覚のある(自分が幽霊だと強く認識している)悪霊は得意だが、病気で何時の間にか死んでいたエリィは不得手としていた。
そんなエリィから生まれた謎生物も、やはり物をすり抜けるのは苦手らしい。次々とやってくる謎生物は、床に倒れるエリィの上に積み重なっていく。
大体百匹近い謎生物が全部床かエリィの背中に転がった頃。ようやくエリィは顔を起こす。悪霊なので転んでも痛くはない。だけど転ばされた屈辱はある。
【……………お前ら、モチで決定】
そんな相手に立派な名前を付けるのは癪なので、かくして謎生物はモチと呼ばれる事となった。