呪力生命体誕生から三十年が過ぎた。
屋敷内は、今やすっかりヨツアシ一族の支配下だ。多種多様な個体が、我が物顔で屋敷内を闊歩している。
とはいえ空の支配者は未だにパタパタ。小型化が進み、体長数センチ程度の虫のような種が殆どになった。この小さな身体はウミクサの影に隠れるのに役立ち、小さな隙間にも逃げ込める。ヨツアシ出現当初は大きく衰退したが、今では個体数も種数もかつて以上に増えた。
ウミクサは樹木型が多くなった。これは草食性ヨツアシが天敵として君臨した結果だ。パタパタ達は小さな先端突起がから呪力を奪うだけなので、大した被害ではなかったが……草食性ヨツアシは、祖先であるカイギョから受け継いだ口許の触手を用い、小さな個体なら掴んで引き抜いてしまう。ある程度大きな身体で、ヨツアシからの攻撃に耐えられる種が適応的で栄えたのだ。
草本型のウミクサもただ食べられている訳ではない。結晶呪力を多く含む、頑強な身体で捕食に対抗している。この影響で堆積する結晶呪力の総量も増え、デトリタス食のヨツアシも少し個体数を増やした。
カイギョは殆どいなくなり、皮膜を持つ円盤型の種が細々と生きるだけ。ほぼ絶滅種となっている。とはいえヨツアシはカイギョから生まれた種なので、カイギョが滅びた、というのは少し違うかも知れないが。
最早此処をフィンチ家屋敷と呼ぶのは難しい。今や大自然の中。独自の生態系に支配された『異世界』と呼ぶべきだ。
【んふふふ。可愛いなぁ】
そんな具合に、自分の呪力で生み出した生物に自宅を乗っ取られたエリィであるが、彼女の機嫌はすこぶる良い。
今、エリィは草食性のヨツアシを触っている。体長三十センチほど。四足で闊歩し、流線型ながらまるっとした身体を持つ。頭(口がある方をそう呼んでいる)には触手が十数本蠢いていて、一般的な可愛いの造形からは離れているが、エリィにとっては見慣れた顔付きだ。不快とは思わない。
胴体はぷるんと弾力がある。生物学的には、丈夫かつ伸縮性のある優秀な表皮……少女なエリィからすれば触り心地のよい肌だ。
そして特筆すべき点は、触らせてくれる事。
この草食性ヨツアシは非常に大人しい。身体を触っても怒らないどころか、逃げもしない。
これは決して人懐っこい訳ではなく、体内で頑強なウミクサを消化するのにエネルギーを使うので、危険でない事に逐一反応したくないだけなのだが……エリィにとってはどうでも良い。こうしてぎゅうっと抱き締められる事が重要だ。
パタパタやカイギョは忙しなく飛び回り、全然触らせてくれなかった。しかしこのヨツアシなら触らせてくれる。いや、この、という表現は正しくない。少なくない種類のヨツアシが、エリィとの触れ合いを許してくれた。
【えへ、えへへへへ】
笑いが止まらない。ヨツアシに触れると分かったのはヨツアシ達が繁栄した、十年前には分かっていて、そこからずっと触っているのに。
しかしエリィの喜びも致し方ない。悪霊になってかれこれ百八十年。寂しさに狂っていた時期が百五十年。最初に生まれたモチや動かないウミクサは触らせてくれたが、こんなにも『動物』らしい相手との触れ合いは百七十年ぶりだった。そこから十年かそこらで満足出来るものではない。
まだお話は出来ないが、コミュニケーションは成り立つ。それが嬉しくて堪らない。
【うん、ありがとう。またねー】
そして自由に触れるからこそ、相手を適当なところで解放出来る。
モチの時は死ぬまで離さなかったのに、相手の命を尊重出来るようになった……エリィには全く自覚がないが、それは彼女が、最早誰かの命を奪うような行動を取らない事を意味する。
悪霊でありながら、エリィは生前の気質を取り戻すに至ったのだ。今ならば、人間を相手にしても――――
などと言ったところで、屋敷から離れられないエリィにはどうにもならないのだが。
【さーて、と。次は何をしようかなー】
逃がしたヨツアシを見送った後、エリィは天井を見上げながら足をパタパタと揺れ動かす。退屈をこれでもかと言うほどアピールする。
日課である家の巡回でもするか、それともまた適当なヨツアシでも捕まえて触るか。暇潰しの仕方を考えるのも案外楽しいなと、前向きに考えながらゆったりと辺りを眺める。
……そんな彼女の近くを、何体もの呪力生命体が通り過ぎていく。
本能的にエリィが敵ではないと理解しているのか、彼女の呪力が『起源』だと理解しているのか、エリィを気にしない個体がより多くの子孫を残したからか。理由はなんであれ、呪力生命体はエリィの前でもあまり気にせず活動を行う。食事も、狩りも、移動も、普段通りだ。繁殖行動さえ例外とはならない。
今も偶々エリィの前を通り過ぎたパタパタが繁殖活動を始めた。体長十センチを超える、今時珍しい『大型』のパタパタだ。小さいよりも大きい方が観察しやすい。
お陰でエリィはそのパタパタが、身体の下側から
【……………ん?】
見てしばらく経ってから、エリィは首を傾げる。
今、パタパタは生んだのか?
まるで卵でも生むように、小さなパタパタが、大きなパタパタの身体からポンッと出てきた。明らかに大きさの異なる分身が、誕生した。自分の記憶を何度も思い返すが、間違いなくそうだった。
これはおかしい。
何故なら呪力生命体は分裂して増殖する。それはモチの時から変わらない性質で、最も進化・繁栄した種族であるヨツアシでさえ分裂を行って増える。三十年間ずっとこの方法で呪力生命体は命を繋いできた。
ところが今、あのパタパタはさらっとその『常識』を覆した。
【……えっ、なんか凄いものを見た……かも?】
覆したが、エリィはその凄さをいまいち理解していなかった。今まで分裂ばかりだったので、新たに出産という進化を遂げたのだとは分かるが……それがどう凄いのかまでは分からず。
この繁殖方法の確立は、パタパタのみならず呪力生命体全体にとって革命であるというのに。
そもそも分裂で増えていた呪力生命体が、どうやって出産という繁殖方法を獲得したのか。呪力生命体は親の身体をそのまま複製して繁殖を行う。怪我などの要因で外見が変化すると、その性質も受け継ぐ。このため形態が変わりやすい外側は比較的進化・発展しているが、内側はあまり変化していない。精々身体の軽量化に役立つ空洞ぐらいだ。子宮や卵巣のような器官が進化するには、三十年は短過ぎる。
ではどうやって出産という繁殖方法を確立したのか。その答えは、そもそもパタパタは出産などしていない、である。
実はエリィが目にしたパタパタは、とある突然変異……本体の周りに『腫瘍』を作ってしまうという障害を持っていた。この腫瘍は本体を正確にコピーした形をしており、飛行など活動能力は十分に備えている。
繁殖しているのは腫瘍内にいる小さな本体の方だ。こちらは分裂により増殖し、新しく生まれた(分裂なので新旧の区別なんて出来ないが)個体は腫瘍を掻き分けて外に這い出す。これがあたかも出産したように見えたのだ。
本来、この障害はかなり致命的なものである。本体の成長に使う筈のエネルギーを、全く役に立たない『腫瘍』の成長に費やしてしまうのだから。だがエリィが見ていた個体の腫瘍は、ほぼ本体と同じ形態をしていた。これにより大きさ相応の生存能力は維持出来た。
そして単に身体を大きくした時とは違う、様々な『能力』も得た。
まず仮初の肉体なので、どれだけ傷付いてもその中心に潜む本体には影響しない。つまり生命力が高く、生き残りやすいのだ。勿論その分多くの呪力を使うが、ヨツアシという優秀な捕食者の出現により、生命力が強い事は生き残る上で重要な要素となっている。
更に本体が肉で守られているため、変異し辛い。呪力生命体は親の形をそのまま複製するため怪我や傷で容易く変異し、結果進化が早かった。僅か三十年で擬似的な胎生を獲得するほどだ。だがこれは有利な形質もすぐに変化してしまうというデメリットでもある。三十年も進化を続け、形態や生態が高等化した今の呪力生命体にはあまり好ましくない。本体が守られていれば外からの傷を受けず、親の性質を子にそのまま引き継げるため形質が安定する。
しかも繁殖力にも優れる。
腫瘍部分は本体よりも大きい。つまり、先端突起や表面積も本体よりも大きく、その分多くの呪力を回収可能だ。成長するには時間が掛かるが、一度大きくなれば後は大量に回収される呪力を繁殖に費やし、小さな本体を次々と生み落とせる。成体にさえなれば、繁殖力はこちらが上となるのだ。
これら三つの特性は、「被食者」であるパタパタにとって非常に有力なものだった。敵に襲われて死ぬ可能性を減らし、攻撃されても親の性質を子に受け継ぎ、たとえ食べられても子が何体もいるからどれかは生き残る。
特に子供多さが強力だ。小さな子供を大量に生み、一気に個体数を増殖していく。
「小さな子を多量に生む」繁殖戦略を、生物学ではr戦略と呼ぶ。昆虫や小動物に多く見られる戦略であり、様々な生物種が採用している非常に優秀な戦略だ。今後パタパタは、この大きな腫瘍を持つ種……腫瘍部分を外皮体と名付け、これを纏う分類を『外皮体類』と呼ぼう……が繁栄し、分裂で増えていく既存種が滅びていく。
【パタパタが赤ちゃん生んだし、そのうちヨツアシも子供を生むのかな? なんか、人間みたいね】
そんな生存競争の行く先など知らないエリィは、呪力生命体達に親近感を抱いていたが。
残念ながらヨツアシがパタパタ達のような、外皮体を持つ事はまずない。
何故ならヨツアシ達には、このやり方はあまり利点がないからである。まず外皮体は本体を守ってくれるが、そのためには十分に厚みがなければいけない。
小さなパタパタであれば、そこに厚みのある外皮体を纏っても『全体サイズ』はあまり大きくならない。例えば先程エリィの前で繁殖したパタパタは、本体が一センチで、外皮体は十センチほど。体長の九倍もの外皮体を纏っている。
ヨツアシ達はどれも大型だ。口器を持ち、消化のための体内空洞もあるヨツアシ達は身体をあまり小さく出来ない。精々三十センチが限度であり、もしもこの九倍の外皮体となると二メートル七十センチ、全体サイズは三メートルにもなる。
屋外環境なら兎も角、呪力生命体が暮らすのは異界化したフィンチ家屋敷内。天井があり、廊下があり、扉もある、比較的狭い環境だ。自然環境で例えると洞窟などが近いかも知れない。おまけにあちこちに樹木型ウミクサが生え、身長百五十センチもないエリィですら通行に難儀している。そんな場所で三メートルもある巨体を得ても、身動きが取れないだけだ。
ここまで外皮体を厚くせずとも、一時的にとはいえ分裂後の個体が入る事も考えれば、二倍以上の大きさは必要だろう。大型種ほど制約は大きく、メリットが少ない。
それに、小さな子供にはデメリットもある。
その最たるものが同種間競争に弱い事だ。これは難しい話ではない。テーブルの上におやつが一つだけあった時、それを食べるのは兄弟のうちどちらか? という程度の問題だ。
人間なら分け合いなさい、という答えになるだろうが……野生の世界にそんな秩序はない。身体が大きく、強い方が食べ物を独占する。たとえ兄弟が死んだとしても関係ない。自分が生き残り、子孫を残すには、兄弟の分の食べ物も独占する方が有利なのだから。
当然、血を分けていない、他人の子供なんて一切配慮しない。食べ物や住処を巡り、激しい闘争となるだろう。この時、身体が大きい方が圧倒的に有利だ。大きい方が体力も力もあり、簡単に相手を倒せる。
こうした同種間競争は、ヨツアシだけで起きるものではない。パタパタのような小型種にも起きている。起きているのだが……あまり問題にはならない。
何故ならパタパタは食われる側だから。生まれた子の多くが食べられてしまうため、実は食料を奪い合うほどの個体数にはならない事が多い。
大型種が多いヨツアシにも天敵はいる。草食性のヨツアシは、より大きな肉食性のヨツアシに襲われている。だがパタパタほど頻繁に食べられる訳ではない。このため個体数はあまり変動せず、常に溢れている。同種同士の争いは激しい。こんな中で小さな子を生んでも、同種との競争に負けて死ぬだけ。
ヨツアシは大きな分身を生む方が合理的だ。それに身体が大きければ敵に攻撃される可能性は低く、怪我などで変異するリスクも低い。更なる安全策を取らなくても、有利な形質はちゃんと受け継がれていく。
このように「大きな子を少数生む」繁殖戦略をK戦略と呼ぶ。こちらは人間や大型動物などに見られるやり方だ。
呪力生命体であっても、大きさや生き方によって有利な繁殖方法は異なる。分裂以外の繁殖方法が現れた後も、分裂という古いやり方が滅びないのは、多様な種が生まれた今となっては当然の事。
しかし効率的な繁殖方法を得た事で、呪力生命体達の生存競争は更に激化する。より優れた個体のみが、より多くの子孫を残せる時代への突入。
【もし人間みたいな子が生まれたら……えへへ。楽しみだなー】
そんな弱肉強食の過酷さなど露知らず、エリィは暢気に未来への期待を膨らませた。