ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ 作:どろどろ
自分はなぜこの世に産まれて来たのか。
誰もが生涯で一度は考えるテーマの一つだろう。
しかし東雲理央にとって、それは問いですらなかった。答えは最初から用意されていた。産まれる前から、設計図の中に書き込まれていた。
理央は窓の外を流れる景色を眺めながら、静かにそのことを考えていた。
バスは緩やかな山道を登っている。目的地まであと四十分ほど。高度育成高等学校。文部科学省直轄、全寮制。今日からしばらく、ここが彼の居場所になる。
──ニュートン一族。
数百年にわたって人間の遺伝的優位性を追求し続けてきた一族。その方法論はシンプルだ。優れた遺伝子を持つ者同士を結びつけ、さらに優れた次世代を生み出す。繰り返す。積み重ねる。人類が到達しうる高みの、そのまた先を目指す。
東雲家はその日本分家であり、理央はその長男として産まれた。そう成るようにと設計され、期待されて誕生した生物。家族からの愛は欠けていたが、致命的な不満を感じる部分はない。ただ──
本当にこれは、自分の人生と呼べるのだろうか。
理央は窓ガラスに薄く映る自分の顔を見た。与えられたものを磨き、定められた用途で使用し、最高の結果を目指す。目的地が明確なのは幸福なことなのかもしれない。しかし時折、己の人生を実に淡白だと感じる。そしてそんな人生を尊んでいる自分は、意外にも底の浅い奴なのではないかと、冷笑したくなる。
脳裏に、ある声が蘇った。
『……君はどう思う? 真実の愛ってやつを』
ジョセフ・G・ニュートン。
一族の現時点における最高傑作。一族の英知を集めた競技会の決勝戦で、理央は彼と対決した。知能、戦略、支配、戦闘力——あらゆる領域で試されるその場において、理央は極めて優れた成績を残した。しかしジョセフには、あと一歩及ばなかった。
数少ない、人生の敗北の一つ。
衝撃だった。そして、感動だった。
自分はこれを目指さなければならないのか。自分はこれを越えなければならないのか。
「ありがとう、ジョー」
理央は小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。あの忸怩たる敗北は、本当の意味で彼に目的地を与えてくれた。ジョセフを超える存在を、次の世代に産み出すこと。そのための配偶者を見つけること。
それが理央の、この学校に来た理由だった。
日本国内において、これだけの密度で十代の優秀な人間が集まる場所は他にない。候補が、いるかもしれない。
バスが大きくカーブを曲がり、木々の切れ目から校舎の屋根が見えた。
◇◆◇
入学して十二日が経った。
理央はAクラスの自席に座り、視野の端で坂柳有栖を観察していた。
観察、というのは正確ではないかもしれない。彼の視線はほとんど動かない。ただ、彼女から入ってくる情報を静かに処理していた。
Aクラスに来て最初に気になったのは、クラスの空気だった。表面は穏やかだ。入学したての高校生らしく、まだどこかよそよそしい礼儀正しさが漂っている。しかし理央の目には、すでにはっきりと見えていた。
断層が、ある。
葛城康平と、坂柳有栖。
二人はまだ直接には衝突していない。しかし教室の座席配置、昼食の場所、放課後の行動パターン——すべてにおいて、クラスの人間は無意識のうちにどちらかに引き寄せられていた。磁場のように、二つの極が生まれている。
葛城康平は理央の席に近く、自然と言葉を交わす機会が多かった。誠実で、論理的で、統率力がある。悪い人間ではない。ただ彼の思想は保守的で、既存の秩序を重んじる。世界をすでに知っている人間の顔をしていない。戦いながら戦い方を覚えていく類の人間だ。
坂柳有栖は、その対極にいた。
彼女は窓際の席で、白い指先でシャープペンシルを持ち、ノートに何かを書いている。
「……悪くない」
誰にも聞かれない声量で、理央は一人呟く。
坂柳有栖は、異常なほどに顔の造形が整っていた。
左右対称性。それは理央が配偶者選定において最初に確認する指標だった。
顔面の左右対称性は、遺伝的な健全さの代理変数として機能する。発達段階における環境ストレスの少なさ、免疫機能の安定、遺伝子発現の正確さ——それらはすべて、左右の均整に現れる。ニュートン一族の長年の経験則も、現代の行動遺伝学も、その点では一致していた。
坂柳の造形は、理央がこれまでに見た中でも最上位に入る。申し分ない。
ただ、二点だけ引っかかりがあった。
一つは身長だ。廊下ですれ違ったときの印象では、同年代の女子の中でも明らかに小柄な部類に入る。骨格が小さい。これ自体は致命的ではない——成長ホルモンの異常でなければ、体格の小ささは遺伝的優位性の欠如とイコールではない。しかし次世代への影響という観点では、無視できない変数ではある。保留。
もう一つは、杖だ。
坂柳は毎日、杖を使っている。今も机の脇に立てかけてある。歩行の際にわずかに重心が偏る。その歩き方を、理央は入学初日から観察していた。
問題なのは原因だ。
事故や外傷による後遺症であれば、遺伝的な問題とは切り離せる。リハビリ中の一時的なものという可能性もある。あれだけの対称性を持つ顔を形成した遺伝子が、骨格や神経系に根本的な欠陥を内包しているとは考えにくかった。
保留。確認が必要だ。
そして外見以上に目を見張るのが──類稀なる知性。
入学から一週間で、理央はこのクラスに自分と同等に近い頭脳が存在することを感じ取っていた。授業中の反応の速さ、教師への質問の精度、クラスの人間関係を静かに操作する手際——坂柳有栖は、明らかに周囲とは次元が違った。
保留事項を確認する価値は、充分にある。
理央は静かに、しかし明確に決めた。
まず、彼女と話す。
◇◆◇
声をかけたのは、放課後の廊下だった。
一年Aクラスの教室から出たところで、杖をつきながら歩く坂柳の横に、理央はごく自然に並んだ。急いだわけでも、待ち伏せたわけでもない。ただ廊下の流れの中で、二人の歩調がたまたま重なるように。
「坂柳さん」
呼びかけると、彼女は歩みを止めずに横を見た。
一瞬だけ、その目が止まった。
警戒ではない。ただ──何かを測るような、短い静止。理央が誰であるかは当然知っている。問題はそこではなく、なぜ自分に声をかけてくるのか、という部分だろう。
「放課後に時間はありますか。よければ、一緒に食事でも」
坂柳はすぐには答えなかった。歩きながら、視線だけを前に戻す。
「学外で、ですか」
「ええ」
「葛城くんとよくお話しているのに、私を誘うんですね」
「彼とは席が近いだけです。それだけで坂柳さんを誘ってはいけない理由になるんですか?」
「……なるほど」
坂柳はしばらく黙った。廊下の人の流れが、二人の脇を通り過ぎていく。
「構いませんよ」
やがて、静かにそう言った。
「施設棟のカフェに六時でいかがでしょう」
理央は頷いた。それだけで、放課後の廊下での会話は終わった。
◇◆◇
施設棟のカフェは、この時間になると学生の姿がまばらになる。夕食には早く、部活の終わる時間には遅い。理央はその時間帯を選んでいた。
窓際の二人掛けの席に向かい合って座ると、坂柳は杖をテーブルの脇に立てかけ、メニューも開かずに理央を見た。
「誘った理由を聞いてもいいですか」
率直だった。理央はそれが気に入った。
「話してみたかった。それだけです」
「それだけ、というのは少々不誠実な答えですね」
「そうですか」
「葛城くんと仲がよろしいのに、私を誘う。廊下でも言いましたが、やはり少し不思議です」
「彼は友人だと思っていますが、親友と呼べるほど特別な関係でもありませんよ」
「……あなたがどちらに近いかを、クラスの人間はそれなりに見ています。その中で私を誘うのは、何らかの意図があるか、あるいは——そういった空気を意に介さない人間か、どちらかです」
「後者です」
「断言するんですね」
「事実なので」
坂柳は少しの間、理央を見た。何かを確かめるような目だったが、やがて視線をメニューに落とした。
ウェイターがやってきて、二人はそれぞれ注文した。坂柳はアールグレイ、理央はブラックコーヒーを頼んだ。ウェイターが離れると、坂柳は続けた。
「それで、本当の理由は何ですか」
「話してみたかった、というのが本当の理由です。ただ……」
理央は少し間を置いた。
「値踏み、という言葉を使うなら、否定はしません」
「正直ですね」
「回り道が嫌いなだけです」
「では私も正直に言いますが」
坂柳はカップを受け取りながら言う。
「あなたには興味があります。どういう人間なのか、直接話してみたかった。この誘いに応じたのはそれが理由です」
「それはお互い様ですね」
坂柳はそこで初めて、薄く微笑んだ。今度は少し長く、表情に残った。
「東雲くんはこの学校の仕組みを、どこまで理解していますか?」
坂柳が問いを切り出したのは、それから少し経ってからだった。直接的な問いだったが、不自然ではなかった。二人の間の空気は、すでにそういう温度になっていた。
「それなりには」
「具体的に」
「ポイント制度から話しましょう。入学時に支給された十万ポイント、大半の生徒は毎月もらえるものだと思っている。しかし学校側はそうとは一言も言っていない」
「……そう思った根拠は?」
「入学時の資料を読み返せば分かります。説明の順序と言葉の選び方が、誤解させるように設計されている。来月以降、支給額が変わる可能性が高い。あるいは条件次第では減額される」
「条件というのは?」
「まだ見えていません。ただ……」
理央は少し間を置いた。
「卒業後の進路を百パーセント保証する、という説明と合わせて考えると、輪郭が見えてくる」
「どういう意味ですか」
「無条件で全員に約束できるものなら、あれだけ強調する必要はない。わざわざ明言するということは、その約束が履行されない生徒が出ることを、学校側がはじめから想定しているということです。ポイントで生活を締め付け、約束を餌にする。この学校は生徒を育てると同時に、静かに選別している。優秀な人間だけを手元に残して、そうでない人間を──どこかの段階で、切り捨てる」
坂柳はしばらく黙っていた。
理央には、その沈黙の質が分かった。驚いている。それを表に出さないように、処理している。そういう沈黙だ。
「入学して二週間で、そこまで」
「仮説の段階ですが」
「外れていない、と言ったら?」
「そう思って話しています」
坂柳はカップを置いた。
「あなたは、怖い人ですね」
「よく言われます」
「嘘をついていますね、今」
理央は少しだけ、表情を動かした。笑い、とまでは言えない変化だったが、坂柳はそれを見た。
「僕は嘘なんてつきませんよ」
「もしかして笑う所ですか?」
「はは、酷いな」
また間があった。今度は、少し柔らかい沈黙だった。
坂柳は窓の外を見た。施設棟の外、夕暮れの中を数人の生徒が連れ立って歩いていく。
「葛城くんとはどう違いますか。私の印象と、彼の印象」
「葛城さんは誠実で、優秀で、統率力がある。ただし世界をすでに知っている人間の顔をしていない」
「……難しい言い回しをされますね。どういう意味ですか?」
「彼はこの学校で初めて、本物の競争というものを経験するんだと思います。それ自体は悪いことではない。ただ、戦い方を知ってから戦う人間と、戦いながら戦い方を覚える人間では、序盤の判断が違う」
「なるほど」
坂柳は静かに言った。
「あなたはどちらですか」
「僕なら前者です」
坂柳はしばらく理央を見つめた。何かを測るような目だったが、その目に敵意はなかった。むしろ、理央はそこに──かすかな熱を感じた。知性が、別の知性に触れたときの、静かな興奮。
理央も、恐らく純粋に同じ感情を宿していた。
この会話は、心地よい。
坂柳有栖の思考は速く、正確で、無駄がない。彼女と言葉を交わすことは、研いだ刃同士を触れ合わせるような感触がある。
そして、この知性とあの遺伝的な均整。
組み合わせとして、これ以上のものには──
「一つ聞いてもいいですか」
理央は言った。
坂柳は小さく顎を引いた。
「足のことです。いつ頃から杖を使っているんですか」
一瞬だった。坂柳の指先が、カップの縁の上で止まった。止まって、それからゆっくりと離れた。
「唐突ですね」
「気になっていたので。事故か何かですか?」
彼女は窓の外に視線を逃がした。外はもう、夕暮れから夜に変わりかけていた。
「これは生まれたときからです」
静かな声だった。
「先天性の疾患です。完治はしません」
「──…………」
理央は何も言わなかった。
一秒。また一秒。
カフェの中の音が、妙に鮮明に聞こえた。コーヒーメーカーの低音、遠くの席の誰かが雑誌をめくる音、空調の静かな吐息。
坂柳は窓の外を向いたまま、理央を見なかった。見ないことで、何かを堪えているように見えた。あるいは、見てしまえば何かが崩れると知っているように。
「……そうですか」
それだけだった。
理央はしばらく手元のカップを見ていた。それからゆっくりと顔を上げ、坂柳を見た。その目に、変化はない。感情もない。ただ──何かが、静かに閉じられていくような目だった。
「君は優秀な人だと思います。本当に」
穏やかな声だった。嘘ではなかった。
「ただ、僕が探しているものとは、少し違ったか……」
それだけだった。責めるでもなく、謝るでもなく、ただ事実を述べるように。まるで天気の話でもするように。
坂柳有栖は、自分の中で何かが起きているのを感じた。うまく名前がつけられない、しかし確かな何かが。胸の奥で、静かに、しかし確実に形を成しつつある感覚。
──自分は、この男に値踏みされていた。
最初から。この会話の全体を通じて。学校の仕組みへの言及も、葛城との比較も、知的な応酬も──すべての下に、別の計算が流れていた。
そして計算は、終わり、自分は除外された。
「……探しているもの?」
坂柳は何かを辿るように繰り返した。
声は平静だった。
「それは何ですか?」
理央は少し間を置いた。
「いずれ、話せる機会があれば」
それ以上は言わなかった。伝票に手を伸ばし、立ち上がる。
「今日はご馳走します。楽しい時間でした」
本心からの言葉だった。それが、坂柳有栖にはなおさら──。
理央がカフェの出口へ向かう。そのまま扉を押して、夜の廊下へと消えた。
坂柳有栖は動かなかった。
一人残されたテーブルの上に、飲みかけのアールグレイがある。もうほとんど冷めていた。
杖の握り手を、白くなるほど強く、握っていた。
生まれて十六年。
彼女はこれませ自分の才を疑うことはなかった。誰もが自分を恐れるか、認めるか、あるいは遠ざけるか──そのどれかだった。
しかし今夜、坂柳有栖は初めて知った。
自分という存在が、誰かの計算から、静かに、丁寧に、何の感情もなく除外される、という経験を。
僕が探しているものとは、少し違った。
その言葉が、頭の中で反響し続けていた。
この胸に残る感情に名前をつけるとすれば──屈辱と呼ぶのだろう。
窓の外はもう、完全に夜になっていた。