ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ 作:さんぱうろ
「──ありがとうございます」
そう言って、理央は真嶋から青い封筒を受け取った。
中身は一年生全員の成績データとなっている。
購入を申し出たとき、理央は思ったより安いと感じた。学校が始まってまだ日が浅い。データの絶対量が少ない分、値段も抑えられていたようだ。手持ちのポイントのほぼ全額で足りたのは幸いだった。
「何に使うつもりだ?」
真嶋が訝しげに聞く。
「答える必要がありますか」
「……いや」
「では黙秘します」
真嶋は少し顔をしかめたが、それ以上は追及しなかった。
理央は職員室を出た。
本当に必要なのは、堀北鈴音のデータだけだった。しかしそれだけを指名買いすれば、目的が透けて見えてしまう。特定の人間を狙っているという印象を薄めるために、一年生全員のデータを購入する必要があった。もちろん、男子も含めて全員分だ。
廊下を歩きながら、理央は封筒を上着の内側にしまった。
寮への渡り廊下に差し掛かったところで、前方に人影を発見する。
坂柳有栖だった。杖をつきながら、こちらに向かって歩いてくる。
理央の姿を確認した途端、少女の足が止まった。
視線が、理央の上着に向いた。封筒の輪郭が、わずかに布地を押している。坂柳の目が、そこで一瞬だけ止まった。何かを持っている。それだけで、この少女の好奇心に火がつくには十分だったようだ。
「……おやおや」
坂柳は笑顔のまま言った。歩み寄りながら、視線は理央の上着から離れない。
「何か面白いものをお持ちのようですね」
「そうでもありません」
「まあ」
坂柳は少し首を傾けた。上着の膨らみを、まるで値踏みするように見ている。封筒の形、大きさ、厚み──その視線が情報を拾い集めているのが分かった。
極力、感心を向けられないように自然な挙動を意識したが、理央が評価するほどの知性を有する坂柳の観察眼は、当の理央でさえも完璧にいなしきれない。
「東雲くんは私に対する借りを忘れてしまったのでしょうか……なんて薄情な……」
言いながら、目元を拭うような素振りを見せた。笑顔のままで。
理央は観念した。貸しがある以上、ここで突っぱねるのは得策ではない。
「少しだけですよ」
上着の内側から封筒を取り出し、中身を少し開いて見せた。
「これは……!」
坂柳の目が、わずかに動いた。紙の束。成績データだと分かった瞬間、その表情に驚きの色が滲んだ。視線が一瞬だけ鋭くなり、何枚かのデータを読み取ろうとしている。
理央はすぐに封筒を取り返した。
「では」
「ちょっと待ってください」
「急いでいるので」
「何のためのデータですか」
「さあ」
「東雲くん」
「良い週末を、坂柳さん」
坂柳の声が背後に残ったまま、理央は角を曲がった。
◇◆◇
「さてと」
坂柳との遭遇は誤算だったが、今は気にしても仕方がない。
理央は自室に戻るなり、封筒を机の上に開いた。
中身を確認していく。小テスト、中間テスト、入試テストの結果──生徒の名前と数字だけが並んでいた。
この数字だけでは、理央が本当に必要としている情報の半分も得られない。成績は知能の一側面に過ぎないからだ。論理的思考力、状況判断力、感情制御能力──そういったものは、数字には現れない。
「……まあ想定済みではある」
中身を見ても、理央が肩を落とすことはない。
もしも詳細な情報が載っているなら、最初から購入していた。
理央は、自分の目で確認することにこだわっているのには理由がある──と言いたいところだが、正確ではない。
以前、高円寺にそれを指摘された。全生徒の遺伝子情報を解析すれば足で回る必要はない、と。あの男の言う通りだ。論理的には正しい。反論できなかった。
それでも理央は、足を止めなかった。
なぜか、彼自身も分かっていない。効率を重視するなら、高円寺の言う通りにするべきだ。しかしそうしたくない、という感覚がある。データではなく、自分の目で見たい。自分の足で探したい。
つまりこの成績データは、自分が実際に接触した人間の感触と照らし合わせるための、確認作業に過ぎない。数字が理央の直感を補強するか、あるいは否定するか。そういう使い方だ。
一枚ずつ確認していく。
「やっぱり、まずは彼女だな」
最も引いたのは、坂柳有栖だった。断トツだ。小テストも中間テストも、どの科目も他を圧倒している。見事という他ない。学校の授業範囲外を取り扱った小テスト問題さえも解いている。
もしもこれまでの人生、理央と同等の教育を受けていたら、彼女は理央と比肩するほどの知識を獲得していただろう。
「坂柳有栖──知れば知るほど、惜しくなる。……くそ」
思わず悪態をついた。理央がそうすることは、珍しい。
坂柳有栖の外見から読み取れる遺伝子の質は、この学校でも最上位に位置する。東雲家と比べても光るとさえ言っても良い。
彼女の問題は、矮躯と先天性疾患の二つ。
痩身については、環境要因が大きいと判断した。食事や運動習慣で変わりうる。しかし身長は違う。骨格そのものが小さいということは、体格の遺伝的ポテンシャルに限界があることを示唆している。それ単体では除外の決め手にはならなかったかもしれない。しかしそこに先天性疾患が重なった。遺伝的なリスクとして、これは看過できなかった。
「身長と先天性疾患……どちらかだけなら、目を瞑っていたかもしれないな」
本来は厳正に除外するべきリスクだが、どちらか一方だけであれば、それを甘受するほどの価値が彼女にはあった。
ジョセフを超える子をなす。そのために必要な個体として、坂柳有栖はほぼ完璧に近かった。
「──切り替えよう」
思考が一気にクリアになる。
坂柳有栖は完璧かつ完全に不合格だ。未来永劫、東雲理央が彼女のことを伴侶として仮定することは、もうない。
次のデータに手を伸ばした。
堀北鈴音。
数字だけ見れば、突出している。坂柳には及ばないが、この学校の水準で言えば十分に上位だ。単純な成績だけなら、Aクラスにいないことが不自然だった。
だが中間テストの結果だけは違う。数科目で、赤点ギリギリの点数が並んでいる。入試テストや小テストの水準と比べると、違和感がある。
「意図的に抑えたか、鈴音──良い子だ」
独り言が漏れた。
クラスの平均点調整のためだろう。自分の成績を犠牲にして、クラス全体の底上げを図っている。感情ではなく、合理的な判断でそれをやっている。自制心と判断力、知能の観点で、これは加点対象だ。
ぱらぱらと成績上位層のデータと比較してみるが、どうようの試みをしている者はいない。
理央は静かに評価を上げた。
一之瀬帆波。
櫛田桔梗。
この二人についても、感心できる水準だ。堀北よりかなりランクは落ちるが、候補として記録しておく価値はある。
現時点での成績だけでは、他に気になる存在はいない。
「一応男子も見ておくか」
理央は当たり前のように、高円寺六助のデータを確認した。
悪くない。しかし特段高くもない。
理央はしばらくその数字を見つめた。
おかしい。
あの人間が、この程度の点数を取るはずがない。テストの設計に問題があるのか、あるいは意図的に手を抜いているのか。いずれにしても、この数字が高円寺六助の実力を正確に反映していないことは確かだ。
理央は学校に憤りを感じた。自然と、歯噛みする力が強くなる。
高円寺六助のすばらしさを理解しないことは、罪だ。原罪と並べても良い。聖書に記していたって不思議じゃない。誰がどう見ても見違えようもない原石。彼を正当に扱わないこの国に未来など──
「あれ?」
そこまで考えてから、理央は少し立ち止まった。
自分が今、とてつもなく強引な結論を出したことに気づいた。
「……彼のこと、自覚している以上に好きなのかな、僕」
データを閉じた。
確認作業は終わった。
堀北鈴音──彼女を見極めるために、最後のピースを埋める必要がある。