ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ 作:さんぱうろ
『僕ならば、一週間以内に裁定者である生徒会に加入します』
私の脳内では、ずっとあの男の言葉が繰り返されていた。
確かに、私には不可能だろう。まだ何の実力も証明できていない私が、この学校の模範たる生徒会に加入することなんて──。
「……」
生徒会長は、兄だ。
堀北学。私がこの学校に来た理由の、全てと言っても過言ではない存在。その兄が率いる生徒会に、東雲理央が入る。兄が認める。兄が、自分ではなく他の誰かを。
「考えたくもない…」
不意に言葉が零れた。
意図して作ったものではない。脳から零れ落ちた、水漏れのような本音。
「あ、堀北さんおはようっ!」
弾んだ声が耳に届いた。
顔を上げると、教室の前で櫛田桔梗が立っていた。
「……おはよう」
「これ、渡そうと思って」
差し出されたのは、白い封筒だった。表面に「堀北鈴音へ」と書いてある。
「寮の掲示板に貼ってあったんだよね。堀北さん宛てだったから」
「あなた、勝手にそれを取ったの?」
「他の人に盗まれちゃったら大変だと思って」
私は封筒を受け取った。
「送り主は……書いてないわね」
「私、余計なことしちゃったかな?」
「……もういいわ。ありがとう」
わざとらしく萎れる櫛田さんを背に、私は自分の席に向かう。
綾小路くんはもう登校してきていた。私の持つ封筒を見るなり、怪訝そうに顔を歪める。
「それ」
「何、欲しいの? あげるわ」
「いや要らんが……どこか変だ」
「どこが?」
「筆跡」
綾小路くんは封筒を指差す。
「加工されてる。定規か何かを使ってたのか、書いた人間の癖が完全に消えてる」
言われて、改めて確認する。確かに、「堀北鈴音へ」という文字が不自然なほど均一だ。人間が書いた字とは思えない機械的な整合性がある。
「それだけじゃない」
綾小路くんが続けた。
「裏も見てみろ」
封の部分に、深紅の封蝋が押されていた。紋章のような模様が刻まれている。
映画などで見たことがある。中世の貴族や王族などが使っていたものだ。開封するには、封筒そのものを破らないといけない。他人が覗き見ることができない仕掛けだ。
「……手が込みすぎてるわね」
思ったことがそのまま口から出た。筆跡を完全に消して、封蝋まで施している。ラブレターにしては物々しすぎる。しかし脅迫状にしては、丁寧すぎる。
「犯罪予告みたい」
「開けるのか?」
「……開けるわ」
封蝋を破った。
中から折り畳まれた紙が一枚出てきた。
広げると、短い文章が書いてあった。筆跡はやはり加工されていて、書いた人間の素性が全く分からない。しかし手書きであることは分かる。素性を隠したいなら、印刷すればいいものを。奇妙な所で律儀だ。
『放課後、第三体育倉庫の前で待っています。一人で来てください。』
それだけだった。差出人の名前も、理由も、何も書いていない。
「……」
一人で来てください、という一文が引っかかった。
「Cクラスかしら」
思ったことを口にした。今のDクラスの状況を考えれば、Cクラスが何か仕掛けてくる可能性は十分にある。
綾小路くんは黙っていた。
「どう思う?」
「可能性はある。だが、なんでお前が狙われるんだ? 須藤の件、そこまで積極的に関わってるわけじゃないだろ」
「……」
確かに、辻褄が合わない。
しばらく考えても手紙の意図は分からなかった。本当に単純なラブレターと考えた方が納得できる。
私は紙を折り畳んで──
「あああああああっ!?」
そこで突然、教室の空気が爆発した。
振り返ると、須藤くんが椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がっていた。顔が真っ赤にしたまま、こちらに走り寄ってくる。
「ほ、ほ、ほりっ、ままま、それ! それって!」
「な、なんだよ急に!」
「どうしたんだよ須藤!」
騒ぎを聞きつけて、池くんと山内くんが飛んできた。三人が私の手元の封筒を見て、口々に喋り始める。
「え、それラブレターじゃね!?」
「誰から!? 誰から!?」
「須藤、お前早まったな……」
「ち、違えし! 別に俺は! そういうんじゃ!」
須藤くんの顔が、耳まで赤くなっていた。
私は封筒を素早く鞄にしまった。
「なんて書いてあったんだ!?」
須藤くんが詰め寄ってくる。
「あなたには関係ないわ」
「関係あるだろ! 俺たちクラスメイトじゃねえか!」
「池くん、須藤くんを連れて戻ってちょうだい」
「いや、でもさあ」
池くんが困ったような顔をした。
「堀北のこと好きなヤツがいるとしたらさ、黙ってるなんてかわいそうじゃね? 不公平っつーかさ? な?」
謎の援護だった。意味が分からない。
「ラブレターかどうかも決まってない」
綾小路くんが静かに言った。
「呼び出されただけだ」
「呼び出し!? どこに!?」
「少しは声量を考えなさい」
私は低い声で言った。須藤くんが少し縮む。彼の意外な一面だ。注意すれば素直に受け入れることがある。
「……まさか堀北、一人で行くつもりか」
「ええ」
「用心した方がいい。Cクラスの可能性がある」
「分かってるわ。でも、多少合気道の心得もあるし」
「俺も行く」
須藤くんが即座に言った。
「結構よ」
「でも」
「結構だと言ったわ」
須藤くんが口をつぐんだ。
それでも何か言いたげだったので、厳しく睨みつけておくことで完全に黙らせる。
万が一にも、ただのラブレターだった場合、大勢で待機しておくなんて卑怯極まりない。
これはリスクではなくプライドの話だ。私は一人でこの手紙の主と会いに行く。これは、確定事項だった。
◇◆◇
昼休憩、オレの居場所は教室に少ない。
昨日と同じように、須藤の件を聞き込み調査する体裁で、食堂で時間でも潰すことにしよう。
席を立つなり、三人が押し寄せてきた。須藤、池、山内。予想通りのメンツだ。
「なあ綾小路、あの手紙の中身、お前知ってるんだろ」
須藤が開口一番そう言った。いつもながら声がデカい。この勢い、この剣幕で近付かれたら、堀北でなくたって距離を取るだろう。
「知ってる」
「じゃあ教えろよ!」
「堀北が言うなと言ったわけじゃないが、一応プライバシーってものがあるからな…」
須藤が顔をしかめた。
「さてはお前か? お前なのか!? 俺の気持ちを知っておきながらお前──!」
「そんな訳ないだろ」
「じゃあ教えろって!」
「……」
「綾小路、頼むから──」
「でもさあ」
ここで池が割り込んだ。
「Cクラスだったらやばくね? 堀北一人で行かせていいのかよ」
「俺もそう思う」
山内が頷いた。
「なんかあってからじゃ遅いじゃん」
須藤がそうだろ、と言わんばかりの顔でこちらを見た。
三馬鹿だ何だと揶揄されちゃいるが、こいつらもたまにはまともなこと言うんだな…。ここに須藤の下心が隠されていなければ、文句の付け所はないのだが。
「呼び出された場所と時間は、俺も知ってる。相手は知らんが」
「だったら……」
「堀北を追うなら気付かれないようにしろ」
三人が黙った。
「多分、アイツのプライドの問題だ。一人で行くと決めた以上、大勢で押しかけるのは違う。ただし、何かあったときに動ける距離にいればいい」
須藤がしばらく考えてから、頷いた。
「……分かった。そうする」
オレもあの手紙に思うところがない訳ではなかった。
Cクラスという線もなくはないが、須藤の件でただでさえ揉めている状況で、別の争点を吹っ掛けてくる可能性は低い。加えて、堀北がピンポイントで狙われる理由が見当たらない。
接点が判明していない、第三者の存在。その可能性が高いように思えた。
何故だろう。
言葉にするのが難しいが、この件には不穏な予感がある。正体の分からない何かが、すぐそこまで来ているような感覚だ。
確かめに行くとしよう。
◇◆◇
放課後、オレは体育倉庫から少し離れた木の陰に身を潜めていた。
須藤は倉庫の反対側の角。池と山内は少し離れた渡り廊下の柱の陰。それぞれ指示した通りの位置だ。
堀北が第三体育倉庫の前に到着したのは、最後の授業が終わって十五分後だった。腕を組んで、周囲を警戒しながら立っている。
オレは周囲を見渡した。
異常なし。他に人影はない。
しばらく時間が経った。
堀北が微かに足を動かした。待ちくたびれてきた頃だろう。オレも視線を一瞬、須藤の方に向けた。須藤が「まだか」という顔でこちらを見ている。
視線を戻した瞬間──
「はあ、どうやら質の悪いイタズラだったみたいね……」
「──どうでしょう、君がイタズラされるのはこれからかも」
倉庫の壁に背を預けて、男が立っていた。
堀北の肩が、猫のように飛び跳ねる。
……いつから。どこから。
オレは自分の目を疑った。
さっきまで確かに誰もいなかった。視線を外したのは一秒にも満たない時間だ。それなのに──気づいたら、そこにいた。
フード付きの上着を羽織っている。フードを深く被っているため、顔が下半分しか見えないが、フードの下に制服を着込んでいるのが分かった。
体格は小柄だ。しかし何かが引っかかった。小柄というより、小柄に見えるように、している、という印象だ。具体的な方法までは分からないが、その立ち方が、どこか不自然に自然だった。
堀北がその人物に気づいて、身構えた。
「強い雌ですね、鈴音。度胸がある」
「き、気軽に下の名前で呼ばないで」
「ご安心を。君の心を侵すつもりはありません。僕が欲しいのは、君の卵巣と子宮だけです」
男の発言は明らかに異常だった。
「ただ、君の種子に手をかけるまえに──最後の審査をしなければ」
断言できる。あの男は危険だ。堀北の身が危ない。
須藤には、合図を飛ばすまでもなかった。
「まず質問なのですが、周囲に潜んでいる四人は──」
「てめぇええっ! 鈴音から離れろやコラ!!」
「──君が呼んだボディーガード、という認識でいいですか?」
オレよりも先に、須藤が飛び出していた。
木の陰から角を曲がって、一直線に男に向かっていく。止める間もない。
「てめぇ、覚悟しろ──」
須藤に合わせて、男が動いた。
動き自体は分かる。単純な動作だ。特別な技術があるわけでも、複雑な手順があるわけでもない。しかしその動きには、人間の身体が本来持っているはずの、わずかな遅延が存在しなかった。脳が命令を出した瞬間、全身の細胞がラグなく従っている──とでも表現すればいいのか。
殴打ではない。投げ技でもない。
ただ、力の向きをぐるりと一回転させられたように、須藤が地面に転がった。
「ぐっ、てめ、今何を──」
起き上がろうとするが、うまく力が入らないようだった。
「須藤くん!」
堀北が声を上げた。その声に、明らかな動揺が混じっていた。
池と山内が顔を見合わせる。
「お、おい山内……」
「さ、さすがにやばくね……」
「でも須藤が……」
「……畜生!」
しかし須藤が倒れているのを見て、池が男に飛びついた。
「あああああっ!」
また同じだった。
理路整然としている。まるで無駄がない。感情も、迷いも、一切介在していない。ただ最短距離で、最小限の力で、相手を無力化している。
格闘ではない。まるで数学だ。
池が呻きながら地面に転がる。
「ひっ、な、なんだこいつ──」
山内が踵を返して走り出した。
「か、勘弁しろよ! おれ、関係ねぇ! あんなの、知らねぇし!!」
「友人を見捨てますか」
男が池の身体を片手で掴んだ。そのままの勢いで、逃げる山内に向けて投げた。
池が山内に直撃した。二人が絡まって地面に倒れる。
「我が身を優先するのは動物として自然なことですが、それに抗う不合理な機能こそ『勇気』と呼びます。山内──君はこの場で最も人間から遠く、獣に近い」
男がゆっくりと三人に近づいた。
須藤が再び立ち上がろうとした。
「まだやりますか?」
男の声は別人のように低くなっていた。
戦意が、音もなく削ぎ落とされていくような声だった。
それでも須藤は歯を食いしばった。
「鈴音を──」
「良い夢を、須藤」
男が須藤の首筋に触れる。
須藤の目が閉じた。
続いて池、山内。同じように、それぞれの首筋に触れるだけで、二人の意識が静かに落ちた。
抵抗する間もなかったようだ。痛みもなさそうだった。ただ眠るように、三人が地面に横たわっている。
頸動脈のあたりに触れたように見えたが、何をしたのか、オレの位置からははっきりと見えなかった。
堀北が一歩後退した。
「あとは君ですね」
男が指しているのは、きっと堀北のことじゃない。
オレは木の陰から前に出た。
フードの奥の顔が、こちらを見ている。表情は読めない。しかしその視線だけは、はっきりと感じた。オレの存在も、きっと最初から察知されていなんだろう。
「綾小路と呼ばれていましたね」
男がオレを見たまま、静かに言った。
「下の名は?」
「……幸太郎だ。以後お見知りおきを」
「よろしく、綾小路幸太郎くん」
オレは男を見た。
さっきの動きが、頭に残っていた。
理路整然としている。全く無駄がない。根本的に動物として格が違う、俺には真似できない動きだった。
この男と正面からやり合うことが、今この場で正解と言えるのだろうか。
風が吹いた。
三人が地面に横たわったまま、誰も動かない。