ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ 作:どろどろ
四月の中旬、体育の授業が屋内プールで行われることになった。
更衣室から出てきた生徒たちがプールサイドに集結する。
理央は視線を動かしていた。表向きは正面を向いているが、視野の端で、女子生徒たちを順番に確認していた。
骨格。
配偶者選定において、外見の対称性の次に確認すべき項目がそれだ。
現時点での筋肉量や体脂肪率は関係ない。それらは環境と努力で変化する。問題は骨格——骨盤の幅、肩幅との比率、脊柱の形状、四肢の長さのバランス。それらは遺伝的な設計図を、もっとも正直に反映している。
水着という状況は、観察条件として悪くない。
……が、現状、特筆すべき骨格を持つ人間はいなかった。
「いやぁ、こいつは絶景ですなぁ」
理央の隣で、橋本正義という男子生徒が女子の方をちらちらと見ていた。
隠す気がない、という程度には堂々とした視線には感心すら覚える。
「見すぎだぞ、橋本。みっともない」
「葛城は真面目だねぇ。でもしょうがなくない? 男子なんだから」
「それとこれとは話が別だ」
橋本は苦笑しながら、ふと隣に目をやった。
「でもさ、東雲だって見てたじゃん。結構じっくり」
「む?」
葛城が理央を見た。
理央は特に否定しない。
「見ていましたよ」
「ほら、コイツも同じだって」
「君とは少し違います」
「ん~? どう違うって?」
理央は少し考えた。正確に説明しようとすると、どうしても言葉の選び方が難しい。
「昆虫の標本を観察するのに近い感覚です」
間があった。
「……昆虫?」
「骨格の形状を確認していました。筋肉量や体型は見ていません」
「骨格って、何のために」
「色々と」
「はは、キモ」
橋本はそれだけ言って、葛城をちらりと見た。葛城は複雑な顔をしていた。咎めようとしたのに、なぜか言葉に詰まっている。
「東雲のはセーフなの?」
「……分からん」
「何だそれ」
そこへ、女子側からざわめきが流れてきた。
最初は数人の囁き声だった。それがじわじわと広がって、気づけばプールサイドの半分が理央の方を見ていた。 その視線の流れを辿れば、見られている理由を察するのは難しくない。
水着になれば隠しようがない。
肩、胸、腹──シャツの下に収まっていたものが、あらわになる。均整の取れた筋肉が、余分なものを一切含まずに全身を覆っていた。鍛え上げられた、というよりも、そう設計された、という印象だろう。無駄がない。生物として、単純に完成されている。
「……ちょっと待って」
女子の誰かが言った。
「あれ普通じゃないよね」
「モデルかなんかなの」
「いや全然モデルよりイケてるんですけど……」
「同じ高校生だよね、あれ……?」
橋本が理央の肩をどついた。
「お前、見られてんじゃん」
「知っています」
「なんか言えよ」
「何をですか」
橋本は少し脱力したように笑った。葛城は苦笑いとも取れる顔で前を向いた。
◇◆◇
水泳教師が整列した生徒たちの前に立った。四十代とおぼしき、がっしりとした体格の男だ。
「見学者が出ているな」
端に固まった数名を一瞥したが、特に咎めるような口調ではなかった。
坂柳有栖もその中にいた。プールサイドの椅子に杖を立てかけ、静かに座っている。こちらを見ているような、見ていないような、そういう距離感だった。
「まあいい。ただ一つだけ言っておく」
教師はプールを見渡しながら続けた。
「泳げるようになっておけ。この先、絶対に役に立つ。それだけだ」
含みのある言い方だった。理央はその言葉の重さを静かに受け取った。この学校が仕掛けてくる何かに、水泳が関わる。時期は分からないが、遠くはないのだろう。
「まず全員、ウォーミングアップで一往復泳いでみろ」
生徒たちがそれぞれのコースに入った。
理央も第一コースに入り、軽く泳いだ。
本気ではない。半分以下の出力だ。それでも周囲の生徒よりは速かったが、特に目立つほどでもない。体がどの程度動くかを確認する、それだけの作業だった。
折り返してプールから上がると、橋本が隣で息を整えながら言った。
「東雲って泳ぎ上手いんだな」
「まあまあです」
「嘘つけ、めっちゃ速かったじゃん」
理央は特に答えなかった。
見学席をちらりと見た。
坂柳有栖が、こちらを見ていた。プールサイドの椅子から、静かに。何を考えているのかは分からない。ただその目が、静かに理央を捉えて続けていた。
「さて、せっかくだから競争でもするか。一番タイムが良かった奴には、特別ボーナスとして五千ポイントを支給しよう」
生徒たちの空気が少し変わった。
その合間を縫うように、プールサイドの端から声がかかった。
「東雲」
神室真澄だった。坂柳の側にいることが多い女子生徒で、口数が少なく、どこかいつも面倒くさそうな目をしている。その目が今、理央に向いていた。
「凄い泳ぎだったね。それにその身体も。……何かやってたの? 武術的な」
探りを入れている、と理央はすぐに分かった。直接的すぎる聞き方が、むしろ神室の不慣れさを示していた。諜報向きの人間ではない。
「恐らく運動面では、一般的な学生以上のカリキュラムは受けていません」
「本当に?」
「ええ」
実際、そうだった。理央の肉体は人類水準ではすでに最高峰に達しているが、彼個人としてはまだ未成熟な状態だ。その状態で過分に負荷をかけるような訓練を、理央は適切だとは思わない。
今の泳ぎは正真正銘、理央自身の純粋な肉体能力の産物であり、そこに技術は伴っていなかった。
神室はしばらく理央を見た。それから少し間を置いて、もう一つ聞いた。
「坂柳さんと、食事したんだって?」
やはりそこか、と理央は思った。
「何の話をしたの」
「楽しい話を」
神室の目が少し細くなった。苛立ちとも取れる変化だったが、声のトーンは変わらない。
「はぐらかしてる?」
「していません。実際に楽しかった。……本当に、楽しかった」
神室はしばらく理央を見ていた。それから小さく息を吐いた。諦めた、というより、これ以上やっても無駄だと判断した、という感じの息だった。
「……そう」
それだけ言って、神室は視線を外す。
理央は神室の背中を見ながら、少し考えた。
今のは少々不親切だったかもしれない。坂柳有栖が自分に興味を持っているのは察している。それ自体は悪いことではない。むしろ、今は坂柳に情報を渡しておく方が都合がいい場面かもしれない。
どの程度の人間かを、向こうも測りたいのだろう。ならば測らせればいい。ただし、渡す情報はこちらが選ぶ。
理央は手を挙げた。
「先生、提案があります」
「何だ、東雲」
「鳥が飛べるかどうかをテストしても、あまり意味がない。鳥は飛ぶものだからです」
クラスが静まった。
「……どういう意味だ」
「僕が泳げば、この競争は競争になりません。それよりも、条件を変えた方が皆にとっても面白い」
「ほう。続けろ」
「僕が日本新記録を出した場合、水泳の授業に参加しているAクラス全員に、五万ポイントを支給してください」
静寂が落ちた。
五万ポイント。一人ではなく、参加者全員に。誰かが息を呑む音がした。
「……日本新記録、だと」
「はい」
教師はしばらく理央を見た。冗談を言っているのかどうか、測るような目だった。それから口の端に薄い笑みが浮かんだ。
「いいだろう。その代わり達成できなければ五千ポイント没収だ。大言壮語でないことを期待している」
「分かりました」
それだけだった。
橋本が理央の耳元に顔を寄せてきた。
「お前、マジで言ってる?」
「はい」
「日本新記録って、本気で出せるの」
「分からないから挑むんです」
橋本はしばらく理央の横顔を見た。それから前を向いて、小さく「イカれてる」と呟いた。
葛城は何も言わなかった。ただ腕を組んで、静かに理央を見ている。
神室は見学席の坂柳を一瞬だけ振り返った。坂柳は表情を変えずに前を向いていた。
◇◆◇
第一コースのスタート台に理央が上がった。
他の生徒たちは左右のコースに散らばり、それぞれ泳ぎ始める。しかし半分ほどの視線は、理央に向いたままだった。
見学席の坂柳も、さっきより少し前のめりになっているように見えた。その隣に神室が戻ってきて、何か小声で報告している。坂柳は頷くでもなく、ただプールを見ていた。
構える。
スタートの合図が鳴った。
理央が泳ぎ始めて最初の数秒で、何かがおかしいと気づいた生徒がいた。
速い。それは分かる。明らかに他の生徒とは次元が違う速さで、理央の体がプールを切り裂いている。
しかしそれよりも──
「あれ、息継ぎ……」
女子生徒の一人が呟いた。
そうだ。おかしい。理央の頭が、一度も水面から上がっていない。スタートから十メートル、二十メートル、三十メートル──折り返しの壁に触れて、また戻ってくる。それでも、一度も。
プールサイドが静かになっていった。
他の生徒たちが泳ぐのをやめた。コースの端で立ち止まり、ただ見ていた。水音だけが響く。規則正しく、力強く、しかし静かに、理央の体が水を割り続けた。
折り返し。また折り返し。
ゴールした。
水面から顔を上げた理央の表情は流石に苦しそうだった。それでも数秒呼吸を整えると、普段の調子にも戻る。
「……東雲! 大丈夫か!?」
「ええ、問題ありません」
「お前、息継ぎを一度もしなかったが……」
「肺活量には自信がありまして」
教師がストップウォッチを見た。
固まった。
もう一度、数字を確認した。
それから少し間を空けて、タイムを読み上げた。
一瞬の静寂の後、誰かが「は?」と言った。それが合図になったように、プールサイドが一気に沸いた。
「日本記録どころか世界記録より速くね!?」
「えっ、そうなの!?」
「嘘だろ」
「息継ぎしてないのに?」
教師は額に手を当てた。約束通り五万ポイントと言おうとして、口を開いたまま止まった。
「……お前、日本新記録と言ったな」
「はい」
「世界新記録だぞ、これは」
「それはどうでしょう」
理央は内心、ジョセフ・G・ニュートンが参加していない世界新記録ではあるか、と捕捉する。そんなものに欠片ほどの価値もあるとは思えなかった。
教師は深く息を吐く。
「……参加者全員に五万ポイント、お前個人に対しては十万ポイントを支給しよう」
また沸いた。今度はさらに大きく。
「事前の条件と違いますが?」
「この学校におけるポイントは生徒への期待値を示している。この意味が分からないほど愚かではあるまい」
「……なるほど。ではありがたく」
参加者への五万ポイントは事前の約束を履行するという意味で、そして理央への十万ポイントは彼個人への学校側からの期待値の現れということだ。理央が将来のオリンピック選手級と思えば、その評価に対して疑問の余地はなかった。
理央は見学席を見た。神室が口元に手を当てていた。坂柳は静かにプールサイドを見ていた。その目に何が宿っているか、この距離では分からない。
◇◆◇
「──すごかったじゃん、東雲」
更衣室から出た廊下で、橋本が隣に並んできた。さっきまでの騒ぎが嘘のように、自然な歩調で。
「どうも」
「いや本当に。世界記録って」
橋本は笑いながら続けた。
「しかも参加者全員に五万ポイントって。クラス中で東雲の話してたよ」
「べつに感謝してもらいたかったわけではないので」
「まあそうだろうけどさ」
橋本は特に気を悪くした様子もなく、軽い足取りで並んで歩いていた。話しかけるのが上手い人間だ、と理央は思った。会話の隙間を埋めるのが自然で、こちらに警戒心を抱かせない。
理央は橋本を見た。
坂柳の周囲にいる人間。それが今こうして、自分に近づいてきた。理由は単純だ。理央がどちらにも属していない以上、早めに関係を作っておきたいのだろう。彼は保険をかけている。
悪い人間ではない。ただ、抜け目がある。
「東雲って、今後どうするつもりなの」
橋本が何気なく聞いた。
「ほら、うちのクラスって完全に二分されてる感じじゃん。葛城とも話してるし、坂柳さんとも食事したって聞いたし。お前的にはどっちともうまくやってくスタイル?」
理央は少し間を置いた。
「どちらとも別に、ということです」
「……なるほどね」
橋本はそれを聞いて少し黙った。それから「いいね」と言った。今度の笑顔は、最初のものとほんの少し質が違う。
「東雲は東雲のやり方でいくわけだ」
「そういうことになります」
「この先お前が台風の目になるかもな」
しばらく二人は並んで歩いた。廊下の分かれ目で、橋本が足を止めた。
「また話しかけてもいいか?」
「どうぞ」
理央は歩き続けた。橋本の視線が背中に残っているのを感じながら、それを特に気にしなかった。
この男は今後も定期的に顔を出してくるだろう。坂柳の命令かどうかに関わらず、自分の判断で動ける人間だ。悪くない。
理央はそこまで考えて、それ以上は考えるのをやめた。
今はまだ、その段階ではない。