ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ   作:どろどろ

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小門

 

 翌朝のホームルームが終わった後、理央は真嶋智也に呼び出された。

 

 真嶋はAクラスの担任教師だ。表情に余分なものがなく、言葉を選ぶときに間を置く癖がある。厳格、というよりは、誠実さが厳しさとして映るタイプだと理央は見ていた。授業中の声は低く、感情の起伏が少ない。しかし生徒の答えに対して、正しければ正しいと、間違いであれば間違いだと、きちんと言える教師だ。

 

「すまないな。急に呼び出して」

「とんでもないです」

 

 職員室の隅の席に向かい合って座ると、真嶋はすぐに本題に入った。

 

「昨日の水泳の件だが、記録を正式に測ることを勧めたい。日本水泳連盟に申請すれば、公式記録として認定される。あのタイムなら、間違いなく通る」

 

 理央は少し間を置いた。

 

「お断りします」

 

 真嶋は特に驚いた様子もなかったが、少し落胆するように瞠目した。

 

「実は昨日の時点で、いくつかの強豪大学の水泳部の監督から問い合わせが来ている」

 

 これについては少し意外だ。一日も経っていない。

 

「君に直接連絡を取りたいという話だ。どこも本気だ。名前を出せば君も知っている大学ばかりだ。君が望めば、進路の選択肢は相当広がるだろう」

 

 情報の流れが早い、と理央は思った。この学校の中で起きたことが、外部にこれほど速く伝わるとは。学校側が意図的に流しているのか、あるいは別の経路か。どちらにしても、この学校と外部との繋がりは思ったより深い。覚えておく価値がある。

 

「それも、お断りします」

「理由を聞いてもいいか」

「卒業後は防衛大学校に進むつもりです。水泳で進路を決める気はありません」

 

 真嶋はしばらく理央を見た。目の前の人間を正確に理解しようとしている、そういう目をしている。

 

「防衛大、か」

「はい」

「水泳の記録と、防衛大進学は矛盾しない。両立できる話だと思うが」

「矛盾はしません。ただ、必要がない」

「……不要と言うほどの足枷にもならんだろう」

 

 理央は少し考えた。どこまで話すべきか、という判断ではない。どう説明すれば正確に伝わるか、という問題だった。

 

「記録を公式に残すことで、余分な注目が集まります。それが今の僕には不都合です」

「余分な注目、というのは」

「水泳の話ではない注目です」

「…………ふむ、そこまで行くと邪推の域にも思えるが」

 

 真嶋はしばらく黙った。それ以上は掘り下げなかった。聡い人間だ、と理央は思った。答えが出ない問いを、無駄に重ねない。

 

「君の能力を無駄にしてほしくないというのが、私の本音だ。教師としてではなく、個人として」

「それはどうも」

「お礼を言うわりに、あまり嬉しそうな顔じゃないな」

「そうですか」

「……君は、褒められることに慣れているか?」

 

 理央は少し間を置いた。

 

「慣れているというより、特に何も感じません」

「何も?」

「褒められることで何かが変わるわけではないので」

 

 真嶋はしばらく理央を見た。呆れているのか、感心しているのか、あるいはその両方か。やがて小さく息を吐いた。

 

「なるほど。難儀な生徒だ」

「ご迷惑をおかけします」

 

 真嶋は少し黙った。それから、初めてわずかに表情が動いた。笑い、とまでは言えない変化だったが、口の端が少し動いた。

 

「……分かった。君の意思を尊重する」

 

 彼は書類に視線を落とした。

 

「ただし、気が変わったときはいつでも言いに来い」

「──ありがとうございます。では、僕はこれで」

 

 理央は席を立つ。

 職員室を出ようとしたとき、廊下で人とすれ違った。

 茶柱だった。一年Dクラスの担任で、歴史を担当している。飄々とした雰囲気の女性教師だ。授業中の目と廊下での目がどこか違う。

 

 茶柱は理央を見た。立ち止まるでもなく、足を緩めるでもなく、ただ通り過ぎざまに言った。

 

「今年のAクラスは豊作だな。羨ましいことだ」

 

 それだけだった。振り返りもしない。廊下の向こうへ、淡々と歩いていく。

 理央はしばらく、その背中を見ていた。

 

 教師間でも、何らかの競争がある。クラスの成績が担任の評価に直結する仕組みか、あるいは別の形か。茶柱の言葉はそれを示唆しているように感じる。Dクラスの担任がAクラスを「羨ましい」と言う──それは単なる感慨ではない。何かが、担任の側にも懸かっている。

 

「……まあ僕には関係ない」

 

 理央は思考を止めた。今の自分には、教師側の力学を気にする理由がない。必要になったとき、また考えればいい。

 

 

◇◆◇

 

 

 午後の授業が終わった後、真嶋がホームルームの延長として教室に戻ってきた。

 

「これから小テストを実施する」

 

 事前に一切告知のなかった宣告に、クラスがざわついた。

 

「落ち着け。成績には一切影響しない。ただ、今後の参考のために必要だ。それだけ覚えておけ」

「参考って、何の参考ですか」

「今後の、だ」

 

 それだけだった。追加の説明はない。クラスの空気が微妙に緊張したのが見て取れる。反応は二つだ。成績に影響しない、という言葉で安堵した生徒と、今後の参考、という言葉に引っかかりを覚えた生徒。

 

 意味のない行動を、この学校はしない。成績に影響しないテストをわざわざ実施する。参考、という言葉が何を指すのかは今の段階では分からない。しかし何かには影響する。そうでなければ、こんな時間を設ける理由がない。

 問題用紙が配られた。全部で二十問。

 最初の十七問は標準的な内容だった。数学、物理、論理、高校一年の範囲として特に難しくはない。Aクラスの生徒であれば、大半は問題なく解けるだろう。

 理央は淡々と進めた。考えるまでもない問題が続く。

 しかし、最後の三問。

 理央はそこでペンを止めた。

 

「……ふむ」

 

 高校の範囲ではない。それだけは即座に分かった。問題の構造を把握するだけで、大半の生徒は持ち時間を使い切るだろう。Aクラスでも、おそらく解ける人間は多くない。

 ただ、解けないわけではない。

 理央は答えを書いた。特に時間はかからなかった。

 ペンを置いて、教室を見渡した。

 クラスの大半がまだ最後の問題と格闘していた。数名はすでに諦めたように手を止めている。橋本は頭を抱えていた。葛城は眉を寄せたまま、問題用紙を見つめていた。

 

 窓際の席で、坂柳有栖がペンを置く。

 その動作は静かで、迷いがなかった。問題を解き終えた人間の動作だ。あるいは──諦めた人間の動作とも、外見上は区別がつかない。しかし坂柳の表情は、諦めた人間のそれではなかった。

 

 

◇◆◇

 

 テストが終わり、問題用紙が回収された。

 真嶋は結果について何も言わなかった。問題用紙をまとめると、足早に教室を出た。

 それからしばらくして、クラスはいつもの温度を取り戻し始める。

 

「最後の問題、何あれ」

「意味わかんなかった」

「一年の範囲じゃないでしょ、あれ」

「てか成績に関係ないなら別によくない?」

「よくないよ、参考にされるって言ってたじゃん」

 

 あちこちから声が上がる中、理央は席に座ったまま窓の外を見ていた。

 

 ……このテストの意味が、分からない。

 

 成績に影響しないのに記録される。参考にされる。ならば何かに影響する。しかしその何かの輪郭が、今の自分にはまだ見えない。毎年実施されているのか、今年だけなのかも分からない。問題の出典も不明だ。

 理央には珍しい感覚だった。手持ちの情報が、明らかに足りていない。

 

「最後の問題、お前は解けたか?」

 

 葛城が近づいてきた。いつもと変わらない、落ち着いた足取りで。

 

「一応は」

「……そうか。俺は途中までだった。問題の意味を把握するのに時間を取られた」

「見慣れない形式でしたから。そこで詰まる人は多いと思います」

「お前はどこで見たんだ」

「似たような形式のものを、以前に」

 

 葛城はそれ以上聞かなかった。少し考えてから、声を落として続けた。

 

「あのテストの意味、何だと思う。お前の考えを聞かせてくれ」

 

 理央は少し間を置いた。

 

「異常値の把握、ではないかと思います」

「異常値?」

「成績に影響しない。それは本当のことでしょう。ただ、あの難易度の問題を解ける生徒が何人いるかを、学校側は把握したい。普通の試験では測れない上限を、このテストで測っている」

 

 葛城は腕を組んだ。

 

「つまり飛び抜けた生徒を、早い段階で特定しておくということか」

「筋は通ります」

「……なるほど」

 

 葛城は瞠目し、しばらく黙った。

 

「この学校がそういう情報をどう使うかは、今は分からないが」

「ええ。だから憶測の域を出ない」

「お前でも分からないか」

「買い被りすぎですよ。僕にも分からないことは山ほどあります」

 

 葛城はわずかに目を細めた。理央が分からないと言ったことに、少し意外そうな顔だ。

 それから、ほっとしたように表情を緩める。

 

「……安心したよ」

「何がですか」

「お前でも分からないことがある、ということが。昨日の水泳を見てから、人間離れして見えていたから」

「人間ですよ、一応」

「一応、か」

 

 葛城は苦笑した。

 

「その一応、というのが引っかかるんだが」

「深い意味はありません」

「本当か?」

「恐らく」

 

 葛城はしばらく理央を見た。それからもう一度、小さく笑った。今度は少し違う種類の笑いだった。

 

「不思議なヤツだな」

 

 葛城はそれだけ言って、自分の席に戻った。

 

 理央は再び窓の外に視線を向ける。

 視野の端に、坂柳有栖が映った。

 彼女は誰とも話さず、静かに机の上を見ていた。テストが終わった後も、問題用紙が回収された後も、ずっとその表情は変わっていない。最後の一問を見たときの、あの迷いのない動き。ペンを置いた後の、あの静かな表情。

 坂柳も解いている。それは推測ではなく、確信に近かった。

 

「東雲くん」

 

 声をかけてきたのは、坂柳本人だった。

 杖をつきながら、理央の席の脇に立っていた。いつ移動したのか、気づかなかった。珍しいことだ、と理央は思った。自分の気配の察知が外れることは、あまりない。

 

「私より先にペンを置いていましたね」

 

 坂柳は静かに言った。感情は籠っていない。ただ事実を確認している、そういう口調だ。

 

「はい」

「驚きはしませんでしたよ」

 

 理央はその言葉を、少し考えた。

 驚かなかった。つまり、理央がああいう問題を解けることを、坂柳はすでに想定していた。食事の夜に──あるいはそれ以前から、坂柳有栖は理央という人間をある程度の精度で測っていた。

 

「僕もですよ」

 

 坂柳はしばらく理央を見た。

 

「あなたが私より先に解き終えても、驚かなかった。そういう意味ですか」

「ええ」

 

 また少しの間があった。今度の沈黙は、カフェの夜のそれとは少し質が違った。あの夜は測り合う沈黙だった。しかし今は──どこか、剣呑なものが漂っていた。

 坂柳は少し目を伏せた。それから、理央の耳元に向かって静かに言った。

 

「こんな気持ちになったのは、久しぶりです」

 

 理央は動かなかった。

 坂柳はそのまま、わずかに声を低くした。

 

「あなたには負けませんよ」

 

 それだけだった。

 坂柳は杖をつきながら、静かに自分の席へと戻っていった。その足音が遠ざかるのを、理央は聞いていた。

 除外した相手だ。しかし──

 

「頑張ってくださいね」

 

 理央は窓の外に視線を戻した。それ以上は、考えなかった。

 

 

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