ようこそ理想の遺伝子を求める教室へ 作:さんぱうろ
六月に入り、クラスポイントが更新された。
Aクラスは1020ポイント。先月の940から80の上昇だ。
内訳を整理すると──中間テストの結果として各クラスに一律100ポイントが加算された。退学者を出さずに乗り切ったことへのご褒美、という形だ。テストの点数そのものがクラスポイントに直結したわけではない。勉強会の成果が貢献したわけでもない。どうせ何もしなくても、Aクラスから退学者は出なかっただろう。
残りの20のマイナスは、私生活上の減点によるものだ。
結果だけ見れば、悪くない。
しかし理央はその数字を見ながら、達成感と呼ぶには薄い何かを感じていた。努力が報われた、というより──労した努力の方向が、まだ正しく定まっていない、という感覚に近いだろうか。
とはいえ、勉強会を通じてAクラス全体に何かが芽生えつつあるのは確かだ。それ自体は、喜ばしいことなのだろう。
「先生、今月のプライベートポイントが、まだ振り込まれていないのですが」
6月最初のホームルームで、葛城がそう切り出した。
「それについては学校側でトラブルがあってのことだ。一年全体に支給が遅れている。不便をかけるが、しばらくは我慢していて欲しい」
「いつ頃解消されるのかは分かりますか?」
「不明だ、悪いな。支給されないということはないので安心しておけ」
「分かりました」
葛城はそれ以上追及しなかった。他の生徒も特に声を上げない。Aクラスは先月からの蓄積があり、ポイントに余裕がある。日常生活に支障をきたすような状況ではない。
理央は数字を頭の中で整理してみる。
今月のAクラスの支給予定額は10万2千ポイント。クラス全体で40人とすれば、総額は408万ポイント超だ。それが一年全体で遅延しているとすれば、四クラス合計で相当な規模になる。学校側が抱える経済的な負担ではなく、生徒側が一時的に被る不便の話だが──クラスによってその重さはまるで違う。
Aクラスは全く問題ない。しかし他のクラスはどうか。特にDクラスは、先月の支給額がゼロだったはずだ。今月の遅延がどう響いているか、少し気になった。
◇◆◇
「おはようございます、東雲くん」
ホームルームが終わってまず声をかけてきたのは、坂柳だった。いつもの、人形のような、本心を見せない笑みを湛えている。
手に、封筒を持っていた。
「おはようございます、坂柳さん。……それは?」
「あなたの机に入っていました」
封筒を差し出してくる。淡いピンク色の、明らかに用途の分かる代物だった。
「……僕の机を見たんですか」
「たまたま目に入っただけです」
坂柳は涼しい顔で答えた。
封筒を受け取りながら、理央は小さく息を吐く。
ラブレター。
気持ちはありがたいが、こういった手合いには、期待が持てない。というよりも、好条件の遺伝子を持つ相手を探す上で、効率が悪い。
中間テストが終わってからこっち、こういうことが増えた。廊下で声をかけられることもあれば、放課後に呼び出されることもある。水泳の件が広まったせいだろう。一つ一つは些細なことだが、積み重なると、じわじわと時間を食う。断ること自体は難しくない。ただ、その都度相手の感情を処理するのが、面倒だった。
今朝も、また断らなければならない。
そう思った矢先に、坂柳が言った。
「代わりに断っておきましたよ」
笑顔のままで、さらりと。
「おや、それはありがとうございます」
本心だった。実際、本当に助かった。何故か理央の感謝に対して、坂柳の表情に不満の色が浮かんだ気がしたが、ここでは気が付かなかったことにしておく。
そこへ、橋本が割り込んできた。
いつの間にか傍に立っている。その視線が、理央の手の中の封筒に向いていた。
「東雲」
「なんですか」
「俺、殺してもいいかな」
「……念のため聞きますが、誰をですか」
「このクラスで一番のモテ男を」
物騒なことを、橋本は至って真顔で言った。
間違いなく東雲理央を指している。
「駄目です」
「そうか……そうだな」
橋本は盛大に肩を落とした。
「お前だけモテてずりーよ、マジで。あーあ、水泳で目立つような事するから」
「むしろ僕としては迷惑千万なんですがね。ほぼ大半の女子に、僕は興味がありません」
「頼むからいつか刺されてくれ」
坂柳がその様子を横目で見ていた。笑顔のまま、しかし今度は少し意地の悪い色が混じっている。
「イケメンランキング一位の男は言う事が違いますね」
皮肉だったのだろう。柔らかい声で、しかし確かに刺さる言い方だった。
理央は少し考えてから答えた。
「もし仮に、宝石に心が備わっていたとして──美しさを称賛されたら、喜ぶのでしょうか」
坂柳の目が、わずかに動いた。
「はい? どういう意味ですか?」
「いえ、ふと思っただけです」
坂柳はしばらく理央を見た。その笑顔が、少しだけ固まった。
「坂柳さん、少し橋本くんを借りてもいいですか」
「……お好きにどうぞ」
今度の笑顔は、さっきより僅かに温度が低かった。
理央は橋本を連れて、廊下へ出た。
◇◆◇
「なんだ?殺させてくれるのか?」
廊下に出るなり、橋本はそう言った。
「恐ろしいことを言わないでください」
「冗談だよ冗談」
橋本は笑いながら、理央の隣を歩いた。人気の少ない廊下だ。朝のホームルームが終わった直後で、大半の生徒はまだ教室にいる。
「それで、何の用? 坂柳から引き離してまで」
「Bクラスのことを聞きたくて」
Aクラスの女子については、これまででひと通り評価を済ませていた。結論は出ている。候補はいない。
ならば、次はBクラスだ。
学校がAクラスに次いで実力を評価しているクラスである以上、遺伝的に優れた個体がいる可能性は他クラスより高い。高円寺のような例外が存在する以上、クラスポイントだけで判断することはできないが、まずは上から当たっていくのが、効率としては妥当だろう。
「なんでまた、俺に」
「僕よりは情報に明るいかと思いまして」
理央は含みのある眼差しを、ただ橋本に向ける。
少しの沈黙のあと、橋本は納得したような顔つきになった。
「……まあいいや。何を知りたい?」
「一番の中心人物は誰ですか」
橋本はすぐには答えなかった。
廊下の先に目をやりながら、少し黙る。それから理央をちらりと見た。その目に、さっきまでとは少し違う意味合いを感じる。
「急な話だな」
橋本は何かを考えているようだった。理央がBクラスに接触しようとしている。その事実を、頭の中で転がしている。直接は聞かない。しかし警戒の色は、隠しきれていなかった。
理央はそれに気づいたが、特に説明しなかった。説明する義務もないし、説明したところで橋本の疑念が完全に晴れるとも思えない。
「あー、一之瀬帆波って子が、中心人物って言えばそうかもだが……」
やがて橋本は、踏ん切りをつけたように答えた。
「一之瀬、帆波」
「そ。風紀委員長やってるらしいぜ。クラスのまとめ役みたいな感じで、評判は良いよ。俺は面識ないけどな」
「そんな役職が……?」
「Bの連中が勝手にやってるだけだよ。公式じゃない」
「ふぅん……ありがとうございます」
理央が踵を返そうとしたとき、橋本が言った。
「なあ、何しようとしてるかくらいは教えてくれよ」
少し拗ねたような、しかし本気の問いだった。
理央は橋本を見た。
「坂柳さんと僕。もし選ぶとしたらどっちですか?」
橋本の表情が、一瞬だけ止まった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……八方美人に思われてるかもしれんが、これでも結構義理堅いんだぜ、俺」
橋本は答えをはぐらかした、というより──答えを持っていながら、出さなかった、という感じだった。
今後のリスクを考えると、坂柳を裏切りたくない。しかし理央との繋がりも手放したくない。いざとなればどちらにでも動ける、その余白を残しておきたい。橋本正義という人間の本心は、おそらくこんな所だ。
悪い人間とは思わなかった。ただ、賢い。
「僕が君の立場でも、そう言ったかもしれません」
「そりゃどーも」
「では、これで」
言って、歩き始める。
「おい、結局何するつもりなんだよ」
橋本の声が背中に届いた。
理央は振り返らなかった。
◇◆◇
移動教室の時間を、理央は待っていた。
特別棟からAクラスの教室に戻る廊下の角。Bクラスがちょうどこの通路を通るはずだ。時間割は頭に入っている。
やがて、廊下の向こうから人の流れが来た。
Bクラスだった。
理央は廊下の端に立ったまま、動かなかった。ただそこにいるだけだ。しかし見知らぬ生徒が自分たちの通路に立っているというだけで、向こうの視線が集まり始めた。囁き声が広がる。戸惑いが連鎖する。
そしてその反応が──一点に向かって、収束し始めたのを、理央は見逃さなかった。
集団というのは、異物に直面したとき、無意識に中心人物を探す。視線が迷い、囁きが広がり、やがて誰かの顔を確認しようとする。その「誰か」こそが、その集団の重心だ。
教科書を胸の前で抱えた、快活そうな印象の長髪の女子生徒。両脇に女子を連れている。周囲の視線が彼女に集まったとき、彼女だけが自然な足取りで理央の方に向かおうとした。意識的にではない。ただ、そういう立場にいる人間が取る、ごく自然な動作だった。
理央は一歩前に出た。
「一之瀬帆波さんですね」
「あれ、何処か出会ったかな?」
「いいえ。初めましてです」
一之瀬は少し目を丸くした。初対面の相手に名前を当てられた、という戸惑いが顔に出ている。隠す気がないのか、隠せないのか、おそらく両方だろう。
坂柳有栖とは全く別のタイプだ。葛城ともまた、違うだろう。今の段階で優劣を感じるわけではないが、確かな人間としての性質が、反応からにじみ出ている。
「東雲理央といいます。Aクラスです」
「あ、うん。私は一之瀬帆波。……って、知ってるのか」
一之瀬は少し笑った。快活な笑い方だ、と理央は思った。警戒よりも好奇心が勝っている。
「教科書、持ちましょうか」
「え? いや、別に重くないし……」
「そうですか」
他人に私物を触られるのも嫌だろう、と理央はすぐに引いた。無理に距離を詰める必要はない。
そのとき、横から鋭い視線が飛んできた。
男子生徒だった。目付きが険しい。一之瀬の隣に進み出て、理央を正面から見据えた。
「Aクラスが何の用だ」
威圧する気が隠れていない、真っすぐな物言いだった。敵意というより、警戒だ。一之瀬を守ろうとしている、そういう立ち方だった。
「大丈夫だよ、神崎くん」
神崎、と理央は頭の中で名前を登録した。
「そんなに怖いですか。敵意を見せたつもりはないんですがね」
「……」
神崎は退かなかった。理央から視線を外さない。言葉を受け取った上で、なお警戒を保っている。感情的な反応ではなく、判断の結果としての警戒だ。それ自体は、筋の通った態度だと理央は思った。
理央は軽く肩をすくめた。
それを見ていた一之瀬が、周囲に向かって言った。
「みんな、先に戻ってて。東雲くんのことは噂程度には知ってるし、悪い人じゃないと思うから」
神崎は一之瀬を見た。何か言いたそうな顔だったが、一之瀬の表情を見て、小さく息を吐く。
「……分かった。何かあれば呼べ」
それだけ言って、神崎は他の生徒たちと共に廊下を進んでいった。
人の波が引いていく。やがて廊下には、理央と一之瀬だけが残った。
初対面の男と、わざわざ徒党を捨ててサシの話に挑む。それなりの度胸がいる判断だ。噂程度には知っている、と言った。それが理央への信頼の根拠だとすれば、一之瀬帆波という人間の判断基準は、情報よりも直感に近い。
「突然すみませんでした」
「ううん、全然」
一之瀬は首を振った。
「でも、どうして私に?」
「他クラスに知り合いを作っておきたかったんです」
「……クラス代表とか、そういうんじゃなくて?」
「そういうんじゃないです」
一之瀬はしばらく理央を見てから、安心したように笑みを零した。
「君と、友達になりたい」
「……ストレートだね」
「回り道する理由がないので」
理央が続ける。
「……神崎くん、でしたか。彼の反応を見ていて、やっぱりそうだと思いました」
「そうだ、って?」
「Aクラスの人間が廊下に立っているだけで、ああなる。今はまだ序の口だと思います。クラス間の競争が本格化すれば、もっと露骨になっていく。話しかけるだけで剣呑になるような空気が、当たり前になっていくかもしれない」
「……うん、そうかもね」
一之瀬は否定しなかった。それどころか、強い共感の色を浮かべていた。Bクラスのまとめ役として、クラス間の空気の変化を肌で感じているのだろう。神崎のようなクラスメイトの反応は、今日が初めてではないはずだ。外部の人間に対して警戒を強めていく傾向は、じわじわとBクラス全体に広がっていく。
理央は少女の様子を見ながら、この先の展開を静かに想像した。
クラスポイントが積み重なり、試験が重なり、時には退学というリスクが現実味を帯びてくる。この学校はそういった競争の場を必ず突き付けてくる。
競争の中で、生徒は必ず内向きになっていくだろう。自分のクラスを守ることに必死になり、他クラスの人間を敵として見る目が育っていく。神崎の反応は、その最初の兆候に過ぎない。
「──だからこそ、縁を広げるなら今ではと」
「確かにそうだね。うん、その通りだ」
一之瀬は強く頷く。
それから、少し照れくさそうに笑った。
「実は私も、最近ちょっと意識しちゃってたんだよね。他クラスの子と目が合うと、なんか身構えちゃうっていうか……神崎くんほどじゃないけど」
自分の言葉に、自分で苦笑するような顔だった。
「そういうの、良くないなって思ってたのに。なのに結局、同じことしてた」
一之瀬は改めて理央を見つめた。
「だから、こうして来てくれたのは、素直に嬉しいな。正直、Aクラスの人がこんな風に話しかけてくれるとは思ってなかったし」
一之瀬の反応は、計算ではなく本心だろう。警戒を恥じ、来た相手を素直に迎える。この少女の中にある人間への信頼は、後天的に培ったものではなく、生まれつきのものに近い気がした。
これは、はっきり言って理央の中でも評価が難しい。
外界への警戒心の弱さは、そのまま生存能力の低さの現れだ。生存本能という面では、致命的な弱点を抱えている。ここが自然界であれば、一之瀬帆波が長く生存するビジョンはあまり想像できない。
しかし、ライオンが小動物を警戒しないように、種としての優位性が遺伝子に刻みこまれているのなら話は別だ。
それに、警戒心の希薄さは、集団の中での社会的機能としては優れているとも言える。
「……ボノボか……ライオンか……」
本当に、一番評価が難しいタイプだ。
「?」
「う~ん……どっちだ……?」
急に唸り出した理央に、一之瀬が怪訝な顔を向ける。
「あー、えっと、こんな廊下で長話もなんだしさ」
一之瀬は少し身を乗り出すようにして言った。
「今日の昼、一緒にご飯食べない? 食堂で」
「それはもちろん。大歓迎です」
「やった! じゃあ昼休みに食堂で待ち合わせしよう。楽しみにしてるね!」
一之瀬は笑顔のまま、廊下を歩いていく。
その背中が曲がり角に消えるまで、理央はそこに立っていた。
快活で、真っすぐで、人懐っこい。
彼女への評価は、まだ保留だ。