「記憶は戻りましたか?」
そう問いかけられて、いや、とどうにも返事がしづらいのを感じる。
「いえ、その……オレって本当に記憶喪失なんですかね?」
逆質問になってしまったが、医師は軽く微笑んで応じる。
「生活に支障がないレベルなら、引き続き経過観察をしていくのがいいでしょうね。ですが……どこかにきっかけがないとは言い切れません。何か、思い当たる事だとか、あるいは思い悩んでいる事はありませんか?」
「とは言っても……」
煮え切らない言葉を吐きながら、診察室にある等間隔で左右に触れる振り子に視線を投じる。そう動くように最初から設計された振り子に、澱みはない。それは同時に、他の単純動作は不可能である、という残酷さも兼ね備えている。
「――真宵アキヒロさん。お仕事のほうはどうです? 上手くいっていますか?」
話が進展しないと感じたのか、不意に名前を呼ばれてアキヒロは戸惑う。
「……さかもとでの仕事は充実していると……そう思います。オレも色々と慣れてきたつもりですし」
「二年前より以前の記憶がないのは辛いとは思いますが、それでもあなたの生活に翳りがないと言うのならば、それは充実していると言う事だと思いますよ」
そうなのだろうか、とアキヒロはガラにもなく考え込んでしまう。元々、難しい事を思い悩む性質ではないのだが、それにしてもこうも進展がないと業を煮やすのも当然だ。
「……あの、オレ、何か他にも出来ますかね? そりゃ、さかもとで預かってもらっているのはありがたいです。それに、最近じゃ創作料理も任せてもらったりして……何と言うのかな。充実って言うと変な言い回しにはなるんですけれど、悪くはないって言うか……」
「真宵さん、あなたにはきちんと選択肢がある。どうか、それを見誤らないでいただきたい……と言うのが主治医であるわたしの考えです。それに、サナちゃんも心配しているでしょうし」
「……ありがとうございます」
カウンセリングはお礼を言い合う場ではないのだが、ついついこうして最後にはお礼を言ってお開きになってしまうのが通例だ。
待合所に戻ると、手元の端末に視線を落としていた学生服の少女へと声を掛ける。
「サナちゃん。終わったよ」
「……叔父さんは何だって?」
「ゆっくり経過観察しましょう、ってさ。……元々、オレも迷惑かけているわけだし」
「けれど、アキヒロ君は記憶が戻らなくってもいいの?」
「……そりゃ、オレだって記憶は戻せるのなら戻したいけれどさ。それってその時々の……うーん、流れってのがあるんじゃないかな?」
こちらの返答にサナと呼ばれた少女は腰に手を当てて懇々と言い聞かせる。
「……呆れた。アキヒロ君はそうじゃなくっても、いつもぼーっとしてるんだからさ。自分の事くらい、自分が一番大変だと思わないとじゃないの」
「仰る通り……って言いたいのはやまやまだけれど、記憶ってそんなに大事かなぁ……?」
後頭部を掻いて言いやると、サナは沈痛なため息をつく。
「……もういい。叔父さんも暖簾に腕押し状態の患者さんの話を聞くのも大変なんだろうし、これは難儀するわ」
「……何だよ。それじゃオレが叔父さんを困らせているみたいじゃんか」
「実際、そうなんじゃないの? ……本当、アキヒロ君はいい加減なんだから」
ベンチに座り込み、再び端末を弄り始めたサナにアキヒロは隣に座って投射画面を覗き込む。すると、サナは目に見えて不愉快そうになっていた。
「……どうしたの」
「どうって……画面覗かれるの、普通に不快なんですけれど」
「どうせ、ZORAネットワークでしょ? いいの? 病院だとそういうのって」
「昔気質だなぁ……。今どき、端末いじっちゃ駄目なんて言う医療機関もないよ。それに、アキヒロ君の診察中ってヒマだし。ZORAでも覗いてないとやってけないし」
アキヒロはその返答にうぅーんと頭を悩ませる。どうにも、そういったこだわりのない自分はこの情報化社会において異物なのだろうか。
「……ZORAってそんなにいいもんかなぁ。今は? フルダイブには家の機械に繋がないと駄目なんでしょ?」
「SNS見るくらいなら、小さい端末でも充分。……何だか最近、妙な噂が流れているっぽいからその追跡かな」
「妙な噂って?」
「……うーん、本当に小さなコミュニティで発生しているから、定かじゃないんだけれど……。連続怪死事件、だってさ」
アキヒロはその言葉の物々しさに、少しだけうろたえる。
「……連続怪死事件? そんな物騒な事が?」
「でも、治安維持局は事故なんだって言い張ってるの。だから、これも一部の人が言っているだけなんだけれど、ZORAネットワークにアクセスしている間に、いつの間にか死んじゃったって」
「ふぅーん。じゃあやっぱりZORAって危ないんじゃない?」
こちらの意見にサナは頬をむくれさせる。
「……そういうところ、アキヒロ君ってやっぱり古いよね。一個危ないからって全部禁止には出来ないでしょ? それに、たまたまかもしれないじゃないの。ZORAに潜っている間に、寝食も忘れて餓死寸前になった人のレポートとかも見たし」
どうにもアキヒロにとってはZORAと言う便利らしい存在そのものへの懐疑がある。ZORAネットワークの普及率はここホウエン地方では百パーセントとは言え、あまり褒められたものではないのではないか、と。
「……お腹空くとかも忘れちゃうんだ。怖いなぁ……」
「そもそも、今日のZORAを生み出したダイキンセツホールディングスの声明によれば、ZORA内で全てが完結するんだもん。食事、睡眠、それに他の欲望も多数。ZORAに繋がれたまま、一生を終えるなんてそれこそ理想なんだと思う」
アキヒロはZORAに関しては素人同然であったが、それでも一大インフラである事は疑いようもない。ZORAありきで全ての事業は回っており、緊急性の高いシステムでさえZORA依存なのだ。
「……けれど、ZORA内って何でもありって言うかさ。何だっけ、プレイヤーキルだとか……」
「PK行為ね。でも、プレイヤーキルも一つの娯楽なんだし、ありなんじゃないかな。それに、どうせZORA内で殺されたって、現実の肉体まで死ぬ事はないんだし。あ、でもその点じゃ、結構あるんだっけ。ほら、アバターの首にギロチンを落とすと、その後しばらく現実の身体が動かせないとか言うアトラクションもあるから」
アキヒロは想像するだけで怖気が走る気分であった。現実世界で死ぬのも怖いのに、仮想世界で疑似体験するのは心底ぞっとしない。
「……嫌だなぁ、それ。アトラクションって言えば何でも通るって思ってない?」
「ZORA内できちんと審査はあるし、それ込みでしょ。……あっ、ポップアップした。やっぱり噂はあるんだよ。ほら、これ」
サナが見せてきた画面上には記事が組まれており、その中にあった文字列をアキヒロは諳んじる。
「“電脳戦士”……?」
「そっ。ZORAネットワークをより良いものにしようって言う……自警団って言えばいいのかな。円卓騎士団に所属する、強靭なトップランカー。それが“電脳戦士”。この人達、連続怪死事件に関わってるとかなんとか」
「噂でしょ? あまり踏み入り過ぎてもなぁ」
その時、受付に呼ばれたのでアキヒロは診察代を払ってから病院を後にする。大学病院なので、背の高い建物に隣接しているのだ。
「このキンセツシティも様変わりしたよね。昔はもっと田舎だったって叔父さんも言ってたよ」
アキヒロは三層構造になっているキンセツシティの昔の街並みが表示されたマップに目を留める。「キンセツシティ近代化のあゆみ」と書かれたそれによれば、十年ほど前はほとんど田舎町であったらしい。その潮目が変わったのは、ダイキンセツホールディングスによる都市開発であり、カロス地方はミアレシティに酷似した街づくりが行われたのだと言う。
とは言え、自分にとってのこれまでの人生はたったの二年間。
十年も前のキンセツシティの風景には素直に馴染みがない。
「アキヒロ君? ……見慣れたものでもあった?」
「……いや。やっぱりオレ、記憶喪失みたい。さっぱり覚えてないや」
マップの前で立ち止まっているせいでサナに要らぬ心配をかけてしまったらしい。実際、アキヒロにしてみればこのホウエン地方で知っているもののほうが少なく、どれもこれも異国情緒と言えば聞こえはいいが本心ではどこにも故郷の景色がない状態であった。
そもそも、自分はホウエン出身なのかも定かではない。
たまたま持っていたトレーナーカードがホウエン地方出身者である「真宵アキヒロ」名義であっただけで、それもともすれば間違いなのかもしれないのだ。
「……あまり気に病むなって言うのが、叔父さんの教えだけれど。叔母さんもアキヒロ君は、お店でよく頑張ってるって言ってるし」
「叔父さんと叔母さんにはお世話になっているから。オレも頑張らないとね!」
空元気でも、サナには心配を掛けたくない。その思いが伝わったのか、彼女は微笑む。
「……でもさ、いいの? さかもとで働かなくったって、もっといい場所はあるのに」
「オレなりの恩返し! ……それに、創作料理、最近だとお客さんも美味しいって言ってくれてるもん」
「……何でか料理の腕だけはあるもんね、アキヒロ君は」
半分ほど呆れられつつ、アキヒロが街の中心部に向かう道中、不意に目の前を歩いていた女性が走り込んできた男に突き飛ばされる。
「スリだ!」
誰かが叫んだのを聞き留めて、アキヒロは迫り来るスリに対し、咄嗟の反射神経で足を引っ掛けていた。
盛大に転んだ相手をアキヒロは抑え込み、その場で後ろ手に押し倒す。
「警察! 警察!」
アキヒロの声にサナが慌てて警察を呼ぶ。集まってきた野次馬をかき分けて警察が現れたその時には、スリはもう諦め切っていた。
「……びっくりした……。アキヒロ君、咄嗟にあんな事出来るんだ?」
「オレもびっくり。……何で身体動いたんだろ」
「あの……」
今しがた荷物を盗られた女性がこちらへと歩み寄る。
「ああ、大丈夫。警察が後の事はやってくれますんで」
「そうではなくって。……お礼をしたくって……」
「お礼なんてとんでもない! ……ちょっとたまたま身体が動いただけですから!」
「そう……ですか……」
何やら憔悴し切ったような面持ちに、思わずアキヒロは尋ねる。
「……心配ごとでも?」
「いえ、その……初対面の方にお話しする事でもないんですが、そこの病棟で夫が入院していまして。その面会に行く途中でしたので……本当に助かりました」
ぺこり、と頭を下げられてアキヒロもサナも狼狽する。
「……でも、よかったです。お役に立てて」
「あの……叔父がそこの病院なら、勤務していまして。もしかしたら役に立てるかも……」
サナの声に女性は何度も申し訳なさそうに応じる。
「そう、なんですか……。実は、ちょっと色々とあって……」
女性は長い黒髪を流しており、まだ二十代前後であろうが衆目を集めるほどの麗しさはある。十人に一人は、街を歩いていれば振り返る――と言うのも、別に言い過ぎではない。
不思議な魅力を宿しており、一言で言うのなら美人薄命とでも呼ぶべきであろうか。生命力と呼べるものが乏しいのに、それは彼女を引き立てるエッセンスになっている。
スリに狙われたのもある意味では必然的であったのだろう。
「あの……オレ達が役に立てるかは分からないですけれど、叔父さんなら何とかしてくれるかも」
「そうですよ。連絡先、よかったら交換しませんか?」
サナが率先して声を掛けた辺り、自分と同じようにこの女性に危うさを感じたのかもしれない。それに心療内科である叔父ならば心の支えになれる可能性はある。
「そう、ですか。では……お言葉に甘えて……」
端末同士を翳し、連絡先を交換すると女性は一礼して病院に向かっていた。その背中が見えなくなるまで見送っていると、不意にサナが声にする。
「……アキヒロ君。一目惚れ?」
「まさか。ちょっと心配になっただけだよ」
「……ま、そーだよね。トーヘンボクのアキヒロ君が一目惚れなんてロマンチックな事にはならないか」
「何だよ、それ。別にオレは……トーヘンボクでも何でもないつもりだけれど」
とはいえ、何か心に欠けたものを感じたのは事実。サナは表示された女性の名前を読み上げていた。
「名前……黄昏ミレイさん、か」