名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】 作:an-ryuka
その場所には、朝も夜もなかった。
空はなく、星もなく、窓の外に季節が流れることもない。ただ、果てしなく積み上がる本棚と、異なる世界から流れ着いた品々だけが、静かな呼吸をしているように並んでいた。
古い紙の匂い。
錆びた金属の匂い。
遠い世界の海水を吸った布、誰かの祈りが刻まれた石板、もう滅びた国の硬貨。
そこは、あらゆる世界の欠片が流れ着く場所だった。
そして、ある日。
その欠片の中に、赤ん坊が紛れていた。
「人間の幼体を確認」
淡々とした声でそう告げたのは、この場所を管理する一体のオートマタだった。人に似た形をしているが、人ではない。白磁のような肌、硝子玉のように淡い瞳、銀糸を束ねた髪。感情は持たないように造られていたが、彼女はその赤ん坊を捨てなかった。
赤ん坊は泣き、眠り、腹を空かせた。
オートマタは本を読み、道具を探し、必要なものを作った。
言葉。
歩き方。
数式。
薬草学。
鉱物学。
錬金術。
歴史。
世界の成り立ち。
恋の詩。
少女はすべてを本から学んだ。
誰かに呼ばれる必要がなかったから、名前はなかった。
「名前がないと不便ではありませんか」
オートマタが何度かそう尋ねたことがある。
少女は本の山に埋もれながら、鼻先だけを出して答えた。
「不便じゃないよ。個別名詞がつくと、あとあと面倒でしょ」
「人間とは、そういうものではありません」
「そういうもの、いらなーい」
少女は笑った。
笑い方も、泣き方も、怒り方も、本に載っていた。けれど、実感としては遠かった。
学びたいことが多すぎた。
ひとつの世界の歴史を読み終えれば、別の世界の戦争が気になった。薬の配合を覚えれば、その薬が生まれた文化まで知りたくなった。錬金術で不老に近い処置を施したのは、ただ単に時間が足りなかったからだ。
睡眠欲も邪魔だった。
食欲も手間だった。
寂しさは作業効率を落とした。
性欲というものは文献上よく見かけたが、自分に発生する必要は感じなかった。
だから調整した。
眠らなくても済む薬。
最低限の栄養を補う丸薬。
胸の奥がざわついたときに静める香。
何かに執着しそうになったとき、感情の輪郭を薄くする錬金具。
「それは推奨できません」
オートマタは毎回止めた。
「無駄じゃない?」
「人間とは、不都合を抱えて生きるものです」
「ふぅん。効率悪いね」
少女はそう言って、また薬を飲んだ。
けれど、そんな少女にも、ひとつだけ退屈に感じるものがあった。
錬金術だ。
錬金術は便利だった。あまりにも便利だった。材料と法則と手順さえ揃えば、大抵の問題は解けてしまう。
けれど少女は、自分が何かを生み出しているとは思っていなかった。
既にどこかの世界に存在した答えを拾い集めて、組み替えて、手元に並べているだけ。
だからこそ、少女は歴史を愛した。
誰かが何もないところから考え、失敗し、積み重ね、ようやく辿り着いたもの。それを、外から来た異端の知識で踏みにじることを嫌った。
答えだけを持ち込むのは、ずるい。
そう思っていた。
そんな少女が、最近になって恋愛小説に夢中になった。
最初は研究の一環だった。人間がなぜ他者に惹かれるのか。なぜ会いたがり、触れたがり、独占したがるのか。論文や医術書よりも、小説のほうが具体例に富んでいた。
何冊も読んだ。
読んで、読み終えて、記憶を少し消して、また読んだ。
同じ場面で胸が温かくなるか試した。
同じ台詞で頬が緩むか試した。
同じ別れで苦しくなるか試した。
「記憶操作は推奨できません」
オートマタは、やはり止めた。
「だって、知ってると楽しめないことが増えるんだもん」
「それも人間の経験です」
「人間って、面倒だね」
「はい」
少女は本を閉じた。
最後に読んだのは、外の世界へ旅立つ少女の物語だった。明るくて、無垢で、何にでも目を輝かせる冒険者。何でも知りたいと笑う少女。
その主人公の名は、フィリス。
少女はしばらく表紙を見つめていた。
「そんなに好きなら、一度見てきてはどうでしょうか」
オートマタの言葉に、少女は瞬きをした。
「外?」
「はい。人間の世界です」
「歴史に影響を与えたら?」
「影響を与えないようにすればよいでしょう」
少女は少し考えた。
それから笑った。
「じゃあ、行ってくる」
「準備は」
「できてる」
「性格の模倣は推奨できません」
「大丈夫。最後に読んだ子、かわいかったから」
少女は自分への認識を薄める錬金具を身につけた。世界にとって、そこにいても気づかれにくい存在になるための道具。必要以上に歴史へ混ざらないための処置。
そして、彼女は本のない世界へ踏み出した。
選んだ先に深い理由はなかった。
適度に人が多そうな場所。
知らないものが多そうな場所。
誰かと出会えそうな場所。
次の瞬間、少女は王都の広場に立っていた。
石畳が太陽を反射して白く光っている。露店からは焼いた肉と香辛料の匂いが漂い、果物売りの女が大きな声で客を呼んでいた。噴水のそばでは子どもたちがはしゃぎ、荷馬車の車輪がごとごと鳴る。
うるさい。
眩しい。
情報が多い。
少女は目を輝かせた。
「わぁ」
人が、こんなにいる。
歩き方も、声の張り方も、服の汚れ方も違う。本で読んだ「街」よりずっと雑然としていて、ずっと不規則だった。
少女はきょろきょろと辺りを見回し、ふと一人の青年に目を留めた。
噴水から少し離れた石段に腰掛け、分厚い資料を読んでいる青年だった。薄い青色の髪は癖があり、整った顔立ちをしているが、眉間には深い皺が寄っていた。
少女は近づいた。
「ねえ」
青年は反応しなかった。
「ねえねえ」
眉がぴくりと動く。
「何読んでるのー?」
青年はようやく顔を上げた。
「……誰だ、お前」
低めの声だった。警戒が混じっている。
少女はにこっと笑った。
「通りすがりの、ええと……通りすがりです」
「答えになってない」
「こんなところで読むほど面白いの?」
「必要だから読んでるだけだ。お前には関係ない」
青年は視線を資料へ戻そうとした。
少女は遠慮なく横から覗き込んだ。
開かれていたページには、水路と土壌についての記述があった。周辺の村で使われている古い設備、材料不足、劣化、修繕にかかる費用。いくつかの数字と地形図。
少女の瞳が、すっと細くなる。
ページを一度見ただけで、必要な情報は頭の中に並んだ。
この世界の技術基準。
使用可能な素材。
現地の職人が理解できる構造。
錬金術を使いすぎない範囲。
青年が顔をしかめた。
「おい、勝手に見るな」
「行き詰まってる?」
「……」
「ここ。材料の強度が足りないんじゃなくて、流れの逃がし方が悪いんだと思う。あと、完全に新しく作るより、補助具をつけたほうが早いよ」
青年の目つきが変わった。
「お前……読めるのか」
「読めるよ」
「この量を今見ただけで?」
「うん」
青年は資料と少女を見比べた。
胡散臭い。
だが、少女の言葉は的外れではなかった。
彼はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……村の水路でな。古い設備をどうにかしたいって話が出てる。だが費用も人手も限られてる。今の形を崩しすぎると、かえって維持できなくなる」
「こういう道具があればいいってこと?」
少女はしゃがみ込んだ。
白い指先で、石畳の砂を払う。そして地面にさらさらと図を描き始めた。
青年は思わず身を乗り出した。
図は単純だった。単純に見えるよう、整理されていた。水の流れを分散させ、負荷のかかる部分を別材で受ける。壊れたら交換できるように、構造は分かりやすく。特別な錬金術の知識がなくても、鍛冶屋と水路を作った職人なら再現できる程度に。
少女は最後に丸をひとつ描いた。
「この辺りが、この世界の基準なら妥当かな」
「それは……そうだが」
青年の声が少し掠れた。
「作ろうか?」
「作るって……お前、錬金術師か」
「おっ、錬金術師知ってるんだ」
「知ってるも何も……」
青年はそこで言葉を切った。頭に浮かんだ人物がいたのだろう。
少女はぱっと立ち上がった。
「じゃあ来て来て。それ作ってあげるから、色々教えてよ。私、こっち来たばっかりなんだ」
「は?」
「こっち」
「おい、待て!」
少女は青年の手を取った。
青年は反射的に振りほどこうとしたが、少女の手は見た目に反して強かった。細い指なのに、まるで金属の留め具のように外れない。
「おい、聞け!」
「聞いてるよー」
「なら止まれ!」
「止まる理由がないよ?」
「あるだろ!」
少女は広場の隅、人目の少ない路地へ彼を引っ張っていった。
そこで彼女は、地面に小さな金属片を置いた。薄い板のようなそれに指を添えると、石畳の上に淡い光が広がる。光は円になり、扉の輪郭を描いた。
青年は足を止めた。
「……何だ、これは」
「アトリエの入口」
「入口?」
「持ち運び式。便利でしょ」
扉が開いた。
地面に。
青年の常識が、音を立てて傾いた。
少女は何のためらいもなく、その中へ降りていく。手を掴まれている青年も、当然のように引きずり込まれた。
「待て、落ち――」
声が途切れた。
次に足が触れたのは、木の床だった。
そこは、外から見ればあり得ない広さの部屋だった。
壁一面に棚があり、瓶、鉱石、植物標本、紙束、見たことのない器具が整然と並んでいる。天井から吊るされたランプは青白い光を放ち、中央には大きな錬金釜が鎮座していた。薬草の青い匂いと、熱した金属の匂い、古書の乾いた香りが混ざっている。
青年は言葉を失った。
少女は彼を放って、さっさと釜の前へ向かった。
「ええと、ここの水質なら……この素材はいらないか。強すぎると逆に浮くし。現地で修理できるほうがいいよね」
棚から材料が飛ぶように集まってくる。
少女が指を振るたび、瓶の蓋が開き、粉が舞い、液体が細い糸のように釜へ落ちた。
青年は周囲を見回した。
ライザのアトリエとは違う。
何もかもが違う。
整理されすぎている。生活の気配が薄い。人が使う場所というより、知識が人の形を借りて作業している場所のようだった。
「お前……何者だ」
「んー?」
少女は振り返らない。
「名前は?」
「ないよー」
「ない?」
「必要なかったから」
青年の眉間に、また皺が寄った。
「不便だろ」
「不便じゃないよ。ねえ、とか、おい、とかで反応するし。変なやつ、でもいいよ」
「誰が呼ぶか」
「じゃあ、好きに呼んで」
少女は軽く笑い、釜をかき混ぜた。
ぽん、と小さな音が鳴る。
光が弾けた。
「できた」
「早すぎるだろ」
「簡単だったよ」
少女は完成した道具を布で包み、青年へ差し出した。金属と石材を組み合わせた補助具だった。派手さはない。むしろ地味で、理解しやすい形に整えられている。
「はい、どうぞ。たぶん、しばらくは壊れないよ」
「たぶんって」
「壊れても、見れば作れるようにしてあるから。全部、既存の組み合わせだよ」
青年は布包みを受け取った。
ずしりと重い。
それは現実の重さだった。
「……対価は」
「次は君の番」
「は?」
「色々教えて」
少女はまた青年の手を掴んだ。
「おい、またか!」
「戻るよー」
入口を抜けると、二人は元の路地に戻っていた。
広場の喧騒が遠くから聞こえる。焼き菓子の甘い匂いが風に乗って流れてきた。
青年はしばらく黙っていた。
あまりにも強引で、あまりにも非常識で、あまりにも無邪気だった。
少女は期待に満ちた顔で彼を見上げている。
「それで、どこから案内してくれるの?」
「……王都の案内くらいなら」
「王都?」
「違うのか」
「うーん。最初はそれでいいよ」
少女は嬉しそうに笑った。
「君、名前は?」
「ボオス」
「ボオス」
少女は確かめるようにその名を呼んだ。
「いいね。呼びやすい」
「お前に褒められてもな」
ボオスはため息をついた。
この女は危ない。
そう感じた。
悪意があるわけではない。むしろ、今のところ善意で動いている。だが、常人とは何かが違う。世界との距離感がずれている。自分が何をしているのか、その重さを理解しているようで、肝心なところで抜け落ちている。
放っておくと、とんでもないことをする。
ボオスはそう思った。
少女は屋台の果物を珍しそうに眺め、通りを歩く人々の服装に目を輝かせ、石造りの建物の壁に刻まれた古い紋様の前で足を止めた。何でも知りたがる子どものようなのに、ふとした瞬間、百年も千年も先を見ているような目をする。
案内は一日では終わらなかった。
夕方、王都の鐘が鳴り、空が茜色に染まる頃、少女はようやく満足したように伸びをした。
「今日はここまでかな」
「やっとか」
「また暇になったら案内して」
「まだ続けるのか?」
少女は懐から薄い金属板を取り出した。
栞のような形をしていた。中央に小さな石がはめ込まれ、夕日を受けて淡く光っている。
「これ、あげる」
「何だ」
「握って呼べば、私が来るよ」
ボオスは受け取らなかった。
「……そんなもの、簡単に渡すな」
「簡単じゃないよ。ちゃんと作ったもん」
「そういう意味じゃない」
「私の道具をそんな安く見てもらっては困りますね」
少女は少し得意げに胸を張った。
「あと、他の人にあげたり貸したりするのはダメだから」
「金なら……」
言いかけて、ボオスは口を閉じた。
払える額ではない気がした。
少女は首を傾げた。
「お金はいらないよ。案内してくれたらいい」
「本当に時間がある時でいいんだな」
「うん」
「呼ばないかもしれないぞ」
「しばらくは?」
少女が笑う。
その言い方が妙に引っかかった。
ボオスは結局、栞を受け取った。
金属はひんやりしていたが、掌に乗せるとすぐに温度を持った。まるで、生き物のように。
「じゃあね、ボオス」
少女は手を振った。
「おい」
「ん?」
「お前、本当に名前はないのか」
「ないよ」
少女は夕暮れの中で、当たり前のように言った。
「でも、呼ばれたら行くね」
次の瞬間、少女の姿が薄れた。
空気に溶けるように、輪郭がほどける。
ボオスは思わず一歩踏み出した。
だが、そこにはもう誰もいなかった。
残ったのは、掌の中の栞だけ。
王都の広場では、今日も人々が笑い、怒り、値切り、急ぎ、誰かを待っていた。
ボオスは栞を握りしめたまま、眉間に皺を寄せる。
「……何なんだ、あいつ」
答える者はいない。
けれど栞は、ほんの少しだけ温かかった。