名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】   作:an-ryuka

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2.

 ボオスは、しばらくその栞を使わなかった。

 

 使えなかった、と言ったほうが近い。

 

 王都の学生寮に戻ってからも、講義室で資料を開いている時も、護衛の仕事で街道沿いを歩いている時も、薄い金属板の存在はやけに重かった。

 

 懐に入れているだけなら、ただの栞に見える。

 

 だが、あれを握って呼べば、あの女が来る。

 

 そう思うたび、ボオスの眉間には皺が寄った。

 

 何者なのか分からない。

 

 名前もないと言う。

 錬金術師だと言う。

 地面に入口を作る奇妙なアトリエを持っていて、村の水路に必要な道具を、息をするような速さで作った。

 

 しかも、それを対価らしい対価もなしに渡してきた。

 

「……怪しすぎるだろ」

 

 寮の机に肘をつき、ボオスは低く呟いた。

 

 机の上には、例の水路補助具に関する報告書が広げられている。彼女が作った道具は、すでに村へ送った。現地の職人から返ってきた言葉は、驚きと困惑に満ちていた。

 

 役に立つ。

 構造も分かる。

 誰が作ったのかと。

 

 ボオスは報告書を閉じた。

 

 窓の外では、王都の夜が深まりつつある。石畳に残った昼の熱が冷め、通りを行く人々の声も少なくなっていた。どこかの酒場から、焼いた魚と安い酒の匂いが流れてくる。

 

 懐から栞を取り出す。

 

 薄い金属板。中央に小さな石。指先で触れると、ひやりと冷たい。

 

 握って呼べば、来る。

 

「……呼ばないって言ったわけじゃない」

 

 誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。

 

 ボオスは栞を握った。

 

 最初は何も起こらなかった。

 

 やはり気のせいか、と息を吐きかけた瞬間、掌の中の石が、ぽっと灯るように温かくなった。

 

 その温度が、血管を伝うように指から手首へ広がる。

 

 直後、部屋の隅の影が揺れた。

 

「呼ばれて飛び出て、じゃじゃーん!」

 

 明るい声が響いた。

 

 ボオスは椅子を蹴りそうになった。

 

「出方を考えろ!」

 

 彼女は本棚の横に立っていた。

 

 前と同じ、旅装とも学生服ともつかない服。淡い布を重ねた動きやすい格好で、肩から小さな鞄を下げている。髪は光の加減で白銀にも薄紫にも見え、柔らかく波打って肩の下まで落ちていた。顔立ちは整っているのに、表情がころころ変わるせいで年齢の印象が定まらない。

 

 彼女は楽しそうに両手を広げていた。

 

「今の、景気づけ」

 

「何のだ」

 

「小説の子の口癖っぽくしてみた」

 

「真似るな」

 

「えー。かわいいと思ったのに」

 

 彼女は頬を膨らませたが、すぐに部屋の中を見回した。

 

「ここ、ボオスの部屋?」

 

「ああ」

 

「へぇ。思ったより物が少ないね」

 

「勝手に見るな」

 

「見てないよ。目に入ってるだけ」

 

「同じだ」

 

 ボオスは深く息を吐いた。

 

 来た。

 

 本当に来た。

 

 呼べば来ると言った言葉は、嘘ではなかった。

 

 その事実に、妙な安堵が混じるのが腹立たしかった。

 

「それで?」

 

 彼女は首を傾げる。

 

「案内?」

 

「違う」

 

「違うの?」

 

 目に見えてしょんぼりした。

 

「お前に聞きたいことがあっただけだ」

 

「そっか。聞きたいこと」

 

 彼女は嬉しそうに椅子へ近づき、断りもなく向かい側の寝台に腰を下ろした。足をぶらぶらさせる仕草だけ見れば、ただの気ままな少女に見える。

 

 だが、その存在感は薄い。

 

 目の前にいるのに、気を抜くと視界から滑り落ちそうになる。そこにいると分かっているから認識できるだけで、知らなければ見過ごす。

 

 ボオスは目を細めた。

 

「……お前、何かしてるな」

 

「ん?」

 

「見えにくい。気配が薄い」

 

「ああ、それ? 歴史に混ざりすぎないための道具だよ」

 

「歴史?」

 

「うん。私が変なふうに関わると、この世界の流れが変わっちゃうかもしれないでしょ。だから、なるべく認識されないようにしてるの」

 

「俺には見えてるが」

 

「ボオスには見えてないと、案内してもらえないから」

 

 当然のように言われて、ボオスは返す言葉を失った。

 

 こいつは、自分がどれほど異常なことを言っているのか分かっているのだろうか。

 

「……まず、村の道具のことだ」

 

「あれ、ちゃんと動いた?」

 

「ああ。動いた」

 

「よかった」

 

 彼女はぱっと笑った。

 

 それは本当に嬉しそうな顔だった。自分の技術を誇る笑みではない。作ったものが誰かの役に立ったことを、純粋に喜んでいる。

 

 ボオスは少しだけ言葉に詰まった。

 

「礼を言う」

 

「どういたしまして」

 

「どれくらいで壊れる?」

 

 彼女は一瞬きょとんとした後、机の上の報告書へ目を向けた。

 

「現地の扱い方にもよるけど、しばらくは持つよ。でも、壊れない道具にはしてない」

 

「なぜだ」

 

「壊れないものを急に渡したら、この世界の道具じゃなくなるから」

 

 彼女は立ち上がり、机の横に来た。

 

 報告書を覗き込む。ページをめくる指は細い。けれど、その動きには迷いがなかった。

 

「鍛冶屋さんいる?」

 

「いる」

 

「水路を作った人は?」

 

「村にいるはずだ」

 

「じゃあ、その人たちに見せて。見たら多分、何をしてるのかは分かるよ。既存の組み合わせでできてるから。壊れても、自分たちで作れるようにしてある」

 

「……そこまで考えていたのか」

 

「うん。あー、でもここは錬金術師の人がいるなら、その人のほうがいいかも。素材の馴染ませ方だけ、少し癖があるから」

 

「錬金術師なら知り合いにいる」

 

「へぇ」

 

 彼女はそこでふと顔を上げた。

 

 そして、思い出したように笑った。

 

「全部、自分でしなくていいよ」

 

 彼女の指が伸びてきた。

 

 とん、とボオスの額を軽くつつく。

 

「私と違うんだから」

 

 その声は、妙に静かだった。

 

 ボオスは動けなかった。

 

 彼女の言葉の意味が、すぐには分からない。だが、冗談ではなかった。無邪気な調子の裏に、一瞬だけ底の見えない冷たさが覗いた気がした。

 

 彼女はすぐにいつもの顔に戻る。

 

「それで、今日は何を教えてくれるの?」

 

「だから案内じゃないと……」

 

「聞きたいこと終わったでしょ?」

 

「お前な」

 

「ねえ、王都の夜ってどんな感じ? 本では読んだけど、実際に歩いたことない」

 

 目が輝いている。

 

 初めて人と話すのが楽しくて仕方ない、という顔だった。

 

 ボオスは断ろうとした。

 

 断るべきだった。

 

 けれど、その顔を見ていると、喉元まで出た言葉が引っ込んだ。

 

「……少しだけだ」

 

「やった」

 

「勝手に走るな。変なものに触るな。人の話を聞け」

 

「はーい」

 

「本当に分かってるのか」

 

「分かってる分かってる」

 

 絶対に分かっていない声だった。

 

 王都の夜は、昼とは別の顔を持っていた。

 

 大通りの店は半分ほど閉まっていたが、酒場や食堂には灯りが入り、人の声が外まで漏れていた。焼いた肉の脂、香草入りのスープ、湿った石畳、馬の汗。昼よりも濃い匂いが空気に溜まっている。

 

 彼女はそのひとつひとつに反応した。

 

「この匂い、何?」

 

「肉だ」

 

「肉。焼くとこんなに匂いが強くなるんだ」

 

「食べたことないのか」

 

「必要な栄養は薬で足りるから」

 

 ボオスは足を止めた。

 

「……食事をしないのか」

 

「しないわけじゃないよ。研究で必要な時はする」

 

「研究で?」

 

「味覚の確認とか」

 

「食事は研究のためにするものじゃない」

 

「そうなの?」

 

 彼女は心底不思議そうに言った。

 

 ボオスは頭が痛くなった。

 

 こいつは、やはり放っておけない。

 

 そう思ったのは、これが最初だった。

 

 数日後。

 

 ボオスはまた栞を握った。

 

 今度は街道沿いだった。護衛の仕事を終えた帰りで、夕暮れ前の空には薄い雲が伸びている。草の匂いと土埃が混ざり、遠くで荷馬車の車輪が軋んでいた。

 

 呼ぶつもりは半分だった。

 

 もう半分は、栞が本当にどこでも繋がるのかを確かめるため。

 

 温度はすぐに来た。

 

 次いで、足元の影から彼女がひょいと顔を出す。

 

「呼んだ?」

 

「地面から出るな」

 

「便利だよ?」

 

「心臓に悪い」

 

「心臓に悪いって、どんな感じ?」

 

「今それを聞くな」

 

 彼女は楽しそうに笑った。

 

 それからボオスの格好を見て、目を瞬かせる。

 

「仕事帰り?」

 

「ああ」

 

「護衛?」

 

「そうだ」

 

「へぇ。ボオス、守る側なんだ」

 

「何だその言い方は」

 

「似合うなと思って」

 

 まっすぐ言われて、ボオスは視線を逸らした。

 

 彼女は悪びれない。

 

 むしろ、言葉にしたことで何かを理解しようとしているようだった。

 

「ねえ、今日はどこ?」

 

「王都へ戻るだけだ」

 

「じゃあ、一緒に歩いていい?」

 

「勝手にすればいい」

 

「わーい」

 

 彼女は当然のように隣へ並んだ。

 

 距離が近い。

 

 肩が触れそうな位置で歩く。

 

「離れろ」

 

「なんで?」

 

「近い」

 

「近いとだめ?」

 

「普通はもう少し距離を取る」

 

「ふつう」

 

 彼女はその言葉を口の中で転がすように呟いた。

 

 それから半歩だけ離れる。

 

「これくらい?」

 

「……まあ」

 

「ボオスは普通に詳しいね」

 

「お前が知らなすぎるだけだ」

 

「そうかも」

 

 しばらく並んで歩いた。

 

 彼女は道端の草にも、古い標識にも、壊れた石垣にもいちいち足を止めた。だが、王都で見せた子どもじみた反応とは違い、古いものを見る時の目つきだけは妙に深かった。

 

 石垣に刻まれた小さな補修跡を、彼女は指でなぞった。

 

「ここ、何度も直してる」

 

「古い道だからな」

 

「いいね」

 

「壊れかけてるぞ」

 

「直しながら使ってるんでしょ。そういうの、好き」

 

「変わってるな」

 

「うん。よく言われる」

 

「誰に」

 

「管理人」

 

 ボオスは横目で見た。

 

「管理人?」

 

「私がいた場所を管理してる人。人じゃないけど」

 

「……ますます分からん」

 

「そのうち話すよ。たぶん」

 

「たぶんなのか」

 

「話していいことと、よくないことがあるから」

 

 その線引きは、彼女の中では確かに存在しているらしい。

 

 無秩序に見えて、どこかで強く自分を縛っている。

 

 ボオスはそう感じた。

 

 王都が近づく頃、彼女はふいに言った。

 

「ボオス」

 

「何だ」

 

「栞、他の人にも見せた?」

 

「見せてない」

 

「ほんと?」

 

「ああ」

 

「よかった」

 

 彼女は胸に手を当てて笑った。

 

「お前、他の奴にも渡してるのか」

 

 ボオスが聞くと、彼女はきょとんとした。

 

「ううん。ボオスだけだよ」

 

「……」

 

「だって、初めてがボオスだもん」

 

 ボオスは足を止めた。

 

「そういう言い方をするな」

 

「どういう言い方?」

 

「知らないならなおさらだ」

 

 彼女は一拍置いて、目を細めた。

 

 無垢な顔が、少しだけ崩れる。

 

 唇の端が、にやりと上がった。

 

「初めて……優しくしてね?」

 

「お前、知ってるだろ」

 

「あれ。ばれた?」

 

「今のでばれないと思ったのか」

 

「小説で読んだ」

 

「読むものを選べ」

 

「恋愛小説、楽しいよ」

 

 彼女はくすくす笑った。

 

 その笑い方は、王都で何もかもを珍しがっていた時とは違った。知識だけはある。だが、その知識が実感と繋がっていない。だから危うい。

 

 ボオスは栞を懐から取り出した。

 

「返す」

 

 彼女の笑顔が止まった。

 

「え」

 

「お前は俺を信用しすぎだ」

 

「信用しちゃダメなの?」

 

「ダメだ。少なくとも、会って数日の男にこんなものを渡すな」

 

「私、ボオスより強いし」

 

「そういう話じゃない!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 

 彼女は目を丸くした。

 

 街道脇の草が風に揺れる。遠くの鳥の声が、やけにはっきり聞こえた。

 

 彼女はしばらく黙ってから、唇を尖らせた。

 

「わかんないもん」

 

「何が」

 

「私は、ボオスに持っててほしいし、呼んでほしいんだけど」

 

 その声は、拗ねていた。

 

 けれど、ほんの少しだけ傷ついてもいた。

 

「嫌なの?」

 

 彼女は手を差し出した。

 

「嫌ならやめる。返して」

 

 ボオスは栞を握ったまま、動かなかった。

 

 返せば終わる。

 

 そう思った。

 

 たぶん、終わらせることはできる。

 

 この奇妙な錬金術師との関わりを断てば、面倒ごとは減る。自分は大学に戻り、島のことを考え、父の跡を継ぐために必要なことを積み上げればいい。

 

 だが、目の前の彼女は、栞を返せば本当に消えそうだった。

 

 世界のどこにも属さないまま、誰にも気づかれないまま、また一人で歩いていきそうだった。

 

 それがなぜか、ひどく危なっかしく見えた。

 

「……預かる」

 

 ボオスは低く言った。

 

 彼女が瞬きをする。

 

「預かる?」

 

「返すわけじゃない。だが、俺が持っておく。お前が簡単に誰かへ渡さないように」

 

「それ、結局持っててくれるってこと?」

 

「都合よく解釈するな」

 

「でも持っててくれる」

 

「……ああ」

 

 彼女はぱっと笑った。

 

「じゃあ、それでいい」

 

「いいのか」

 

「うん。預けるね、ボオス」

 

 その言葉に、ボオスはまた妙な違和感を覚えた。

 

 預かると言ったのは自分なのに、まるで彼女のほうが大事なものを託したように聞こえたからだ。

 

 彼女は軽い足取りで前へ進む。

 

「あ、そうだ。次は王都の市場の奥のほう行きたい。昼に見た時、古い道具屋さんあったでしょ。あそこ絶対面白い」

 

「俺は案内役ではない」

 

「案内してくれるんでしょ?」

 

「時間がある時だけだ」

 

「うん。暇な時でいいよ」

 

 彼女は振り返った。

 

 夕日の中で、輪郭が少し薄くなる。

 

 そこにいるのに、世界から半歩ずれている。

 

「呼んでね」

 

 ボオスは栞を懐にしまった。

 

「気が向いたらな」

 

「それ、たぶん呼んでくれるやつだ」

 

「勝手に決めるな」

 

「ボオス、面倒見いいもん」

 

「うるさい」

 

 彼女は笑いながら歩き出した。

 

 ボオスはその後ろ姿を見て、ため息をつく。

 

 厄介なものを預かった。

 

 そう思った。

 

 それでも、懐の中の栞の温度が消えないことを、なぜか確かめるように指で押さえていた。

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