名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】 作:an-ryuka
それから、ボオスは時々、栞を握るようになった。
最初は本当に、時間が空いた時だけだった。
護衛仕事の帰り。
講義が早く終わった午後。
王都で用事を済ませ、次の予定まで中途半端に間が空いた時。
栞を握ると、いつも少しだけ温かくなる。
そして彼女は来た。
路地裏の影から。
橋の下から。
閉じた扉の向こうから。
時には何の前触れもなく、ボオスの背後から。
「呼ばれて飛び出て、じゃじゃーん!」
「毎回それをやるな」
「だめ?」
「だめだ」
「じゃあ、今日は控えめにしたのに」
「どこがだ」
そんなやり取りにも、ボオスは少しずつ慣れていった。
慣れたくはなかった。
だが、人間は不本意な環境にも順応する。ボオスはそれを、彼女といる時間で身をもって知ることになった。
彼女は王都を歩きたがった。
ただ、数回案内しているうちに、ボオスは気づいた。
彼女が見たいのは王都ではない。
王都という場所を通して、この世界そのものを見ようとしている。
道端の古い石碑の前で立ち止まり、その摩耗具合から使われていた年代を推測する。露店の安物の飾りを手に取り、細工の癖から流通している鉱山を当てる。子どもたちの遊び歌を聞いて、どの土地の言葉が混ざっているのか楽しそうに考える。
無邪気に見えて、見ているものが深すぎた。
「お前、本当にこっちに来たばかりなのか」
「うん」
「そのわりに知りすぎだ」
「知識はあるよ。実感がないだけ」
彼女は笑った。
「だから、見に来たの」
その日は、大学の近くの広場だった。
空は薄曇りで、石造りの校舎の壁に柔らかい光が当たっている。学生たちが行き交い、抱えた本の紙の匂いと、近くの屋台で煮込まれる豆のスープの匂いが混ざっていた。
ボオスは講義の資料を抱えて歩いていた。
隣には彼女がいる。
ただし、ほとんどの人間はそれに気づかない。彼女が身につけている錬金具のせいで、周囲の認識が薄くなっているのだという。
おかげで、ボオスだけがひとりで何かに話しかけているように見える。
そのはずなのに、不思議と周囲は違和感を覚えないらしい。目が滑る。記憶に残らない。ひとり言を言っているようで、そうではない気がする。そんな曖昧な処理を、世界そのものにさせている。
「……お前、やっぱりとんでもないことをしてるな」
「大丈夫。ボオスが浮かない程度にはなってるから」
「その気遣いはいらない」
「いるよ。ひとりでしゃべってる変な人に見えたら困るでしょ?」
「そもそも、お前が普通に隣を歩けばいいだけだ」
「だめだよ。私、歴史にいないから」
軽い調子で言われた言葉が、やけに耳に残った。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「ボオス?」
振り返ると、タオが立っていた。
丸眼鏡の奥の目をぱちぱち瞬かせている。栗色の髪はいつも通り少し跳ねていて、腕には古代文字に関する分厚い本を抱えていた。背は高すぎず、体つきも細身だが、長旅で鍛えられた足腰には見た目より芯がある。
「やっぱりボオスだ。講義、もう終わったの?」
「ああ」
ボオスは短く答えた。
彼女はボオスの隣で、興味津々という顔をしてタオを見ていた。
タオはまだ気づいていない。
「そういえば、この前言ってた村の水路の道具、うまくいったんだって?」
「ああ」
「あれ、結局どうしたの? かなり変わった構造だったって聞いたけど」
「……錬金術師に会った」
タオの表情が変わった。
「えっ、ライザ以外の? アンペルさん?」
「いや、違う」
「違う錬金術師? そんな人、王都にいたの?」
「知らないのか」
「うん。いてもおかしくはないんだろうけど、僕たちは会ったことがないな。相当珍しいと思うよ。どんな人?」
ボオスはちらりと隣を見た。
彼女は、口元に指を当ててにやにやしている。
「……村の道具の話をしただろ。あれを作る対価として、王都の案内をしてほしいと頼まれてな。たまに時間がある時に案内している」
「ああ、あれ。そういう経緯だったんだ」
「そういう経緯というか……巻き込まれた」
「ボオスが?」
タオは少し笑った。
「珍しいね。ボオスが誰かに振り回されるなんて」
「笑うな」
「ごめんごめん。でも、その錬金術師、今も会ってるんだ?」
その瞬間、隣の彼女がぱっと手を上げた。
「呼ばれて飛び出て、じゃじゃーん!」
「呼んでない」
ボオスが反射的に突っ込む。
タオがびくりと肩を揺らした。
彼の視線が、ようやく彼女に合う。
「えっ」
「こんにちはー」
彼女はにこにこしながら手を振った。
タオは目を丸くしたまま、彼女とボオスを交互に見た。
「今……いた?」
「いたよ」
「え、でも、気配が……」
「薄くしてるから」
「薄く?」
タオの顔が、研究対象を前にした時のそれに変わっていく。
興味。困惑。警戒。好奇心。
「やっぱり錬金術師ってすごいね」
「ああ。理解しようとするだけ時間の無駄だ」
「ひどいなぁ、ボオス」
彼女は頬を膨らませる。
だがすぐにタオの抱えている本へ目を向けた。
「それ、古代文字?」
「え? あ、うん。大学で研究してるんだ」
「いいね」
彼女の声が、少しだけ変わった。
いつもの浮かれた響きが薄れ、もっと静かな熱が宿る。
「古い言葉はいいよね。もういない人たちが、まだそこにいるみたいで」
タオは驚いたように彼女を見た。
「……分かるの?」
「うん。歴史があるもの、だいたい好き」
彼女は本に触れようとして、途中で手を止めた。
「触っていい?」
「あ、うん。いいよ」
タオが本を差し出す。
彼女は指先だけでページの端を撫でた。紙を乱暴に扱わない。古いものへの触れ方を知っている手だった。
「この写し、ちょっと新しいね。でも元の碑文はもっと古い。ここ、欠けてるところを後の人が補ってる」
「えっ、見ただけで?」
「うん」
タオの目が輝いた。
「すごい……! ねえ、君、名前は?」
「ないよー」
「ない?」
「必要なかったから」
タオは言葉に詰まった。
ボオスは眉を寄せる。
彼女は気にせず笑っていた。
「ねえ、とか、おい、とか、変なやつ、とかで反応するよ」
「変なやつは呼び名じゃないだろ」
「ボオスが呼ばないって言ったやつ」
「当たり前だ」
タオは困ったように笑った。
「でも、記録する時に困らない? 名前がないものは、後から扱いづらいよ。古代の資料でも、固有名が失われているだけで、同じものか別のものか判断できないことが多いし」
彼女は少し目を細めた。
「うん。だから、名前は紐みたいなものなんだと思う」
「紐?」
「たくさんのものを結びつける。記録、記憶、感情、関係。便利だけど、引っ張られるし、縛られる」
ボオスは彼女を見た。
こういう時の彼女は、やはり年齢が分からない。
子どものように笑った直後に、人の一生を何度も読み終えたような声で話す。
タオは真剣に頷いた。
「分かる気がする。名前があるから残るものもあるし、名前があるから歪むものもある」
「タオ、面白いね」
「えっ、僕?」
「うん。もっと話したい」
その時だった。
「タオさん?」
明るく澄んだ声が、少し離れた場所から飛んできた。
タオの肩が分かりやすく跳ねる。
ボオスは視線だけを向けた。
パティだった。
上品な服装に、よく手入れされた髪。仕草には育ちの良さがにじむが、タオを見つけた時だけ、足取りがわずかに急ぐ。頬にもほんのり赤みが差していた。
タオは本を抱え直し、眼鏡を押し上げる。
「あ、パティ」
「探しました。次の資料、教授が確認したいそうで……」
言いながら、パティの視線がボオスへ移り、次に彼女がいるはずの場所へ流れた。
だが、そこに焦点は合わなかった。
彼女が、ボオスの袖をつまんでいた。
「ボオス」
「何だ」
「恋愛の匂いがする」
「は?」
「小説で読んだやつ」
「余計なことをするなよ」
「見るだけ」
次の瞬間、ボオスの周囲の空気がふっと曖昧になった。
彼女が自分だけでなく、ボオスの認識まで薄くしたのだと分かる。
「お前、いつもこんなことしてるのか」
「うん。楽しい」
「悪趣味だ」
「観察だよ」
「なお悪い」
彼女は少し身を乗り出し、タオとパティを眺めていた。
タオはパティに資料を渡しながら、やや緊張した声で説明している。パティは頷きつつも、時折タオの横顔を見ている。その視線に気づいたタオが、さらにぎこちなくなる。
彼女は目を輝かせた。
「照れてる」
「見るな」
「手、触れそう」
「実況するな」
「小説だと、このあと――」
「言うな」
ボオスは彼女の襟首を掴むようにして引いた。
「ほら、行くぞ」
「案内?」
「案内だ」
「いくいく!」
認識の薄さが解ける。
タオがこちらに気づいて顔を上げた。
「あれ、ボオス? 今どこに……」
「南東へ行く」
「えっ、僕も行くよ」
パティが少しだけ寂しそうな顔をしたので、タオは慌てて言葉を足した。
「あ、資料を届けてからだけど」
彼女はにやにやしている。
ボオスはその頭を軽く小突いた。
「痛い」
「余計な顔をするな」
「余計じゃないよ。微笑ましい顔」
「それを余計と言う」
その日の案内は、結局三人になった。
タオは彼女に古代文字の話をした。彼女は古い碑文や失われた国の話に目を輝かせたが、時折、知っていることを言いかけて口を閉じた。
ボオスはそれに気づいた。
「言わないのか」
「うん」
「なぜ」
「タオが調べてる途中だから」
彼女は石畳の隙間に咲いた小さな花を見ながら言った。
「答えだけ渡したら、つまらないでしょ」
タオは少し驚いたように彼女を見た。
「君は錬金術師なのに、答えを知ってても言わないんだね」
「錬金術は便利だからね。便利すぎるものは、使い方を間違えると積み重ねを壊しちゃう」
「積み重ね……」
「うん。誰かが悩んで、試して、失敗して、やっと見つけたものは、その道筋ごと大事だと思う」
彼女は笑った。
「だから、私は見るのが好き」
ボオスは黙ってその横顔を見た。
彼女がいつも無茶苦茶なわけではない。
むしろ、とても慎重な部分がある。
だが、その慎重さの向け先が普通ではない。人に対しては危うく無防備なのに、歴史や世界の流れに対しては、異様なほど気を遣う。
そのちぐはぐさが、放っておけない理由になっていく。
夕方になり、タオと別れた後、ボオスは彼女と二人で大学近くの坂道を歩いた。
空は橙色に染まり、風には焼き栗の甘い匂いが混ざっていた。
「今日は楽しかった」
「そうか」
「タオ、いいね。古いものを大事にしてる」
「あいつは昔からそうだ」
「ボオスの友達?」
「……まあ」
「ふふ」
「何だ」
「ボオス、友達いるんだなって」
「失礼だな、お前」
彼女はくすくす笑った。
その笑い声が、坂道にやわらかく転がる。
「でも、他の人がいる時は呼んでも出ないかも」
「なぜ」
「案内じゃないじゃん」
「……そういう基準なのか」
「あと、人が多いのは苦手」
「今日、タオとは話していただろ」
「ボオスがいたから」
さらりと言われた。
ボオスは返事をしなかった。
彼女は続ける。
「それに、あんまり人と関わりすぎると、世界が歪むかもしれないし」
「大げさだ」
「大げさじゃないよ」
声が少しだけ低くなった。
「私は、外から来たものだから」
風が吹いた。
彼女の髪がふわりと揺れる。
その輪郭が、夕焼けに溶けそうに薄くなった。
ボオスは思わず手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「……消えるのか」
「え?」
「いや。何でもない」
彼女は不思議そうに見上げてきたが、すぐ笑った。
「ボオス、変なの」
「お前に言われたくない」
「ひどい」
彼女は軽く肩をすくめると、懐から自分の栞を取り出した。
ボオスが持っているものとよく似た、対になる金属板。
一瞬だけ、石が淡く光った。
「ねえ、ボオス」
「何だ」
「また呼んでね」
「暇ならな」
「うん。暇な時でいい」
彼女はそう言って、ふっと姿を薄めた。
消える直前、何かを考えるようにタオたちが去っていった方角を見る。
ほんの一瞬だけ、指先が宙を撫でた。
まるで、誰かの記憶に触れようとして、やめたように。
「……怒られそうだから、やめとこ」
小さな呟きだけを残して、彼女はいなくなった。
ボオスはその場に立ち尽くす。
懐の栞に触れる。
温度はもう消えかけていた。
「本当に、何をするか分からない奴だな」
呆れた声だった。
けれどその手は、栞を離さなかった。