名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】   作:an-ryuka

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3.

 それから、ボオスは時々、栞を握るようになった。

 

 最初は本当に、時間が空いた時だけだった。

 

 護衛仕事の帰り。

 講義が早く終わった午後。

 王都で用事を済ませ、次の予定まで中途半端に間が空いた時。

 

 栞を握ると、いつも少しだけ温かくなる。

 

 そして彼女は来た。

 

 路地裏の影から。

 橋の下から。

 閉じた扉の向こうから。

 時には何の前触れもなく、ボオスの背後から。

 

「呼ばれて飛び出て、じゃじゃーん!」

 

「毎回それをやるな」

 

「だめ?」

 

「だめだ」

 

「じゃあ、今日は控えめにしたのに」

 

「どこがだ」

 

 そんなやり取りにも、ボオスは少しずつ慣れていった。

 

 慣れたくはなかった。

 

 だが、人間は不本意な環境にも順応する。ボオスはそれを、彼女といる時間で身をもって知ることになった。

 

 彼女は王都を歩きたがった。

 

 ただ、数回案内しているうちに、ボオスは気づいた。

 

 彼女が見たいのは王都ではない。

 

 王都という場所を通して、この世界そのものを見ようとしている。

 

 道端の古い石碑の前で立ち止まり、その摩耗具合から使われていた年代を推測する。露店の安物の飾りを手に取り、細工の癖から流通している鉱山を当てる。子どもたちの遊び歌を聞いて、どの土地の言葉が混ざっているのか楽しそうに考える。

 

 無邪気に見えて、見ているものが深すぎた。

 

「お前、本当にこっちに来たばかりなのか」

 

「うん」

 

「そのわりに知りすぎだ」

 

「知識はあるよ。実感がないだけ」

 

 彼女は笑った。

 

「だから、見に来たの」

 

 その日は、大学の近くの広場だった。

 

 空は薄曇りで、石造りの校舎の壁に柔らかい光が当たっている。学生たちが行き交い、抱えた本の紙の匂いと、近くの屋台で煮込まれる豆のスープの匂いが混ざっていた。

 

 ボオスは講義の資料を抱えて歩いていた。

 

 隣には彼女がいる。

 

 ただし、ほとんどの人間はそれに気づかない。彼女が身につけている錬金具のせいで、周囲の認識が薄くなっているのだという。

 

 おかげで、ボオスだけがひとりで何かに話しかけているように見える。

 

 そのはずなのに、不思議と周囲は違和感を覚えないらしい。目が滑る。記憶に残らない。ひとり言を言っているようで、そうではない気がする。そんな曖昧な処理を、世界そのものにさせている。

 

「……お前、やっぱりとんでもないことをしてるな」

 

「大丈夫。ボオスが浮かない程度にはなってるから」

 

「その気遣いはいらない」

 

「いるよ。ひとりでしゃべってる変な人に見えたら困るでしょ?」

 

「そもそも、お前が普通に隣を歩けばいいだけだ」

 

「だめだよ。私、歴史にいないから」

 

 軽い調子で言われた言葉が、やけに耳に残った。

 

 その時、背後から聞き慣れた声がした。

 

「ボオス?」

 

 振り返ると、タオが立っていた。

 

 丸眼鏡の奥の目をぱちぱち瞬かせている。栗色の髪はいつも通り少し跳ねていて、腕には古代文字に関する分厚い本を抱えていた。背は高すぎず、体つきも細身だが、長旅で鍛えられた足腰には見た目より芯がある。

 

「やっぱりボオスだ。講義、もう終わったの?」

 

「ああ」

 

 ボオスは短く答えた。

 

 彼女はボオスの隣で、興味津々という顔をしてタオを見ていた。

 

 タオはまだ気づいていない。

 

「そういえば、この前言ってた村の水路の道具、うまくいったんだって?」

 

「ああ」

 

「あれ、結局どうしたの? かなり変わった構造だったって聞いたけど」

 

「……錬金術師に会った」

 

 タオの表情が変わった。

 

「えっ、ライザ以外の? アンペルさん?」

 

「いや、違う」

 

「違う錬金術師? そんな人、王都にいたの?」

 

「知らないのか」

 

「うん。いてもおかしくはないんだろうけど、僕たちは会ったことがないな。相当珍しいと思うよ。どんな人?」

 

 ボオスはちらりと隣を見た。

 

 彼女は、口元に指を当ててにやにやしている。

 

「……村の道具の話をしただろ。あれを作る対価として、王都の案内をしてほしいと頼まれてな。たまに時間がある時に案内している」

 

「ああ、あれ。そういう経緯だったんだ」

 

「そういう経緯というか……巻き込まれた」

 

「ボオスが?」

 

 タオは少し笑った。

 

「珍しいね。ボオスが誰かに振り回されるなんて」

 

「笑うな」

 

「ごめんごめん。でも、その錬金術師、今も会ってるんだ?」

 

 その瞬間、隣の彼女がぱっと手を上げた。

 

「呼ばれて飛び出て、じゃじゃーん!」

 

「呼んでない」

 

 ボオスが反射的に突っ込む。

 

 タオがびくりと肩を揺らした。

 

 彼の視線が、ようやく彼女に合う。

 

「えっ」

 

「こんにちはー」

 

 彼女はにこにこしながら手を振った。

 

 タオは目を丸くしたまま、彼女とボオスを交互に見た。

 

「今……いた?」

 

「いたよ」

 

「え、でも、気配が……」

 

「薄くしてるから」

 

「薄く?」

 

 タオの顔が、研究対象を前にした時のそれに変わっていく。

 

 興味。困惑。警戒。好奇心。

 

「やっぱり錬金術師ってすごいね」

 

「ああ。理解しようとするだけ時間の無駄だ」

 

「ひどいなぁ、ボオス」

 

 彼女は頬を膨らませる。

 

 だがすぐにタオの抱えている本へ目を向けた。

 

「それ、古代文字?」

 

「え? あ、うん。大学で研究してるんだ」

 

「いいね」

 

 彼女の声が、少しだけ変わった。

 

 いつもの浮かれた響きが薄れ、もっと静かな熱が宿る。

 

「古い言葉はいいよね。もういない人たちが、まだそこにいるみたいで」

 

 タオは驚いたように彼女を見た。

 

「……分かるの?」

 

「うん。歴史があるもの、だいたい好き」

 

 彼女は本に触れようとして、途中で手を止めた。

 

「触っていい?」

 

「あ、うん。いいよ」

 

 タオが本を差し出す。

 

 彼女は指先だけでページの端を撫でた。紙を乱暴に扱わない。古いものへの触れ方を知っている手だった。

 

「この写し、ちょっと新しいね。でも元の碑文はもっと古い。ここ、欠けてるところを後の人が補ってる」

 

「えっ、見ただけで?」

 

「うん」

 

 タオの目が輝いた。

 

「すごい……! ねえ、君、名前は?」

 

「ないよー」

 

「ない?」

 

「必要なかったから」

 

 タオは言葉に詰まった。

 

 ボオスは眉を寄せる。

 

 彼女は気にせず笑っていた。

 

「ねえ、とか、おい、とか、変なやつ、とかで反応するよ」

 

「変なやつは呼び名じゃないだろ」

 

「ボオスが呼ばないって言ったやつ」

 

「当たり前だ」

 

 タオは困ったように笑った。

 

「でも、記録する時に困らない? 名前がないものは、後から扱いづらいよ。古代の資料でも、固有名が失われているだけで、同じものか別のものか判断できないことが多いし」

 

 彼女は少し目を細めた。

 

「うん。だから、名前は紐みたいなものなんだと思う」

 

「紐?」

 

「たくさんのものを結びつける。記録、記憶、感情、関係。便利だけど、引っ張られるし、縛られる」

 

 ボオスは彼女を見た。

 

 こういう時の彼女は、やはり年齢が分からない。

 

 子どものように笑った直後に、人の一生を何度も読み終えたような声で話す。

 

 タオは真剣に頷いた。

 

「分かる気がする。名前があるから残るものもあるし、名前があるから歪むものもある」

 

「タオ、面白いね」

 

「えっ、僕?」

 

「うん。もっと話したい」

 

 その時だった。

 

「タオさん?」

 

 明るく澄んだ声が、少し離れた場所から飛んできた。

 

 タオの肩が分かりやすく跳ねる。

 

 ボオスは視線だけを向けた。

 

 パティだった。

 

 上品な服装に、よく手入れされた髪。仕草には育ちの良さがにじむが、タオを見つけた時だけ、足取りがわずかに急ぐ。頬にもほんのり赤みが差していた。

 

 タオは本を抱え直し、眼鏡を押し上げる。

 

「あ、パティ」

 

「探しました。次の資料、教授が確認したいそうで……」

 

 言いながら、パティの視線がボオスへ移り、次に彼女がいるはずの場所へ流れた。

 

 だが、そこに焦点は合わなかった。

 

 彼女が、ボオスの袖をつまんでいた。

 

「ボオス」

 

「何だ」

 

「恋愛の匂いがする」

 

「は?」

 

「小説で読んだやつ」

 

「余計なことをするなよ」

 

「見るだけ」

 

 次の瞬間、ボオスの周囲の空気がふっと曖昧になった。

 

 彼女が自分だけでなく、ボオスの認識まで薄くしたのだと分かる。

 

「お前、いつもこんなことしてるのか」

 

「うん。楽しい」

 

「悪趣味だ」

 

「観察だよ」

 

「なお悪い」

 

 彼女は少し身を乗り出し、タオとパティを眺めていた。

 

 タオはパティに資料を渡しながら、やや緊張した声で説明している。パティは頷きつつも、時折タオの横顔を見ている。その視線に気づいたタオが、さらにぎこちなくなる。

 

 彼女は目を輝かせた。

 

「照れてる」

 

「見るな」

 

「手、触れそう」

 

「実況するな」

 

「小説だと、このあと――」

 

「言うな」

 

 ボオスは彼女の襟首を掴むようにして引いた。

 

「ほら、行くぞ」

 

「案内?」

 

「案内だ」

 

「いくいく!」

 

 認識の薄さが解ける。

 

 タオがこちらに気づいて顔を上げた。

 

「あれ、ボオス? 今どこに……」

 

「南東へ行く」

 

「えっ、僕も行くよ」

 

 パティが少しだけ寂しそうな顔をしたので、タオは慌てて言葉を足した。

 

「あ、資料を届けてからだけど」

 

 彼女はにやにやしている。

 

 ボオスはその頭を軽く小突いた。

 

「痛い」

 

「余計な顔をするな」

 

「余計じゃないよ。微笑ましい顔」

 

「それを余計と言う」

 

 その日の案内は、結局三人になった。

 

 タオは彼女に古代文字の話をした。彼女は古い碑文や失われた国の話に目を輝かせたが、時折、知っていることを言いかけて口を閉じた。

 

 ボオスはそれに気づいた。

 

「言わないのか」

 

「うん」

 

「なぜ」

 

「タオが調べてる途中だから」

 

 彼女は石畳の隙間に咲いた小さな花を見ながら言った。

 

「答えだけ渡したら、つまらないでしょ」

 

 タオは少し驚いたように彼女を見た。

 

「君は錬金術師なのに、答えを知ってても言わないんだね」

 

「錬金術は便利だからね。便利すぎるものは、使い方を間違えると積み重ねを壊しちゃう」

 

「積み重ね……」

 

「うん。誰かが悩んで、試して、失敗して、やっと見つけたものは、その道筋ごと大事だと思う」

 

 彼女は笑った。

 

「だから、私は見るのが好き」

 

 ボオスは黙ってその横顔を見た。

 

 彼女がいつも無茶苦茶なわけではない。

 

 むしろ、とても慎重な部分がある。

 

 だが、その慎重さの向け先が普通ではない。人に対しては危うく無防備なのに、歴史や世界の流れに対しては、異様なほど気を遣う。

 

 そのちぐはぐさが、放っておけない理由になっていく。

 

 夕方になり、タオと別れた後、ボオスは彼女と二人で大学近くの坂道を歩いた。

 

 空は橙色に染まり、風には焼き栗の甘い匂いが混ざっていた。

 

「今日は楽しかった」

 

「そうか」

 

「タオ、いいね。古いものを大事にしてる」

 

「あいつは昔からそうだ」

 

「ボオスの友達?」

 

「……まあ」

 

「ふふ」

 

「何だ」

 

「ボオス、友達いるんだなって」

 

「失礼だな、お前」

 

 彼女はくすくす笑った。

 

 その笑い声が、坂道にやわらかく転がる。

 

「でも、他の人がいる時は呼んでも出ないかも」

 

「なぜ」

 

「案内じゃないじゃん」

 

「……そういう基準なのか」

 

「あと、人が多いのは苦手」

 

「今日、タオとは話していただろ」

 

「ボオスがいたから」

 

 さらりと言われた。

 

 ボオスは返事をしなかった。

 

 彼女は続ける。

 

「それに、あんまり人と関わりすぎると、世界が歪むかもしれないし」

 

「大げさだ」

 

「大げさじゃないよ」

 

 声が少しだけ低くなった。

 

「私は、外から来たものだから」

 

 風が吹いた。

 

 彼女の髪がふわりと揺れる。

 

 その輪郭が、夕焼けに溶けそうに薄くなった。

 

 ボオスは思わず手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 

「……消えるのか」

 

「え?」

 

「いや。何でもない」

 

 彼女は不思議そうに見上げてきたが、すぐ笑った。

 

「ボオス、変なの」

 

「お前に言われたくない」

 

「ひどい」

 

 彼女は軽く肩をすくめると、懐から自分の栞を取り出した。

 

 ボオスが持っているものとよく似た、対になる金属板。

 

 一瞬だけ、石が淡く光った。

 

「ねえ、ボオス」

 

「何だ」

 

「また呼んでね」

 

「暇ならな」

 

「うん。暇な時でいい」

 

 彼女はそう言って、ふっと姿を薄めた。

 

 消える直前、何かを考えるようにタオたちが去っていった方角を見る。

 

 ほんの一瞬だけ、指先が宙を撫でた。

 

 まるで、誰かの記憶に触れようとして、やめたように。

 

「……怒られそうだから、やめとこ」

 

 小さな呟きだけを残して、彼女はいなくなった。

 

 ボオスはその場に立ち尽くす。

 

 懐の栞に触れる。

 

 温度はもう消えかけていた。

 

「本当に、何をするか分からない奴だな」

 

 呆れた声だった。

 

 けれどその手は、栞を離さなかった。

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