名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】 作:an-ryuka
夏が来た。
王都の石畳を焼いていた熱は、海を渡る風の中では少し違う匂いになる。
クーケン島の港には、潮の匂いと、濡れた木材の匂いと、荷揚げされた果物の甘い匂いが混ざっていた。空は青く、雲は白く、波は桟橋の下でちゃぷちゃぷと軽い音を立てている。
ボオスは船を降りた瞬間、眉間に皺を寄せた。
「帰ってきたって顔じゃないね」
横からタオが苦笑する。
タオは王都にいる時より少し肩の力が抜けていた。島の空気がそうさせるのだろう。腕には相変わらず本を抱えているが、足取りは軽い。
「別に」
「またモリッツさんに何か言われるの、気にしてる?」
「それもある」
「それも?」
ボオスは答えなかった。
懐の内側にある栞へ、無意識に指が触れる。
薄い金属板は、今日は冷たいままだった。
王都を出る前、彼女には何も告げていない。栞を握れば呼べる。どこへでも来ると本人は言っていた。実際、街道でも、寮でも、人気のない橋の下でも来た。
なら、ここでも来るのだろう。
クーケン島でも。
その事実が、妙に落ち着かなかった。
島はボオスにとって、逃げられない場所だった。ブルネン家の跡取りとしての自分がいて、父がいて、島民の目がある。王都でなら、奇妙な錬金術師に振り回されても、まだ自分だけの問題で済んだ。
ここに彼女が来たら、済まない。
あいつは人の目を避ける道具を使っている。
歴史に混ざらないと言う。
それでも、何かの拍子に表へ出る。
そうなった時、面倒を見るのは結局自分だ。
「……あいつは面倒しか持ってこないな」
「え?」
「何でもない」
タオは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
港の先では、島の人々が二人を見つけて手を振っていた。
「タオくん、帰ってきたのかい!」
「ボオス坊ちゃんも、背がまた伸びたんじゃないか?」
「伸びてない」
「顔つきが父親に似てきたねぇ」
「やめろ」
島の人々は遠慮がない。
王都の人間なら踏み込まない距離まで、当たり前のように入ってくる。ボオスはそれが嫌いではなかったが、面倒でもあった。
少し歩くと、見慣れた道に出る。
水車の音。
畑の土の匂い。
遠くで鳴く鳥。
夏草が日に焼ける青臭さ。
島は変わらないようで、少しずつ変わっていた。
そして、その変化の中心には、やはり彼女がいた。
「ボオス! タオ!」
明るい声が坂道の上から飛んできた。
ライザだった。
日に透けるような栗色の髪を揺らし、軽快な足取りで駆けてくる。昔より少し大人びた顔つきになっているが、笑う時の勢いは変わらない。錬金術師らしい鞄を肩にかけ、手には何かの材料らしい草束を持っていた。
タオが手を上げる。
「ライザ、久しぶり」
「二人とも帰ってきたんだね。よかった、ちょうど話したいことがあったんだ」
「話したいこと?」
タオの顔が引き締まる。
ライザは頷いた。
「カーク群島のことで、ちょっと色々起きてて」
ボオスは顔をしかめた。
「帰って早々か」
「私だって好きで問題を持ってきてるわけじゃないよ」
「お前の場合、問題のほうから寄ってくるんだろ」
「それ、ひどくない?」
ライザはむっとした顔をしたが、すぐに表情を戻した。
冗談を言っている場合ではない、という空気があった。
三人はライザのアトリエへ向かった。
島の外れにあるその場所には、薬草と煤と、錬金釜特有の温かい金属臭が満ちていた。王都で彼女のアトリエを見た後だと、ライザのアトリエは驚くほど生活の気配があった。
使いかけの材料。
書きかけのメモ。
棚から少しはみ出た瓶。
誰かが何度も出入りした床の傷。
人が悩み、試し、失敗し、また作る場所。
ボオスはふと、名前のない彼女の言葉を思い出した。
積み重ね。
「それで、何があったの?」
タオが椅子に座りながら尋ねる。
ライザは地図を広げ、カーク群島について説明し始めた。
奇妙な島。
突然現れた異変。
島に影響し始めている問題。
ボオスは腕を組み、話を聞いた。
厄介そうだ。
ライザが関わる以上、ただの自然現象では終わらないだろう。
タオが地図を覗き込みながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、王都で錬金術師に会ったんだ」
ライザの手が止まった。
「えっ、錬金術師? アンペルさん以外で?」
「ああ。ボオスが先に会ってて、村の水路の道具を作ってもらったって」
「ちょっと待って。何それ、初耳なんだけど」
ライザの視線がボオスへ向く。
ボオスは露骨に嫌な顔をした。
「話す必要がなかった」
「あるよ! 錬金術師だよ? しかもボオスが案内してたって、どういうこと?」
「成り行きだ」
「成り行きで錬金術師を案内する?」
「することになったんだ」
ライザは目を輝かせ始めていた。
まずい。
ボオスはそう思った。
これは完全に錬金術師としての顔だ。興味を持ったら、そう簡単には引かない。
「どんな人? どんな錬金術を使うの? 材料は? 釜は? 道具は?」
「一度に聞くな」
「会える?」
「会えない」
「なんで」
「そういう奴じゃない」
ライザは不満そうに頬を膨らませた。
「でも、ボオスは会ってるんでしょ」
「呼ばれたら来るだけだ」
「呼ばれたら?」
タオが「あ」と声を漏らす。
ライザの視線が鋭くなる。
「何かあるんだ」
ボオスは沈黙した。
言わなければよかった。
いや、言ったのはタオだ。
タオは少し申し訳なさそうな顔をしていたが、ライザの興味はもう止まらない。
「見せて」
「嫌だ」
「ちょっとだけ」
「だめだ」
「ボオス」
「だめだと言っている」
ライザは身を乗り出した。
タオは慌てて間に入ろうとしたが、時すでに遅い。
ボオスが懐に手をやった一瞬を、ライザは見逃さなかった。
「あ、そこ!」
「おい、ライザ!」
ライザの手が伸びる。
ボオスは避けようとしたが、彼女は意外に素早かった。薄い金属板が、するりとライザの手に収まる。
中央の石が、かすかに光った。
ボオスの背筋が冷えた。
「ライザ、返せ」
「すごい……何これ。錬金具? でも見たことない構造……」
ライザは完全に観察に入っていた。
栞を光に透かし、角度を変え、表面の刻みを目で追う。
「これ、対になってる? いや、でも信号の受け渡しだけじゃない。空間干渉……? え、こんな小さいのに?」
「返せと言っている」
「もうちょっとだけ!」
その時。
ライザの後ろに、彼女が立っていた。
誰も気づかなかった。
ボオスだけが、息を止めた。
名前のない彼女は、いつものように笑っていなかった。目はライザの手元にある栞へ向いている。表情は穏やかだが、空気が薄く冷えていくような感覚があった。
彼女は一度、ボオスを見た。
責めるようではなかった。
それが逆に、刺さった。
「やっほー」
声は明るかった。
「会いに来ちゃいましたー」
「わわっ!?」
ライザが飛び上がる。
手から栞が滑り落ちかけた瞬間、彼女はすっとそれを回収した。動きは速く、けれど乱暴ではない。
栞は彼女の懐へ消えた。
タオも椅子から立ち上がっている。
「君……!」
「あなたがライザさん?」
彼女はライザを見た。
ライザは驚きながらも、すぐに姿勢を正す。
「そうです! ライザリン・シュタウトです。アンペルさん以外の錬金術師、初めて見ました」
「ふーん」
彼女はライザを見つめた。
興味がないわけではない。むしろ、観察している。髪、服、鞄、指先、錬金術師としての癖。
けれど、その目の奥にあるものを、ボオスは読み取れなかった。
ライザは少し戸惑い、ボオスへ目配せする。
なんかまずいことしちゃった?
そんな顔だった。
ボオスは苦々しく口を開く。
「今、呼んだつもりはなかったんだが」
「だろうね」
彼女はあっさり言った。
「私が来ただけだよ」
「……栞を返せ」
「やだ」
短い返事だった。
ボオスは眉を寄せる。
「お前」
「じゃあ、帰るね」
「あっ、おい待て!」
彼女の足元に淡い輪が広がった。
落ちるように、輪郭が沈む。
ライザが目を見開く。
「消えた……いや、落ちた?」
タオも呆然としていた。
床には何も残っていない。
栞もない。
ボオスはしばらくそこを見ていた。
懐にあるはずの温度が消えている。
呼ぶ手段を失った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にざわつく。
「すごい……」
ライザがぽつりと呟く。
「こんなことも錬金術でできちゃうんだ」
「感心している場合か」
「いや、だって今の、転移? でも術式の起点がほとんど見えなかったし、あの栞が座標固定の道具なら、さっきの回収速度も――」
「ライザ」
タオが強めに呼んだ。
「それより、カーク群島の話に戻ろう」
「あ、うん。そうだね」
ライザは名残惜しそうに床を見たが、地図へ向き直った。
話は再開された。
カーク群島。異変。調査。必要な人員。
だが、ボオスの耳には半分しか入ってこなかった。
そのうち、あっちから来る。
そう思おうとした。
彼女は気まぐれだ。栞を持っていっただけで、完全に繋がりを断つような性格ではない。気が向けばまた現れる。王都でもそうだった。呼んでもいないのに、ふらりと出てきたこともある。
なのに、胸の奥に残る焦りは消えなかった。
彼女の最後の顔を思い出す。
怒ってはいなかった。
けれど、笑ってもいなかった。
その頃、彼女は自分のアトリエへ戻っていた。
王都でも、クーケン島でもない。
持ち運び式のアトリエの奥、さらに別の扉を抜けた先。
そこには、最初の場所があった。
果てしない本棚。
異世界から流れ着いた品々。
静かに動くオートマタ。
古い紙と乾いた薬草、冷たい金属の匂い。
彼女は手の中の栞を見つめていた。
金属板は冷たい。
さっきまで、ボオスの懐にあったもの。
彼が持っていたもの。
ライザという錬金術師が触ったもの。
胸の奥が、ぐにゃりと歪んだ。
知らない感覚だった。
痛い。
不快。
腹立たしい。
悲しい。
取られたくない。
言葉はいくつも知っている。文献にも、小説にも、症例にも載っていた。
嫉妬。
独占欲。
不安。
執着。
彼女は栞を握った。
「……だめ」
小さく呟く。
これはよくない。
ボオスは自分のものではない。栞を持っていてほしいと思ったのは自分だが、それで彼を縛る権利はない。ライザが触れたことに対して、こんなふうに反応するのは不合理だ。
フィリスは、こんなものを持たない。
無垢で、明るくて、何でも知りたがる旅の子。
彼女は嫉妬などしない。
誰かを自分だけのものにしたいなんて、思わない。
「感情調整薬の使用は推奨できません」
背後から声がした。
オートマタが立っていた。
白磁の肌。硝子の瞳。銀糸の髪。表情は変わらないが、彼女の行動を止めようとしているのは分かる。
彼女は薬棚へ手を伸ばしていた。
「知ってる」
「あなたの目的と反します」
「知ってる」
「人と関わるために外へ出たのでしょう」
「そうだよ」
「ならば、感情は観察対象ではなく、経験するものです」
彼女の指が瓶に触れる。
中には淡い琥珀色の薬液が入っていた。
感情の尖りを鈍らせる薬。
他者への攻撃性、過剰な執着、衝動的な記憶干渉欲求を遠ざけるためのもの。
作った時は、必要だと思った。
自分が何をするか分からなかったから。
「でも」
彼女は瓶を取り出した。
「これ、だめな感情だもん」
「不都合な感情を切り捨てることは、人間としての学習を妨げます」
「だって、ボオスの記憶を書き換えたくなった」
オートマタが沈黙した。
彼女は瓶を握りしめる。
「ライザさんが栞を触ったこと、忘れさせたくなった。タオさんにも、ライザさんにも、私のことを忘れさせようかなって思った。そしたら、ボオスはまた私だけ呼ぶでしょ」
「実行していません」
「しようと思った」
「思考と実行は異なります」
「でも、私はできる」
彼女は笑った。
笑おうとして、うまくできなかった。
「できるから、だめなの」
栞を胸に押し当てる。
冷たい金属が、服越しに肌へ触れた。
「ボオスにはしないよ。しちゃだめって、分かるから。だから、しようと思わないようにする」
「それは解決ではありません」
「解決じゃなくていい」
「あなたはまた、あなた自身を道具として扱っています」
「私のことだからいいでしょ」
「よくありません」
彼女は薬瓶の蓋を開けた。
甘い薬草と、焦げた砂糖に似た匂いが広がる。
オートマタの手が伸びる。
しかし、彼女のほうが早かった。
「知ってる。……でも」
彼女は薬を一息に飲み干した。
喉が焼けるように熱くなる。
胸の奥で暴れていた黒い感情が、少しずつ遠ざかる。嫉妬の棘が丸くなり、独占欲の熱が冷めていく。
ボオスの顔を思い浮かべた。
まだ温かい。
会いたい、と思う。
けれど、さっきのような痛みは薄い。
彼女はほっと息を吐いた。
オートマタはその様子を静かに見ていた。
「記録します」
「数えなくていいよ」
「数えます」
「管理人は真面目だね」
「あなたが不真面目すぎるのです」
彼女は少し笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
けれど栞を握る手は、緩まなかった。
その夜、ボオスは何度も懐に手をやった。
そこにはもう栞がない。
何もない。
それが妙に腹立たしかった。
ライザたちは今後の調査について話し合い、島の異変に向き合う準備を進めている。タオは資料を整理し、ライザは必要な道具を考え、ボオスも島の状況を確認するために動かなければならない。
やることは山ほどある。
なのに、ふとした瞬間、思考が逸れる。
あいつは、なぜあんな顔をした。
怒ったなら怒ればいい。文句があるなら言えばいい。いつもみたいに、ぶーぶー騒げばいい。
黙って栞を持って消えた。
それが、どうにも気に入らなかった。
「ボオス」
タオに声をかけられ、ボオスは顔を上げた。
「大丈夫?」
「何が」
「さっきからずっと怖い顔してる」
「元からだ」
「いや、いつもより」
タオは困ったように笑った。
「彼女、また来るよ」
「……分かってる」
「たぶん、ボオスが思ってるより、君に懐いてる」
「懐くって言うな」
「じゃあ、信頼してる」
ボオスは黙った。
信頼。
その言葉が、重かった。
彼女は自分を信用しすぎている。
そう思っていた。
だが、本当にそうなのか。
彼女は何でもできる。どこへでも行ける。人の認識を薄め、奇妙な道具を作り、常識を簡単に越える。
それなのに、呼ばれたら来た。
案内してほしいと笑った。
栞を預けた。
ボオスは窓の外を見た。
夜のクーケン島は静かだった。虫の声が草むらから響き、遠くで波が岩を叩いている。海風には塩と藻の匂いが混じっていた。
「……不可抗力だろ」
「え?」
「いや」
ライザが栞に触れたこと。
貸したわけではない。渡したわけでもない。
不可抗力だ。
そう考えている自分が、言い訳をしているようでまた腹立たしかった。
数日が過ぎた。
ライザたちの周囲では、カーク群島を巡る問題が少しずつ形を持ち始めていた。
レントやクラウディア、アンペル、リラにも声をかける必要がある。仲間が集まり、また冒険が始まろうとしている。
その中で、彼女の話題が出ることはあった。
「その錬金術師、やっぱり気になるなぁ」
ライザは何度目か分からないほど呟いた。
「会う方法がない」
ボオスは短く返す。
「ボオスが持ってた道具は?」
「持っていかれた」
「うーん……惜しい」
「惜しいで済ませるな」
アンペルが合流した後、その話を聞くと、彼は明らかに表情を変えた。
旅装の男は腕を組み、低く唸る。
「現代に生きている錬金術師。しかも聞く限り、我々よりも上を行く技術を持っている。そんなことがあり得るのか……」
「アンペルさんでも知らないんですか?」
ライザが尋ねると、アンペルは目を細めた。
「知っている錬金術の系譜にはない。話だけなら、神代の……」
そこで言葉を切った。
リラがちらりと彼を見る。
「憶測で物を言うものではない、という顔だな」
「ああ。実物を見ていない以上、断定はできない」
「でも、会う方法がないんだよね」
タオが言う。
ボオスは黙っていた。
彼女は来ない。
その事実だけが、日を追うごとに重くなっていった。
だが、出会いとはいつも、こちらの都合を無視して訪れる。
その日、ボオスたちはサルドニカのガラス工房を訪れていた。
透明な熱気が空気を揺らし、炉の奥で炎が赤く唸っている。溶けたガラスの匂いは砂と灰と熱した鉱物が混ざったようで、汗ばむ肌にまとわりついた。職人たちの声、道具が触れ合う澄んだ音、足元に散った光の反射。
その中で、ボオスは足を止めた。
彼女がいた。
工房の奥、職人の隣で、楽しそうにガラス細工を作っている。
髪をひとつに緩くまとめ、見慣れない作業用の前掛けをつけていた。目は真剣で、手つきは驚くほど丁寧だ。錬金術でどうにかするのではなく、職人に教わった通りに、熱いガラスへ息を吹き込んでいる。
周囲の者たちは、彼女を普通に認識しているようだった。
「そこはゆっくりだよ、フィリスちゃん」
職人の女性が笑う。
「はい。ゆっくり……ゆっくり……」
彼女は慎重に息を吹き、丸いガラスを膨らませた。
ボオスは目を細める。
「フィリス……?」
ライザとタオも気づいた。
ただし、二人の反応は少し遅れた。気配の質が以前と違うせいか、目の前にいても、記憶と結びつくまで時間がかかったようだった。
「あれ……あの人?」
ライザが小声で言う。
アンペルは即座に警戒を強めた。
彼女は作業を終えると、職人にぺこりと頭を下げた。
「ちょっと用事ができたので、今日はここまでにします」
「あら、そう? またおいでね、フィリスちゃん」
「はい」
彼女は振り返った。
ボオスと目が合う。
ぱっと顔が明るくなった。
「あれっ、ボオスじゃん。久しぶりー」
まるで昨日も会ったかのような調子だった。
ボオスの中で、数日分の苛立ちが一気に燃えた。
「お前が栞を持っていったからだろうが」
「あー」
彼女は懐を探る。
「あれ、ふたつある……」
「何?」
「あららー。ごめんごめん」
彼女は悪びれた様子もなく、薄い金属板を一枚取り出した。
ボオスの前へ差し出す。
「はい。もう他の人に渡しちゃだめだよ」
「渡してない」
「そっか」
「ライザが勝手に取った」
「おい、ボオス!」
ライザが抗議したが、ボオスは無視した。
彼は栞を受け取り、すぐに懐へしまう。
金属板は、久しぶりに掌へ馴染んだ。
温かくはなかった。
それが少し気になった。
彼女はいつも通り笑っている。だが、何かが違う。
前より少し、感情の輪郭が浅い。
ボオスはそれを、まだ言葉にできなかった。
「そういえば、フィリスって?」
タオが尋ねる。
彼女は首を傾げた後、ああ、と笑った。
「私が最後に読んだ小説の主人公だよ。外を見に冒険に行く話なんだー」
「名前じゃないの?」
「うん。仮のふるまい、みたいなもの」
「ふるまい……」
アンペルが一歩前へ出た。
「そろそろいいか」
彼女の目が、アンペルへ向いた瞬間に揺れた。
「錬金術師アンペルだ。話したいことや聞きたいことが山ほどあるんだが、時間をもらえるだろうか」
「えー」
彼女は、するりとボオスの後ろに隠れた。
そして、ボオスの服の端を掴んだ。
指先がわずかに震えている。
ボオスは振り返る。
「お前、錬金術師が嫌いなのか」
「え? 別に嫌いじゃないよ」
「じゃあなんで」
「え……あぁ」
彼女は自分の手を見た。
震えがばれていることに、ようやく気づいたらしい。
「人、いっぱいだから……」
工房には、ライザ、タオ、アンペル、リラ、他の仲間たち、職人たちがいる。
彼女にとっては多すぎるのだろう。
「何人くらいならいける」
「二人」
「分かった」
ボオスは顔を上げた。
「ライザとアンペルさんだけ来てくれ。こいつ、大人数が苦手らしい」
「そっか。じゃあ、私のアトリエ行こっか。そこなら私たち以外もいないし」
ライザがすぐに言った。
彼女はボオスの背中に隠れたまま、小さく呟く。
「ボオスと私で二人なのに……」
ボオスは聞こえないふりをした。
少しだけ胸が痛んだ。
「俺は他の奴に説明してくる」
ボオスが離れようとすると、彼女の手が離れなかった。
強い。
見た目からは想像できない力で、服を掴んでいる。
「あ、僕が説明しておくから」
タオが慌てて言った。
「ボオスは一緒にいてあげて」
「……悪い」
タオは軽く頷き、レントたちのほうへ向かった。
彼女はまだボオスの後ろに隠れている。
ライザは少しだけ柔らかい顔をした。
「大丈夫。無理に聞いたりしないよ」
「錬金術師は、好奇心が強いから信用できない」
「それ、自分にも刺さってない?」
「私はいいの」
「いいんだ」
アンペルは黙って彼女を観察していた。
その目は鋭いが、敵意はない。
彼女はさらにボオスの袖を掴んだ。
ボオスは小さく息を吐く。
「行くぞ」
「うん」
四人はライザのアトリエへ向かった。
夏の光は眩しく、島の道には潮風と青草の匂いが満ちている。
隣を歩く彼女は、ボオスの袖を掴んだままだった。
戻ってきた栞は懐にある。
しかし今度は、彼女自身が手を離さない。
ボオスは歩きながら、ちらりと彼女を見る。
彼女はいつものように笑おうとしていた。
けれど、その笑みは少しだけ作り物めいていた。
ボオスはそれに気づき、眉間の皺を深くした。