名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】   作:an-ryuka

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 夏が来た。

 

 王都の石畳を焼いていた熱は、海を渡る風の中では少し違う匂いになる。

 

 クーケン島の港には、潮の匂いと、濡れた木材の匂いと、荷揚げされた果物の甘い匂いが混ざっていた。空は青く、雲は白く、波は桟橋の下でちゃぷちゃぷと軽い音を立てている。

 

 ボオスは船を降りた瞬間、眉間に皺を寄せた。

 

「帰ってきたって顔じゃないね」

 

 横からタオが苦笑する。

 

 タオは王都にいる時より少し肩の力が抜けていた。島の空気がそうさせるのだろう。腕には相変わらず本を抱えているが、足取りは軽い。

 

「別に」

 

「またモリッツさんに何か言われるの、気にしてる?」

 

「それもある」

 

「それも?」

 

 ボオスは答えなかった。

 

 懐の内側にある栞へ、無意識に指が触れる。

 

 薄い金属板は、今日は冷たいままだった。

 

 王都を出る前、彼女には何も告げていない。栞を握れば呼べる。どこへでも来ると本人は言っていた。実際、街道でも、寮でも、人気のない橋の下でも来た。

 

 なら、ここでも来るのだろう。

 

 クーケン島でも。

 

 その事実が、妙に落ち着かなかった。

 

 島はボオスにとって、逃げられない場所だった。ブルネン家の跡取りとしての自分がいて、父がいて、島民の目がある。王都でなら、奇妙な錬金術師に振り回されても、まだ自分だけの問題で済んだ。

 

 ここに彼女が来たら、済まない。

 

 あいつは人の目を避ける道具を使っている。

 歴史に混ざらないと言う。

 それでも、何かの拍子に表へ出る。

 

 そうなった時、面倒を見るのは結局自分だ。

 

「……あいつは面倒しか持ってこないな」

 

「え?」

 

「何でもない」

 

 タオは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。

 

 港の先では、島の人々が二人を見つけて手を振っていた。

 

「タオくん、帰ってきたのかい!」

 

「ボオス坊ちゃんも、背がまた伸びたんじゃないか?」

 

「伸びてない」

 

「顔つきが父親に似てきたねぇ」

 

「やめろ」

 

 島の人々は遠慮がない。

 

 王都の人間なら踏み込まない距離まで、当たり前のように入ってくる。ボオスはそれが嫌いではなかったが、面倒でもあった。

 

 少し歩くと、見慣れた道に出る。

 

 水車の音。

 畑の土の匂い。

 遠くで鳴く鳥。

 夏草が日に焼ける青臭さ。

 

 島は変わらないようで、少しずつ変わっていた。

 

 そして、その変化の中心には、やはり彼女がいた。

 

「ボオス! タオ!」

 

 明るい声が坂道の上から飛んできた。

 

 ライザだった。

 

 日に透けるような栗色の髪を揺らし、軽快な足取りで駆けてくる。昔より少し大人びた顔つきになっているが、笑う時の勢いは変わらない。錬金術師らしい鞄を肩にかけ、手には何かの材料らしい草束を持っていた。

 

 タオが手を上げる。

 

「ライザ、久しぶり」

 

「二人とも帰ってきたんだね。よかった、ちょうど話したいことがあったんだ」

 

「話したいこと?」

 

 タオの顔が引き締まる。

 

 ライザは頷いた。

 

「カーク群島のことで、ちょっと色々起きてて」

 

 ボオスは顔をしかめた。

 

「帰って早々か」

 

「私だって好きで問題を持ってきてるわけじゃないよ」

 

「お前の場合、問題のほうから寄ってくるんだろ」

 

「それ、ひどくない?」

 

 ライザはむっとした顔をしたが、すぐに表情を戻した。

 

 冗談を言っている場合ではない、という空気があった。

 

 三人はライザのアトリエへ向かった。

 

 島の外れにあるその場所には、薬草と煤と、錬金釜特有の温かい金属臭が満ちていた。王都で彼女のアトリエを見た後だと、ライザのアトリエは驚くほど生活の気配があった。

 

 使いかけの材料。

 書きかけのメモ。

 棚から少しはみ出た瓶。

 誰かが何度も出入りした床の傷。

 

 人が悩み、試し、失敗し、また作る場所。

 

 ボオスはふと、名前のない彼女の言葉を思い出した。

 

 積み重ね。

 

「それで、何があったの?」

 

 タオが椅子に座りながら尋ねる。

 

 ライザは地図を広げ、カーク群島について説明し始めた。

 

 奇妙な島。

 突然現れた異変。

 島に影響し始めている問題。

 

 ボオスは腕を組み、話を聞いた。

 

 厄介そうだ。

 

 ライザが関わる以上、ただの自然現象では終わらないだろう。

 

 タオが地図を覗き込みながら、ふと思い出したように言った。

 

「そういえば、王都で錬金術師に会ったんだ」

 

 ライザの手が止まった。

 

「えっ、錬金術師? アンペルさん以外で?」

 

「ああ。ボオスが先に会ってて、村の水路の道具を作ってもらったって」

 

「ちょっと待って。何それ、初耳なんだけど」

 

 ライザの視線がボオスへ向く。

 

 ボオスは露骨に嫌な顔をした。

 

「話す必要がなかった」

 

「あるよ! 錬金術師だよ? しかもボオスが案内してたって、どういうこと?」

 

「成り行きだ」

 

「成り行きで錬金術師を案内する?」

 

「することになったんだ」

 

 ライザは目を輝かせ始めていた。

 

 まずい。

 

 ボオスはそう思った。

 

 これは完全に錬金術師としての顔だ。興味を持ったら、そう簡単には引かない。

 

「どんな人? どんな錬金術を使うの? 材料は? 釜は? 道具は?」

 

「一度に聞くな」

 

「会える?」

 

「会えない」

 

「なんで」

 

「そういう奴じゃない」

 

 ライザは不満そうに頬を膨らませた。

 

「でも、ボオスは会ってるんでしょ」

 

「呼ばれたら来るだけだ」

 

「呼ばれたら?」

 

 タオが「あ」と声を漏らす。

 

 ライザの視線が鋭くなる。

 

「何かあるんだ」

 

 ボオスは沈黙した。

 

 言わなければよかった。

 いや、言ったのはタオだ。

 

 タオは少し申し訳なさそうな顔をしていたが、ライザの興味はもう止まらない。

 

「見せて」

 

「嫌だ」

 

「ちょっとだけ」

 

「だめだ」

 

「ボオス」

 

「だめだと言っている」

 

 ライザは身を乗り出した。

 

 タオは慌てて間に入ろうとしたが、時すでに遅い。

 

 ボオスが懐に手をやった一瞬を、ライザは見逃さなかった。

 

「あ、そこ!」

 

「おい、ライザ!」

 

 ライザの手が伸びる。

 

 ボオスは避けようとしたが、彼女は意外に素早かった。薄い金属板が、するりとライザの手に収まる。

 

 中央の石が、かすかに光った。

 

 ボオスの背筋が冷えた。

 

「ライザ、返せ」

 

「すごい……何これ。錬金具? でも見たことない構造……」

 

 ライザは完全に観察に入っていた。

 

 栞を光に透かし、角度を変え、表面の刻みを目で追う。

 

「これ、対になってる? いや、でも信号の受け渡しだけじゃない。空間干渉……? え、こんな小さいのに?」

 

「返せと言っている」

 

「もうちょっとだけ!」

 

 その時。

 

 ライザの後ろに、彼女が立っていた。

 

 誰も気づかなかった。

 

 ボオスだけが、息を止めた。

 

 名前のない彼女は、いつものように笑っていなかった。目はライザの手元にある栞へ向いている。表情は穏やかだが、空気が薄く冷えていくような感覚があった。

 

 彼女は一度、ボオスを見た。

 

 責めるようではなかった。

 

 それが逆に、刺さった。

 

「やっほー」

 

 声は明るかった。

 

「会いに来ちゃいましたー」

 

「わわっ!?」

 

 ライザが飛び上がる。

 

 手から栞が滑り落ちかけた瞬間、彼女はすっとそれを回収した。動きは速く、けれど乱暴ではない。

 

 栞は彼女の懐へ消えた。

 

 タオも椅子から立ち上がっている。

 

「君……!」

 

「あなたがライザさん?」

 

 彼女はライザを見た。

 

 ライザは驚きながらも、すぐに姿勢を正す。

 

「そうです! ライザリン・シュタウトです。アンペルさん以外の錬金術師、初めて見ました」

 

「ふーん」

 

 彼女はライザを見つめた。

 

 興味がないわけではない。むしろ、観察している。髪、服、鞄、指先、錬金術師としての癖。

 

 けれど、その目の奥にあるものを、ボオスは読み取れなかった。

 

 ライザは少し戸惑い、ボオスへ目配せする。

 

 なんかまずいことしちゃった?

 

 そんな顔だった。

 

 ボオスは苦々しく口を開く。

 

「今、呼んだつもりはなかったんだが」

 

「だろうね」

 

 彼女はあっさり言った。

 

「私が来ただけだよ」

 

「……栞を返せ」

 

「やだ」

 

 短い返事だった。

 

 ボオスは眉を寄せる。

 

「お前」

 

「じゃあ、帰るね」

 

「あっ、おい待て!」

 

 彼女の足元に淡い輪が広がった。

 

 落ちるように、輪郭が沈む。

 

 ライザが目を見開く。

 

「消えた……いや、落ちた?」

 

 タオも呆然としていた。

 

 床には何も残っていない。

 

 栞もない。

 

 ボオスはしばらくそこを見ていた。

 

 懐にあるはずの温度が消えている。

 

 呼ぶ手段を失った。

 

 たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にざわつく。

 

「すごい……」

 

 ライザがぽつりと呟く。

 

「こんなことも錬金術でできちゃうんだ」

 

「感心している場合か」

 

「いや、だって今の、転移? でも術式の起点がほとんど見えなかったし、あの栞が座標固定の道具なら、さっきの回収速度も――」

 

「ライザ」

 

 タオが強めに呼んだ。

 

「それより、カーク群島の話に戻ろう」

 

「あ、うん。そうだね」

 

 ライザは名残惜しそうに床を見たが、地図へ向き直った。

 

 話は再開された。

 

 カーク群島。異変。調査。必要な人員。

 

 だが、ボオスの耳には半分しか入ってこなかった。

 

 そのうち、あっちから来る。

 

 そう思おうとした。

 

 彼女は気まぐれだ。栞を持っていっただけで、完全に繋がりを断つような性格ではない。気が向けばまた現れる。王都でもそうだった。呼んでもいないのに、ふらりと出てきたこともある。

 

 なのに、胸の奥に残る焦りは消えなかった。

 

 彼女の最後の顔を思い出す。

 

 怒ってはいなかった。

 

 けれど、笑ってもいなかった。

 

 その頃、彼女は自分のアトリエへ戻っていた。

 

 王都でも、クーケン島でもない。

 

 持ち運び式のアトリエの奥、さらに別の扉を抜けた先。

 

 そこには、最初の場所があった。

 

 果てしない本棚。

 異世界から流れ着いた品々。

 静かに動くオートマタ。

 古い紙と乾いた薬草、冷たい金属の匂い。

 

 彼女は手の中の栞を見つめていた。

 

 金属板は冷たい。

 

 さっきまで、ボオスの懐にあったもの。

 

 彼が持っていたもの。

 

 ライザという錬金術師が触ったもの。

 

 胸の奥が、ぐにゃりと歪んだ。

 

 知らない感覚だった。

 

 痛い。

 不快。

 腹立たしい。

 悲しい。

 取られたくない。

 

 言葉はいくつも知っている。文献にも、小説にも、症例にも載っていた。

 

 嫉妬。

 独占欲。

 不安。

 執着。

 

 彼女は栞を握った。

 

「……だめ」

 

 小さく呟く。

 

 これはよくない。

 

 ボオスは自分のものではない。栞を持っていてほしいと思ったのは自分だが、それで彼を縛る権利はない。ライザが触れたことに対して、こんなふうに反応するのは不合理だ。

 

 フィリスは、こんなものを持たない。

 

 無垢で、明るくて、何でも知りたがる旅の子。

 彼女は嫉妬などしない。

 誰かを自分だけのものにしたいなんて、思わない。

 

「感情調整薬の使用は推奨できません」

 

 背後から声がした。

 

 オートマタが立っていた。

 

 白磁の肌。硝子の瞳。銀糸の髪。表情は変わらないが、彼女の行動を止めようとしているのは分かる。

 

 彼女は薬棚へ手を伸ばしていた。

 

「知ってる」

 

「あなたの目的と反します」

 

「知ってる」

 

「人と関わるために外へ出たのでしょう」

 

「そうだよ」

 

「ならば、感情は観察対象ではなく、経験するものです」

 

 彼女の指が瓶に触れる。

 

 中には淡い琥珀色の薬液が入っていた。

 

 感情の尖りを鈍らせる薬。

 他者への攻撃性、過剰な執着、衝動的な記憶干渉欲求を遠ざけるためのもの。

 

 作った時は、必要だと思った。

 

 自分が何をするか分からなかったから。

 

「でも」

 

 彼女は瓶を取り出した。

 

「これ、だめな感情だもん」

 

「不都合な感情を切り捨てることは、人間としての学習を妨げます」

 

「だって、ボオスの記憶を書き換えたくなった」

 

 オートマタが沈黙した。

 

 彼女は瓶を握りしめる。

 

「ライザさんが栞を触ったこと、忘れさせたくなった。タオさんにも、ライザさんにも、私のことを忘れさせようかなって思った。そしたら、ボオスはまた私だけ呼ぶでしょ」

 

「実行していません」

 

「しようと思った」

 

「思考と実行は異なります」

 

「でも、私はできる」

 

 彼女は笑った。

 

 笑おうとして、うまくできなかった。

 

「できるから、だめなの」

 

 栞を胸に押し当てる。

 

 冷たい金属が、服越しに肌へ触れた。

 

「ボオスにはしないよ。しちゃだめって、分かるから。だから、しようと思わないようにする」

 

「それは解決ではありません」

 

「解決じゃなくていい」

 

「あなたはまた、あなた自身を道具として扱っています」

 

「私のことだからいいでしょ」

 

「よくありません」

 

 彼女は薬瓶の蓋を開けた。

 

 甘い薬草と、焦げた砂糖に似た匂いが広がる。

 

 オートマタの手が伸びる。

 

 しかし、彼女のほうが早かった。

 

「知ってる。……でも」

 

 彼女は薬を一息に飲み干した。

 

 喉が焼けるように熱くなる。

 

 胸の奥で暴れていた黒い感情が、少しずつ遠ざかる。嫉妬の棘が丸くなり、独占欲の熱が冷めていく。

 

 ボオスの顔を思い浮かべた。

 

 まだ温かい。

 

 会いたい、と思う。

 

 けれど、さっきのような痛みは薄い。

 

 彼女はほっと息を吐いた。

 

 オートマタはその様子を静かに見ていた。

 

「記録します」

 

「数えなくていいよ」

 

「数えます」

 

「管理人は真面目だね」

 

「あなたが不真面目すぎるのです」

 

 彼女は少し笑った。

 

 今度は、ちゃんと笑えた。

 

 けれど栞を握る手は、緩まなかった。

 

 その夜、ボオスは何度も懐に手をやった。

 

 そこにはもう栞がない。

 

 何もない。

 

 それが妙に腹立たしかった。

 

 ライザたちは今後の調査について話し合い、島の異変に向き合う準備を進めている。タオは資料を整理し、ライザは必要な道具を考え、ボオスも島の状況を確認するために動かなければならない。

 

 やることは山ほどある。

 

 なのに、ふとした瞬間、思考が逸れる。

 

 あいつは、なぜあんな顔をした。

 

 怒ったなら怒ればいい。文句があるなら言えばいい。いつもみたいに、ぶーぶー騒げばいい。

 

 黙って栞を持って消えた。

 

 それが、どうにも気に入らなかった。

 

「ボオス」

 

 タオに声をかけられ、ボオスは顔を上げた。

 

「大丈夫?」

 

「何が」

 

「さっきからずっと怖い顔してる」

 

「元からだ」

 

「いや、いつもより」

 

 タオは困ったように笑った。

 

「彼女、また来るよ」

 

「……分かってる」

 

「たぶん、ボオスが思ってるより、君に懐いてる」

 

「懐くって言うな」

 

「じゃあ、信頼してる」

 

 ボオスは黙った。

 

 信頼。

 

 その言葉が、重かった。

 

 彼女は自分を信用しすぎている。

 

 そう思っていた。

 

 だが、本当にそうなのか。

 

 彼女は何でもできる。どこへでも行ける。人の認識を薄め、奇妙な道具を作り、常識を簡単に越える。

 

 それなのに、呼ばれたら来た。

 

 案内してほしいと笑った。

 

 栞を預けた。

 

 ボオスは窓の外を見た。

 

 夜のクーケン島は静かだった。虫の声が草むらから響き、遠くで波が岩を叩いている。海風には塩と藻の匂いが混じっていた。

 

「……不可抗力だろ」

 

「え?」

 

「いや」

 

 ライザが栞に触れたこと。

 

 貸したわけではない。渡したわけでもない。

 

 不可抗力だ。

 

 そう考えている自分が、言い訳をしているようでまた腹立たしかった。

 

 数日が過ぎた。

 

 ライザたちの周囲では、カーク群島を巡る問題が少しずつ形を持ち始めていた。

 

 レントやクラウディア、アンペル、リラにも声をかける必要がある。仲間が集まり、また冒険が始まろうとしている。

 

 その中で、彼女の話題が出ることはあった。

 

「その錬金術師、やっぱり気になるなぁ」

 

 ライザは何度目か分からないほど呟いた。

 

「会う方法がない」

 

 ボオスは短く返す。

 

「ボオスが持ってた道具は?」

 

「持っていかれた」

 

「うーん……惜しい」

 

「惜しいで済ませるな」

 

 アンペルが合流した後、その話を聞くと、彼は明らかに表情を変えた。

 

 旅装の男は腕を組み、低く唸る。

 

「現代に生きている錬金術師。しかも聞く限り、我々よりも上を行く技術を持っている。そんなことがあり得るのか……」

 

「アンペルさんでも知らないんですか?」

 

 ライザが尋ねると、アンペルは目を細めた。

 

「知っている錬金術の系譜にはない。話だけなら、神代の……」

 

 そこで言葉を切った。

 

 リラがちらりと彼を見る。

 

「憶測で物を言うものではない、という顔だな」

 

「ああ。実物を見ていない以上、断定はできない」

 

「でも、会う方法がないんだよね」

 

 タオが言う。

 

 ボオスは黙っていた。

 

 彼女は来ない。

 

 その事実だけが、日を追うごとに重くなっていった。

 

 だが、出会いとはいつも、こちらの都合を無視して訪れる。

 

 その日、ボオスたちはサルドニカのガラス工房を訪れていた。

 

 透明な熱気が空気を揺らし、炉の奥で炎が赤く唸っている。溶けたガラスの匂いは砂と灰と熱した鉱物が混ざったようで、汗ばむ肌にまとわりついた。職人たちの声、道具が触れ合う澄んだ音、足元に散った光の反射。

 

 その中で、ボオスは足を止めた。

 

 彼女がいた。

 

 工房の奥、職人の隣で、楽しそうにガラス細工を作っている。

 

 髪をひとつに緩くまとめ、見慣れない作業用の前掛けをつけていた。目は真剣で、手つきは驚くほど丁寧だ。錬金術でどうにかするのではなく、職人に教わった通りに、熱いガラスへ息を吹き込んでいる。

 

 周囲の者たちは、彼女を普通に認識しているようだった。

 

「そこはゆっくりだよ、フィリスちゃん」

 

 職人の女性が笑う。

 

「はい。ゆっくり……ゆっくり……」

 

 彼女は慎重に息を吹き、丸いガラスを膨らませた。

 

 ボオスは目を細める。

 

「フィリス……?」

 

 ライザとタオも気づいた。

 

 ただし、二人の反応は少し遅れた。気配の質が以前と違うせいか、目の前にいても、記憶と結びつくまで時間がかかったようだった。

 

「あれ……あの人?」

 

 ライザが小声で言う。

 

 アンペルは即座に警戒を強めた。

 

 彼女は作業を終えると、職人にぺこりと頭を下げた。

 

「ちょっと用事ができたので、今日はここまでにします」

 

「あら、そう? またおいでね、フィリスちゃん」

 

「はい」

 

 彼女は振り返った。

 

 ボオスと目が合う。

 

 ぱっと顔が明るくなった。

 

「あれっ、ボオスじゃん。久しぶりー」

 

 まるで昨日も会ったかのような調子だった。

 

 ボオスの中で、数日分の苛立ちが一気に燃えた。

 

「お前が栞を持っていったからだろうが」

 

「あー」

 

 彼女は懐を探る。

 

「あれ、ふたつある……」

 

「何?」

 

「あららー。ごめんごめん」

 

 彼女は悪びれた様子もなく、薄い金属板を一枚取り出した。

 

 ボオスの前へ差し出す。

 

「はい。もう他の人に渡しちゃだめだよ」

 

「渡してない」

 

「そっか」

 

「ライザが勝手に取った」

 

「おい、ボオス!」

 

 ライザが抗議したが、ボオスは無視した。

 

 彼は栞を受け取り、すぐに懐へしまう。

 

 金属板は、久しぶりに掌へ馴染んだ。

 

 温かくはなかった。

 

 それが少し気になった。

 

 彼女はいつも通り笑っている。だが、何かが違う。

 

 前より少し、感情の輪郭が浅い。

 

 ボオスはそれを、まだ言葉にできなかった。

 

「そういえば、フィリスって?」

 

 タオが尋ねる。

 

 彼女は首を傾げた後、ああ、と笑った。

 

「私が最後に読んだ小説の主人公だよ。外を見に冒険に行く話なんだー」

 

「名前じゃないの?」

 

「うん。仮のふるまい、みたいなもの」

 

「ふるまい……」

 

 アンペルが一歩前へ出た。

 

「そろそろいいか」

 

 彼女の目が、アンペルへ向いた瞬間に揺れた。

 

「錬金術師アンペルだ。話したいことや聞きたいことが山ほどあるんだが、時間をもらえるだろうか」

 

「えー」

 

 彼女は、するりとボオスの後ろに隠れた。

 

 そして、ボオスの服の端を掴んだ。

 

 指先がわずかに震えている。

 

 ボオスは振り返る。

 

「お前、錬金術師が嫌いなのか」

 

「え? 別に嫌いじゃないよ」

 

「じゃあなんで」

 

「え……あぁ」

 

 彼女は自分の手を見た。

 

 震えがばれていることに、ようやく気づいたらしい。

 

「人、いっぱいだから……」

 

 工房には、ライザ、タオ、アンペル、リラ、他の仲間たち、職人たちがいる。

 

 彼女にとっては多すぎるのだろう。

 

「何人くらいならいける」

 

「二人」

 

「分かった」

 

 ボオスは顔を上げた。

 

「ライザとアンペルさんだけ来てくれ。こいつ、大人数が苦手らしい」

 

「そっか。じゃあ、私のアトリエ行こっか。そこなら私たち以外もいないし」

 

 ライザがすぐに言った。

 

 彼女はボオスの背中に隠れたまま、小さく呟く。

 

「ボオスと私で二人なのに……」

 

 ボオスは聞こえないふりをした。

 

 少しだけ胸が痛んだ。

 

「俺は他の奴に説明してくる」

 

 ボオスが離れようとすると、彼女の手が離れなかった。

 

 強い。

 

 見た目からは想像できない力で、服を掴んでいる。

 

「あ、僕が説明しておくから」

 

 タオが慌てて言った。

 

「ボオスは一緒にいてあげて」

 

「……悪い」

 

 タオは軽く頷き、レントたちのほうへ向かった。

 

 彼女はまだボオスの後ろに隠れている。

 

 ライザは少しだけ柔らかい顔をした。

 

「大丈夫。無理に聞いたりしないよ」

 

「錬金術師は、好奇心が強いから信用できない」

 

「それ、自分にも刺さってない?」

 

「私はいいの」

 

「いいんだ」

 

 アンペルは黙って彼女を観察していた。

 

 その目は鋭いが、敵意はない。

 

 彼女はさらにボオスの袖を掴んだ。

 

 ボオスは小さく息を吐く。

 

「行くぞ」

 

「うん」

 

 四人はライザのアトリエへ向かった。

 

 夏の光は眩しく、島の道には潮風と青草の匂いが満ちている。

 

 隣を歩く彼女は、ボオスの袖を掴んだままだった。

 

 戻ってきた栞は懐にある。

 

 しかし今度は、彼女自身が手を離さない。

 

 ボオスは歩きながら、ちらりと彼女を見る。

 

 彼女はいつものように笑おうとしていた。

 

 けれど、その笑みは少しだけ作り物めいていた。

 

 ボオスはそれに気づき、眉間の皺を深くした。

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