名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】 作:an-ryuka
ライザのアトリエには、夏の匂いが満ちていた。
開け放たれた窓から入り込む潮風。棚に吊るされた薬草の青い香り。釜の底に残る金属と煤の匂い。外では鳥が鳴き、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
名前のない彼女は、入口をくぐった瞬間、きょろきょろと部屋を見回した。
棚。
釜。
道具。
書きかけのメモ。
使い終わった材料の欠片。
「へぇ」
小さな声が漏れた。
そこには彼女のアトリエのような、冷たい整然さはなかった。物は多く、所々に乱れがある。けれど、その乱れは怠慢ではない。何度も試して、何度も作って、考えている途中で手が止まり、また次へ進んだ跡だった。
彼女は棚の前で足を止めた。
「……いいね」
ライザが少し照れたように笑う。
「そう? 散らかってるってよく言われるけど」
「散らかってるんじゃなくて、生きてる」
「生きてる?」
「うん。ここで考えた人の跡がある」
その声は穏やかだった。
ボオスは横目で彼女を見る。
工房で見せていた作り物めいた笑みは、少しだけ薄れていた。代わりに、彼女本来の静かな好奇心が戻ってきている。
ただ、手はまだボオスの袖を掴んだままだった。
「座るか?」
ボオスが言うと、彼女は一瞬だけ目を上げた。
「ボオスも座る?」
「俺は立っていてもいい」
「じゃあ私も立つ」
「……座れ」
「ボオスも」
ライザが口元を押さえて笑いそうになる。
アンペルは咳払いした。
「話を進めてもいいか」
ボオスは渋々、壁際の椅子に腰を下ろした。彼女はその隣に座る。距離は近い。近すぎる。肩が触れそうな位置で、なおかつ袖はまだ掴まれている。
ボオスは眉間に皺を寄せたが、振りほどきはしなかった。
ライザとアンペルが向かいに座る。
しばらく、誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのはアンペルだった。
「君は錬金術師で間違いないな」
「うん」
「どこの系譜だ」
「系譜?」
「誰に師事した。どの流派を学んだ」
「本と管理人」
あまりにもあっさりした答えに、ライザが目を瞬かせる。
「本だけで?」
「うん。あとは、流れ着いた道具とか、記録とか。分からないところは作って試した」
「作って試したって……」
ライザは思わず身を乗り出す。
「それで、あんな栞とか、地面に入口を作るアトリエとか作れるようになったの?」
「必要だったから」
「必要だったからで作れるものじゃないと思うなぁ……」
「そう?」
彼女は本気で不思議そうに首を傾げた。
アンペルの目が鋭くなる。
「君の技術は明らかに現代の水準から逸脱している。少なくとも、私の知る限りではな」
「そうかもね」
「なぜこの世界に来た」
「人に会ってみたかったから」
ライザが少し驚いた顔をする。
アンペルは黙って続きを促した。
彼女はボオスの袖を指先で弄びながら、ぽつぽつと話した。
「私は、色んな世界の本が流れ着く場所にいたの。歴史とか技術とか、失われた記録とか、そういうものがいっぱいあるところ。そこで育った」
「この世界の外か」
「そうとも言えるし、隙間とも言えるかな」
「隙間……」
アンペルは顎に手を当てた。
彼女は続ける。
「私は、たくさん知ってる。知ってるけど、経験したわけじゃない。恋愛小説を読んで、楽しいと思った。人が誰かに会いたいと思うのが不思議だった。だから見に来た」
「それでボオスに?」
ライザが尋ねる。
彼女はぱっと顔を明るくした。
「うん。最初に目に入ったのがボオスだった」
「本を読んでただけだ」
ボオスがぼそりと言う。
「面白そうだったよ」
「どこがだ」
「眉間の皺」
「お前な」
ライザがつい笑った。
空気が少し緩む。
だがアンペルは緩まなかった。
「君は、我々に協力するつもりがあるのか」
彼女の指が止まる。
ボオスの袖を掴む力が、わずかに強くなった。
「何に?」
「カーク群島の件だ。君ほどの技術があるなら、調査も解決も早まる可能性が高い」
「うん」
「なら――」
「でも、私はあんまり手を出したくない」
ライザが息を止めた。
アンペルは眉を動かす。
「なぜだ」
「この世界に影響が出るから」
「今さらだろう。君はすでにボオスと関わり、村の道具も作った」
「だから、あれは壊れるようにした。見たら分かるようにした。既存の組み合わせにした。私がいなくても、この世界の人が次を作れるように」
彼女はライザを見た。
「ライザさんたちが困っていることも、たぶん私は答えを出せる」
部屋の中の音が消えたようだった。
外の波音だけが、遠くで揺れている。
「でも、その答えは私が出すものじゃない」
アンペルの顔が険しくなる。
「それは傲慢ではないか」
「そうかも」
「知っていながら出さないことが、善だと言い切れるのか」
「言い切れないよ」
彼女はまっすぐ答えた。
「でも、答えだけ持っていくのは簡単なの。簡単すぎる。ライザさんが考える時間、タオさんが調べる時間、アンペルさんが悩む時間、みんなが失敗して、それでも進む時間。それを私が消すのは、勿体ない」
ライザは黙って彼女を見ていた。
その言葉は、錬金術師として胸に刺さるものだった。
便利な道具がある。
強い力がある。
答えがある。
けれど、それを使えばいいとは限らない。
「結果より重要なことがあるってこと?」
ライザが静かに言った。
彼女は小さく頷く。
「うん。一直線に答えへ辿り着くことに意味がないとは言わない。でも、あなたたちには勿体ないと思う」
「勿体ない……」
ライザは膝の上で拳を握った。
しばらく考え込む。
アンペルは不満そうだった。だが、完全に否定する言葉も出ないらしい。
ボオスは、二人の難しい顔を眺めていた。
正直、話の半分も分からない。
世界の外。歴史。答え。影響。
だが、ひとつだけ分かることがある。
「よく分からんが」
ボオスは口を開いた。
三人の視線が集まる。
「こいつのこれは、善意だぞ」
彼女が目を見開いた。
袖を掴んでいた指が、ぴくりと震える。
ボオスは視線を逸らしながら続けた。
「やり方が分かりにくいし、説明も足りないし、常識も足りない。だが、誰かを困らせたいわけじゃない」
「ボオス、それ褒めてる?」
「黙ってろ」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑みは、工房で見せたものよりずっと自然だった。
ライザも少し笑う。
「うん。分かった」
「ライザ」
アンペルが低く呼ぶ。
「聞きたいことは山ほどある。でも、今すぐ答えだけもらっても、たぶん私たちのためにならない気がする」
「君らしいな」
「アンペルさんは納得してない?」
「当然だ。未知の高位錬金術師が目の前にいて、質問を我慢しろと言われている」
「ごめんね」
彼女は軽く頭を下げた。
アンペルはため息をつく。
「謝るくらいなら、少しは答えてほしいものだがな」
「答えじゃなくて、見方なら話せるよ」
「見方?」
「たとえば、この素材はこういう性質を持たせやすい、とか。そこから何を作るかは、ライザさんが考える」
ライザの目が輝いた。
「それならいいの?」
「うん。道を歩くのはライザさんだから」
「……それ、すごくいい」
ライザは立ち上がり、棚からいくつか材料を持ってきた。
「じゃあ、これ。これについて聞いてもいい?」
「いいよ」
そこからしばらく、ライザと彼女の会話が続いた。
アンペルは横から補足し、ときどき鋭い質問を挟む。彼女は答えすぎないように注意しながら、素材の癖や組み合わせの方向性だけを示した。
ボオスには、やはりよく分からなかった。
ただ、彼女の声がだんだん楽しそうになっていくのは分かった。
自分の知識を押しつけるのではなく、誰かが考えていく瞬間を見る。それが彼女にとって本当に楽しいのだろう。
その横顔を見ていると、ボオスの胸の奥にあった苛立ちは少しずつ薄れていった。
やがて話が一段落した頃、外は夕方になっていた。
窓から差し込む光が赤くなり、アトリエの瓶を淡く染めている。
「今日はここまでにしよう」
アンペルが言った。
「根を詰めすぎてもよくない」
「えー、もう少しだけ」
ライザが名残惜しそうに言う。
「だめだ。情報量が多すぎる」
「私もそろそろ帰る」
彼女が立ち上がった。
ようやくボオスの袖から手が離れる。
その瞬間、ボオスは反射的に彼女の手首を掴んでいた。
彼女が驚いたように振り返る。
「ボオス?」
自分でも、なぜ掴んだのか分からなかった。
ただ、離したらまた何日も消えそうな気がした。
ボオスは少し顔をしかめる。
「明日、呼ぶ」
「え」
「来い。分かったな」
彼女は数秒、言葉を失った。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん。分かった」
「勝手に栞を持っていくな」
「持っていかないよ」
「他人に記憶だの認識だの、妙なこともするな」
「してないよ」
「しようともするな」
「……うん」
最後の返事だけ、少し遅れた。
ボオスはそれに気づいたが、今は追及しなかった。
彼女は小さく笑う。
「明日、待ってる」
「俺が呼ぶんだ」
「うん。待ってる」
足元に淡い光が広がる。
彼女の輪郭が薄れ、床へ沈むように消えていった。
ライザはその跡をじっと見つめていた。
「すごいなぁ……」
「感心するなと言っただろ」
「でも、すごいものはすごいよ」
アンペルは腕を組んだまま、険しい顔をしている。
「あれは、我々が簡単に扱っていい存在ではない」
ボオスは黙っていた。
「基本的には干渉不可だと考えたほうがいい。よほどのことがあれば助ける可能性はあるが、宛にはできん」
「うん」
ライザが頷く。
「それに、本人も答えを出したくないって言ってたしね」
「見た目や気配を変える錬金具も、我々のものより高度だ。隠れて行動されれば、捕捉は難しい」
タオたちに説明するため、三人は外へ出た。
仲間たちはアトリエの外で待っていた。レントは腕を組み、クラウディアは心配そうにこちらを見る。リラは無言で気配を探っているようだった。
「どうだった?」
タオが尋ねる。
ライザは少し考えてから答えた。
「悪い人じゃないと思う。でも、簡単に頼れる人でもない」
「何者なんだ?」
レントがボオスを見る。
ボオスは短く答えた。
「分からん」
「お前、結構会ってるんだろ」
「分からんものは分からん」
そう言い切るしかなかった。
その夜、ボオスは一人になってから栞を取り出した。
薄い金属板は、今度こそ自分の手元にある。
握ると、ほんのり温かくなった。
向こうで彼女も触れているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……明日だ」
ボオスは栞をしまった。
外では、クーケン島の波が静かに寄せては返している。
彼女が何者なのかは、まだ分からない。
それでも、明日呼べば来る。
その確かさだけが、今は妙に重く、温かかった。