名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】   作:an-ryuka

5 / 5
5.

 ライザのアトリエには、夏の匂いが満ちていた。

 

 開け放たれた窓から入り込む潮風。棚に吊るされた薬草の青い香り。釜の底に残る金属と煤の匂い。外では鳥が鳴き、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。

 

 名前のない彼女は、入口をくぐった瞬間、きょろきょろと部屋を見回した。

 

 棚。

 釜。

 道具。

 書きかけのメモ。

 使い終わった材料の欠片。

 

「へぇ」

 

 小さな声が漏れた。

 

 そこには彼女のアトリエのような、冷たい整然さはなかった。物は多く、所々に乱れがある。けれど、その乱れは怠慢ではない。何度も試して、何度も作って、考えている途中で手が止まり、また次へ進んだ跡だった。

 

 彼女は棚の前で足を止めた。

 

「……いいね」

 

 ライザが少し照れたように笑う。

 

「そう? 散らかってるってよく言われるけど」

 

「散らかってるんじゃなくて、生きてる」

 

「生きてる?」

 

「うん。ここで考えた人の跡がある」

 

 その声は穏やかだった。

 

 ボオスは横目で彼女を見る。

 

 工房で見せていた作り物めいた笑みは、少しだけ薄れていた。代わりに、彼女本来の静かな好奇心が戻ってきている。

 

 ただ、手はまだボオスの袖を掴んだままだった。

 

「座るか?」

 

 ボオスが言うと、彼女は一瞬だけ目を上げた。

 

「ボオスも座る?」

 

「俺は立っていてもいい」

 

「じゃあ私も立つ」

 

「……座れ」

 

「ボオスも」

 

 ライザが口元を押さえて笑いそうになる。

 

 アンペルは咳払いした。

 

「話を進めてもいいか」

 

 ボオスは渋々、壁際の椅子に腰を下ろした。彼女はその隣に座る。距離は近い。近すぎる。肩が触れそうな位置で、なおかつ袖はまだ掴まれている。

 

 ボオスは眉間に皺を寄せたが、振りほどきはしなかった。

 

 ライザとアンペルが向かいに座る。

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

 最初に沈黙を破ったのはアンペルだった。

 

「君は錬金術師で間違いないな」

 

「うん」

 

「どこの系譜だ」

 

「系譜?」

 

「誰に師事した。どの流派を学んだ」

 

「本と管理人」

 

 あまりにもあっさりした答えに、ライザが目を瞬かせる。

 

「本だけで?」

 

「うん。あとは、流れ着いた道具とか、記録とか。分からないところは作って試した」

 

「作って試したって……」

 

 ライザは思わず身を乗り出す。

 

「それで、あんな栞とか、地面に入口を作るアトリエとか作れるようになったの?」

 

「必要だったから」

 

「必要だったからで作れるものじゃないと思うなぁ……」

 

「そう?」

 

 彼女は本気で不思議そうに首を傾げた。

 

 アンペルの目が鋭くなる。

 

「君の技術は明らかに現代の水準から逸脱している。少なくとも、私の知る限りではな」

 

「そうかもね」

 

「なぜこの世界に来た」

 

「人に会ってみたかったから」

 

 ライザが少し驚いた顔をする。

 

 アンペルは黙って続きを促した。

 

 彼女はボオスの袖を指先で弄びながら、ぽつぽつと話した。

 

「私は、色んな世界の本が流れ着く場所にいたの。歴史とか技術とか、失われた記録とか、そういうものがいっぱいあるところ。そこで育った」

 

「この世界の外か」

 

「そうとも言えるし、隙間とも言えるかな」

 

「隙間……」

 

 アンペルは顎に手を当てた。

 

 彼女は続ける。

 

「私は、たくさん知ってる。知ってるけど、経験したわけじゃない。恋愛小説を読んで、楽しいと思った。人が誰かに会いたいと思うのが不思議だった。だから見に来た」

 

「それでボオスに?」

 

 ライザが尋ねる。

 

 彼女はぱっと顔を明るくした。

 

「うん。最初に目に入ったのがボオスだった」

 

「本を読んでただけだ」

 

 ボオスがぼそりと言う。

 

「面白そうだったよ」

 

「どこがだ」

 

「眉間の皺」

 

「お前な」

 

 ライザがつい笑った。

 

 空気が少し緩む。

 

 だがアンペルは緩まなかった。

 

「君は、我々に協力するつもりがあるのか」

 

 彼女の指が止まる。

 

 ボオスの袖を掴む力が、わずかに強くなった。

 

「何に?」

 

「カーク群島の件だ。君ほどの技術があるなら、調査も解決も早まる可能性が高い」

 

「うん」

 

「なら――」

 

「でも、私はあんまり手を出したくない」

 

 ライザが息を止めた。

 

 アンペルは眉を動かす。

 

「なぜだ」

 

「この世界に影響が出るから」

 

「今さらだろう。君はすでにボオスと関わり、村の道具も作った」

 

「だから、あれは壊れるようにした。見たら分かるようにした。既存の組み合わせにした。私がいなくても、この世界の人が次を作れるように」

 

 彼女はライザを見た。

 

「ライザさんたちが困っていることも、たぶん私は答えを出せる」

 

 部屋の中の音が消えたようだった。

 

 外の波音だけが、遠くで揺れている。

 

「でも、その答えは私が出すものじゃない」

 

 アンペルの顔が険しくなる。

 

「それは傲慢ではないか」

 

「そうかも」

 

「知っていながら出さないことが、善だと言い切れるのか」

 

「言い切れないよ」

 

 彼女はまっすぐ答えた。

 

「でも、答えだけ持っていくのは簡単なの。簡単すぎる。ライザさんが考える時間、タオさんが調べる時間、アンペルさんが悩む時間、みんなが失敗して、それでも進む時間。それを私が消すのは、勿体ない」

 

 ライザは黙って彼女を見ていた。

 

 その言葉は、錬金術師として胸に刺さるものだった。

 

 便利な道具がある。

 強い力がある。

 答えがある。

 

 けれど、それを使えばいいとは限らない。

 

「結果より重要なことがあるってこと?」

 

 ライザが静かに言った。

 

 彼女は小さく頷く。

 

「うん。一直線に答えへ辿り着くことに意味がないとは言わない。でも、あなたたちには勿体ないと思う」

 

「勿体ない……」

 

 ライザは膝の上で拳を握った。

 

 しばらく考え込む。

 

 アンペルは不満そうだった。だが、完全に否定する言葉も出ないらしい。

 

 ボオスは、二人の難しい顔を眺めていた。

 

 正直、話の半分も分からない。

 

 世界の外。歴史。答え。影響。

 

 だが、ひとつだけ分かることがある。

 

「よく分からんが」

 

 ボオスは口を開いた。

 

 三人の視線が集まる。

 

「こいつのこれは、善意だぞ」

 

 彼女が目を見開いた。

 

 袖を掴んでいた指が、ぴくりと震える。

 

 ボオスは視線を逸らしながら続けた。

 

「やり方が分かりにくいし、説明も足りないし、常識も足りない。だが、誰かを困らせたいわけじゃない」

 

「ボオス、それ褒めてる?」

 

「黙ってろ」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

 その笑みは、工房で見せたものよりずっと自然だった。

 

 ライザも少し笑う。

 

「うん。分かった」

 

「ライザ」

 

 アンペルが低く呼ぶ。

 

「聞きたいことは山ほどある。でも、今すぐ答えだけもらっても、たぶん私たちのためにならない気がする」

 

「君らしいな」

 

「アンペルさんは納得してない?」

 

「当然だ。未知の高位錬金術師が目の前にいて、質問を我慢しろと言われている」

 

「ごめんね」

 

 彼女は軽く頭を下げた。

 

 アンペルはため息をつく。

 

「謝るくらいなら、少しは答えてほしいものだがな」

 

「答えじゃなくて、見方なら話せるよ」

 

「見方?」

 

「たとえば、この素材はこういう性質を持たせやすい、とか。そこから何を作るかは、ライザさんが考える」

 

 ライザの目が輝いた。

 

「それならいいの?」

 

「うん。道を歩くのはライザさんだから」

 

「……それ、すごくいい」

 

 ライザは立ち上がり、棚からいくつか材料を持ってきた。

 

「じゃあ、これ。これについて聞いてもいい?」

 

「いいよ」

 

 そこからしばらく、ライザと彼女の会話が続いた。

 

 アンペルは横から補足し、ときどき鋭い質問を挟む。彼女は答えすぎないように注意しながら、素材の癖や組み合わせの方向性だけを示した。

 

 ボオスには、やはりよく分からなかった。

 

 ただ、彼女の声がだんだん楽しそうになっていくのは分かった。

 

 自分の知識を押しつけるのではなく、誰かが考えていく瞬間を見る。それが彼女にとって本当に楽しいのだろう。

 

 その横顔を見ていると、ボオスの胸の奥にあった苛立ちは少しずつ薄れていった。

 

 やがて話が一段落した頃、外は夕方になっていた。

 

 窓から差し込む光が赤くなり、アトリエの瓶を淡く染めている。

 

「今日はここまでにしよう」

 

 アンペルが言った。

 

「根を詰めすぎてもよくない」

 

「えー、もう少しだけ」

 

 ライザが名残惜しそうに言う。

 

「だめだ。情報量が多すぎる」

 

「私もそろそろ帰る」

 

 彼女が立ち上がった。

 

 ようやくボオスの袖から手が離れる。

 

 その瞬間、ボオスは反射的に彼女の手首を掴んでいた。

 

 彼女が驚いたように振り返る。

 

「ボオス?」

 

 自分でも、なぜ掴んだのか分からなかった。

 

 ただ、離したらまた何日も消えそうな気がした。

 

 ボオスは少し顔をしかめる。

 

「明日、呼ぶ」

 

「え」

 

「来い。分かったな」

 

 彼女は数秒、言葉を失った。

 

 それから、ゆっくり頷いた。

 

「うん。分かった」

 

「勝手に栞を持っていくな」

 

「持っていかないよ」

 

「他人に記憶だの認識だの、妙なこともするな」

 

「してないよ」

 

「しようともするな」

 

「……うん」

 

 最後の返事だけ、少し遅れた。

 

 ボオスはそれに気づいたが、今は追及しなかった。

 

 彼女は小さく笑う。

 

「明日、待ってる」

 

「俺が呼ぶんだ」

 

「うん。待ってる」

 

 足元に淡い光が広がる。

 

 彼女の輪郭が薄れ、床へ沈むように消えていった。

 

 ライザはその跡をじっと見つめていた。

 

「すごいなぁ……」

 

「感心するなと言っただろ」

 

「でも、すごいものはすごいよ」

 

 アンペルは腕を組んだまま、険しい顔をしている。

 

「あれは、我々が簡単に扱っていい存在ではない」

 

 ボオスは黙っていた。

 

「基本的には干渉不可だと考えたほうがいい。よほどのことがあれば助ける可能性はあるが、宛にはできん」

 

「うん」

 

 ライザが頷く。

 

「それに、本人も答えを出したくないって言ってたしね」

 

「見た目や気配を変える錬金具も、我々のものより高度だ。隠れて行動されれば、捕捉は難しい」

 

 タオたちに説明するため、三人は外へ出た。

 

 仲間たちはアトリエの外で待っていた。レントは腕を組み、クラウディアは心配そうにこちらを見る。リラは無言で気配を探っているようだった。

 

「どうだった?」

 

 タオが尋ねる。

 

 ライザは少し考えてから答えた。

 

「悪い人じゃないと思う。でも、簡単に頼れる人でもない」

 

「何者なんだ?」

 

 レントがボオスを見る。

 

 ボオスは短く答えた。

 

「分からん」

 

「お前、結構会ってるんだろ」

 

「分からんものは分からん」

 

 そう言い切るしかなかった。

 

 その夜、ボオスは一人になってから栞を取り出した。

 

 薄い金属板は、今度こそ自分の手元にある。

 

 握ると、ほんのり温かくなった。

 

 向こうで彼女も触れているのかもしれない。

 

 そう思った瞬間、胸の奥が落ち着かなくなる。

 

「……明日だ」

 

 ボオスは栞をしまった。

 

 外では、クーケン島の波が静かに寄せては返している。

 

 彼女が何者なのかは、まだ分からない。

 

 それでも、明日呼べば来る。

 

 その確かさだけが、今は妙に重く、温かかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。