名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】 作:an-ryuka
翌日、ボオスは朝から機嫌が悪かった。
理由は分かっている。
昨日、自分で言ったからだ。
明日、呼ぶ。来い。分かったな。
その言葉が、朝からずっと頭の中に残っていた。
別に特別な約束ではない。今までだって何度も呼んだ。王都で、街道で、寮で、護衛仕事の帰り道で。今回も同じだ。ただ場所がクーケン島になっただけで、何も変わらない。
何も変わらないはずなのに、妙に落ち着かない。
島の空はよく晴れていた。海は青く、波は白く砕け、風には潮と干した網の匂いが混じっている。港では漁師が樽を転がし、女たちが魚の値段で言い合っていた。
「今日は小ぶりだねぇ」
「そのぶん身が締まってるんだよ。見りゃ分かるだろ」
「見ても値段は下がらないねぇ」
そんな島の日常の声を背に、ボオスは人気の少ない水辺まで歩いた。
ライザたちは朝からカーク群島のことで動いている。タオは資料をまとめ、アンペルは調査の方針を立て、レントとリラは周辺の警戒に出た。ボオスも本来ならそちらへ顔を出すべきだったが、今は先に済ませることがある。
懐から栞を出す。
昨日戻ってきた薄い金属板。
ボオスはしばらくそれを見下ろした。
「……来い」
短く言って、栞を握る。
石が温かくなった。
それはすぐだった。
足元の影がゆらりと揺れ、潮風の中に、古い紙と薬草の匂いが混ざる。
「呼ばれて飛び出て――」
「普通に出てこい」
「じゃじゃーん……は、小声ならいい?」
「だめだ」
彼女は岩の影から顔を出した。
昨日と同じように、明るい顔をしている。だが、ボオスはすぐに違和感を覚えた。
笑っている。
楽しそうに見える。
けれど、どこか浅い。
王都で初めて市場を見た時のような、勝手に足が動いてしまうほどの浮かれ方ではなかった。サルドニカのガラス工房で見せた、何かを薄く整えたような笑みと似ている。
「おはよ、ボオス」
「……ああ」
「今日は島の案内?」
「少しだけだ」
「やった」
彼女は両手を上げて喜んだ。
仕草は大げさだ。
だが、その喜びが目の奥まで届いていない気がする。
ボオスは眉を寄せた。
「何?」
「いや」
「変な顔」
「元からだ」
「そうだったね」
「納得するな」
彼女はくすくす笑い、ボオスの隣へ並んだ。
今日は自分への認識を薄くしているらしく、少し離れると輪郭が視界から滑りそうになる。ボオス以外の島民には、きっと彼女の姿は曖昧にしか映らないのだろう。
「またそれを使ってるのか」
「うん。島の人に急に知られたら、困るでしょ?」
「お前が普通にしていれば済む話だ」
「普通、難しい」
「それはそうだな」
「ひどい」
抗議の声にも、いつもの棘が薄い。
ボオスはそれを覚えておいた。
二人は島の道を歩いた。
夏草の匂いが濃い。石垣の隙間には小さな花が咲き、水車の回る音が一定のリズムで響いている。畑では年寄りたちが腰を曲げ、若い男が荷車を押していた。
彼女は時折立ち止まり、道の端や古い家の壁を見る。
「ここ、前に直してるね」
「ああ。台風で崩れたことがある」
「直し方が丁寧」
「島の奴らは、こういうことには手を抜かない」
「いいね」
彼女は目を細めた。
「クーケン島、好きかも」
その言葉に、ボオスは少しだけ足を止めた。
「まだほとんど見てないだろ」
「見たよ。道と、壁と、水車と、人の話し声。十分じゃないけど、好きになるには足りる」
「軽いな」
「好きになるのに、重さって必要?」
ボオスは答えなかった。
彼女は笑う。
「今の、小説っぽい?」
「知らん」
「ボオスは恋愛小説読まないの?」
「読む暇がない」
「読んだほうがいいよ。人の気持ちがいっぱい書いてある」
「お前が言うと説得力がない」
「む」
彼女は頬を膨らませた。
少しだけ、いつもの彼女に戻った気がした。
その後も、ボオスは時々彼女を呼んだ。
案内と言いながら、実際にはただ話しながら歩くだけの日が増えた。クーケン島の浜辺、旧市街の細道、ラーゼン地区の坂、水辺の木陰。彼女はどこへ連れて行っても楽しそうにした。
カーク群島の調査で、ライザたちが異界めいた場所へ踏み込んだ時にも、ボオスは半ば試すように栞を握った。
来るはずがない。
そう思っていた。
だが、足元の影が揺れた。
「へぇ」
彼女は何事もないように現れ、周囲を見回した。
「こんなところもあるんだね」
「……お前、本当にどこにでも来るな」
「呼んだのボオスだよ?」
「そうだが」
「じゃあ来るよ」
あまりにも当然のように言うものだから、ボオスはしばらく返事ができなかった。
ライザは少し離れたところで目を輝かせ、アンペルは頭を抱え、レントは「こいつも大概だな」と呟いた。
彼女はそんな反応をほとんど気にしない。
ただ、他の者がいる時に呼んでも、出てこないことも多かった。
栞だけが温かくなり、少しして冷める。
後で二人きりの時に問いただすと、彼女は不満そうに唇を尖らせた。
「だって、案内じゃないじゃん。ぶーぶー」
「人がいるからだろ」
「それもある」
「人見知りか」
「人見知り、って言葉は便利だね」
「誤魔化すな」
「人と関わりすぎると、世界が歪むかもしれないから」
彼女はそう言った。
その理由を出されると、ボオスは強く言えなくなる。
だが、それがすべてではないことも、もう分かっていた。
彼女は人が多い場所が苦手だ。
それなのに、恋愛の気配がするとこっそり眺めたがる。
見られるのは嫌がるくせに、見るのは好き。
矛盾だらけだった。
それでも、その矛盾が少しずつ彼女を人間に見せていた。
ある日、ボオスが一人で島の道を歩いていると、古くからの島民に声をかけられた。
「ボオス坊ちゃん、今日は冒険はいいのかい?」
声をかけてきたのは、畑帰りの老人だった。日に焼けた顔に深い皺があり、麦わら帽子の下から白髪がはみ出している。背は曲がっているが、目はやけに鋭い。
「冒険じゃない。調査だ」
「似たようなもんだろう。ライザと最近よくつるんでるって聞いたよ」
ボオスの眉間が動いた。
「必要があるからだ」
「そうかいそうかい。で、進展はあったのかい?」
「何の話だ」
「とぼけなくてもいいさ。あのライザもすっかり立派になったしねぇ。島のために錬金術で動いてくれるし、ブルネン家とも釣り合いが――」
「ない」
ボオスは低く切った。
老人はにやにやした。
「昔から喧嘩するほど何とやらって言うじゃないか」
「そんなんじゃない」
「そうかねぇ」
「違う」
語気が強くなった。
老人は両手を上げる。
「おお、怖い怖い。若いのはすぐ怒る」
悪気がないのは分かる。
だが、だからこそ厄介だった。
島ではよくあることだ。誰と誰が仲がいい、あの家の跡取りにはそろそろ相手が必要だ、ライザはどうだ、王都で変な女に引っかかるな。
父にも似たようなことを遠回しに言われた。
今のライザなら悪くない。
大学で適当なのに引っかかるな。
お前は島の跡取りだ。
恋愛など、考えている暇はない。
ブルネン家のこと。島のこと。大学のこと。自分が背負うもの。
それだけで十分すぎる。
ボオスは足早にその場を離れた。
少し行った先で、無意識に栞を握っていることに気づいた。
「……」
呼ぶつもりはなかった。
だが、栞は温かくなっている。
足元の影から、彼女がひょいと出てきた。
「呼んだ?」
「……呼んだ」
「今、ちょっと間があった」
「呼んだと言っている」
「はいはい」
彼女は楽しそうに笑った。
今日はいつもより距離が近かった。隣に並ぶだけでなく、当然のようにボオスの腕に軽く触れる。認識を薄くしているため、周囲から見ればボオスは一人で歩いているように見えるのだろう。
「何かあった?」
「何もない」
「嘘っぽい」
「お前に嘘の見分けがつくのか」
「つくよ。ボオス分かりやすいもん」
「お前ほどじゃない」
彼女は首を傾げた。
「私、分かりやすい?」
「ああ」
「そうかなぁ」
その返事が、また引っかかった。
以前なら、もっと大げさに驚いただろう。あるいは、拗ねて袖を引っ張っただろう。今は反応が薄い。違和感が積み重なって、形になり始める。
ボオスは立ち止まった。
彼女も止まる。
「お前、何をした」
「えっ、なんのこと?」
「前と違う」
「前?」
「前はもっと……」
言葉が詰まった。
もっと何だ。
うるさかった。
騒がしかった。
面倒だった。
表情がよく動いた。
そして、傷ついた時は傷ついた顔をしていた。
彼女は目をそらした。
「んー。違和感出ちゃうほど変えたっけなぁ……」
ボオスの声が低くなる。
「変えた?」
「あ」
「何を」
「ええと」
彼女は逃げるように笑った。
「感情の表出度合い……みたいな?」
ボオスの機嫌が、一段と悪くなった。
それを見て、彼女の口からさらに余計な言葉がこぼれる。
「違うよ。危ないのだけ。嫉妬とか、行っちゃやだとか、記憶書き換えたいとか、そういうのを遠ざけるようにしただけで」
「記憶?」
「ちがうよ!」
彼女は慌てて両手を振った。
「ボオスにはやらないよ! 大丈夫。だめだって分かるから。しようと思わないようにしたの。してないよ。本当だよ」
ボオスは黙っていた。
沈黙が重くなる。
彼女の声がだんだん小さくなった。
「……ライザさんが栞触った時、嫌だった。すごく嫌だった。タオさんにも、ライザさんにも、私のこと忘れさせようかなって思った。そしたらボオスはまた私だけ呼ぶかなって」
「お前」
「してない」
「当たり前だ」
「だから、しないようにしたの」
「自分には?」
彼女の目が揺れた。
分かりやすい。
ボオスは一歩近づいた。
「自分にはやったのか」
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「何回か」
「何回だ」
「覚えてない」
その答えに、ボオスは息を呑んだ。
覚えていない。
つまり、数えていないのではない。
覚えないようにしている可能性がある。
「管理人は数えてる」
彼女はぽつりと付け足した。
「止められた。でも、だって、嫌な感情って効率悪いし。寂しいとか、痛いとか、会いたいのに会えないとか、意味分かんないし。沈めればいいでしょ」
「よくない」
ボオスの声は、自分でも驚くほど強かった。
彼女がびくりと肩を揺らす。
「何で」
「よくないものはよくない」
「説明になってない」
「お前だって説明になってないことばかり言うだろうが」
「それはそうだけど」
「薬は」
「え?」
「持ってるんだろ。出せ」
彼女は分かりやすく後ずさった。
「やだ」
「出せ」
「これは私のものだもん」
「だから何だ」
「私が私に使うだけなら――」
「だめだ」
ボオスは手を差し出した。
「出せ」
彼女は唇を引き結ぶ。
しばらく睨み合いになった。
夏の風が二人の間を抜ける。近くの草むらで虫が鳴き、遠くでは誰かが洗濯物を叩く音がしていた。日常の音があるのに、ここだけ切り離されたように静かだった。
「ボオスには関係ない」
彼女が小さく言った。
その言葉は、たぶん自分を守るためのものだった。
けれど、ボオスの胸には別の刺さり方をした。
「関係ないなら、俺を呼ぶな」
彼女の顔から色が引いた。
言い過ぎた。
そう思ったが、ボオスは引かなかった。
「俺に栞を持たせて、呼べと言って、勝手に来て、勝手に消えて、勝手に自分を変えるな」
「……」
「お前が何を感じるかは、お前のものだろう」
彼女は目を見開いた。
その言葉を、初めて聞く言語のように受け取っていた。
「でも、悪い感情だよ」
「悪いかどうかを薬に決めさせるな」
「だって」
「だってじゃない」
彼女は顔を歪めた。
怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
その表情を見て、ボオスは少しだけ息を吐く。
「全部出せ。捨てるとは言ってない。俺が持っておく」
「預かる?」
「そうだ」
「また?」
「ああ。まただ」
彼女は俯いた。
指先が鞄の留め具に触れる。ためらいながら、彼女は小さな瓶をひとつ、ふたつ、三つと取り出した。さらに薄い紙包み、香を封じた小箱、腕輪のような錬金具まで。
ボオスの顔が険しくなる。
「多いな」
「少ないほうだよ」
「黙れ」
「はい」
彼女は不満そうに唇を尖らせながらも、全部差し出した。
ボオスはそれを布に包み、懐ではなく鞄の奥にしまう。
「もう飲むな」
「……うん」
「使うな」
「うん」
「勝手に新しく作るな」
「それは」
「作るな」
「ぶー」
「返事」
「作らない」
彼女は拗ねた顔でそっぽを向いた。
だが、逃げなかった。
ボオスはその様子を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「気分は」
「むかむかする」
「薬を取り上げたからか」
「それもある」
「他は」
「ボオスが怒った」
「怒るだろ」
「怒られるの、変な感じ」
彼女は胸元を押さえた。
「痛い。でも、遠ざけちゃだめなんだよね」
「……少なくとも今はな」
「今だけ?」
「先のことは知らん」
彼女は少し黙った後、そろそろとボオスの腕に手を伸ばした。
触れる寸前で止まる。
「近づいていい?」
前なら聞かなかった。
勝手に袖を掴み、腕に絡んだ。
それが、今は尋ねている。
ボオスは視線を逸らした。
「勝手にしろ」
「じゃあ勝手にする」
彼女はボオスの腕に軽く絡んだ。
薬を飲む前より、距離が近い。
感情を沈めるものを取り上げたばかりなのに、彼女の体温はいつもよりはっきり伝わってきた。
「案内して」
「今からか」
「うん。むかむかするから、楽しいもの見たい」
「都合がいいな」
「ボオスが持っていったんだもん」
「俺のせいにするな」
「ちょっとだけ」
彼女は腕に額を寄せた。
「ちょっとだけ、ボオスのせいにさせて」
ボオスは何も言わなかった。
ただ、歩き出した。
彼女は隣を歩く。
認識はまだ薄いままだ。島民から見れば、ボオスは一人で道を歩いているだけだろう。けれど腕には確かに彼女の重みがあり、袖を掴む指の力がある。
それを感じるたび、ボオスの胸の奥は複雑に軋んだ。
止める権利があったのか。
彼女が自分にしたことを、自分は怒っていいのか。
それでも、もう嫌だとは言えない。
言いたくない。
水車の音が近づく。
彼女は顔を上げ、目を少しだけ輝かせた。
「ボオス」
「何だ」
「私、今、楽しい」
「そうか」
「むかむかもしてる」
「そうか」
「あと、ちょっと寂しい」
「……そうか」
「いっぱいあるね」
彼女は不思議そうに笑った。
ボオスは前を向いたまま、低く答えた。
「人間は、そういうものなんだろ」
彼女は目を瞬かせる。
それから、小さく頷いた。
「管理人と同じこと言う」
「不本意だな」
「でも、ボオスが言うほうが聞ける」
「面倒な奴だ」
「うん」
彼女は素直に頷き、腕に絡む力を少しだけ強めた。
その日は、日が暮れるまで島を歩いた。
誰にも認識されないまま。
けれどボオスだけは、隣にいる彼女の存在を、嫌になるほどはっきり感じていた。