名もなき錬金術師は、好きだと宣う【ライザのアトリエ】   作:an-ryuka

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6.

 翌日、ボオスは朝から機嫌が悪かった。

 

 理由は分かっている。

 

 昨日、自分で言ったからだ。

 

 明日、呼ぶ。来い。分かったな。

 

 その言葉が、朝からずっと頭の中に残っていた。

 

 別に特別な約束ではない。今までだって何度も呼んだ。王都で、街道で、寮で、護衛仕事の帰り道で。今回も同じだ。ただ場所がクーケン島になっただけで、何も変わらない。

 

 何も変わらないはずなのに、妙に落ち着かない。

 

 島の空はよく晴れていた。海は青く、波は白く砕け、風には潮と干した網の匂いが混じっている。港では漁師が樽を転がし、女たちが魚の値段で言い合っていた。

 

「今日は小ぶりだねぇ」

 

「そのぶん身が締まってるんだよ。見りゃ分かるだろ」

 

「見ても値段は下がらないねぇ」

 

 そんな島の日常の声を背に、ボオスは人気の少ない水辺まで歩いた。

 

 ライザたちは朝からカーク群島のことで動いている。タオは資料をまとめ、アンペルは調査の方針を立て、レントとリラは周辺の警戒に出た。ボオスも本来ならそちらへ顔を出すべきだったが、今は先に済ませることがある。

 

 懐から栞を出す。

 

 昨日戻ってきた薄い金属板。

 

 ボオスはしばらくそれを見下ろした。

 

「……来い」

 

 短く言って、栞を握る。

 

 石が温かくなった。

 

 それはすぐだった。

 

 足元の影がゆらりと揺れ、潮風の中に、古い紙と薬草の匂いが混ざる。

 

「呼ばれて飛び出て――」

 

「普通に出てこい」

 

「じゃじゃーん……は、小声ならいい?」

 

「だめだ」

 

 彼女は岩の影から顔を出した。

 

 昨日と同じように、明るい顔をしている。だが、ボオスはすぐに違和感を覚えた。

 

 笑っている。

 

 楽しそうに見える。

 

 けれど、どこか浅い。

 

 王都で初めて市場を見た時のような、勝手に足が動いてしまうほどの浮かれ方ではなかった。サルドニカのガラス工房で見せた、何かを薄く整えたような笑みと似ている。

 

「おはよ、ボオス」

 

「……ああ」

 

「今日は島の案内?」

 

「少しだけだ」

 

「やった」

 

 彼女は両手を上げて喜んだ。

 

 仕草は大げさだ。

 

 だが、その喜びが目の奥まで届いていない気がする。

 

 ボオスは眉を寄せた。

 

「何?」

 

「いや」

 

「変な顔」

 

「元からだ」

 

「そうだったね」

 

「納得するな」

 

 彼女はくすくす笑い、ボオスの隣へ並んだ。

 

 今日は自分への認識を薄くしているらしく、少し離れると輪郭が視界から滑りそうになる。ボオス以外の島民には、きっと彼女の姿は曖昧にしか映らないのだろう。

 

「またそれを使ってるのか」

 

「うん。島の人に急に知られたら、困るでしょ?」

 

「お前が普通にしていれば済む話だ」

 

「普通、難しい」

 

「それはそうだな」

 

「ひどい」

 

 抗議の声にも、いつもの棘が薄い。

 

 ボオスはそれを覚えておいた。

 

 二人は島の道を歩いた。

 

 夏草の匂いが濃い。石垣の隙間には小さな花が咲き、水車の回る音が一定のリズムで響いている。畑では年寄りたちが腰を曲げ、若い男が荷車を押していた。

 

 彼女は時折立ち止まり、道の端や古い家の壁を見る。

 

「ここ、前に直してるね」

 

「ああ。台風で崩れたことがある」

 

「直し方が丁寧」

 

「島の奴らは、こういうことには手を抜かない」

 

「いいね」

 

 彼女は目を細めた。

 

「クーケン島、好きかも」

 

 その言葉に、ボオスは少しだけ足を止めた。

 

「まだほとんど見てないだろ」

 

「見たよ。道と、壁と、水車と、人の話し声。十分じゃないけど、好きになるには足りる」

 

「軽いな」

 

「好きになるのに、重さって必要?」

 

 ボオスは答えなかった。

 

 彼女は笑う。

 

「今の、小説っぽい?」

 

「知らん」

 

「ボオスは恋愛小説読まないの?」

 

「読む暇がない」

 

「読んだほうがいいよ。人の気持ちがいっぱい書いてある」

 

「お前が言うと説得力がない」

 

「む」

 

 彼女は頬を膨らませた。

 

 少しだけ、いつもの彼女に戻った気がした。

 

 その後も、ボオスは時々彼女を呼んだ。

 

 案内と言いながら、実際にはただ話しながら歩くだけの日が増えた。クーケン島の浜辺、旧市街の細道、ラーゼン地区の坂、水辺の木陰。彼女はどこへ連れて行っても楽しそうにした。

 

 カーク群島の調査で、ライザたちが異界めいた場所へ踏み込んだ時にも、ボオスは半ば試すように栞を握った。

 

 来るはずがない。

 

 そう思っていた。

 

 だが、足元の影が揺れた。

 

「へぇ」

 

 彼女は何事もないように現れ、周囲を見回した。

 

「こんなところもあるんだね」

 

「……お前、本当にどこにでも来るな」

 

「呼んだのボオスだよ?」

 

「そうだが」

 

「じゃあ来るよ」

 

 あまりにも当然のように言うものだから、ボオスはしばらく返事ができなかった。

 

 ライザは少し離れたところで目を輝かせ、アンペルは頭を抱え、レントは「こいつも大概だな」と呟いた。

 

 彼女はそんな反応をほとんど気にしない。

 

 ただ、他の者がいる時に呼んでも、出てこないことも多かった。

 

 栞だけが温かくなり、少しして冷める。

 

 後で二人きりの時に問いただすと、彼女は不満そうに唇を尖らせた。

 

「だって、案内じゃないじゃん。ぶーぶー」

 

「人がいるからだろ」

 

「それもある」

 

「人見知りか」

 

「人見知り、って言葉は便利だね」

 

「誤魔化すな」

 

「人と関わりすぎると、世界が歪むかもしれないから」

 

 彼女はそう言った。

 

 その理由を出されると、ボオスは強く言えなくなる。

 

 だが、それがすべてではないことも、もう分かっていた。

 

 彼女は人が多い場所が苦手だ。

 それなのに、恋愛の気配がするとこっそり眺めたがる。

 見られるのは嫌がるくせに、見るのは好き。

 

 矛盾だらけだった。

 

 それでも、その矛盾が少しずつ彼女を人間に見せていた。

 

 ある日、ボオスが一人で島の道を歩いていると、古くからの島民に声をかけられた。

 

「ボオス坊ちゃん、今日は冒険はいいのかい?」

 

 声をかけてきたのは、畑帰りの老人だった。日に焼けた顔に深い皺があり、麦わら帽子の下から白髪がはみ出している。背は曲がっているが、目はやけに鋭い。

 

「冒険じゃない。調査だ」

 

「似たようなもんだろう。ライザと最近よくつるんでるって聞いたよ」

 

 ボオスの眉間が動いた。

 

「必要があるからだ」

 

「そうかいそうかい。で、進展はあったのかい?」

 

「何の話だ」

 

「とぼけなくてもいいさ。あのライザもすっかり立派になったしねぇ。島のために錬金術で動いてくれるし、ブルネン家とも釣り合いが――」

 

「ない」

 

 ボオスは低く切った。

 

 老人はにやにやした。

 

「昔から喧嘩するほど何とやらって言うじゃないか」

 

「そんなんじゃない」

 

「そうかねぇ」

 

「違う」

 

 語気が強くなった。

 

 老人は両手を上げる。

 

「おお、怖い怖い。若いのはすぐ怒る」

 

 悪気がないのは分かる。

 

 だが、だからこそ厄介だった。

 

 島ではよくあることだ。誰と誰が仲がいい、あの家の跡取りにはそろそろ相手が必要だ、ライザはどうだ、王都で変な女に引っかかるな。

 

 父にも似たようなことを遠回しに言われた。

 

 今のライザなら悪くない。

 大学で適当なのに引っかかるな。

 お前は島の跡取りだ。

 

 恋愛など、考えている暇はない。

 

 ブルネン家のこと。島のこと。大学のこと。自分が背負うもの。

 

 それだけで十分すぎる。

 

 ボオスは足早にその場を離れた。

 

 少し行った先で、無意識に栞を握っていることに気づいた。

 

「……」

 

 呼ぶつもりはなかった。

 

 だが、栞は温かくなっている。

 

 足元の影から、彼女がひょいと出てきた。

 

「呼んだ?」

 

「……呼んだ」

 

「今、ちょっと間があった」

 

「呼んだと言っている」

 

「はいはい」

 

 彼女は楽しそうに笑った。

 

 今日はいつもより距離が近かった。隣に並ぶだけでなく、当然のようにボオスの腕に軽く触れる。認識を薄くしているため、周囲から見ればボオスは一人で歩いているように見えるのだろう。

 

「何かあった?」

 

「何もない」

 

「嘘っぽい」

 

「お前に嘘の見分けがつくのか」

 

「つくよ。ボオス分かりやすいもん」

 

「お前ほどじゃない」

 

 彼女は首を傾げた。

 

「私、分かりやすい?」

 

「ああ」

 

「そうかなぁ」

 

 その返事が、また引っかかった。

 

 以前なら、もっと大げさに驚いただろう。あるいは、拗ねて袖を引っ張っただろう。今は反応が薄い。違和感が積み重なって、形になり始める。

 

 ボオスは立ち止まった。

 

 彼女も止まる。

 

「お前、何をした」

 

「えっ、なんのこと?」

 

「前と違う」

 

「前?」

 

「前はもっと……」

 

 言葉が詰まった。

 

 もっと何だ。

 

 うるさかった。

 騒がしかった。

 面倒だった。

 表情がよく動いた。

 

 そして、傷ついた時は傷ついた顔をしていた。

 

 彼女は目をそらした。

 

「んー。違和感出ちゃうほど変えたっけなぁ……」

 

 ボオスの声が低くなる。

 

「変えた?」

 

「あ」

 

「何を」

 

「ええと」

 

 彼女は逃げるように笑った。

 

「感情の表出度合い……みたいな?」

 

 ボオスの機嫌が、一段と悪くなった。

 

 それを見て、彼女の口からさらに余計な言葉がこぼれる。

 

「違うよ。危ないのだけ。嫉妬とか、行っちゃやだとか、記憶書き換えたいとか、そういうのを遠ざけるようにしただけで」

 

「記憶?」

 

「ちがうよ!」

 

 彼女は慌てて両手を振った。

 

「ボオスにはやらないよ! 大丈夫。だめだって分かるから。しようと思わないようにしたの。してないよ。本当だよ」

 

 ボオスは黙っていた。

 

 沈黙が重くなる。

 

 彼女の声がだんだん小さくなった。

 

「……ライザさんが栞触った時、嫌だった。すごく嫌だった。タオさんにも、ライザさんにも、私のこと忘れさせようかなって思った。そしたらボオスはまた私だけ呼ぶかなって」

 

「お前」

 

「してない」

 

「当たり前だ」

 

「だから、しないようにしたの」

 

「自分には?」

 

 彼女の目が揺れた。

 

 分かりやすい。

 

 ボオスは一歩近づいた。

 

「自分にはやったのか」

 

「……ちょっと」

 

「ちょっと?」

 

「何回か」

 

「何回だ」

 

「覚えてない」

 

 その答えに、ボオスは息を呑んだ。

 

 覚えていない。

 

 つまり、数えていないのではない。

 

 覚えないようにしている可能性がある。

 

「管理人は数えてる」

 

 彼女はぽつりと付け足した。

 

「止められた。でも、だって、嫌な感情って効率悪いし。寂しいとか、痛いとか、会いたいのに会えないとか、意味分かんないし。沈めればいいでしょ」

 

「よくない」

 

 ボオスの声は、自分でも驚くほど強かった。

 

 彼女がびくりと肩を揺らす。

 

「何で」

 

「よくないものはよくない」

 

「説明になってない」

 

「お前だって説明になってないことばかり言うだろうが」

 

「それはそうだけど」

 

「薬は」

 

「え?」

 

「持ってるんだろ。出せ」

 

 彼女は分かりやすく後ずさった。

 

「やだ」

 

「出せ」

 

「これは私のものだもん」

 

「だから何だ」

 

「私が私に使うだけなら――」

 

「だめだ」

 

 ボオスは手を差し出した。

 

「出せ」

 

 彼女は唇を引き結ぶ。

 

 しばらく睨み合いになった。

 

 夏の風が二人の間を抜ける。近くの草むらで虫が鳴き、遠くでは誰かが洗濯物を叩く音がしていた。日常の音があるのに、ここだけ切り離されたように静かだった。

 

「ボオスには関係ない」

 

 彼女が小さく言った。

 

 その言葉は、たぶん自分を守るためのものだった。

 

 けれど、ボオスの胸には別の刺さり方をした。

 

「関係ないなら、俺を呼ぶな」

 

 彼女の顔から色が引いた。

 

 言い過ぎた。

 

 そう思ったが、ボオスは引かなかった。

 

「俺に栞を持たせて、呼べと言って、勝手に来て、勝手に消えて、勝手に自分を変えるな」

 

「……」

 

「お前が何を感じるかは、お前のものだろう」

 

 彼女は目を見開いた。

 

 その言葉を、初めて聞く言語のように受け取っていた。

 

「でも、悪い感情だよ」

 

「悪いかどうかを薬に決めさせるな」

 

「だって」

 

「だってじゃない」

 

 彼女は顔を歪めた。

 

 怒っているようにも、泣きそうにも見えた。

 

 その表情を見て、ボオスは少しだけ息を吐く。

 

「全部出せ。捨てるとは言ってない。俺が持っておく」

 

「預かる?」

 

「そうだ」

 

「また?」

 

「ああ。まただ」

 

 彼女は俯いた。

 

 指先が鞄の留め具に触れる。ためらいながら、彼女は小さな瓶をひとつ、ふたつ、三つと取り出した。さらに薄い紙包み、香を封じた小箱、腕輪のような錬金具まで。

 

 ボオスの顔が険しくなる。

 

「多いな」

 

「少ないほうだよ」

 

「黙れ」

 

「はい」

 

 彼女は不満そうに唇を尖らせながらも、全部差し出した。

 

 ボオスはそれを布に包み、懐ではなく鞄の奥にしまう。

 

「もう飲むな」

 

「……うん」

 

「使うな」

 

「うん」

 

「勝手に新しく作るな」

 

「それは」

 

「作るな」

 

「ぶー」

 

「返事」

 

「作らない」

 

 彼女は拗ねた顔でそっぽを向いた。

 

 だが、逃げなかった。

 

 ボオスはその様子を見て、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

「気分は」

 

「むかむかする」

 

「薬を取り上げたからか」

 

「それもある」

 

「他は」

 

「ボオスが怒った」

 

「怒るだろ」

 

「怒られるの、変な感じ」

 

 彼女は胸元を押さえた。

 

「痛い。でも、遠ざけちゃだめなんだよね」

 

「……少なくとも今はな」

 

「今だけ?」

 

「先のことは知らん」

 

 彼女は少し黙った後、そろそろとボオスの腕に手を伸ばした。

 

 触れる寸前で止まる。

 

「近づいていい?」

 

 前なら聞かなかった。

 

 勝手に袖を掴み、腕に絡んだ。

 

 それが、今は尋ねている。

 

 ボオスは視線を逸らした。

 

「勝手にしろ」

 

「じゃあ勝手にする」

 

 彼女はボオスの腕に軽く絡んだ。

 

 薬を飲む前より、距離が近い。

 

 感情を沈めるものを取り上げたばかりなのに、彼女の体温はいつもよりはっきり伝わってきた。

 

「案内して」

 

「今からか」

 

「うん。むかむかするから、楽しいもの見たい」

 

「都合がいいな」

 

「ボオスが持っていったんだもん」

 

「俺のせいにするな」

 

「ちょっとだけ」

 

 彼女は腕に額を寄せた。

 

「ちょっとだけ、ボオスのせいにさせて」

 

 ボオスは何も言わなかった。

 

 ただ、歩き出した。

 

 彼女は隣を歩く。

 

 認識はまだ薄いままだ。島民から見れば、ボオスは一人で道を歩いているだけだろう。けれど腕には確かに彼女の重みがあり、袖を掴む指の力がある。

 

 それを感じるたび、ボオスの胸の奥は複雑に軋んだ。

 

 止める権利があったのか。

 

 彼女が自分にしたことを、自分は怒っていいのか。

 

 それでも、もう嫌だとは言えない。

 

 言いたくない。

 

 水車の音が近づく。

 

 彼女は顔を上げ、目を少しだけ輝かせた。

 

「ボオス」

 

「何だ」

 

「私、今、楽しい」

 

「そうか」

 

「むかむかもしてる」

 

「そうか」

 

「あと、ちょっと寂しい」

 

「……そうか」

 

「いっぱいあるね」

 

 彼女は不思議そうに笑った。

 

 ボオスは前を向いたまま、低く答えた。

 

「人間は、そういうものなんだろ」

 

 彼女は目を瞬かせる。

 

 それから、小さく頷いた。

 

「管理人と同じこと言う」

 

「不本意だな」

 

「でも、ボオスが言うほうが聞ける」

 

「面倒な奴だ」

 

「うん」

 

 彼女は素直に頷き、腕に絡む力を少しだけ強めた。

 

 その日は、日が暮れるまで島を歩いた。

 

 誰にも認識されないまま。

 

 けれどボオスだけは、隣にいる彼女の存在を、嫌になるほどはっきり感じていた。

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