ロズワール邸での最初の朝は、静かに、しかし確実にセリアの日常を塗り替えていった。
エミリアにお粥を食べさせてもらうという、前世の男としての理性が消し飛びかねないイベントを終えた後、セリアは支給された衣服に着替えていた。用意されていたのは、動きやすいが仕立ての良い、淡いブルーのワンピース。没落貴族の娘という設定(記憶)を持つセリアの身体には、驚くほどよく馴染んだ。
鏡の前に立つ。
そこに映るのは、色素の薄い亜麻色の髪に、どこか憂いを帯びた琥珀色の瞳を持つ少女だ。全体的に線が細く、放っておけば消えてしまいそうな儚さがある。
(……これが、今の俺。いや、私、か)
まだ胸のあたりがスースーする感覚には慣れないが、不思議と嫌な気分ではなかった。むしろ、この身体だからこそ、あの銀髪の少女――エミリアの隣に自然にいられるのだという事実に、奇妙な高揚感すら覚えていた。
コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響く。
「セリア様、失礼いたします。お目覚めになられたと、エミリア様より伺いました」
扉を開けて入ってきたのは、揃いのメイド服に身を包んだ、双子の少女だった。
一人は鮮やかな桃色の髪をショートカットにした、気の強そうな少女――ラム。
もう一人は、対照的に落ち着いた水色の髪で、前髪で片目を隠した少女――レム。
リゼロにおける超重要人物たちの登場に、セリアの背筋がわずかに緊張で強張る。スバルのように「魔女の残り香」をプンプンさせているわけではないはずだが、彼女たちの鋭い観察眼を前にすると、転生者としての後ろめたさがチクリと胸を刺した。
「初めまして。私はセリア・エヴァンスと申します。三日間も寝込んでしまって、お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
セリアは丁寧に頭を下げた。前世のサラリーマン時代の経験が、ここで妙な綺麗なお辞儀として出力される。
双子は一瞬、意外そうな目でお互いを見交わした。行き倒れの没落貴族という触れ込みだったが、想像以上に礼儀正しかったからだろうか。
「……丁寧なご挨拶、恐れ入ります。私は姉のラム。こちらは妹のレム。このロズワール邸のメイドを務めております」
「レムと申します。セリア様の傷が癒えたようで、何よりです。……エミリア様が、本当に心配なさっていましたから」
レムの言葉には、どこか探るような響きが含まれていたが、それでも敵意は感じられない。スバルが最初に受けたような、あからさまな不審の目は向けられていないことに、セリアは心の底から安堵した。
「旦那様がお呼びです。身体が動くようでしたら、執務室までご案内いたします。……歩けますか?」
ラムが淡々と告げる。
「はい、大丈夫です。案内をお願いします」
ロズワール・L・メイザースの執務室は、彼の奇抜な衣服やピエロのようなメイクに反して、酷く洗練され、重厚な空気に満ちていた。
「いやぁ〜あ、よくぞ目覚めてくれたものだーね、セリア嬢」
机に肘をつき、左右で色の異なるオドアイを妖しく光らせながら、ロズワールが独特のイントネーションで語りかけてくる。その傍らには、すでにエミリアも座っており、心配そうにセリアを見守っていた。
「エミリア様の危機を救ってくれたこと、まずは領主として、そして彼女の後見人として、深ーーく感謝するよ」
「滅相もありません。私はただ、エミリアを助けたい一心で身体が動いただけですから」
セリアは慎重に言葉を選んだ。ロズワールは「福音書」の記述に従って行動している。スバルという「存在しないはずの要素」の代わりに自分が現れたことを彼がどう捉えているか、それを探る必要があった。
「ふぅ〜む、エミリア様を助けたい一心、ねぇ」
ロズワールは立ち上がり、音もなくセリアの前に歩み寄ってきた。独特の圧迫感が室内を満たす。
「王都での君の戦いぶりは、パックから詳しく聞いていーる。エルザ・グランヒルテの動きを止めた、不思議な『重力』の魔法。それは、通常の陰属性魔法の範疇を遥かに超えていーる。……君は一体、何者なのかな?」
その問いに、セリアの心臓が跳ねた。
だが、ここで取り乱せばロズワールの思うツボだ。セリアはあえて悲しげに視線を落とし、事前に構築していた「偽りの記憶」をなぞるように話し始めた。
「……自分でも、よく分からないのです。私の実家は小さな貴族でしたが、魔獣の襲撃で領地を失い、両親も亡くなりました。王都へ向かう道中、飢えと恐怖の中で、私の中の『gate』が変質してしまったようで……。あの時も、エミリアが刃に倒れそうになるのを見た瞬間、頭の中が真っ白になって、気づけば魔力が暴走していました」
嘘は言っていない。gateが変質したのも、エミリアを助けたくて暴走したのも事実だ。ただ、前世が男だという事実と、原作知識の部分だけを綺麗に削ぎ落とした。
ロズワールはしばらくセリアの顔をじっと見つめていたが、やがて「くっ、くふふ」と肩を揺らして笑い出した。
「なるほど、絶望の中で開花した、特異な才能というわけだーね。面白い。じーーつに興味深い。……エミリア様、あなたはどうされたいですか?」
話を振られたエミリアは、待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「ロズワール、私はセリアにこの屋敷にいてほしいの。セリアには行くあてがないわ。それに、私のためにあんなに大怪我までしてくれたのよ? このまま放り出すなんて、ぜーったいに嫌だわ!」
エミリアの真っ直ぐな言葉に、セリアの胸がキュッと締め付けられる。なんて優しい子なのだろう。
ロズワールはわざとらしくため息をついて見せた。
「エミリア様がそこまで言うなら、無下に追い出すわけにもいかないなぁ。……では、セリア嬢。君の身体が完全に本調子に戻るまで、当面はこの屋敷の『食客』として滞在することを認めよーう。ただ、落ち着いたら少しばかりの雑務を手伝ってもらってもいいかな?」
「はい! 喜んでお受けします。ありがとうございます、ロズワール様」
セリアは深く頭を下げた。
これで、エミリアの側に堂々といるための通行証を手に入れた。ストーリーの改変に対する不安はあるものの、エミリアの隣にいられるという事実が、今のセリアにとって何よりの救いだった。
数日が経過した。
セリアの主な役割は、エミリアの「お勉強の付き合い」だった。王選候補者として、歴史や政治、地理などの膨大な知識を詰め込まれているエミリアだが、元が世間知らずの森育ちであるため、かなり苦戦している様子だった。
一方のセリアは、転生時にインストールされたこの世界の知識と、前世の「大人の脳」があるため、驚くほどスムーズにルグニカの文字や歴史を理解していくことができた。
「すごーい、セリア。もうここの法律の文章、全部読めちゃうの? 私なんて、何回読んでも頭がこんがらがっちゃうのに……」
午後、日の差し込む談話室で、エミリアは机に突っ伏しながら、感心したようにセリアを見上げた。
セリアは苦笑しながら、エミリアの前に開かれた本を指差す。
「エミリアは真面目すぎるんだよ。一文字ずつ完璧に理解しようとするから疲れちゃうの。ここはね、もっと全体の流れを掴むように読むと楽だよ。例えば、この項目はね……」
セリアが優しく解説すると、エミリアは「なるほど!」と紫紺の瞳を輝かせた。
距離が近い。エミリアが身を乗り出すたびに、彼女の長い銀髪がセリアの肩に触れ、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
(男の時なら、こんな距離に美女がいたら緊張で死んでたな……)
セリアは内心で冷や汗をかきつつも、今の自分の「少女の身体」のおかげで、エミリアが一切の警戒心を抱かずに懐いてくれていることに、歪んだ優越感と、それ以上の純粋な愛おしさを覚えていた。
「ふふ、セリアが先生になってくれたら、私、もっと早くたくさん覚えられるかも」
「私が先生? 滅相もないよ。でも……エミリアが望むなら、いつでも隣で教えるよ」
「本当? 約束よ?」
エミリアは嬉しそうに、セリアの手をぎゅっと握りしめた。
その手の温もりが、セリアの心臓の鼓動をまた少しだけ速くする。
夕方になり、勉強が一段落した二人は、リフレッシュを兼ねて屋敷の広大な庭園を散歩することにした。
ルグニカの夕日は、驚くほど赤く、庭園に咲き誇る白い花々を妖艶な茜色に染め上げていた。
「綺麗ね……」
エミリアが足を止め、遠くの地平線を見つめる。
その横顔は、言葉を失うほど美しかった。しかし、その瞳には、夕日の赤さに紛れるような、微かな「寂しさ」が滲んでいるのを、セリアは見逃さなかった。