夜、ロズワール邸は深い静寂に包まれていた。
セリアはベッドの中で、どうしても寝付けずにいた。
昼間、庭園で見せたエミリアのあの表情が、どうしても頭から離れなかったのだ。
原作の知識として知っている。彼女が「嫉妬の魔女」と同じハーフエルフであるというだけで、どれほど不当に蔑まれ、孤独な道を歩んできたか。そして、王選という過酷な舞台に立つ彼女が、どれほどの重圧を一人で背負い込んでいるか。
(私は……ただの転生者だ。スバルのような『死に戻り』の力もない。でも、あのエルザの時みたいに、何かできることがあるはずなのに)
悶々とした気持ちを落ち着かせるため、セリアは少し冷たい空気を吸おうと、部屋のバルコニーへと出た。
ルグニカの夜空には、満月が青白く輝いている。
美しい月明かりに照らされた庭園を見下ろした時、セリアは目を疑った。
東屋の近く、月光を浴びて輝く銀色の髪。
エミリアが、一人でそこに立っていた。
彼女は夜風に吹かれながら、自分の両手を胸元でぎゅっと握りしめ、静かに月を見上げている。その姿は、あまりにも儚げで、今にも夜の闇に溶けて消えてしまいそうだった。
セリアは気がつけば、上着を一枚羽織って、部屋を飛び出していた。
静かに草を踏む音に気づいたのか、エミリアがハッと振り返った。
「――誰? ……あ、セリア?」
「夜遅くに、ごめん。バルコニーからエミリアが見えたから、つい……」
セリアは少し気まずそうに髪を掻きながら、エミリアの元へと歩み寄った。夜風がセリアの薄い衣服を揺らし、身体が少し震える。
「セリアこそ、そんな薄着で大丈夫? ほら、こっちに来て」
エミリアは自分の纏っていた大判のショールを広げると、セリアを自分の側へと引き寄せ、二人で一つのショールにくるまるようにした。
「えっ……あ、ありが、とう……」
突然の超至近距離。ショールの中で、エミリアの身体の温もりがダイレクトに伝わってくる。セリアの心臓は、静かな夜の庭園に響き渡りそうなほど激しく脈打ち始めた。
「ふふ、セリアって、意外と身体が小さいのね。こうしてると、なんだか可愛い妹ができたみたい」
エミリアはクスリと笑ったが、その瞳はすぐに、また昼間のような深い憂いを帯びたものに戻ってしまった。
二人の間に、心地よくも、どこか切ない沈黙が流れる。
月光がエミリアの白い肌を照らし、彼女の美しさを引き立てる。
「ねえ、セリア」
エミリアがぽつりと、夜空に溶けるような声で呟いた。
「私ね……本当は、すごく怖いの」
「王選のこと?」
セリアが優しく問いかける。
「ええ。……私、ハーフエルフでしょう? 王都でも、みんな私を見るなり嫌な顔をしたり、逃げ出したりしたわ。それはね、もう慣れてるの。悲しいけれど、仕方のないことだって分かっているから。でも……」
エミリアはショールを握る手に力を込めた。
「そんな私が王様になりたいなんて言ったら、みんな困るでしょう? ロズワールは協力してくれているけれど、他の人たちはみんな、私のことを『魔女の申し子』って呼んで蔑むの。……私、本当に間違っていないのかな。私のせいで、周りの人をたくさん傷つけてしまうんじゃないかって、時々、息ができなくなるくらい怖くなるのよ」
それは、誰にも言えなかったハーフエルフの少女の、本当の叫びだった。
パックという大精霊がいても、彼の前では「強いリア」でいようとしてしまう。ラムやレムの前では「お屋敷の客分」として振る舞わなければならない。
だけど、出会って間もない、そして自分を命がけで守ってくれた同じ「少女」であるセリアの前だからこそ、彼女は初めてその心の脆い部分を曝け出すことができたのだ。
セリアは、胸が張り裂けそうなほどの痛みを覚えた。
前世で画面の向こう側にいたエミリア。彼女の苦しみを知っていたつもりだった。だが、こうして血の通った一人の少女として、自分の腕の届く距離で震えている彼女を見た時、セリアの中の「男の庇護欲」と「女としての深い共感」が完全に融合した。
「間違ってなんか、ないよ」
セリアは、エミリアの言葉を遮るように、静かだが確固たる口調で言った。
「え……?」
セリアはショールの中で、エミリアの両手をそっと包み込んだ。
少し冷たくなっている彼女の手。セリアは自分の体温をすべて分けるように、その指先を強く、優しく握りしめる。
「周りがエミリアをどう見ようと、関係ない。私は、王都の路地裏で私を助けてくれたエミリアを知ってる。自分の徽章が盗まれて大変なのに、見ず知らずの私を助けて、お粥まで食べさせてくれる……そんな優しくて、誰よりも一生懸命なエミリアを知ってるよ」
セリアはエミリアの紫紺の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。琥珀色の瞳に、強い意志の炎が灯る。
「世界中の人がエミリアを魔女だって罵っても、私は絶対に味方でいる。エミリアが目指す未来がどんなに険しくても、私は隣で一緒に歩くよ。……だから、一人で怖がらないで」
「セリア……」
エミリアの目から、一筋の涙が溢れ、月光に揺れて地面へと落ちた。
「私、強くないよ……? すごーく子供だし、頭も良くないし、頼りないのに……」
「いいよ。強くないエミリアも、泣き虫なエミリアも、全部私が受け止めるから」
それは、もはや単なる「ヒロインへの憧れ」ではなかった。
TS転生という奇妙な運命を経て、この世界で「セリア」として生きる彼女が、エミリアという一人の女性に捧げた、魂の告白だった。
エミリアは溢れる涙を隠そうともせず、セリアの胸へと顔を埋めた。
小さな身体が、セリアの腕の中で小刻みに震えている。セリアは優しく、エミリアの銀髪を撫で、その背中を抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう、セリア……っ」
月下の庭園で、二人の少女の影が一つに重なる。
繋いだ指先から伝わる、お互いの確かな鼓動。
まだ始まったばかりの過酷な運命の中で、二人の絆は、誰よりも深く、甘やかに結ばれようとしていた。