期末試験を無事に突破し、高育は夏休みに入った。
朝、オレは朝食を食べる前から、身支度をして部屋を出る。
待ち合わせ場所の寮前で数分ほど時間を潰せば、今日誘ってくれた坂柳が、神室を連れて姿を見せた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「時間前だ、気にするな」
終業式が終わった直後、オレの今日と7/31の予定は坂柳に押さえられてしまった。
なんでも、8/1から予定されているクルージングに坂柳は参加できないので、2週間会えない分を先に遊んでおくのだとか。
「ねえ、なんで私があんたたちのデートに付き合わなきゃいけないわけ?」
坂柳の後ろで、神室が不満そうに文句を言う。
「私と2人きりで出歩いては、綾小路くんが望ましくない噂を立てられてしまうかもしれないでしょう? なので私が一番仲の良いあなたをお誘いしただけのことです」
「あっそ。綾小路と2人きりで恥ずかしいからかと思った」
「何を言っているんですかそんなわけないじゃないですか」
坂柳はニコニコと笑みを浮かべながら、どこか早口になって否定した。
「行きましょう、綾小路くん」
「今更だが、外でよかったのか?」
オレと坂柳の交流は主にオンラインのボードゲームだが、何度か坂柳の部屋にお邪魔したこともある。
しかし、外で会ったことは今まで無かった。
「機会は2日ありますし。今日は少し気温が低めですから、どちらかを外で遊ぶなら、今日の方がいいでしょう」
「お前が平気ならいいんだ。どこか行きたいところはあるのか?」
今日は一緒に遊ぶ約束をしていただけで、具体的に何をするのかという話はしていなかった。
「ふふ。エスコートは男性の役目ではないですか」
「デートじゃないんだ。友人同士で意見をすり合わせればいいだろ」
「まずは朝食じゃないの? 私も食べてないんだけど」
実はオレも少し小腹が空いてきたところだった。
「そうですね。何かご提案は?」
「悪いが安いところで頼む。7月に少し入ってきたが、金欠なんだ」
7月、Dクラスのクラスポイントは83に回復したが、それでも受け取れるプライベートポイントは8300。
入学からもう4ヶ月目なので、節約してきたとは言え、流石に懐が厳しい。
一般的には、こういう甲斐性の無いことを言うと女性に愛想を尽かされるのだろうが、同じく高育というシステムの中で過ごし互いに理解のあるオレたちにとっては、さして問題にならないだろう。
「そのくらい、私が出しますよ」
「……悩ましいな」
「いや、そこは断るところでしょ」
「申し出を断るということは、坂柳と神室を安い店に付き合わせるということだぞ」
「……確かに、それはそうかも」
「だが、金を払ってもらってしまうと、対等な友人という意識が崩れてしまいそうだ」
「どっちにしてもダメじゃん」
「まあ、本当のところは、既に予約している店があるのですが。こちらですよ」
オレは神室と目を見合って、先導する坂柳の隣をゆっくりと歩き出した。
「今のやり取りなんだったの……?」
「ふふふ。少し揶揄っただけではありませんか」
「なんとなくそんなことだろうとは、思っていたけどな」
「安心してください。私が勝手に店を決めてしまったので、綾小路くんのお代は私が出します。お詫びに」
「ありがたい」
坂柳の歩調に合わせて15分ほど歩き、着いたのは少しお高めなレストランだった。
「初めての場所だな」
「騒いだりしなければ、大したマナーが求められるわけでもありませんよ」
「こういう堅苦しそうなとこ嫌なんだけど」
「しょうがないです。もう予約してしまっていますから」
中に入ると、ウェイターに連れられて、早朝のため誰もいない店内を通り奥のテーブル席へ。
神室が先に奥側の座席へ入り、坂柳がその隣に。オレは坂柳の前に座った。
「好きなものを頼んでください」
「好きなものと言われても、食べたことのないものばかりだからな」
メニューには料理名ばかりで写真も無く、どんなものかなんとなくでしか分からない。
「では、私がそちらに行ってもいいですか?」
「ん? ああ、構わない」
奥にズレると、坂柳がオレの座っていた席へ移動してきて、それぞれの品がどんな料理なのか教えてくれる。
肩を寄せて距離を詰めてくる坂柳からは、香水をかけているのか、微かにいい香りがしていた。
「詳しいんだな」
「そういう家の生まれなんです」
「そうなのか」
料理を選び、坂柳が促して神室がベルを鳴らす。彼女も何度か付き合わされているのか、慣れている様子だ。
注文は全部坂柳に任せた。
正直に言えば、料理名はともかく、マナーや基本用語の知識は頭に入っている。
だが失敗が恥である場面なので、無知を装って手本を見ておくことにした。
「ところで坂柳、昼食もどこか予約しているのか?」
「いえ、昼食夕食は何も。高育の敷地内は利用者が少ないので、直前の予約でも間に合いますから」
「そうか、よかった」
「もしかして、お弁当でも作ってきてくれたんですか?」
「ああ。節約のために昼はいつも弁当だからな。坂柳と神室の分もあるから、予約していたらどうしようかと思った」
3人分の弁当を自分で処理するのは少し大変だ。多分友人の誰かに連絡し手伝ってもらうことになるだろう。
「ふふっ、どんな高級店よりも嬉しいサプライズです」
微笑む坂柳は、頬へ微かに桃色がさしていた。
品が運ばれてくる。食事中は、上品な坂柳の雰囲気につられて、とても静かな時間になった。
朝食を済ませて店を出たのが9時過ぎ。
坂柳は料金がいくらだったのか言わなかったし、オレも聞かなかった。お互いのために、これでいい。
「綾小路くんは、何かしたいことはありますか?」
「そうだな……坂柳は普段、外に行く時は何してるんだ?」
体のこともあり、坂柳にはインドアな印象しかない。
彼女が外出して遊ぶ時、何をするのか。それには単純に興味があった。
「そうですね。遊ぶために外に行くということは、実際ほとんどありません」
「やっぱりそうなのか」
「ええ。ですがあえて挙げるなら、ウィンドウショッピングやお散歩ですか」
「意外だな。もっと動かない方が好みかと」
「間違っていませんよ。ですがこの通り、走ることすらできない体ですから。適度に運動しないといけません」
「なるほど、確かにな」
運動のほとんどが出来ないということは、ダイエットも困難だと言うことだ。体型の維持は日頃から気にしていなくてはいけないのかもしれない。
いや、坂柳が食べ過ぎる様子は想像つかないな。きっと体型のことなど意識すらしていないだろう。
「そうだ、やりたいことをふと思いついた」
「なんでしょう?」
「友人にカメラが趣味という子がいてな。オレも趣味にできないか試したいと思っていたんだ」
これも趣味探しの一環だ。
佐倉とは趣味を合わせる必要無しに仲良くなれたので忘れていたが、そんなことを一瞬考えていたと、本当にふと思い出した。
デジカメは無いが、まだ趣味になっていない段階で買うには少し高い。携帯でいいだろう。
「カメラ……写真撮影ですか。何を撮るので?」
「その子は自撮りだったが、オレは普通に、風景や何か面白いものを探してみたいと思う」
「つまり、お散歩ですね」
「ああ。それに坂柳といると、自然とゆっくり歩くことになるからな。普段とは違う気分になれるかもしれないと思ったんだ」
「ふふ、いいですよ。ではどこから回りましょうか」
「目的地があるわけでもないしな。散歩と言えば公園だ」
「いいですね。行きましょう」
オレと坂柳が並んで歩き出し、神室が一歩後ろを黙ってついてくる。
「……撮ろうと思っていると、いいものが見つからないな」
「こういうのは、ふと意識に掠めた何かを、ずっと残しておくために撮るものではないですか? 能動的に被写体を探すのは趣旨に反すると思いますが」
「お前の言う通りだな」
「それに、綾小路くんが写真のことばかり考えていては、私が寂しいですよ」
「すまない。完全に失念していた」
「いえ。慣れないことをしている時は、視野が狭くなるものです」
坂柳の寛大さにほっと一息ついた。
のんびりと歩いていると、次第に辺りに緑が増えていく。
オレがいつもとは異なるどこか穏やかな気持ちで周囲を見回していると、隣からパシャリと音がした。
「何を撮ったんだ?」
「空と木々の境目を。今日は晴天ですから、青と緑がよく映えています」
坂柳の撮った写真を見て、オレも現物へ目を向ける。
彼女はあの光景を『良いもの』だと感じたのだろう。けれど、オレにはよく分からなかった。
この趣味の根本は撮影者の心情にある。他人と同じものを撮っても意味が無いことくらいは、オレも理解していた。
「行きましょう」
それからも、坂柳と神室はたまにシャッター音を鳴らすが、オレの心は一向に動かない。
「あまりオレには向いていないことだったみたいだな」
「ふふふっ。そう落ち込まないでください」
オレたちは公園内のベンチで少し休憩していた。
太い樹木の周囲を囲むように設置されたもので、樹冠が日陰となり、幹を背もたれにすることができる。
「なんだか楽しそうなのは気のせいか?」
「ごめんなさい、落ち込んでいる綾小路くんが可愛くて」
「趣味悪いわね」
「ふふっ。真澄さんはそう思いませんか?」
「可哀想な奴としか思わない」
「綾小路くんのことを知っている人なら、私に共感してくれますよ」
「オレは共感できないけどな」
「ふふふふっ」
坂柳が楽しいなら、それでいいが。
ざあ、と頭上の樹冠が葉擦れの音を鳴らす。
次いで、その下のオレたちの下へも風が吹いてきた。
「ん……」
少し強い風。
男子にはただ涼しいだけだが、女子からすれば髪や服が乱れて好ましくないものだろう。
ちらりと横を見れば、坂柳も髪を手櫛で梳かしていた。
「すみません、お見苦しいところを」
オレを見上げて、苦笑いを浮かべる。
その言葉も表情も照れ隠し。
普段から余裕のある態度を崩さない坂柳の、貴重なシーンを垣間見て、オレは───
パシャリ。
「……綾小路くん?」
坂柳が首を傾げる。
オレはほとんど無意識のうちに、彼女の一瞬を写真に収めていた。
「……なるほど、写真という趣味の醍醐味を、オレもやっと実感できたみたいだ」
フォルダにある今の写真を見ながら自分の行動を分析して、オレは少し嬉しくなった。オレにも写真を趣味とすることが出来るだけの心があったのだと。
「どうして私を?」
「今、坂柳がなかなか珍しい雰囲気を出していたからな。心を引かれたと言うのか。残しておきたくなったんだ」
写真の中の坂柳は、点々とした柔らかい木漏れ日を浴びながら、こちらを見上げ、銀の髪を手で梳きながら苦笑いをしている。
大人びている坂柳の、年相応の少女のような一瞬。
なんだか、とても優れた作品を作り上げてしまったのではなかろうか。
「神室、ちょっと見てみてくれ」
オレは自慢したくなって、坂柳の反対の隣に座っていた神室を呼んだ。
「あんた、女の子のこと勝手に撮るって、最悪よ?」
そう言いながらも、写真を見た神室は、目を僅かに広げて驚愕する。
「……ねぇ、私にもこの写真ちょうだい」
「もちろん構わない」
「あの、お2人とも? 一体どんな写真なのですか?」
「安心していいわよ。可愛いから」
「見せてください」
「これだ」
坂柳に写真を見せると、彼女はみるみる赤面した。
「……嫌なら消すぞ?」
「い、いえ。その、綾小路くんはこれを見て、どう思いますか?」
「ん? そうだな……まず、新鮮さを感じるな。だからこそ心動かされたんだし。それと……何と言うか、木漏れ日とその綺麗な銀髪の神聖さに、仕草と表情の可愛らしさが混じり合って、不思議な感じがする」
もちろん、この完成度の高さには坂柳の類稀な容貌の良さが大きく貢献しているが、本質はそこではない。
「正直に言えば、消さずに残しておきたいな。我ながらとてもいい写真だと感動しているんだ」
「そう、ですか……」
「ダメか?」
そう聞くと、坂柳は顔を赤くしたままフルフルと首を横に振った。
「その代わり、私にも綾小路くんの写真を撮らせてください」
「構わないが、オレに坂柳のような華は無いだろ」
「大丈夫です。私にとっては価値がありますから」
「そうか? ならいいが。何かポーズでも取った方がいいか?」
「そうですね……綾小路くんは、笑顔を作れますか?」
「出来るぞ。練習したからな」
「では、木に寄り掛かってください。頭もです。手は楽にしてください。あ、片膝を立ててみましょうか。そのまま私の方を向いて微笑んでください」
言われた通りにすると、パシャリと音が鳴る。
「少し笑顔がぎこちないですね。もう少し目元を柔らかく、優し気に微笑んでみてください」
「難しい注文だな……」
「そんなマジにやること?」
「真澄さん。私は恥ずかしいところを写真に収められてしまったのですから、私も綾小路くんの珍しい様子を撮る権利があります。そして写真という作品に残す以上、手は尽くしたいのです」
坂柳は言葉通り、何度もオレにダメ出しをした。
終わったのは大体30分が経った後のこと。
「疲れた……」
佐倉のすごさを思い知った。
いや、アイドルやモデルは、そもそもこんなにダメ出しを受けることが無いのだろう。
「いいものが手に入りました」
「お前が喜んでくれているのならよかった……」
つい口から溜め息が漏れてしまう。今は硬い樹皮の背もたれじゃない方がよかった。
「早速椎名さんに自慢しましょう」
「ちょっと待て。それは恥ずかしいんだが」
「おや? 綾小路くんは真澄さんに共有したではありませんか」
「……そうだな。好きにしてくれ」
「うふふ、冗談です。これは私だけの宝物にしておきます」
「そうしてくれ」
オレは坂柳の撮った写真を確認しなかった。
自分が作り笑いをしている写真なんて、絶対に見たくない。
「さ、休憩もしたことですし、行きましょうか」
「オレは逆に疲れたけどな」
坂柳が立ち上がる。
少しテンションが高くなっているのか、杖の扱いが僅かに雑になっていた。
公園の地面を占める芝生で、杖の先端が滑ってしまう。
「きゃっ!」
「危ない」
咄嗟に立ち上がり、坂柳の腹に腕を回して、その軽い体を支える。
いや、本当に軽いな。片手で持ち上げられそうだ。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます……」
「よかった。行くか」
また散歩をしながら、心の動くものを探し回る。
しかしそれ以降、一度も出会うことはできなかった。