009-7が日本に戻り、かつての自宅で暮らし始めると、彼女はいつの間にか「近所のお姉さん」になっていた。もっとも、有名すぎる近所のお姉さんではあったが。ある朝のことだった。「ゴミ、出してくる」 そう言って家を出た009-7は、ジャージ姿で片手にゴミ袋を提げていた。世界中の情報機関から動向を注視されている人物とは、とても思えない姿だった。
家を出て、角を曲がった。
「あら、おはよう」
近所のおばちゃんだった。
「おはようございます」
009-7もごく普通に挨拶を返した。
ちょっと前なら、それだけでも近所は大騒ぎになっただろう。だが、今は違った。
「今日は燃えるゴミよ」
「知ってます」
「よかった」
完全に近所付き合いであった。
そして009-7は、町内会の行事にも普通に参加していた。
回覧板、防災訓練、草むしり、地域の清掃活動。全部である。
その様子を知った外国メディアは驚いた。「国家元首なのに、町内会活動に参加しているのですか?」009-7は不思議そうに首を傾げた。「当番だからね」それだけだった。
ところが、一つ問題が起きた。町内会活動への参加者が妙に増え始めたのである。最初、町内会長は喜んだ。
「若い人が増えた!」
高齢化に悩んでいた町内会にとっては、願ってもないことである。しかし、一か月後、会長は公園を見渡し、首を傾げていた。
「……なんで、こんなに人がいるんだ?」
公園清掃、防災訓練、花壇整備、餅つき大会。全部過去最高人数だった。
原因は009-7だった。
特に近所のおじいさんたちは大喜びだった。
「おはようございます!」
009-7が笑顔で声をかけた。
「お、おう!」
七十代、八十代男性の全員がぴしっと背筋が伸びた。
「今日は天気がいいですね」
「そ、そうじゃな!」
明らかに鼻の下が伸びていた。その様子を、奥さんたちは呆れた顔で眺めていた。
「また来た」
「毎回いるじゃない」
「昨日まで腰が痛いって言ってたのに」
「今日は元気ねえ」
実に不思議な現象だった。
その現象は町内だけでは収まらなかった。
隣町、そのまた隣町、なぜか他の町内会からも参加者がやって来るようになった。
「防災交流です」
「地域間の親睦です」
「地域連携の一環です」
理由だけは立派だった。もちろん、ほとんど嘘だった。
目的は一つ。009-7を見たい。それだけであった。
町内会長は、とうに察していた。
「……またか」
ある日の町内会対抗ソフトボール大会では、参加希望者が例年の三倍に膨れ上がった。
「ずいぶん若返ったな……」
会長は遠い目をした。
試合当日、グラウンドの脇で009-7は参加者に飲み物を配っていた。
「どうぞ」
「ありがとう!」
六十五歳。
「どうぞ」
「ありがとう!」
七十二歳。
「どうぞ」
「ありがとう!」
八十一歳。
異様な人気だった。
少し離れたところで、その様子を見ていた妻が言った。
「大変ね」
妹も頷いた。
「昔からやってることは変わらないんだけどね」
「そうなの?」
「子供の頃から、近所のおじさんやおばさんに可愛がられてたから」
「今も?」
「今も」
ただし、少しだけ方向性が変わっていた。
夕方になると、009-7は町内会館のお茶会にも顔を出した。周囲はほとんど高齢者だった。
それでも、会話は妙に盛り上がった。
「最近、膝が痛くてなあ」
「病院には行きました?」
「行った」
「じゃあ、ちゃんとリハビリしてください」
「はい」
なぜか素直だった。
世界でも屈指の電子戦能力を持つサイボーグが、町内会館で健康相談を受けていた。
しばらくすると別のおじいさんが話しかけてきた。
「孫が今年、受験でな」
「そうなんですか。頑張れって伝えてください」
「おお、伝えるよ」
今度は人生相談だった。
隣では、おばあちゃんたちが楽しそうに笑っていた。
「平和ねえ」
「ほんと、平和だねえ」
その通りだった。
世界では、相変わらずさまざまな危機が起きていた。テロ、サイバー攻撃、国際紛争。
009-7が呼び出されるような事件は、いくらでもあった。
だが、この町内会館では、やたら元気なおじいさんたちと楽しそうに笑うおばあちゃんたち、そして、その真ん中でお茶を飲んでいる009-7。町内会長は、その光景を眺めながらふと思った。「この人がこんなに平和なのは良いことなんだよなあ」その通りだった。009-7が暇で平和なのはとても良いことだった。