世界が知る英雄で中東自由連邦の元首。ブラックゴーストを撃退した、伝説のサイボーグ。
その正体は――。
「お父さん、お風呂空いたよ」
「……ああ」
返事をした瞬間、娘が吹き出した。
「やっぱり、まだ慣れない」
「何が?」
「その声と顔で『ああ』って言われるの」
鏡の前に座っていた009-7――榊レイナは、深いため息をついた。鏡の中にいるのは、絶世の美少女だった。腰まで届く銀色の髪、透き通るように白い肌、鮮やかな赤い瞳、どこからどう見ても十代後半の少女にしか見えない。だが、その中身は五十七歳の元研究者である。
「私だって、いまだに慣れん」
「もう三年くらい経ってるじゃない」
「そういう問題ではない」
娘はとうとう声を上げて笑い始めた。009-7は、さらに深いため息をついた。日常生活というものは、意外に難しい。
ある朝、009-7はゴミ袋を片手に、近所の集積所へ向かっていた。昔からの習慣だった。会社員だった頃も、研究者だった頃も、家のゴミ出しは自分の担当だった。だから今でも、何も考えずにゴミを持って外へ出る。
「あら、おはようございます」
「お、おはようございます」
近所のおばちゃんだった。昔からの知り合いである。ただし、相手はいまだに009-7を見るたび、少し緊張する。理由は単純だった。今のレイナが、美少女すぎるのである。
「今日はお休みなんですか?」
「ええ」
「それにしても、本当にお綺麗ですねえ……」
「ありがとうございます」
口にしてから、自分でも妙な気分になった。五十七歳のおっさんだった頃、近所のおばちゃんから「お綺麗ですねえ」などと言われたことは一度たりともない。むしろ言われていたのは「最近ちょっと太った?」とか「髪、薄くなった?」とかそんなものだった。人生とは、実に不公平である。
さらに困ることがあった。服であった。休日の朝、娘が009-7を見るなり、真顔で言った。
「お父さん、その格好やめて」
「何故?」
「何故じゃないよ」
009-7は黒いジャージ姿だった。研究者時代から愛用している、何の変哲もないジャージであった。だが、問題が一つあった。着ている本人が、世界最高と評されてもおかしくない美少女なのだ。ただジャージを着て近所を歩いているだけなのに、なぜかアイドルのオフショットのように見えた。実際、近所の高校生がスマートフォンを向けかけたこともあった。
「楽なんだが」
「お父さんが着ると危険なんだよ」
「意味がわからん」
「世界が混乱する」
娘は本気だった。
その日の午後、今度は妻に捕まった。
「服を買いに行きます」
「まだあるだろう」
「女の子らしい服がありません」
「私は女の子ではない」
「戸籍上も、見た目も、完全に女の子です」
「ぐっ……」
そういえば戸籍も変更していた。反論できなかった。
ショッピングモールで009-7は、死んだ目をして歩いていた。
「これなんかどう?」
妻が一着のワンピースを手に取った。009-7は即答した。
「いやだ」
「似合うと思うけど」
「いやだ」
「絶対似合うって」
「だから、いやだと言っている」
五分後の試着室。
「……」
鏡を見た009-7は固まった。恐ろしいほど似合っていた。どう見ても、ファッション誌のモデルだった。妻と娘は満足そうに何度も頷いた。
「可愛い」
「やめろ」
さらに事件は続いた。スーパーで買い物をしていた時のこと。
「すみません」
若い男性が声をかけてきた。
「はい?」
「その……よかったら、連絡先を――」
ナンパだった。009-7は固まった。人生で初めてである。五十七年間生きてきて、一度も経験したことがなかった。隣にいた娘が吹き出した。
「ぶはっ!」
「笑うな!」
「お父さん、ナンパされてる!」
若い男性は困惑していた。目の前にいるのは、息を呑むほどの美少女、なのに喋り方だけが、妙におじさん臭いのである。
帰宅後、レイナはソファに沈み込み、ぐったりしていた。
「疲れた……」
妻が笑った。
「そんなに?」
「世界征服を企む秘密結社と戦っていた頃の方が楽だった」
「それはさすがに嘘でしょ」
「いや、本当だ」
電子戦、ミサイル迎撃、国家運営、テロ組織の壊滅。そのあたりなら、もう慣れた。
だが、女性服売り場だけはいまだに慣れない。
その時、テレビからニュースが流れ始めた。国際紛争、武装勢力、緊張する世界情勢。009-7の表情が変わった。赤い瞳が鋭く細められ、わずかに光った。電子戦モード。戦場の天使、銀の魔女の顔だった。妻と娘は、そんなレイナを横で見ながら顔を見合わせた。
「やっぱり格好いいね」
「うん」
しばらくして、レイナは通信を切った。
「解決した」
「三分?」
「三分だ」
「相変わらず化け物だね」
「褒め言葉として受け取っておく」
そう言うと、レイナは再びソファに沈み込んだ。
「そういえば」
「ん?」
「明日、町内会の草むしりだった」
「そうだね」
「行きたくないな」
「どうして?」
009-7は嫌そうな顔をした。
「また老人会の皆さんが妙に張り切る」
去年は参加者が三倍になった。
なぜか隣町からまで人が集まってきた。理由は明白だった。全員、009-7目当てであった。本人としては、実に複雑だった。妻と娘は大笑いした。
「お父さん、大人気だもん」
「私はそういう人気はいらん」
「諦めて」
夕暮れのリビングに、家族の笑い声が響いた。