ある休日の朝。009-7こと榊レイナは、珍しく一人で考え事をしていた。妻は買い物、娘は友人と遊びに行っていた。久しぶりの自由時間だった。 「……暇だな」 国家元首の発言とは思えなかった。ソファに寝転びながら天井を見た。その時、ふと科学博物館を思い出した。子供の頃から好きだった。宇宙、恐竜、飛行機、コンピュータ、ロボット、SF。研究者になった理由の半分くらいはあそこにあった気がする。 「そうだ」 009-7は立ち上がった。 「行こう」 軽い気持ちだった。
一時間後、最寄りの上野駅で009-7はようやく異変に気付いた。改札前で人々が止まる。二度見する。スマホを取り出す。写真を撮る。SNSに投稿する。 「……あれ?」 009-7は嫌な予感がした。十分後、予感は的中した。 「レイナ様だ!」 「本物!」 「銀の魔女!」 「写真!」 「握手!」 「サイン!」 人が増えた。さらに増えた。駅員が慌てて飛んできた。 「お客様! 危険です!」 「私が危険なのか?」 「いえ周囲が!」
009-7はスマホを取り出した。グループ通話、00ナンバーサイボーグ。まず009『もしもし?』 「助けてくれ」 『無理』 即答だった。 「早くないか?」 『ニュース見ろ』 切れた。ニュースサイトの見出し。 『銀の魔女、都内駅に出現』 『ファン殺到』 『交通混乱』 『現在進行形』 「早いな!?」 次、002『おう』 「助けてくれ」 『無理だな』 「何故だ」 『俺が行ったら女性ファンが集まる』 「そうだな」 『さらに003も来る』 「そうだな」 『地獄になる』 「そうだな……」 004『断る』 「まだ頼んでない」 『面倒だ』 切れた。005『頑張れ』 「お前は応援だけか」 『応援だけだ』 003『大丈夫?』 「全然大丈夫じゃない」 『私も似たような経験あるから……』 「助けてくれ」 『私が行ったらもっと増える』 「その通りだった」 結論、誰も来ない。仕方がなかった。
009-7は歩いて博物館へ向かった。後ろから群衆がついてきた。まるで巡礼である。途中、警察まで来た。 「警備をお付けします」 「申し訳ない」 「慣れております」 さらに、女子高生が叫んだ。 「レイナ様! 好きです!」 「ありがとう」 009-7は頭を抱えた。男子大学生「レイナ様!」 「何だ」 「研究者になりたいです!」 少し嬉しかった。 「勉強しろ」 「はい!」 「数学をやれ」 「はい!」 「英語もやれ」 「はい!」 「論文を読め」 「はい!」 周囲の高校生たちまでメモを取り始めた。 いつの間にか科学講演会になっていた。 そんなこんなで、ようやく博物館に着いた。時計を見た。閉館五分前「……」 009-7は無言になった。館長が出てきた。白髪のダンディーなおじさまだった。009-7を見た。群衆を見た。ため息をついて言った「閉館です」 「そうですね」 「ですが」 館長は笑った。 「あなたがここへ来た理由はわかります」 「え?」 「目を見ればわかります」 科学少年の目だった。 「どうぞ」 「いいのですか」 「特別です」
館内は静かだった。誰もいない。009-7一人。宇宙開発展示、月探査機、人工衛星、火星計画。 「いいなあ……」 思わず呟いた。コンピュータ史、真空管、トランジスタ、初期コンピュータ。 「懐かしい」 研究者時代を思い出した。恐竜骨格、航空機、ロケット、ロボット、AI展示。時間を忘れた。本当に楽しかった。世界情勢も、国家運営も、サイボーグも、全部忘れた。ただの科学好きのおっさんだった。
二時間後、館長が近づいてきた。 「楽しめましたか」 「ええ」 009-7は本当に嬉しそうに笑った。 「子供の頃を思い出しました」 館長も微笑んだ。 「それは良かった」 そして、現実が戻ってきた。 博物館の外を窓から見た。まだ群衆がいた。増えていた。 「何故だ」 館長も見た。 「増えていますね、帰れませんね」 「帰れませんね」 二人で考えた。館長が言った。 「収蔵庫を通りますか」 「収蔵庫?」 「一般公開していない搬入口があります」 009-7の目が輝いた。 「収蔵庫を見てもいいのか?」 館長は笑った。 「そっちですか」 一時間後、009-7は本来の目的を忘れていた。 未公開展示、保存資料、試作機、研究記録。全部見ていた。ものすごく楽しそうだった。深夜、ようやく裏口から脱出した。人気のない駐車場で夜風が心地よかった。 「助かった……」 その時、スマホが鳴った。娘からだった。 『お父さん』 「どうした」 『ニュース見た?科学博物館貸し切りデートって何』 「違う」 『館長さんとの密会って何』 「違う」 『SNSが大騒ぎ』 「違う!」 妻は横で爆笑していた。009-7は夜空を見上げた。ブラックゴーストとの決戦。世界同時電子戦。国家運営。どれも乗り越えてきた。だが、家に帰って妻と娘に会うのがばつが悪かった。