事の発端は一本のメールだった。
件名:生きてたなら飲もう
本文: 榊さん。いや、今は榊さんじゃないのか?レイナさん?009-7さん?よく分からん。とにかく生きてたんだろ。一回飲もう。以上。
「相変わらず雑だな……」 009-7こと榊レイナは思わず呟いた。差出人は研究所時代の同僚だった。二十年以上の付き合いで気心の知れた相手である。気を遣われるよりは遥かにありがたかった。そして返信した。 『参加する』 そこまでは良かった。
三日後、飲み会幹事の佐藤が青ざめていた。自宅、妻が腕を組んでいた。 「で?」 「何が?」 「何でそんなに浮かれてるの?」 「いや別に」 「言いなさい」 「榊さんが来る」 「榊さん?」 「昔の上司」 「亡くなったって聞いてた人?」 「うん」 「生きてたの?」 「うん」 「それは良かったじゃない」 「そうなんだけど」 「何で隠してたの?」 「美少女になってた」 「は?」 三十分後、妻も参加することになった。別の後輩 「飲み会?」 「うん」 「行ってきなよ」 「レイナさん来る」 「誰?」 「009-7」 「私も行く」 さらに別の同僚は高校生の娘に話した。 「銀の魔女が来る」 「は?」 「昔の上司、昔はおっさん、今は美少女」 「は?」 「飲み会する」 「私も行く」 結果、参加者は三倍になった。
飲み屋の店長は頭を抱えた。 「何の集まりですか?」 「元研究者です」 「研究者?何で予約が百人超えてるんですか?」 「わかりません」 当日、店の前は妙な緊張感が漂っていた。五十代、六十代、研究者、技術者とその妻たち、その子供たち。みんなソワソワしていた。 「本当に来るのか」 「来るらしい」 「テレビで見るより綺麗かな」 「お前何しに来た」 「同窓会だ」 「嘘つけ」 その時、一台の車が止まった。ドアが開いた。銀髪、赤い瞳、絶世の美少女。静まり返る店の前。誰も動かなかった。009-7が困惑した。 「どうした?」 元部下が震えた声で言った。 「榊さん?」 「そうだが」 「本当に?」 「だからそうだ」 「榊さん……」 突然泣き始めた。 「生きてたぁぁぁ!」 連鎖した。 「榊さん!」 「主任!」 「課長!」 「先輩!」 泣き出すおっさんたち。009-7は困った。 「だから生きていると言ったでしょう」 元後輩が涙を拭いた。 「だって葬式出たんですよ!」 「私も出たかった」 「無理です」 「そうだな」 店内へ移動した。
しかし問題があった。全員、009-7から遠い席に座ろうとしない。 「隣空いてます!」 「こっち!」 「いや俺の横!」 「先輩こちらへ!」 完全に取り合いだった。 「落ち着け」 009-7は昔と同じ口調で言った。全員が反射的に背筋を伸ばした。 「はい」 条件反射だった。かつて散々叱られていたのである。妻たちが笑った。 「本当に上司だったんですね」 「そうらしい」
飲み会が始まった。最初の三十分は誰も普通に話せなかった。理由は009-7が綺麗すぎたから。近くで見ると破壊力が違った。研究者たちは資料の説明は得意だった。サイバネティクスの議論は得意だった。だが、絶世の美少女との会話経験はなかった。 「その……」 「うん」 「お酒飲むんですね」 「飲むが?」 沈黙。「何を聞きたいんだ」 周囲が爆笑した。 「榊さんだ!」 「中身変わってない!」 「安心した!」 そこから空気が変わった。 「覚えてます? あの実験」 「失敗したやつか」 「そう!」 「新人が感電しかけた件」 「あれ私が止めた」 「徹夜で解析したやつも」 「三日寝なかったな」 昔話が始まった。気付けば全員笑っていた。家族たちも驚いていた。テレビの中の英雄、世界最強クラスのサイボーグ、国家元首。そのはずだった。だが、この集団の中では、昔と同じ面倒見の良い先輩で怖い上司、頼れる研究者。それだけだった。009-7も楽しかった。久しぶりだった。肩書きなし、政治なし、戦争なし、陰謀もなし。ただの飲み会。
店の外が騒がしくなった。「え?」 店員が青ざめている。スマホを見せた。SNS『009-7が新橋駅前の居酒屋にいる』 『本物』 『銀の魔女発見』 『急げ』 009-7は頭を抱えた。 「またか……」 元同僚たちは顔を見合わせた。そして、全員立ち上がった。 「榊さん」 「なに?」 「今日は俺たちが守ります」 「は?」 「昔は榊さんに助けてもらった」 「今度は俺たちの番です」 五十代、六十代のおっさん。元研究者たち。誰一人として戦闘能力などない。だが妙に格好良かった。009-7は思わず笑った。 「ありがとう」 その笑顔を見た瞬間、元同僚たちは全員思った。 (やっぱり綺麗だな……) そして同時に(でも中身は完全に榊さんだな……) と思った。