居酒屋の個室で元同僚たちは立ち上がっていた。 「榊さんは俺たちが守る!」 「そうだ!」 「外に出なくていい!」 熱かった。だが、009-7こと榊レイナは冷静だった。なにしろ相手は群衆である。もし本当に何かあれば、五十代六十代のおっさんたちではどうにもならない。本人たちも薄々わかっていた。009-7は少し笑った。 「ありがとう」 全員が照れ臭そうに頭を掻いた。昔と同じだった。それが少し嬉しかった。 「でも大丈夫」 「本当に?」 「ああ」 赤い瞳が淡く光った。世界中の通信網、SNS、動画配信サイト、掲示板、チャットに電子戦サイボーグの能力が発動した。 「おお……」 元同僚たちが見守った。009-7は脳から直接アクセスした。発信者一覧、投稿一覧、拡散経路。全員に返信した。 『来てくれてありがとう』 『お店に迷惑をかけたくない』 『ちゃんと外で話す』 『押さないで』 『怪我しないで』 『落ち着いて待っていてほしい』 送信。数万件。一瞬だった。元後輩が呆然とした。 「今何したんですか」 「返信した」 「何件?」 「全部」 「全部?」 沈黙。「榊さん」 「なんだ」 「怖いです」 「そうか」
その頃、SNSでは『本人から返信きたあああああ!!』 『うわあああああ!!』 『スクショ保存!!』 『宝物!!』 『私にも来た!!』 『名前呼ばれた!!』 『生きてて良かった!!』 結果、人が増えた。倍になった。さらに増えた。009-7は頭を抱えた。 「おかしいな」 004から通信が来た。 『馬鹿かお前は』 「なぜだ」 『火にガソリンを撒いたな』 通信終了。009-7は反論できなかった。店長は泣きそうだった。 「駅前が埋まりました……」 モニターを見ると大群衆だった。まるで祭りだった。 「アイドルか……」 元同僚が呟いた。 「アイドルだな……」 「いや」 別の同僚が首を振った。 「国家元首だろ」 「映画スターでもある」 「世界的英雄でもある」 「何だこれ」 誰も答えられなかった。
009-7は立ち上がった。 「仕方ない」 店員が震えた。 「外へ?」 「ああ」 「危険では」 「危険なのは向こうだ」 全員が納得した。確かにそうだった。009-7が本気で危険になる状況など、そうそう存在しない。店の外へ出た。歓声が爆発した。 「レイナ様ーーー!!」 「銀の魔女ーーー!!」 「こっち向いてーーー!!」 新橋駅前で1万人規模だった。もはや意味が分からなかった。駅前広場で009-7は周囲を見渡した。そして、「えい」電子戦能力で駅前スピーカー、商業施設放送設備、街頭ビジョン、全部接続した。警備会社が悲鳴を上げた。だが今更であった。次の瞬間、駅前に声が響いた。 『みんなーーー!!』 大歓声。『今日はありがとうーーー!!』 さらに大歓声。 『押さないでねーーー!!』 『怪我しないでねーーー!!』 『店員さん困らせないでねーーー!!』 完全にライブ会場だった。
元同僚たちは呆然と後ろから見ていた。かつて、研究室で徹夜していた男、実験のトラブルで怒鳴っていた上司、学会発表で胃を痛めていた研究者。そのはずだった。なのに、今は1万人が駅前で歓声を上げていた。駅前全体が揺れていた。大型スクリーンには銀髪の美少女。世界中に配信されていた。元後輩がぽつりと言った。 「遠くへ行ったなあ……」 隣の同僚が首を振った。 「いや、あの喋り方」 009-7はスピーカー越しに言っていた。 『ちゃんと飯食えよー!』 『勉強しろよー!』 『夜更かしするなよー!』 『SNSばかり見てるんじゃないぞー!』 完全におっさんだった。元同僚たちは吹き出した。 「榊さんだな」 「中身全然変わってない」 みんな笑った。009-7は歓声の向こうを見ていた。その視界の端に、昔の仲間たちがいた。後輩たちがいた。気の置けない人たちがいた。そして少しだけ思った。世界はずいぶん変わったし、自分はもっと変わった。でも、あの研究室で笑っていた連中の前では、今でも自分はただの榊恒一なのかもしれない。そう思うと、少しだけ嬉しかった。