009-7が元男性だった。しかも定年前の五十代のおっさんだった。その事実が世界中に公表された頃、日本のとある高校で一人の男子高校生が頭を抱えていた。 「終わった……」 教室の机に突っ伏した。友人たちは意味がわからなかった。 「どうした?」 「失恋した」 「彼女いたっけ?」 「いない」 「じゃあ失恋じゃないだろ」 彼は反論しなかった。心が死んでいた。彼には秘密があったのだ。誰にも言っていなかった。
数か月前の学校帰り、近所のコンビニで飲み物を選んでいた時だった。 「それ美味しいの?」 後ろから声を掛けられた。振り返った。銀髪、赤い瞳、信じられないほど整った顔立ち。009-7だった。テレビで何度も見た。映画もCMも見た。本物だった。頭が真っ白になった。 「あ、えっと……おすすめです」 「そう」 たったそれだけの数分もない会話。だが、普通の男子高校生には刺激が強すぎた。その夜は眠れなかった。翌日も、翌々日も。気付けば、009-7のことばかり考えていた。出演した映画を見た。CMを見た。インタビューを見た。写真集、映像作品、ネット記事、全部見た。友人に言わせれば重症だった。 「お前、完全に恋してるじゃん」 「違う」 本人は認めなかった。
そんなある日、世界中を揺るがす発表があった。009-7は元男性、五十代、サイバネティクス研究者。彼はニュースを見た。最初は意味が理解できなかった。 「は?」 数分後「ええええええええっ!?」 叫んでスマホを落とした。 友人たちから大量のメッセージが届いた。 『生きてる?』 『大丈夫?』 『お前の推し元おっさんだってよ』 やめろ!彼は本気で落ち込んだ。食欲が消えた。勉強も手につかなかった。人生最大級のショックだった。数日間ぼんやりしていた。
学校帰りにふらふら歩いていた。交差点でふと視線を上げたら009-7がいた。普通に歩いていた。ジャージ姿でテレビよりずっと自然だった。そして相変わらず綺麗だった。彼は動けなかった。009-7が気付いた。 「あれ?」 近づいてきた。「どこかで会ったかな?」 コンビニで会っただけなのに覚えていた。彼の心臓が止まりそうになった。 「あ……」 声が出なかった。 「顔色悪いよ」 心配そうに覗き込まれた。近すぎた。どうしようもなく綺麗だった。元おっさん?だから何だ。そんなこと、どうでもよくなっていた。目の前にいるのは優しくて、綺麗で、少し天然で、人を助けるために戦った人だった。彼が好きになったのは外見だけじゃなかった。 「元気出して」 009-7は笑った。 「人生、案外なんとかなるよ」 本人は深い意味で言ったわけではなかった。しかし、彼には妙に響いた。 「はい」 自然に返事が出た。009-7は手を振った。 「じゃあね」 そのまま去っていった。 夕日に照らされる銀髪が輝いていた。彼はしばらく立ち尽くした。そして、小さく笑った。
初恋は叶わない。それは最初から分かっていた。相手は世界的英雄、中東自由連邦の元首。サイボーグ、そして元おっさん。どう考えても無理だった。それでも、彼は少しだけ成長した。人を好きになるということは、顔だけではない。年齢だけでも肩書きだけでもない。その人自身を見ることなのだ。数年後、彼は大学生になった。進路希望書にはこう書かれていた。 『人を助ける仕事に就きたい』 理由を書く欄には。 『ある人に憧れたから』 それだけだった。その人物の名前は書かなかった。だが机の引き出しには、今でも大事にしまわれているコンビニのレシートがあった。009-7と出会った日の思い出だった。