数日後に届いた呼び出しは最悪だった。場所はルビャンカ。ロシア連邦保安局、FSB。無機質な部屋、机、録音機、スーツ姿の男たち。 「セルゲイ・イワノヴィッチ」 「はい」 「009-7との関係について聞きたい」 セルゲイの背筋が冷えた。最初は普通の質問だった。会話内容、接触頻度、研究テーマ。だが、次第に空気が変わっていった。 「あなたは彼女に好意を持っている」 断定された。セルゲイは黙った。 「悪いことではない」 「……」 「むしろ利用できる」 その瞬間、セルゲイは理解した。国家が009-7を“監視対象”として見ていることを。「もっと親密になってもらいたい」 「……何を」 「量子演算基盤」 「神経同期技術」 「AI制御層」 「情報を得てほしい」 セルゲイの拳が震えた。 「彼女は……」 言葉が詰まった。 「彼女は、そんな人じゃない」 FSB職員は冷たい目を向けた。 「国家とは、そういうものだ」
その夜、セルゲイは眠れなかった。もし従えば、研究者として生き残れる。だが、009-7を裏切ることになる。彼女は自分を“普通の研究者”として扱ってくれた。肩書きでも、政治でもなく。ただ、議論を楽しむ相手として。 「……くそ」 セルゲイは頭を抱えた。
三日後の中東自由連邦大使館。00ナンバーサイボーグが緊急集合した。会議室でセルゲイは青白い顔で座っていた。 「……全部話します」 静かな声であった。FSBの指示、情報収集命令、恋愛利用。全部、洗いざらい話した。009-7は黙って聞いていた。 「……ごめんなさい」 最後にセルゲイは深く頭を下げた。 「最初から疑われるべきだった」 「ロシア人研究者で」 「偶然親しくなって」 「そんなの、怪しいに決まってる」 部屋が静かになる。 002が珍しく真面目だった。 「でもお前、全部話したろ」 004も静かに言う。 『スパイなら逃げない』 003はセルゲイを見つめた。 『……本当に好きだったのね』 セルゲイは顔を伏せた。 「はい」 その一言だけは迷いがなかった。009-7はしばらく黙っていた。やがて、小さくため息をついた。 「……ほんと」 「世界って面倒」 セルゲイが苦笑する。 「ええ」 「好きになるのに、国家が挟まってくる」 009-7は少し笑った。 それから。 「亡命、受け入れるよ」 セルゲイが顔を上げた。 「ただし」 「うち、変な人多いから覚悟して」 002が胸を張った。 「歓迎するぜ!」 『お前が言うと不安になる』 004がぼそっと言った。
その後、セルゲイ亡命は世界ニュースになった。 『ロシア若手科学者、中東自由連邦へ亡命』 『背景に009-7との関係か』 『量子頭脳を巡る恋愛亡命』 メディアは大騒ぎした。ロシア政府は激怒。だが、セルゲイ本人は穏やかだった。中東自由連邦の新研究区画。009-7とセルゲイはまた量子神経理論の議論をしていた。 「だからこの位相補正を――」 『いや、その場合同期誤差が』 普通の人間には意味不明、でも二人とも楽しそうだった。003は遠くから見て微笑んだ。 『……よかったわね』 009も頷いた。 『うん』 004だけが静かに言った。 『今度こそ、“本物”か』 窓の外では未来都市の光が静かに輝いていた。
北京、国家安全部・対外戦略分析局。巨大スクリーンには、中東自由連邦の映像が映っていた。未来都市、量子演算塔、AI制御交通網。そして、相変わらず世界を振り回す00ナンバーサイボーグたち。 「……完全に出遅れました」 分析官が重い声で言った。アメリカはCIA、ロシアは研究者ルート、ヨーロッパは経済連携。だが中国は、009-7を“危険な不安定国家元首”と判断していた時期が長すぎた。気づけば、中東自由連邦は超大国になっていた。 「今から軍事圧力は逆効果です」 「経済も難しい」 「では?」 分析官が静かに言った。 「……ロマンス工作です」 全員が頷いた。もう何でもありだった。ターゲットは002。理由は「感情豊か」「社交的」「比較的チョロそう」 かなりひどい分析だったが間違ってはいなかった。
数ヶ月後の中東自由連邦、難民支援区域。大量の援助物資が到着した。医薬品、食料、生活用品。支援団体の中に自然な形で中国工作員たちが入り込んでいた。しかも、今回は露骨ではなかった。普通に人助けをした。医療支援、教育支援、復興協力。親衛隊員たちとも自然に交流した。結果、普通に恋愛が発生した。 「隊長〜彼女できました!」 「中国人です!」 親衛隊本部でマッチョ特殊部隊員たちが浮かれていた。本部長が頭を抱える。 「……またか」 しかも、相手女性たちも普通に魅力的だった。優しい、働き者、気が利く。割と本気で将来を考えているケースすらあった。
一方、002。案の定、引っかかった。 「いや〜いい子なんだよ!」 食堂でデレデレしている。003が呆れた。 『早い』 004は即座に警戒していた。 『中国側だな』 「えっ!?」 「いやそんなわけ――」 『視線が訓練されている』 『あと足音』 『あと警戒位置の取り方』 002が青ざめた。 「怖ぇよ004!!」
だが、問題は工作員側もだんだん困惑していたことだった。中東自由連邦の核心技術区画は完全に近づけない。量子演算施設には入れない。AI基幹はアクセス不可。009-7はそもそも脳がネットワーク直結なので物理端末が存在しない。しかも、国家AIが監視していた。世界最高峰のAIであった。下手な侵入は即死だった。 「無理です」 中国工作員たちは本国へ報告した。 「普通の国家じゃありません」 「核心部分が全部“009-7本人”です」 「人間がOSみたいになってる」 本国も頭を抱えた。
さらに厄介だったのは、現地に長くいるほど工作員たち自身が中東自由連邦に好感を持ち始めることだった。自由、研究環境、宗教共存、妙に緩い空気。ある日、中国女性工作員が002へ真顔で聞いた。 『……何であなた達、こんなに仲良いの?』 「ん?」 『普通こういう超人組織ってギスギスするでしょ』 002は笑った。 「まぁ色々あったからな」 「ケンカもしたし」 「世界も何回か滅びかけたし」 「でも結局、家族みたいなもんだ」 女性工作員は少し黙った。それは、彼女の育った世界にはあまり無い空気だった。一方、 004は最後まで警戒していた。 『……工作は工作だ』 009-7はメロンソーダを飲みながら答えた。 「でもさ」 「人間関係って、途中から本物になることあるよね」 004は黙った。ロシア研究者、CIA工作員、色々あった。そして今、中国工作員たちですら、少しずつ変わり始めていた。
その夜の北京への極秘報告。 『核心技術への接触は失敗』 『ただし』 『現地隊員の一部が思想的影響を受け始めています』 上層部が険しい顔になる。 『……どういう意味だ』 『中東自由連邦を、“敵”として見られなくなっています』 沈黙。遠く離れた中東では002が彼女と笑いながら屋台で串焼きを食べていた。そして004は遠くからその光景を見ながら静かにため息をついていた。