秋が終わりに近づいていた。夕暮れの空気は少し冷たく、放課後の校舎にも冬の気配が混じり始めていた。そんな中、009-7の甥っ子はアーニャの様子がおかしいことに気づいていた。アナスタシアは、いつものように無表情だった。だが静かすぎた。帰り道、アーニャがぽつりと言った。 「……帰ることになった。」 甥っ子は足を止めた。 「え?」 「ロシアへの制裁が強化された。」 声は平坦だった。 「親の会社も日本から撤退する。」 ニュースでは毎日のように報道されていた。ロシアとウクライナの戦争激化、追加制裁、 外交悪化。だが、それが急に自分のすぐそばへ来た。 「……そっか。」 うまく言葉が出なかった。アーニャは少し俯いた。 「私は平気。」 平気じゃなかった。肩が震えていた。 拓也が何か言おうとした瞬間、アーニャが突然、抱きついてきた。 「アーニャ!?」 そのまま彼女は初めて感情を爆発させた。 「いやだ……。」 大粒の涙がぼろぼろ零れた。 「帰りたくない……。」 いつものクールさは消えていた。 「もっと一緒にいたかった……。」 拓也は何も言えなかった。ただ抱きしめ返した。すると、アーニャは涙目のまま顔を上げた。 「……忘れないで。」 「え?」 次の瞬間、唇が重なった。短く、でも必死なキスだった。拓也の頭が真っ白になった。 (えっ。) (えっ!?) (初キス!?) 離れたアーニャは真っ赤だった。 「……これで忘れない。」 そのまま走り去っていった。 残された拓也は完全停止。遠くで見ていたエミリーが苦笑した。 「そりゃそうなるよね。」 詩織も静かに頷いた。 「……譲るしかないかな。」
だが、別れは続いた。数週間後、今度はエミリーが呼び出された。新任務、東欧方面、長期潜入、拒否できない。空港でエミリーはいつもの笑顔を作っていた。 「まあ、エージェントだし?」 でも目が赤かった。 「そのうちまた会えるって。」 拓也はうまく笑えなかった。 「……危ない仕事?」 「いつものこと。」 軽く言った。だが、搭乗案内が流れた瞬間、エミリーの表情が崩れた。 「……やだなぁ。」 泣いていた。 「こんな学校生活、初めてだった。」 笑って、遊んで、放課後に買い食いして、それが嬉しかった。 「君といるの、楽しかった。」 エミリーは抱きついた。 「忘れないでね。」 そして、彼女もキスをした。柔らかく、優しく。 「これはズルいかも。」 泣き笑いだった。飛行機へ向かう後ろ姿を、拓也はずっと見送っていた。
そして、残ったのは詩織だった。冬の放課後、二人はいつもの商店街を歩いていた。少し沈黙。詩織が小さく笑う。 「静かになったね。」 「……うん。」 少し寂しかった。でも、隣にいる彼女がとても自然だった。詩織は立ち止まり、少し照れながら言った。 「私じゃ、だめ?」 甥っ子は目を見開いた。 「え。」 「……ずっと好きだった。」 公安エージェント。でも今はただの女の子の顔だった。拓也は顔を赤くした。 「……僕も。」 詩織が嬉しそうに笑った。そして自然に手を繋いだ。それが二人の始まりだった。
その夜、甥っ子の母は大興奮だった。 「カップル成立!!」 電話の向こうで 009-7 が沈黙していた。 『……本当に?』 「手つないでた!!」 『確認済みなのか。』 「お兄ちゃん冷静すぎる!」 母は完全に舞い上がっていた。 「詩織ちゃんすごくいい子なのよ!」 『それは知っている。』 「もうお嫁さんでもいい!」 『気が早い。』 だが009-7も、少しだけ笑っていた。
一方、公安内部の会議室では詩織の報告書が表示されていた。 【対象との信頼関係:極めて良好】 【長期接触継続可能】 【対象家族との関係安定】 幹部が頷いた。 「非常に優秀だ。」 「自然な関係構築に成功しています。」 「継続運用可能。」 別の幹部が資料を置く。 「では次の段階へ。」 画面には。 【009-7親族保護・長期安定計画】 の文字。 公安は真剣だった。そして、当の詩織は公園のベンチで普通に彼氏と肉まんを半分こして笑っていた。