ロンドンでは雨上がりの石畳が街灯に濡れて光っていた。下町の古びたバーのカウンターでスコッチを飲みながら、007は珍しく上機嫌だった。 「それでね、ジェット戦闘機に追い回されてさ」 「またそんな嘘を」 隣の美女が笑った。黒髪、青い瞳、知性と気品を感じさせる女性。名はエレニ。最初は偶然だった。バーで隣になり、何気ない会話だった。次の週も会った。その次も、気づけば毎週会うようになっていた。 「君といると落ち着く」 007はそう言った。エレニは少し照れたように笑った。 「私もです」 その笑顔を見るたびに007の胸は温かくなった。この静かな時間が宝物だった。
中東自由連邦の009-7の執務室では。 「間違いない」 004が資料を置いた。003も珍しく真顔だった。 「その女性……普通じゃないわ」 009-7は資料を見た。そして眉を上げた。 「うわ」 「うわ、じゃない」 004が呆れた。資料には家系図があった。千年以上続く血統。パレオロゴス。かつての東ローマ帝国最後の皇帝一族。滅亡から数百年。なおも生き残っていた末裔。 「本物か?」 「九十八パーセント」 004が答えた。 「各国の王室関係者も認めている」 009-7は頭を抱えた。 「007の相手としては強すぎるだろ……」 「問題はそこじゃないわ」 003が言った。 「彼女、とても野心家よ」
数週間後、007はエレニの屋敷に招かれていた。ロンドン郊外の古い貴族の館。書斎の壁には肖像画が並んでいた。歴代の先祖たち。皇帝、将軍、貴族。そして、最後の東ローマ皇帝、コンスタンティノス11世の肖像。007は感心した。 「すごいな」 「私の一族です」 エレニは静かに言った。 「そして、いつか復活させたい」 「何を?」 「帝国を」 007は笑った。冗談だと思った。しかし、彼女は真剣だった。 「東ローマ帝国は滅びていません」 「いや滅びただろう」 「精神は残っています」 青い瞳が燃えていた。 「中東自由連邦は発展しています」 「そうだな」 「多民族国家です」 「そうだな」 「宗教的にも寛容です」 「そうだな」 「ならば」 エレニは微笑んだ。 「そこに新しいローマを作れる」 007は固まった。 「え?」 「私たちの子供が初代皇帝です」 「え?」 「そのためには結婚が必要です」 「え?」 その夜、007は酔った。かなり酔った。そして、翌日、「結婚する」 と宣言した。009-7はコーヒーを吹いた。003は椅子から落ちた。002は爆笑した。004は頭痛薬を飲んだ。 「待て待て待て」 009-7が叫んだ。 「落ち着け007!」 「私は落ち着いている」 「全然落ち着いてない!」
数日後、緊急会議。エレニ本人も来ていた。009-7、003、004、006、001が集合した。まるで尋問だった。 「あなたの目的は?」 004が聞いた。 「帝国の再興です」 即答だった。 「隠さないのか」 「隠す必要がありますか?」 エレニは不思議そうだった。全員が頭を抱えた。しかし、話を聞くうちに妙なことになってきた。 「軍事侵略は?」 「反対です」 「独裁国家は?」 「論外です」 「民族浄化は?」 「最低ですね」 「戦争は?」 「嫌いです」 003が首を傾げた。 「じゃあ帝国って何?」 エレニは微笑んだ。 「観光ブランドです」 「は?」 「文化事業です」 「は?」 「歴史保存活動です」 「は?」 「つまり巨大な町おこしです」 全員沈黙した。しばらくして、009-7が言った。 「つまり」 「はい」 「中東自由連邦の観光産業を盛り上げたい?」 「そうです」 「帝国は?」 「名前です」 「皇帝は?」 「名誉職です」 「子供は?」 「たぶん普通に学校へ行きます」 また沈黙した。004がため息をついた。 「思ったよりまともだった」 「失礼ですね」 エレニは笑った。007は胸を張った。 「良い娘だろう?」 全員ものすごく嫌な顔をした。 「そこだけは認める」 003が言った。 「でも007」 「なんだ」 「あなた完全に惚れてるわ」 007は真っ赤になった。周囲は大爆笑だった。その頃、世界中の情報機関は困惑していた。全員が同じ報告書を読んでいた。 『007、東ローマ帝国復興計画に参加か』 数秒の沈黙。そして、「またあいつらか……」 というため息が出たのだった。