セルビア共和国、首都ベオグラード。歴史ある会議場には、世界中の報道陣が集まっていた。名目は「東ローマ帝国文化財団と正教会関係者による文化交流会議」 少なくとも案内状にはそう書かれていた。だが、会場の光景を見た瞬間、世界中の記者たちは絶句した。中央の最上位席に座っていたのはエレニだった。左右には各国正教会の代表者。大主教、総主教代理、高位聖職者。その配置は、どう見ても皇帝の謁見だった。CNN、BBC、NHK、アルジャジーラ。世界中のカメラが回った。エレニ本人は終始落ち着いていた。「これは文化交流です」 そう説明していた。しかし、画面に映る光景は違った。正教世界の代表者たちが、東ローマ帝国最後の王朝の末裔を中心に集っていた。象徴としては十分すぎた。その映像は数時間で世界中へ拡散した。ギリシャでは、高齢者たちが涙を流した。セルビアでは、国民的ニュースになった。ブルガリア、ルーマニア、ジョージア。SNSは大騒ぎだった。 『歴史が動いた』 『帝国の娘が帰ってきた』 『正教世界の統合の象徴』 もちろん、当のエレニは否定した。会見後、マスコミに囲まれた。 「これは政治的集会ですか?」 「いいえ」 「正教世界の統合運動ですか?」 「違います」 「東ローマ帝国復活構想ですか?」 「違います」 「では何を話したのですか?」 エレニは微笑んだ。 「観光の打ち合わせです」 会場全体が静まり返った。記者たちは理解した。また煙に巻かれた。
一方、ある場所ではもっと深刻な反応が起きていた。バチカンの教皇庁の幹部会議。大型スクリーンにベオグラードの映像が映った。長い沈黙があった。 「……観光らしいです」 一人が言った。 「誰が信じる」 別の枢機卿が答えた。 全員同意した。 問題は別だった。正教世界は長らく国家ごとに分かれていた。その象徴が、突然現れた一人の女性によって精神的に結びつき始めている。それが恐ろしかった。そして、さらに厄介な要素があった。中東自由連邦の元首、009-7。世界的な英雄、平和活動家、もはや宗教を超えて尊敬される存在。ある枢機卿が呟いた。 「もし彼女が007を通じて009-7を利用したら?」 誰も答えられなかった。数日後、バチカンは正式に接触を試みた。エレニとの非公式会談。場所は中東自由連邦。会談は穏やかに始まった。 「あなたの活動についてお聞きしたい」 「観光活動です」 バチカン側は頭痛を覚えた。またそれだった。 「009-7との関係は?」 エレニは少し考えた。 「彼女は特別な人です」 「特別?」 「天使のような人です」 その場の空気が変わる。エレニは続けた。 「争いを止め」 「人々を救い」 「宗教を超えて尊敬されている」 「だから?」 「その天使が導いている国で、正教世界も未来を考えているだけです」 外交官たちは顔を見合わせた。 嫌な予感がした。 そして、エレニは決定打を放った。 「ぜひ教皇猊下とお話ししたい」 「何について?」 「未来についてです」 「未来?」 「正教会とカトリックの未来」 そして、「ローマ教皇との会見を正式に希望します」 世界中のニュース速報が一斉に流れた。 『パレオロゴス家末裔、教皇との会談を要請』 『正教世界の象徴とバチカンが接触』 『中東自由連邦が宗教外交の中心に』 各国政府は大混乱だった。 「なんでこうなった?」 「観光じゃなかったのか?」 「観光だったはずだ」 「たぶん観光です」 「たぶんって何だ」
009-7はニュースを見ながら呆然としていた。 「私の周り、なんでこうなるんだろう」 004は冷静だった。 「お前の周りだからだ」 003は笑いを堪えていた。 「007は?」 「まだ観光だと思っている」 全員が天井を見上げた。 その頃、エレニは執務室で一人、地図を見ていた。 ローマ、コンスタンティノープル、エルサレム、アンティオキア。歴史の中心だった都市たち。彼女は静かに微笑んだ。 「次の一手ね」 そして世界は固唾を呑んで見守っていた。観光法人の代表が、いつの間にか世界宗教外交の中心人物になってしまった。